はてなキーワード: 第一人者とは
何かをはじめても、自分が初心者であるということが分かっているにも関わらず、何も継続できないし夢中になれない
これは自分が「何もわからない初心者だ」という自覚が足りてないのかなと思っていたんだけど、
今はネットがあって、始めたばかりの人でもセンスがあったり学習の能力がすごい人をゴロゴロ見ることができて
また同い年なのに始めた時期が早くて今ものすごい第一人者になっていたり、とにかく達人級にすごい物を触れることができるからだなと思った。
自分はもともと自尊心が低く、あまり「オレスゲー」があまりできないタイプだ。
こういう人たちを見ると、どうも萎縮してしまって、「自分がこんなことをやっていても凄い物なんて一生できないんだろうな」とか
「今から始めたってどうせ無駄だ」とか思ってしまい、徐々に逃げてしまって、自分のゴミなプライドを更に傷つけているなと気づいた。
趣味だけでもなく実生活でも同じようなことが起こしてしまっていて、徐々に人生が終わっていっているのを感じている。
なんとかしたいとは思っていていろんな検索をするんだけれど、よく言われている「他人と比べず頑張る」というのが、どうも難しくてできない。
だって誰かや何かと比較されて評価や価値が決まるんじゃないの?そんな自分だけ楽しいような評価されないようなことやってても意味あるのだろうか?と思ってしまう
そんな考えが浮かぶたび、何もできない無能な自分が嫌になり死にたいと思ってやりきれなくなる。
どうしたらやめることができるのだろう。こんな悪癖も人生も
今日Container Runtime Meetupという勉強会に参加させていただいたのだが、KubernetesにContainerに詳しい第一人者による神々の集いに目がくらみそうになった。
ここにいる人たちを除いたら、日本でどなたがContainerに詳しいといえるのかわからない感じの人たちが一堂に揃っている。技術書典で池袋ジュンク堂でGitHubのissueで名前を見たことがある人たちがいる。
Organizerにいらしゃったので来るかもしれないと期待していたgVisorの中の人たちがいないのが寂しいくらい。
そんな人たちによる登壇者の話がrunc runのから始まったのはまだいい。予告があったり、自分は途中でinit処理にわけわからなくなった下地があったので。少なくともその後について腑に落ちたのだ。
だが、そこからいきなりnsexec.cに行ったのは突き放された感じがしてひたすらうなづくしかなかった。
Kushwahaさん。goのimportで定義されることにより本文が呼ばれる前にプリ実行されるCライブラリで名前空間を作成している、そのライブラリの処理の解説が行われた。
https://github.com/opencontainers/runc/blob/master/libcontainer/nsenter/nsexec.c
もうここで、unshare?unshare what?という気持ちになって、あー空のnamespaceを作成できるコマンドかと腑に落ちる暇もなくSudaさん。
ライブラリの実装と呼び出し方法について実際に処理を書いた人が、直直にケースごとのnamespace()の使い方の解説をするのだ。
こんなの後にも先にも一生聞けないだろう。聞き逃すまいと望んだが、MountNSの話は正直セキュリティ懸念があるのね、だから実装=サポートも積極的にされてないということしかわからなかった。
ファイル、ディレクトリ一つ一つのアクセス権限の付与をプロセスIDごと振り返る必要があって、それを高速にできるfsがsysfsという認識であってるのだろうか...自分でも何を言っているのかメモを見返しても呪文にしか読めない。
その後もsd_notifyをruncから呼んでいることに端を発したコンテナ起動待ち処理をどう実装するかという議論やら、某ベンダーさんによるruncをガチ運用している環境下でftraceを使ったデバッグの実演やらもうこの夜ここでしか聞けないような話ばかりで。
祭りが終わった後、ほとんどの人が帰らずに、会場となった台所みたいな食卓を囲んでフリートークを交わしていた。
Cloud Controller Managerを自社内向けに実装する話の相談をしていたり、先ほどの登壇者が同じPCの画面を前に肩を並べてruncのソースコードリーディングを始めたり好き勝手にしてる。
それは正直自分みたいに浅い知識を持った人には、RHTechExchangeで聞いた英語の雑談よりも遥かに遠い世界だった。
私にはかつて、ある趣味があった。頭も身体も使う、青春を賭けた非常にマニアックな趣味だった。趣味を通じて多くの知り合いも増え、ちょっとした小遣い稼ぎにもなっていた。私の承認欲求も所属欲求も競争心も満たしてくれ、アイデンティティでもあった。熱狂的なイベントがあり、仲間がいて挑戦すべき課題があった。あれは本当の「生きがい」であった。
だが、結局あの趣味から遠ざかってしまった。言い訳としては就職をきっかけにして、同好の士がバラバラになってしまったこと。それから、職場での不適応から鬱になってしまったこと。これはあくまでいい訳なんだ。バラバラになった人たちは、今でも熱心に趣味を続けてその道の第一人者となっている。私にはその熱意はなかった。ただ、自分を救ってくれるはずの趣味も捨ててふさぎ込んでしまったから、あの趣味は色あせていくばかりの青春の思い出になった。
悲しいかな。今の私に趣味と言えるものはなく、楽しみはアニメを見て感想を書くことと、ボーナスのたびに風俗サイトを見てニヤニヤして計画を立てることくらいだ。あとは、晴れた軽い運動、たまにの外食、喫茶店での黙想などという、ほんの薄っぺらい幸せをミルフィーユのように積み重ねた他愛のないものだ。いまは、こんな生き方もそれなりに悪くないと思っている。あえて言うなら、風俗通いはお金の無駄なので辞めたい。もし10年前の私がこの姿を見たら、情熱を失った生き方を軽蔑するだろうな。
先日、数年ぶりに趣味のイベントに行った。そこには私と同じように過去の思い出を求めてやってきた亡霊がいた。もう互いに語れる趣味はなく、かつての思い出を語るばかりで、互いの疾患(精神が多い)を心配しあうばかりだった。挙句の果てに、私はかつての仲間に名刺を配って、いい仕事あったら紹介してよって、無粋なことしかすることがなかった。
久しぶりに仲間に会って楽しかったはずなのに、帰ってきた後ですごく悲しくなった。ああ、どうしたらいいのだろう。どうやって、過去を受け止めて、どうやって生きていったらいいんだろう。わからなくなった。
ちょっと疲れたので投下する。医学部学生。2 ~ 3年前に月単位の留学。
その少し前から、分子生物学での基礎研究への魅力を持ち、免疫学や薬理学が好きだった。
だから、留学後も研究室に通って、かなりの時間を費やして研究した。
けれど、もう続かない。
年単位で費やしたテーマがもうほとんどダメっていうのも大きいんだろうな。
結局俺は負けたのだ。
以下、思っていた魅力と実態。
そんなことはない。
研究者は、わけわからん時間に細胞培養したり、ポリ栗の合間のお昼は走ってラボに行って細胞を刺激したり (だからまともに昼飯なんぞ食えない)、ラボから帰ってもミーティング用の資料作成やデータの体裁を整えたり (だから寝るのは1時2時)、と自分の時間がどんどん食われていく。昔はこういう作業を楽しく思えたが、今はただただ時間の無駄に感じてしまう。その作業中には、自分の能力がメキメキと伸びていってる音が聞こえて、それが楽しいと思っていたし、苦ではなかった。けれど、周りの状況もかわって、最早こういう作業の脳慮自体が鍛えたいと思う能力ではなくなってしまった。
それに、医師も働き方を選べばフレキシブルに、柔軟にやっていけそうに見える。
手を動かすのが楽しい。上達すれば綺麗に実験結果が出るようになる
これは今でもそう。ただ、そのうち飽きると思う。
他にやりたいこと・勉強したいことが出来て、一本道ではないトライアンドエラーの過程がただただ無駄に思える。
これは今でもそう。QOLを重視して、趣味に時間を使いたいという気持ちが主だけど、なれるならブライトな第一人者になりたいとは思う。けれど、これは普通の人が芸能人に対して思うのとなんら変わらない感情だろうな。
論文を10本とか20本とか読んで、3か月とか自分で提案したテーマで実験した。けど、実りなし。それが普通だと言われればそうなのかもしれないが、もはや時間の無駄にしか思えなくなった。
ああ、他学部の大学生もそうだけれども、研究経験があっても評価されないというのも大きいな。マッチングでも、外病院に行っても、誇りをもって『研究やってます』と言えたことが一度もない。このあたり、『価値基準が外にある人間は表現者になれない』ということなんだろう。しょうがないじゃん、生物は外界に適応するのが基本なんだから。
キズナアイさんは、バーチャルYoutuberの始祖としてこれまで活動してきた。
そこで、最近姿形はまったく同じなのに声と人格が違う存在をインストールしたり、中国語が話せる人格をインストールしたりしていた。
一つの姿なのに別の人格がたくさんいる。まるでSFの世界が出現したかのような先進性である。
で、本題だがバーチャルYoutuber略してVtuberだが、Vtuberって言葉そのものが一人歩きしていてバーチャルYoutuberって言葉の略語ではなくなっていたりする。
なので、バーチャルYoutuberとVtuberって同義ではない。
個人的な感覚としてキズナアイさんはバーチャルYoutuberであってVtuberではないと感じている。Vtuberって言葉の定義からは色々と外れるからだ。
今キズナアイさんは新たな素晴らしい一歩を進み始めた。
その中で、Vtuberとは袂を分かったので、Vtuber界隈で彼女を語るのは失礼に当たると考えている。
我々は過去の彼女の痕跡に敬意を払いつつも、Vtuberの第一人者としてキズナアイという存在について語るべきではないし、Vtuberというくくりでキズナアイを評価することもやめるべきだ。
それを「罪」として、フェミニズムは男から奪ってきたのだろうが。(そして男は有利ですらなかった)
社会構造としての「女性差別」については、程度や他の差別より優先して解消すべきかはともかく、あるのは確からしいと私は考えています。
その根拠は?ないでしょう。
上野の主張は「男社会は不当に独占してきた政治経済社会上の地位を女に返せ」がメインであって「男が他の男を責めて自浄作用を発揮しろ」ではないので。
「不当に独占してきた地位」なんてありはしないので、そこからして上野は間違ってるんだよ
そこは「支障をきたしてでも」と書くべきだろう。本邦フェミニズムの第一人者たる自負を感じるならば。フェミニズムという思想の信頼を得る為なら。
同じだよ、この書き換えは。
個人の好みの問題を「女性差別構造」とすり替えて叩くのならば、ありとあらゆる選ばれないものは「差別構造」を主張できる。
KKOを選ばない女性は「差別構造に則った行動」ということになるぞ?
ほら、変わらない。
たまたま家で「じゅん散歩」というのを観ていたら、モリダイラ楽器のクロマチックハーモニカ教室に高田純次が来た。最初に自己紹介がてらボケるのが恒例なのだが、高田氏は、
「ブルースハープセノオという者ですが」
と言い、教室の生徒達が一斉に笑った。で……笑った人達、本当に意味を分かって笑っているんだろうか、と私は引っかかったわけだ。
妹尾隆一郎という人がいた。この人はブルースハープの第一人者で、1970年代は東京や関西のライブハウス……丁度愛奴とかシュガーベイブとかセンチメンタル・シティ・ロマンスとかが出ていた頃……では「ウィーピング・ハープ・セノオ」名義で有名だった人だ。残念ながら一昨年に亡くなられたが、高田氏はちゃんと知っているんだから大したものだ。しかし、あの教室の人々のうちどれだけが、高田氏がウィーピング・ハープ・セノオを念頭に置いてこれを言ったことを理解しているのだろうか。
こういう状況を見ると、いつも思い出すことがある。NHKの放送した立川談志のドキュメンタリーで、談志が大きな寺の本堂で『芝浜』を演じていたとき。談志が何か言う度に客がけらけら笑う。閉口した談志が遂にこう口にしたのだ:「お客さん、そこ、笑うところですかねえ」……ところが客はこれを聞いてまた笑ったのだった。
『芝浜』は代表的な人情噺で、談志が大変大事にしていた噺でもある。そして談志が懸命にそれを演じているその前で、落語はおかしいもの、落語は笑うもの、と信じ込んでいる客が噺をちゃんと聞きもせず脊髄反射的にただ笑う。私にはそのときの談志を見ていられなかった。
こんな風に「とりあえず笑う」というのは、もうやめてもらいたいと切に願う。笑えば無難、笑えば角が立たない、そう思っているんだろうが、それを向けられる者にとっては、時としてそれはあまりに暴力的に思えるのだ。
まあまあ有名人だし、時々ホットエントリーにもこの人の記事が入ることがある
https://www.twitch.tv/videos/400945739?t=01h11m20s
見た?見てない人に向けて説明すると
ウメハラが若手のゲーマーを呼んで紹介する配信で『ポタラで合体するなら?』というテーマで雑談をしているところの一部切り抜きだ
会話の内容は
若手「合体するならはるみーさんですね」 ※はるみーとはストリートファイター5の女性プロプレイヤー
ウメハラ「お前本当にやべー奴だなw」
若手「はつめよりもはるみーと合体したい。はつめは料理下手そうだしw」 ※はつめも同じくストリートファイター5の女性プロプレイヤー
かいつまんで書くとこんな感じ
オタク界隈の女蔑視が減ってきてるとか言ってるブコメの連中いたけど、現実に起こってるのは結局こういうことですよ
彼らはこの会話を悪いとも無礼とも思ってない
そもそもウメハラとはるみーなんて全く親しい間柄でもなんでもないからね
配信のチャット見ても分かるように、男オタク共はこの発言にヘラヘラ笑ってるだけ
ニコニコのコメントだけじゃないですよ オタクが多い配信のチャットは今も昔も同レベルです
この3点から、ズンドコベロンチョの発信源は三上なんじゃないかと思う。
三上が知らないうちに「ズンドコベロンチョ」を使っていてある程度「三上がズンドコベロンチョという言葉を使っている」とした。
しかし、三上の記憶に異常が起こり(痴呆など)、三上からズンドコベロンチョの記憶が一切消えてしまった。
三上はズンドコベロンチョを知らずに、偉い人を怒らせてしまっているにもかかわらず、
「ズンドコベロンチョプロジェクト」のチーフになったり、「ズンドコベロンチョ・アンバサダー」として抜擢されている。
ズンドコベロンチョを全く知らないにも関わらず、さらに偉い人を怒らせてしまっているにも関わらず。
と考えると、「ズンドコベロンチョ」という言葉の第一人者が三上だったという過程にすれば納得ができる。
にも説明がつく。
今まで三上が「ズンドコベロンチョ」の発信者だったのに、いきなり「知らない」と言い出せば、今まで「あの三上がいっているズンドコベロンチョ」と認識していた人が失望するのは当然である。
つまり、ズンドコベロンチョの意味は本当は誰も知らなかったのだ。なんとなく「三上」という尊敬する人物に紐づけて「ズンドコベロンチョ」という言葉があった。
新卒で入った会社を辞めることにした。4年間、苦しかったけど耐えた。
ずっと苦しめられてた原因になってた人に、すみませんでしたと謝られた。
謝ったことによって、私に許されたと思っているなら、それは間違いであると認識してほしい。
あなたのせいで私はメンタルヘルス不調に追い込まれ薬が手放せなくなった過去は、一生消えないのだから。
あなたにとってはほんの一瞬の出来事でも、私にとっては、それがずっとトラウマで、一番最初に私の心に傷をつけた、第一人者だった。
全部全部消えない。
悪かった、で済むなら、加害者側ってどんなに楽なんだろうって思う。
でも、簡単に人を傷つけることのできるあなたには、そんな自覚もないのでしょうね。
そんな私でも、新しい道を歩むことができる。