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はてなキーワード: 野戦病院とは

2017-04-24

生き残ってる氷河期すらヤバい

http://anond.hatelabo.jp/20170423081650


加えて、生き残ってる氷河期だってマトモじゃないんだよなぁ。


連中と話すといくつかの共通項と傾向がある。


心当たりあるんじゃないの?どれも碌なもんじゃない。どの世代ももちろん居るのだけれど、特に氷河期の生き残りには多く見る。


今残ってるタダでさえ少ない氷河期って、上の顔色伺いだけで登ってきた連中で、中身が無いのが多い。まともな奴は、ブラック地雷にやられて前線の遥か後ろで引き籠ってるか、野戦病院送りなのだろう。


それと実力伴ってないけど、年功で他に代わりがいないという理由役職に居るやつが更にサイアクで、上の特徴が端々に出るから組織を率いる武器がない。


主語の大きい話だけど、この世代社会の舵取りをするようになったら、本気で日本以外で働いた方がいい。


ゆとり世代の方が、なんだかんだ言われているが立ち廻りに長けているのが多いという印象。そんな俺は、団塊ゆとり中間にいる。

2017-04-20

じゃあ男の成功例を紹介する。

http://anond.hatelabo.jp/20170420151301

ちょっと特殊だとは思うけれども、男の例を紹介しておく。

地方都市出身。男。大学生。妹たちがいる。



両親は士業系資格持ちで開業しているが、自分小学校高学年ぐらいになったころから収入が怪しくなってきた。独立開業してるってのは、ほんとリスキーなもんだな。両親ともに同業のなかではそれなりの立場にあったもんからプライドかいろいろが邪魔したのも余計に厄介だった。

現在の親の収入は、、、、大学授業料免除申請が全額免除で通ったりすることもあるぐらい、だ。なんと元増田よりひどいじゃないか・・・。母のほうは外にパートに働きにでていたこともあったが、稼ぎが月数万レベルしかならなかったことと同僚にいじめられたことにより、本業のみ。とはい本業のほうは、、、、仕事さえあれば月に5万ぐらいは稼ぐときあるかな、なんていうレベル

祖父母×2は存命だが、国民年金しか受給しておらず彼ら(別家計)はおおむねマイナス。家からの持ち出しが続く。

父は微アル中+微DV創価で、母は収入が父頼みであることもあって強く出られないでいる。



そんな家庭だったが、自分はほどほどに勉強はできた。高校のころには父は週一ぐらいで酔ってぐだぐだと説教しにきてはいたが、逆に言えば週6ぐらいは勉強できるゆとりがあった。そんなわけで必死勉強し、高校での成績はよかった。

受験の際には最高B判定だった第1志望国立医)と、A判定(一桁順位しかだしたことがなかった滑り止め(国立医)をうけた。

ところが落ちた。滑り止めにすら落ちた。第1志望はまだ許せる。しかし滑り止めに落ちたのはちょっと耐えられなかった。

そうして自分うつになった。浪人うつ浪人脱出しないと治りそうもないのに、治らないと脱出もできない。地獄だった。勉強はしたいのだがどうしても身が入らない。死にたいとばかり考えていた。

そんなこんなで浪人して成績はガクンと落ちてしまったのだが、そうはいっても腐っても鯛とでもいうか、まだ国立医学部にいけるレベルの成績ではあった。秋頃に防衛医大をおさえて地獄脱出の糸口をつかみ精神崩壊をおしとどめながら、なんとか翌年の春には大学へと入学した。



大学1年目には寮にはいった。奨学金は月15万借りた。親から援助は一切ないため、学費5万家賃5万生活費5万ぐらいの計算だった。寮だったため家賃生活費もっと抑えられたが、寮の環境はうわさに聞いていたため、途中で退寮することも視野にいれての金額だった。

寮生活はまあ楽しくはあった。深夜であろうと爆音音楽が聞こえてきたり、麻雀部屋から酔っ払いが這い出してきたり、飲み会では1人1人に一升瓶が用意されていたり工学部7年生とかいう輩に絡まれたり、寮自治のための集会が毎週あったりはしたが、そういうのには耐えられるタイプだった。耐えられないやつは1か月でいなくなった。耐えられた奴も半分以上が進級できていなかったが・・・。

寮生活で浮いた奨学金で、免許取得費やパソコンの購入費、2年目の引越資金もろもろなどを用意し、2年目には退寮した。



2年目から生活がカツカツだった。ネット回線高い、プロパンガス高い(家賃重視で物件を選んだのは失敗だった)、家賃の支払いがある、云々。バイトに精をだした。

すると後期になって授業料免除が通らなかった。自分収入のせいで免除基準を超えてしまったらしかった。全額・半額免除基準境界ぐらいの家計所得だったはずなのに・・・。下手するとバイトしない方が収支はプラスだったりしえた。加えてバイトのせいでテスト1個1個で死にそうな思いをしていたこと、そしてなによりきちんと勉強できず欲求不満だったこともあって、もうバイトはしないことにした。



3年目からはまあ満足できるぐらいには勉強できた。ついでに成績もあがった。このころになって給付奨学金というものがあることに気付いたが、そういうもの大学の推薦が必要で、いろいろと画策したが指導教官の推薦をえることが難しく、大概は諦めた。いや、うちの学部指導教官かいないんよ。名目上は各学生教官が割り当てられてはいるけれど、会ったことすらないし。調べてみたら自分担当はかなりのお偉いさんで、全然会えないし。それでもメールして訪問してメールして訪問して云々してなんとか1枚推薦状をもらえたが、なんと奨学金選考のほうで落とされた。収入も成績もGPAも悪くなかったと思うのに(収入は悪いかw)・・・、まあ「給付」は狭き門から仕方ないかとあきらめた。しかし推薦状の確保が大変すぎて他の給付奨学金へのさらなる申請も同時にあきらめた。

なお、我々には将来の就職先さえ決めれば、自治体病院から奨学金がもらえるという制度がたくさんある。そちらのほうは1年生のときから検討はしていたが、金額のいいどこかに身売りするなんてことはさすがにプライドが許さなかったし、かといって15年先まで見据えて自分希望に添うwin-win案件をさがすなんてことは大学入学時には考えることができず、見送っていた。3年生ぐらいで地元に戻ってもいいかななんて思って地元の県のもの申請してみたが、県外大学生×中途採用×自治医大合格辞退(←主にこれのせいだろう)のためか、通らなかった。

親はあんなやつだが、息子になんの援助もしていないことに負い目があるのか、所得証明書なんかは用意してくれる。それには地味だが大いに助かっている。帰省して自分で取りに行くのは大変だし、なにより費用がかさむ。あ、親は帰省すると5000円ぐらいお小遣いをくれるが、それでは交通費ですでに赤字だ。



大学同級生は、平均としてお育ちが良い。初心者マークつけた新車レクサスSUVとか案外よくみる。とはい大学生活していく分には今の自分のカツカツ具合でもそんなに問題はでていない。さすがに彼らと遊びに行ったりすると諭吉さんがポンポンとんでいくから付き合いきれないが、幸か不幸か自分はどちらかといえばひきこもりタイプネット回線パソコンさえあれば満足していられ人間趣味に金がかかるなんてこともなく、同級生はつきあいの悪いやつとは思われているとは思うが、まあそれぐらいの認識しかされていないと思う。ついでだから言わせてもらえば、執拗に昼ご飯誘うのやめてくれ家計破綻するわ。



とまあ自分はこんな感じで生活している。朝昼晩ほとんど自炊なのにもかかわらずエンゲル係数は80%超えていると思うが、PCタブレットも所持できているし、ほかに欲しいものなんかなく、現在のところ生活していてとくに不自由を感じたことはない。

しかし同時に、自分のような生活ができるのは限られた一部の人間だと思うし、1000万を超える借金を背負ってもそれほど心配せずいられるのは医学部という特殊環境いるからだとも思う。そんな自分でも、留年したら奨学金がとまってすべてが詰むことはひしひしと感じているから、進級判定はつねにふるえるほど怖いし国家試験も怖い。他学部だったらそこから就活なんて大波乱がさらに控えているんだろうから、それには自分でも耐えられる自信はない。うつ再発しそう、むり。



妹たちは自分とはちょっと年が離れているから、まだ高校生とかそんなもんだ。やつらは自分なんかよりはずっとできはいいが、とくに下の妹はメンタル豆腐から自分のような奨学金自転車操業をしなければいけないことになったら1週間で精神を病んでからの休学→退学の未来が見えている。しか文系から不確定要素が自分よりも高いときている。元増田をみて、やつらは自分が見放したらこんなかんじになってしまうのかなと改めて思わされた。

兄としては、かわいい妹たちにそんなことはさせられない。当然だ。

しかしだ、いわゆる有名病院のなかでは給料高いっていう虎ノ門とかでもちょっと給料足りなくて選択肢からはずさなくちゃいけなくなるけど、でもそこら辺の市中病院ならもっと高いとこ全然あるし、ワイちゃんの考えているいきたいとこランキング1位の某野戦病院もそんななかのひとつだ。

妹たち、安心して東京に進学していいぞ。応援してる。おまえらがそこら辺でくすぶってるなんて、世界の損失だからな!

2013-09-25

検証 福島汚染水汚染水問題 - 電気新聞

危機拡大の要因 ALPS遅れ 負の連鎖2013年9月25日

 東京電力福島第一原子力発電所汚染水問題はなぜ、「メルトダウン以来の危機」といわれるまでに拡大したのか。

一連のトラブルの背景には、今なお「火事場状態」から脱却できない廃炉現場の苦境と、ドミノ倒しのように危機が

拡大していく「負の連鎖」の構図が浮かび上がる。

進まぬ設備改善

 「野戦病院のような状態だ」。東電の相沢善吾副社長原子力・立地本部長は、福島第一の現場をこう表現する。

地面には電源管が無造作しかれ、敷地の海側には今もなおがれきが散乱。高線量エリアは簡易な柵で仕切られる

のみで、遮へいも満足にできない。現場は今なお、過酷な作業環境から脱せずにいる。

 多くの設備が応急処置で造られたものだが、リプレースを進めるのは容易ではない。現場は2011年から原子炉

プール冷却関連設備の本格化を最優先に進めてきたものの、作業に区切りがついたのはごく最近のこと。被ばくや

作業干渉の問題が、常に障壁となってきたためだ。

 8月福島常駐を決めた相沢副社長が担うのは、現場設備システムの抜本的な改善。「40年間使える設備

40年間働ける現場に変えていかなければいけない」(相澤副社長)という言葉通り、東電は300基超のタンクのリプ

レースを含めた大規模な設備改修を行う決意を固めた。実現への道のりは厳しいが、どこかでトラブルの根を断た

ない限り、廃炉はなかなか前へと進まない。

 一方、危機拡大の原因は現場の外にもある。象徴なのは、「多核種除去設備(ALPS)」の稼働遅れが、負の

連鎖を生んでしまったことだ。

 政府東電11年末の「冷温停止状態」宣言時、汚染水対策の切り札として12年内にALPSを稼働させる計画を

打ち出した。関係者らが試運転開始の目標ラインとしていたのは、129月現場は昼夜の作業で異例の短工期を

こなし、建設や性能試験をほぼ目標通りに終えることができた。

全体戦略必要

 だが9月原子力規制委員会が発足した後、順調だった流れは一変する。福島第一の規制の枠組みが変わり、まと

まりかけていた試運転許可は土壇場でほぼ白紙状態になった。審査はずるずると長期化し、ALPSが最終的に試

運転を始めたのは、予定から半年遅れとなる3月末だった。

 ALPSの試運転が1ヵ月遅れると、汚染水全量の処理に要する期間は4ヵ月も延びる。半年の遅れは、水処理やタ

ンク貯蔵計画に致命的な打撃を与えた。

 タンク不足は深刻化し、ALPS処理水をためるために造られた「地下貯水槽」に濃縮塩水を入れざるを得なくな

った。4月、この汚染水が地中に漏れた。

 ストロンチウムを含む高濃度汚染水漏えいは大問題へと発展したが、ここで転機を迎えたのが「地下水バイパス

だ。東電は数か月間にわたって漁業関係者らとの調整を進め、4月初めには稼働の合意を得られる直前段階まで来て

いた。だが貯水槽トラブル以降、地元関係者らは態度を硬化。議論は振り出しに戻り、今なおこう着状態が続いてい

る。

 汚染水対策は「増やさない、浄化する、ためる」のパッケージ戦略で成り立っている。1つの計画が狂うと、別の場

所に問題が出てくる。問題が起きるたびに社会との合意形成が困難となり、次のステップに進めなくなる。ALP

の稼働遅れから見えてくるのは、東電だけの手にはおえない負の構図だ。

 負の連鎖を起こさず、起きた際にも早急に食い止めるためには、どのような対策が必要か。「陸側遮水壁」を中心

とする新たなシナリオで動き始めた今こそ、ALPSの教訓を踏まえた全体戦略が求められている。

     (森 静香

2013-06-24

従軍慰安婦などの資料

戦時強制労働の調査

「このページは戦時強制連行強制労働についての調査研究を紹介します(竹内)」とのこと

ラバウルヘは軍隊慰安婦」も連行されていた。全北茂朱郡出身の朴さんはソウルの「職業紹介所」に売られ、野戦病院での洗濯看護をした。三年働けば借金を返還できるという「慰問団」への参加を持ちかけられ、釜山下関を経て、ラバウルに連行され、性の奴隷にされた(証言FAS翻訳史料)。ほかには、「紡績工場への就労」という言葉でだまされ、下関広島を経てラバウルヘと連行され、二〇人の女性たちと教会に設営された「慰安所」で性奴隷強要されたケースもある(『ハッキリ通信三』日本戦後責任をハッキリさせる会、一五~一六頁)。

兵士証言には、一九四二年ころラバウルには約一〇〇人の慰安婦がいた、一九四三年には大連からラバウルヘと「ウラル丸」で約六〇〇人の女性韓国台湾中国)が連行されたというものある。その実態の詳細は不明であるが、多くの女性ラバウルなどで性奴隷とされていったとみられる。

南洋への海軍軍属としての連行

2013-01-20

私(仮にA子)は職場の仲良し三人組でルームシェアをしている。



ある日、ルームメイトの一人(仮にB子)が、夜中に急にけいれんを起こした。

私ともう一人(仮にC子)で119番し、救急病院へ運び込んだ。

診察もそこそこにB子は処置室へと連れて行かれた。

私達はしばらく待合室みたいな所に連れて行かれ、そこでB子の回復を祈っていた。

B子は去年の秋に大病を患い、大手術の末かろうじて危機を脱した。

ずいぶん回復してきたと油断していたのがいけなかったのだろうか。

夕食に食べさせてはまずい物でも入っていたのだろうか。

それとも手術の時にミスでもあったのだろうか。

頭の中でいろんな思いが渦巻いてた。

そうこうしてる間にも、ひっきりなしに患者が運び込まれてくる。

風邪で高熱を出した子供とか、交通事故とか、ケンカらしい血まみれの人とか。

悲鳴や鳴き声、怒号が渦巻くそこは、まるで戦場野戦病院みたいだった。

こんな時と場所ではさすがにバカ話をするのもはばかられる感じで、

私達は言葉ほとんど交わさず、ただそこで待ち続けていた。




どれほどの時間がたったのか。不意に「すいません」と声をかけられた。

つの間にか待ちくたびれて眠り込んでいたらしい。

顔を上げると、20歳くらいの若い女性が目の前に立っていた。

「あの、おねえちゃんと…B子さんといっしょに住んでいらっしゃる方ですよね」

「…そうですけど?」

「おねえちゃんがこちらに入院したと聞いて駆けつけてきたんです。

 でも病棟ナースの人に聞いても、そんな人はいないって言われて…」

そのまま彼女は俯いてしまった。少し泣いていたようにも思えた。

「B子なら今はこっちの処置室で治療中なんです。だからまだ入院扱いじゃないのかも」

「それじゃあ、その処置室というのは?」

「あの辺り、だと思います

彼女は私が指を指した方に顔を向け、それからもう一度私に向き直ると

「わかりました。どうもありがとうございました」と深々とお辞儀をした。

そしてそのままそちらへと歩きはじめる。

そこでようやく私はおかしな事に気づいた。

あれほど満員状態だった待合室に、まったく人の姿がない。

回りを見渡しても、ルームメイトのC子の姿さえ見当たらないのだ。

「あの、ちょっと……!」

まりの異様な感じにとっさに彼女に声をかけたが、次の言葉が出てこない。

今来たばかりらしい彼女事情を問いただしたところで、答えが返ってくるとも思えないし。

だけど彼女は私の声に反応して、くるりと振り返り、こう言ったのだ。

「おねえちゃんのこと、これからもよろしくお願いします」

とても悲しそうな笑顔だった。

ちょっと待って。あなた、いったい誰なの!」

そう叫んで立ち上がろうとした瞬間、世界が暗転した。




大丈夫ですか、A子さん」

怪訝そうな表情を浮かべて私の事をのぞき込んでいたのはC子だった。

聞くと、眠りこけていた私が椅子から転げ落ちたのだという。

盛大にぶつけたらしい痛む身体をさすりながら、そんなバカな、

と思い辺りをもう一度見まわした。

最初に来た頃よりは多少人数は減っていたが、相変わらずの込み具合だった。

少なくとも人っ子ひとりいない、という感じではない。

ふと時計を見ると、午前5時45分を少し回った頃だった。

それから少しして、B子が自分の足で処置室から姿をあらわした。

多分寝ぼけてたんだろう。それに確かB子はひとりっ子だと聞いてたし。

その時の私はそう思っていた。




タクシーで自宅に戻り、B子を休ませてから、C子と交代で仮眠を取った。

幸いB子の顔色も夜にはすっかり元通りになり、

昨夜の騒ぎも何かの冗談のように感じられた。

軽めの夕食を取り始めた頃、B子の携帯が鳴った。彼女田舎のお母さんからだった。

しばらく話してるうちにみるみるB子の顔色が変わり、

ついには火のついた子供のように号泣し始めた。

とっさにB子をC子に預けて携帯を代わり、お母さんに

差し支えなければ、今どんな話をしたのか聞かせてほしい」とお願いした。

それはとても信じられないような内容だった。

実はお母さんも昨夜から胸騒ぎがして、なかなか寝付けなかったそうだ。

そして明け方近くに目をさますと、若い女性が枕元に立っていて、

「おねえちゃんはもう大丈夫ですよ」

と告げて姿を消したのだという。

最初は夢だと思っていたのだが、どうしても気になるので電話したのだそうだ。

「その女性に心当たりは?」と私が質問すると、

「見当違いかもしれないのですが…」とお母さんは前置きしたうえで、

しかするとB子の幼なじみかもしれないと語った。

以前、彼女とそのご家族が、神戸に住んでいたことは聞いていた。

その頃近所にB子の事を「おねえちゃん」と呼んで懐いていた少女がいたのだと。

文字通り家族ぐるみの付き合いだったらしい。

だが18年前の今日以来、音信不通になってしまったのだという。

あの、阪神大震災で。




ただの偶然だったのかもしれない。

あるいは無意識がこの阪神大震災の日に、

たまたま似たような夢を観させただけなのかもしれない。

だけど真実がどうかなんて、実はどうでもいい気がするのだ。

ここ何日か不安定だったB子は、以来人が変わったように明るくなった。

実は3人のうち一番のスタイルで、人一倍身体のケアダイエットに余念がなかった彼女は、

大手術の傷痕を鏡で見るたびに、いっそ死ねばよかったと思い始めていたらしい。

だが今回の一件で、辛い事も、苦しい事も、生きていればこそだと考え直したそうだ。

たとえ夢でも幻覚でも、彼女がもう一度生きたいと思ってくれた。

それだけで充分だと、私は思ってる。

2011-05-07

オサマ・ビン・ラディン人生

外国人ジャーナリストに珍しく顔を見せるとき

オサマ・ビン・ラディン自分の手に視線を落とすのが常だった。

柔らかで少しかすれた声、優しいまなざし

通訳を好まない彼がインタビューで伝えたのは、その顔と裏腹な言葉だった。


 不信心者を殺すのはムスリムのつとめである

 2001年9月11日ゴミのように」空を舞う不信心者を見て自分は心から愉悦を覚えた。



その容貌は、殺人者というよりも賢者を思わせた。

自らの手を血に染めることはほとんどなかったが、

愛用のカラシニコフアフガニスタン戦闘ロシアから奪ったものだという。

サウジアラビアアメリカ基地イエメンアメリカ軍駆逐艦ケニアタンザニアアメリカ大使館

いずれの場合も「子供たち」の攻撃を遠方から見届けるのが彼の常だった。

賞賛されるテロリズムも批判されるテロリズムもある、と認めながら、

これは「聖なるテロ」だとしてイスラムを擁護したこれはイスラムを守る「聖なるテロ」だとした

9/11について当初は関与を否定したが、誇る気持ちが強くなったのか、

同胞19人を指揮したことをのちに認めた。



彼は自らを建設技術者とみなしていた。

建設業こそが50億ドルといわれる富をビン・ラディン家にもたらし、2500万ドルの遺産を彼に残したのだ。

1980年代に購入した掘削機、ダンプカー、ブルドーザーときには自ら運転しながら、

アフガニスタンソビエトと戦うムジャヒディンのための塹壕を掘り、

山に穴を穿って武器庫と野戦病院を作った。

それは1989年の不信心者らの撤退まで続いた。



1990年代に逗留したスーダンでは、道路を作ったこともある。

そのひとつハルツームからスーダン港への高速道路だ。

しかほとんどの仕事テロ組織をつなぐためのものだった。

アフガニスタンゲストハウスを作り、武器提供した際に作ったのが、マクタブ・アル・キダマト(「サービス部局」)、

次に作ったのがアル・カイダ、「基地である

この仕事の大半を支えたのはアブドラ・アッザム、彼の宗教的恩師だった。

そのネットワークは以後、アイマン・アル・ザワヒリらによって引き継がれたが、

個々の人員登用、到着期日、戦いの大義などを多数の文書に残したはまぎれもなく彼だった。

彼は自らが行った非道を伝えるメディアに目を配り、世界報道機関を手玉にとった。

ブランドを作り、組織世界規模のフランチャイズに育て上げた。

消息をたってからも、その顔はよい広告塔になった。

アル・カイダ」の旗を持つ兵士が二人いればアメリカ将軍が押し寄せてくる、と彼は誇らしげに語った。



彼の生き方ビジネスマンのようだった。

アフガニスタンパキスタンで消息を断ったあいだ、

電話インターネット時計すらも追跡の恐れがあるとして触れるのを避け、

洞窟や隠れ家を転々とした

それは、成功を収めた堅実な投資に現れていたのと同じ注意深さだった。

政治理念に左右されることはなかったが、

沈思黙考して夜を明かし、一日を読書に費やすこともあった。

礼儀正しく敬虔な御曹司が到達したのは、知識人でも夢想家でもなかった。



彼に必要なのは純粋な怒りだけだった。

それをもたらしたのは、1982年レバノンに侵攻したイスラエルと、

1990年サウジアラビアの聖なるメッカメディアに到着したアメリカ軍だった。

物心ついたときからアメリカへの憎しみが彼を苛んでいた。

不信心者を追い払い、

パレスチナを成立させ、

イスラエル破壊し、

サウジアラビアを支配する「異端」を追放し、

ワッハーブ原理主義イスラムを純化すること、

それが彼の望みだった。

一言に洗練させるとすれば、暴力に訴えるジハドと言えただろう。

ジハドとは、神の言葉の勝利を実現させること、

彼の言い方では、目には目を、の「相互主義」を実現させること。

それは全ムスリムに課された聖なる義務である



五人の妻のうちの一人によれば、彼にはこんな一面もあったという。

ヒマワリを見るのと蜂蜜ヨーグルトを食べるのが好きな男。

星の下で寝ようといって子供たちを浜に連れ出したことがある。

BBCワールドサービスが好きで、毎週金曜には友人とハンティングに行く。

ときには、預言者ムハンマドのように、白い馬にまたがって行く。

彼は、そうなぞらえられるのが好きだった。

人生で最高のできごとは全能の超大国という神話ジハドによって打ち砕いたことだと、彼は言ったという。



十年以上に渡ってその首にかけられた賞金が彼を縛ることはなかった。

ラボラの隠れ家や山々を渡る護送車への爆撃も、

アラーによって御される彼には届かない。

殉教のときは、来たるべきときに来る。

純粋ムスリムアメリカ人の違いについて、

アメリカ人が生を愛するのに対し、ムスリムは死を愛するのだと彼は言った。

十字軍特殊部隊に対して彼が抵抗したかどうかはさだかではない。

いずれにしろ、その弾丸は彼を讃えるものでしかなかった。



重要指名手配テロリストオサマ・ビン・ラディン5月2日、54歳で死す。

Obituary: Osama bin Laden, the world’s most wanted terrorist, died on May 2nd, aged 54

May 5th, 2011, The Economist

http://www.economist.com/node/18648254

2008-08-11

http://anond.hatelabo.jp/20080811123026

倫理的に叩けないということがわかったのはよいことだが、反Apeman派にもいろんな立場があることは自覚した方がいいよ。

そうだな、「産む機械」発言と同程度には叩けないよ。その話もう終わりな。

ていうか、「反Apeman派」などという派閥存在するの? まあ自称する人が少なくとも一人はいるんだな。

いつ集まったよw

wikipediaにさえ書いてあるぞ。

小規模の災害なら赤になる例でもSTART法では黒になってしまう事が多くなるが、これは(現場に混乱を来してしまうほどの)大規模災害のために考え出されたものである。

例えば、いわば「黒に近い赤」と「黄に近い赤」の負傷者がいたとした場合、前者治療順位が高くなるべきところだが、トリアージではいずれも同じ「赤」となってしまうため、適切な治療順位が選定されないおそれがある。

また、トリアージ野戦病院でいかに早く軽傷者を前線に再投入するかという発想であり、平時の救急医療にはなじまないという批判も存在する。

この辺は、緊急性からくる限界なのだが、批判されてるね。

今まで出てなかった話を今更持ち出してまでどうしても何が何でもトリアージを否定したい、その動機は何?

俺の書いてることがトリアージの否定に見えるというのがよくわからんのだが。ほかにそう読解してる人いる?

原理主義者は黒白付けられないものにまで俺様基準で付けようとするんだからもっと困った話だよ。

あれ? 南京関連の「どっちもどっち」派に肩入れするの?

 
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