太平洋戦争時、中島らもの父はインド洋で補給の任にあたっていたという。
補給といっても戦場にいることに変わりはなく、凄惨な場面に幾度となく遭遇したはずだ。
いつもギリギリのところまで話は進むのだが、そこで止まってしまう。
私の祖父もそうだった。
尋常小学校で進級できなかったこと、電化される前のパチンコ、現役時代の仕事の話。
多くの老人が若者に対してするように、取るに足らないことから人生の一大事まで、細大漏らさず語り聞かされた。
まるであの暑すぎる盆は、八月十五日はなかったかのように祖父は振舞っていた。
祖父が戦争を忘れているはずなどなかった。祖父の弟は遠い南洋で戦死しているのだ。
祖父が語る過去は綺麗に漂白されており、一点の曇りもない。幼いながらも、私は血痕なき祖父の半生を震えるような思いで聞いていた。
結局、祖父は弟の白木の箱を抱えたまま冥府にくだってしまった。
映画を観れば分かる。
ベトナム帰還兵ものは掃いて捨てるほどあるが、日本のそれは数えるほどしかない。帝国陸海軍の復員兵は大勢いたのに、だ。
死線をさまよった彼らは、中島らもの父や私の祖父のように、歴史を墓場まで持って行ってしまった。
沈黙は復員兵とその家族に半世紀の安らぎを与え、同時に不安も残した。先の都知事選における田母神への六十万票はその証左だ。
過去は復讐の機会を窺っている。ふと足元を見下げたら、軍靴と脚絆が私たちの足まわりをがんじがらめにしている日が来るかもしれない。