はてなキーワード: 部落とは
これから書こうとしているのは、お寺に搾取される貧乏な檀家のお話だ。
秋田の片田舎に母の生家がある。元教員だった和尚さんのいるお寺は曹洞宗で、生家はそこの檀家だった。というかその周辺部落のほとんどの家が檀家だった。命日にはハガキで通知をしてくれるなど、聞いていると役所的役割を果たしているように思った。つまり、檀家と各檀家の仏様の命日がデータベース化されているのだった。
人望が厚く信心深かった叔母が婿を取って後を継いでいたが、数年前に病死した。信心深い人(あの世でより仏に近くに行ける人?)や長生きした人は、それなりの大そうな戒名を頂けるというのが慣わしだそうで、大そうな戒名を頂いたことを生家では誇りにしていた。
若くしてなくなった人やあまりお寺に縁のなかった人には位の低い戒名しか頂けない。55歳で亡くなった私の母もごく経済的な戒名で済んだ。
そしてココが問題なのだが、よい戒名にはそれに見合うお布施をお寺に納めるのが慣わしなんだそうだ。それも金額を聞いて驚いた。戒名料の相場で見るとまだお寺も気を遣ってくれたようだが、各宗派とも信じられないお値段だ。
数年後、癌で叔父が亡くなった。このとき問題が起きた。叔父は叔母と違ってごく普通の信者だったし、何より生家にはもう現金がなかった。まだ社会に巣立っていない子供にも学費や仕送りが必要だった。
しかし、叔母と同じ位の戒名を頂かないと、あの世で叔父と叔母は会えないとお寺に言われたそうだ。そしてそれは檀家の常識でもあり、同じ位の戒名を「買わないと」部落で親不幸者として扱われるようだ。
叔母亡き後を継いだ従姉もお婿さんをもらっていたのだが、お婿さんは遠慮して「お金がないから、そんな戒名は買えない」という一言が言えなかったそうだ。従姉にしてみれば、そう言って欲しかった、そうしないと家計が立ち行かなくなると思ったようだが、結果的にはお寺に押し切られてしまったそうだ。
だって、誰だってあの世で両親が会えないなんて言われたら、お金出すしかないと思う。信心深ければ深いほど…。
何故お金がないのに、これから子供たちにお金が必要なのに、そんな大金をお寺に納める必要があるのだろうか?
そして、私は従姉夫婦の窮地に上記の馬鹿げたことを知らされずに何度か現金を無心され、その度に若い子供達の将来を思って叔母としてできることをしたつもりになっていた。
実はもっと混みいった事情がある。土地をなかなか相続できていなかったために、それを担保にJAからお金を借りることができずにいた。その手続きのための(司法書士などに支払う)お金すらないほど困窮していたのだ。相続できてお金が借りれたら真っ先に返してくれるという約束で幾ばくかを送金した。直後にまだ相続手続きが終わらないうちに、娘の年払い保険の期限が来てしまい、病気の娘(◯◯ちゃんは精神系の病気)にとっては(解約するわけにいかない最後の保険なので月曜締め切りのところを2日前の土曜日に何とか都合してくれと電話があった。◯◯ちゃんのためならと、これが最後と自分に言い聞かせて殺伐とした気分で送金した。
ほどなく相続&借金ができたようだが、連絡がない。◯◯ちゃんに聞いて初めて上記のような顛末を知ったのだった。
もう一つ納得行かないのが、よい戒名をもらうとそれなりのお葬式をしなければならず、それなりのお葬式にはそれなりの御霊前を持って行かねばならないという、これも慣わしなんだそうだ。そこいらは都会と違う。ご近所に数万円の御霊前を持って行くなんて聞いたこともない。
そして、いただいた御霊前の額はそのまま、その家のご不幸のときに返すのもしきたりなんだそうだ。それは理屈として通るが、困るのは3月の季節替わりにはご老人が亡くなる家が多いので、その分出費がかさむことになる。驚いたのは、この3月の近所のお葬式で15万円ほど消えたそうだ。
普通は頂いた御霊前をそのまま取っておけば済むだろうと思うが、それは葬式代を確保していた家の場合。昨年夏の叔父の葬式代は叔母に釣り合うよう100万円ほどかかったそうだ。御霊前はその他諸々の経費に消えてしまったというわけだ。無計画な従姉夫婦は、何の備えもしていなかった。なのに宗教の名の下に言われるがままに、お金を払ってしまった。
しかし、困窮したと駆け込んでもお寺が面倒を見てくれるなんてありえなさそうだし、明らかに何か矛盾している。
私がこの記事を記しておこうと思った訳は、この記事を読んだからだ。
Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から― | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET
この記事の趣旨とあまり関係ない部分だけれど、以下の箇所に疑問を持った。
オウム真理教では、麻原教祖が行う「イニシエーション=秘儀」により「ステージ=段階」が上がり、「悟り」への道が促進される重要な儀礼として位置づけられていました。
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一方では、そのために多くの「布施」を強要し、それに答えないと高い「ステージ」には上がれないとされていたのです。これは、一つの集金システムとして機能していたもので、極めて詐欺性が強いといわれています。
以上のようにオウムで言うイニシエーションは、段階的であり、布施の高低により不平等であり、なによりも仏教の教えからかけ離れたものであり、とても認められるものではありません。
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またこうした「加入儀礼」としては、曹洞宗では「入檀式」や「受戒会」、僧侶の儀礼としては、「得度式」「立職」「伝法」などが広い意味で該当するでしょう。
しかし、これらの儀礼がオウムのそれと大きく異なるのは、檀信徒に平等であり、また仏様との縁を結ぶ自発的なもので、強制を伴ったり、ましてや何度も行うような性格のものではありません。
真っ当な宗派である曹洞宗でもそれは明らかにウソだ。理想は上記引用かもしれないが、田舎では狭い世間の目に逆らえず、お寺の言うがままになっている貧乏人が現に存在する。
言い過ぎを覚悟して言えば、結局間接的に私が若い子供たちのために送ったお金もお寺に吸い上げられてしまったようなものだ。
しきたりを知らない核家族&都会で育った私の戯言かもしれないが、宗教というものに、信心というものの具現化の在り方に矛盾を感じぜずにはいられない。
僕はとりたてて左でも右でもないと思うが、個人的に橋下徹氏のやり方には強い違和感を感じる。君が代を歌わない教員を罰する、などといったタカ派的な行動(http://goo.gl/fdA8f DailyMotion: これで彼自身恥ずかしそうにしてちゃんと歌っていないというのは置いておいて...)やテレビタレント時代の核武装とか中国売春ツアーODA発言とか弁護士懲戒請求の扇動とか、そういう極端な言動への違和感が第一にある。ナイーブに考えて、下品で息苦しいのである。
だが、僕が結構ファンである佐々木俊尚氏(http://twitter.com/sasakitoshinao)や夏野剛氏(http://twitter.com/tnatsu)など、わりとリベラルで先見的と思われる人たちが橋下徹氏に好意的な評価をTwitterでしているのを見て、どうしたものだろうか、としばし考えた。
たとえば佐々木氏は、橋下氏の実行力を評価し、橋下氏の批判者が感情的な批判しかできていない、ということを指摘していた。たしかに、行革や財政再建を目指す政策は私も賛成である。また、部落問題や暴力団のような複雑な問題も、彼くらいの突破力がないと解決できないだろう(私が橋下氏に一番期待しているのは、そのような問題の解決においてである)。ただ一般に彼のやり方は、敵を作り、スケープゴートを作ることで住民の溜飲を下げさせていることで勢いを維持しているように見えてしまい、その手法に狡さ・醜さを感じるのである。さらに言えば、それに乗ってしまう人々の多さにも空恐ろしさを感じるのである(こういうと香山リカ氏みたいだが)。私は、橋下氏はルサンチマンに駆り立てられて動いている人間だということに気づいたが、彼がさらに住民の潜在的なルサンチマンを煽っている構図なのではないかと思うのである。そういう点で、現代のヒトラーという指摘はあながち見当違いではない。
私みたいに、緊縮財政・行革による財政再建は大いに結構、だがイデオロギー的な押しつけの空気やタカ派的挙動、さらには彼を突き動かしている感情にはアレルギーがある、という層は多いのではないだろうか。
佐々木氏が今日になってついに「橋下氏について行けない人たち」などという(そこまで言ってしまうと戦時中の非国民とかと同じメンタリティーにしかすぎないだろう)気持ち悪い全体主義的なポストまで挙げていたので、なんだかガッカリさえした(本当の知性や強さというものは、結論の出ない曖昧さから目を背けず、それに耐えて批判的に考え続けることではないのか。)のと同時に、自分の中でどういう立場を持てばいいのか、折り合いをつけなくてはいけないのかな、とも感じたのである。
私は科学者だが、周りを見ていてたしかに偉大な科学者が必ずしも人格に優れているわけではないし、科学者を見る際には業績と人格、さらに教育者としての資質は分けて考えるのが普通だ。政治家もそれと似たようなもので、イデオロギーと実質的な政策を分けて考えるべきなのかもしれない。彼の財政再建のための活動は評価するが、彼の人柄や彼を突き動かしているイデオロギー的ものには疑問を感じる、という折衷的なスタンスをとれば、私自身感じている息苦しさにも折り合いをつけられる。
余談だが、橋下氏、昔はテレビではけっこうチャライ感じでいじられキャラだった記憶があるのだが、いつの間にあんなに強者のキャラになったのだろう。そういうパブリックなイメージの変遷のメカニズムにも興味がある。
ひとりのAnonymous Cowardより
乙武さんは重い障害者でも健常者より活躍し成功できることを社会に示し、一部の障害者には希望を与えただろうが、
今まさに障害によって苦しんでいる人に対して「乙武さんは頑張ってるのに」という言葉がかけられる機会を作り、叩きのめしたのではないか。
橋下さんも被差別部落出身でも差別を受けていない人よりよっぽど成功できる例を社会に示したが、
性的虐待被害者は水商売・風俗に堕ちていくことが多いと聞くが、
「性的虐待を受けていましたが、その悔しさをバネに勉強を頑張り、難関資格を取って成功しました」という例が次々出来たら、
堕ちていった性的虐待被害者に追い討ちをかけることになるのではないか。
過干渉などの「毒になる親」からモラル・ハラスメントを受け続け無力感に苛まれてニートになる人は多いと聞くが、
「そんな親からの仕打ちをバネに、勉強してエリート会社員やエリート研究者になりました」という例が次々出来たら、
成功者が一人も居ない場合は「障害者・部落・虐待被害者はゴミカス人間ばかり」という偏見が生まれて問題ではあるが、
一部の成功事例を取り上げて「なんであんたもこういう風になれないの?」と言うのもまた人を苦しめることになる。
結論:人をひとまとめにして語ってはいけない。
最近、ウヨサヨの戦いが「親中韓vs反中韓」という空中戦になってる件について、
アイデンティティは人が人であるために大事なものであると思いますが、
経済問題をそっちのけでアイデンティティ同士で戦っているのには虚しさを感じます。
マスメディアは絶対に報道しない「電通」というオバケ代理店の暗躍
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20070410/1176173712
電通の正体
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/313.html
http://unkar.org/r/seiji/1297951622
韓国政府が資金を出して、フジテレビの株を買い占め、報道を操っているという説は本当?
日本人なりすまし議員が少なく見積もっても70人いるという説がある。
学力に大きな差はあるものの、一流上場企業出身、東大・京大、あのハーバード大に合格したものまでいる。これはアメリカをも支配し始めていると言っても過言ではない。
ご存じのとおりサントリーは在日に支配された企業であり、ユニクロは柳井氏が靖国批判をしたため、反日企業である。
また、任天堂は在日部落とのコネクションがあるので反日企業であり、イオンも民主党の岡田氏とつながりがあるので反日企業である。
リクルートもYahoo!と数多くのサービスで提携をしているので反日企業であり、ホンダも韓国を嫌っている気配がないので反日企業である。
三井住友銀行、全日空、ソニー、DeNAなどをはじめとする東証・マザーズ等に上場している日本の企業も、直接または間接的に韓国人と関わりを持っているため、売国行為を行った反日企業であることは火を見るより明らかである。
愛国者が数多く会員登録を行っているニコニコ動画を運営するドワンゴ・ニワンゴも、反自民なのでつまるところ反日企業である。
これらの中で最も力を持っていると思われるソフトバンクは在日朝鮮人の孫正義が作りだした企業である。孫は日本一資産を持っているといわれているが、そのうちの一部を韓国へ献金しているという噂がある。噂だが、生い立ちからして事実に違いないのだろう。
なお、彼は「韓国の原発を評価するとは一言も言っていない」と明言していたが、孫正義という名前が反日的(2ちゃんねるより)なのでここでは割愛させてもらう。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw97228/3
GDP3位、世界6位の軍事費、常にTOP5圏内の学力、世界でも難しいランクに入る言語を操るなど、輝かしい功績と国力をもってしても、IMFからお叱りを受け、アメリカからソマリアまで幅広いジャンルの国々から脅迫・批判を浴び続け、常に劣等感に悩まされ、気がつくと放火とか強姦とかしちゃうよくわからない性格を持ち、火病という民族特有のアホ遺伝子を受け継いでいる国家及び国民に我々は侵され続けているようだ。
自国の経済どころか文化すらろくすっぽ発達させることのできない彼らが、どうやってこれほどまで強大な力をつけ、日本人に知られないようにこっそりと侵略を行うという恐ろしい特殊能力を身につけたのだろうか。これでは既に一億総朝鮮人化していると言っても差支えはないだろう。チョンマルカムサハムニダ。
このような悲劇をこれ以上生まないためにも、我々のような愛国者たちはインターネットを使って真実を知り続け、ツイッターで拡散を希望し続け、アンケートを見つけたら工作員が来る前にできるだけ多くの人に呼びかけを行い、数の力によって真の一票を投じ続けなければならない。
自分の中で、今まで書いて整理できなかったものとして、「部落」というものがある。
部落っていうと関西のイメージが強くて、有力者なんかだと食肉業界で成功したりしている、みたいな感じなんだけど、それとうちの近所の部落との整合が取れないなあ、と。多分東北とかまで行くとあまり部落ってイメージもなくなっていて、松本大臣VS地元メディア、みたいなこともあったのかなあ、と思う。
あと、田舎。割と構成員が変わらないってのがあった。そのへんが世間一般の感じてるものと自分の感じてるものが違うなあって思った。
自分の地区の隣の地区が、行政的にそういう位置付けのところである、ってのを、まあ成人するかしないかぐらいのところで知るわけです。行政的に、っていうのは隣保館とかがあったり、区画整理がされてこのへんじゃ珍しい2車線道路が走ってたり、地区に入るところに信号や横断歩道がついていたり、市営住宅がたくさんあったりするってことなんですけどね。
自分ちのそばに解同の事務所なんかがあることなんか知らずに育つわけですよね。
でも、その地区が特殊な地区であることは知っている。うちの隣のその地区は食肉とか皮革とかではあんまりなかったみたい。あとでちょっと調べたけど、民間陰陽師とかそういうこともあったらしい。まあどういう区別なのかよくわかんないけど。
で、部落の歴史としては、全国的なことなのか、農地を持っていなかったり小作していなかったりする人たちなので、戦後困窮したらしい(民間陰陽師も禁止されたとか)。卵が先か鶏が先か、って話だけど、その地区は生活レベルが周囲より下がってしまった。そういう歴史はもちろん僕らは知らなかったが、その地区の子たちの学校での勉強が芳しくなかったのは体感している。(ちなみにその地区は土建と自営が多く、他の地区は農家と勤め人が多かった印象)
これもあとから知った話で、というか母が小学校教諭として自分の通っている学校に勤めていたことがあったのだが、ここに赴任する前にそういうレクチャーを受けるらしい。そして全校100~200人程度の過疎の小学校なのだが、質の高い教師が選ばれていたらしい。そんな恩恵を知らずに受けていたのだが。そういうわけで、僕も利権の中の人と言える面はある。
そういうわけで、母曰く、僕らはかなり大きく同和(人権?)教育を受けていたらしいのだが、子ども心に全然覚えがないんだな。部落という地区があっても、そんな地区がどこにあるのか知らないのだもの(隣にあったのに)。「出自によって差別するのはよくないね」「はーい」なんて言ってたのかどうか、今考えると靴の上から足の裏を掻くようなもんで、具体的にその地区のことを説明せずに、よくそういう教育ができたもんだ、と思うが、その地区の人もその地区じゃない人も同じようにその教育を受けていたようだ。
で、そういう部落とは知らないその地区に対して、かなり年配の大人(祖父母など)は「そこへ行ってはいかん」「その地区の人と遊ぶな」という教育をしてきましたね。で、噂としては「狂犬病の犬が放し飼いにしてある」「おかしな人が追いかけてくる」などの噂があって、怖がりな僕はほとんどその地区に入っていません。いわゆる級友、クラスメートとしては全く違いはないので、その地区にも友達はいて、何かしらの努力をしてその地区に立ち入ったことはあります。友達関係としては至って普通でした。
その地区は学校の成績としては低かった体感があり、その地区の中でつるんでいるグループがあって、ちょっと荒い印象はありました。
いまさら親と同和について話を聞いたりするようになったんですが、難しい話ですよね。その地区は土木工事的にはお金がつぎ込まれて、ハコモノもできて、小学校には優秀な教師が送られていたはずが、昭和末期から平成にかけても、教育水準の体感に差があった。学校にいる子どもたちは、同和や部落のことは何も知らないし、知ることがいいこととは思わないが、もしそこに格差があっても、打てる手は少ない。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20110816220206
というエントリを読んで感じたんですが、もともと地域の水準って、モザイク状なんですよね。うちのあたりは全体的に遅れた地域ではあったんですが、やっぱりその地区と他の地区では成績の体感に差があった。これってどこにでもある話だけど、どこにでもはない話とも言えると思う。
ついでながらの無駄話をしておくと、今でも市単位で、人権講演なんかがあったりして、同和行政は終わってても、どこかでそういう予算がついているみたい。で、関西四国あたりの人に喋ってもらってるらしいんだけど、何か違うと思うんだよな。
あったよ。部落差別。
うちの親が差別者だった。
うちの親は部落というか、広範囲に渡って差別してた屑人間だったけど。
残ってるところは残ってるんじゃないかな、まだ。
都民でもないしこれっぽちも支持するつもりもないが(美濃部の悪夢があるだろう)、
日本共産党と部落解放同盟は対立関係にあるわけで、小池を一生懸命推していた人は、
彼が当選していたら東京都下の部落出身者(あるいは同盟関係者)が弾圧を受ける可能性をあえて無視してたってことだよね?
思い付きをそのまま書く
松本龍さん激怒には、俺をなめやがってゆるさねぇ!ってどーでもいいプライドがあるんじゃないかと思う。
この人は今まで九州という自分の土地ならそのプライドを満たすだけの背景、
部落だったり在日だったりがあったからすき放題やってたんだろうけど、
東北ではそれらが一切通じなくてあせって機嫌悪くなって小者臭が出てきたんじゃねぇのかなーって考えてた。
東北って部落問題も在日問題も、殆ど表に出てこねー土地だもの。
二十台半ばまで東北三県を渡り歩いてきたけど、被差別部落なんて意識したことねぇのよ。
在日朝鮮人にしてもそう。後年になって学生時代に居たらしいって聞いたけど、何にも噂に出くわさなかったしね。
部落問題も在日問題も大きな問題じゃない土地だからこそ、報道したら潰すって言われてもこわかねぇやって思ったのかねぇ。
その原因は在日も部落もないからだっていうなら、この貧しさでもいいんじゃねぇのかって思っちまう。
頑張って儲けなければ部落に、在日に食われて自分たちが食う分も残らないってのはおかしな話だよ。
今後東北復興のすき間を縫って在日やら部落やらが今まで以上に入り込んでくるんでしょ。
もののけ姫の時代じゃないんだよ。ちゃんと国としてのシステムがあるんだから強引に入り込んでくるんじゃねぇよ。
なんてことを書き捨てておく。
http://b.hatena.ne.jp/entry/ameblo.jp/moonsun3/entry-10936389385.html
正直に感想を言う。
キモチワルイ。
もうさ、これ差別憎しで語られててさ、「差別の実態」を憎んでるんじゃないんだよな。
「今現在どういう実態があるんだよ?」って言うと、「そんなことは語りつくされている」だのなんだのかんだの、
自分達左翼クラスタ(笑)の常識を当たり前としたうえで、「無意識に行われる抑圧が云々」「そも無関心が差別を云々」と始まる。
お決まりの流れ。
提示される反証に対して反論していくうちに、どんどんと理論武装して原理主義みたいになっちゃってる。
だから元来侮蔑的な意味をもち生まれた言葉(オタクとか)をそのものずばりの意味で自分が相手に使っても問題ないが、
「カタワ」や「部落」はその意味が込められていなくとも使っちゃいけないんだよ。
なぜって?
ここがキーで、だからこそ「言葉狩りじゃない」とくるし、「○○は私にとって痛い言葉」ってな反論にも対応可能になってる。
現象としては同じイジメでも「外国人」「アイヌ」「癲癇もち」がいじめられてると、社会の差別の表れで、
「オタク」「デブ」「のろま」などで為されるものとは行為の意味が違う、とか言いだしちゃうからね。
そういう属性を持つと言うだけで、実態よりもそこに差別行為があったんだろう?と下種の勘繰りに比重が重くなるのは、まさに他人事と言った感じ。
属性の代表であるかのように担ぎ上げられて、すわ差別だと大事にされるのって、良い迷惑じゃなかろか。
もちろん、そうした「特別扱い」を喜ぶ向きも、そういう属性もちには多かろうが。
じゃあお前、「部落はきたない物と習って」れば部落が嫌いだったんだなw
「何故人を殺してはいけないのか」「何故嘘をついてはいけないのか」と同様で、納得のいく答えは得られないだろうと諦めています。
「何故きたないのか」「同じ人間として扱ってはないのか」と問われても、考えることを諦めてただ維持する人間だったわけだなw
部落が嫌いです。それだけです。人に強制する気はありませんが、部落と付き合う奴も見下しますw
好き嫌いの問題のように言いつつ、個人の領域の話であり人に強制はしないとしつつ、
実際には疎外や不利益を与えると言うのは、巧妙な差別の手法そのものだよな。
君は実際センスがあるよ。
1980年代大阪府北摂地方の話。その後卒業と同時に関東に引っ越したのでその後不明。
職員室には、日教組の団結旗?が飾ってあり(おそらく教職員)の名前が書いてあった。
担任やってた先生が、いきなり担任外に外され、子供ながらに何が変だと感じていた。
相対評価の5段階評価でも3段階評価でもなく、絶対評価の2段階評価だった。
○と◎、できたか良くできただったと思う。×はあったかもしれないが、覚えが無い。
部落とか在日への差別を無くしましょうとか、彼らは弱者だから日本人が守る必要がありますとかそういった内容。
でも子供の間ではチョン校とむやみに関るなというのがルールだった。
何でかというと電球口にくわえさせたまま顔殴るとか、俺らのルールでは禁じ手とされている内容を普通に使うのが、彼らのやり口だったから。
なので、差別してはいけませんと言われても、無理だよという空気。
今思うに、土地のルールを守らずに自分勝手に振舞えば、そりゃ元からいた連中に嫌がられる訳だし、そこにいるならルール守るようにするのが先だろうと。
いやなら帰れなんだから。
少し前まで出ていた帰国船に乗らずに残ったのだから、土地のルールは守るべきだよな。
指導要綱には無いと思う、どこぞにハングル教えている小学校があるそうだが、そういったものは裁量の範囲で教えていると思いたい。