はてなキーワード: 象牙の塔とは
あなたとあなたの周辺の研究領域がちゃんとしたアカデミアやってることはよくわかった。
「当たり前のこと」を何度も説明させてすまんな。いろいろ煽ったのは謝る。
ただ今集中砲火浴びてるジェンダー論や法学(右側の政治的な理由も相まってるのが気持ち悪いし、理系の偏見で査読英語言うのは周りにも飛び火しそうで迷惑だってのは理解したが)、あといろいろ不信感ためてるであろう政治学あたりに関しては腐敗の疑いが払拭されるような話が全然されてないし、同じ文系でまとめちゃわないで、そのへんの奴らとははっきり線引いて、理系とは違って査読英語至上主義じゃないけど、「まともな人文学」はちゃんとやってるって立場にしたほうが政治的に有利なんじゃないかと思った。分野同士の無理解って理系文系限らず文系内にもあると思うし、まともでない教授が「文系ではこれが普通」を喧伝して、まともな学者が「確かにそこまでは普通ではある」って追認しちゃうのは構図的にまずい。
余談だが自分も理系でも医学部なんかの体制はもう全然駄目だと思ってる。実験結果に願望乗せすぎだし、論文不正もよほど話題にならなければお咎めなしや甘すぎる処分みたいなだし。政治的争いや上下関係もひどいし、象牙の塔とは同じイメージを持たないでくれと思うことがよくある。山中先生、本庶先生みたいな第一線の科学者がいるのと、学者としてゴミでも医者は患者の命救ってるのでみんな大きな声で言わないけど。
自分は法律を専門にして生きていているけど、刑事事件とはあまり関係がないから、そこまで詳しいわけでもない。
自分が死刑についての投稿とか、それに限らずとも法律に関係する投稿を見て、新たな観点だな、と思うことは殆どないと言っていい。既存の議論を上手にまとめて紹介しているものとか、自分の立場を適切に述べているものはもちろんあるけど、とりわけ断言調で書かれたもので、なるほどなあと唸るようなものはない。大抵の場合、すでに、それに対しての反論が議論されているものばかりだな、と思う。
死刑や刑罰に関する議論でよく出るものだと、例えば刑罰は何のためにあるのか、というようなものがある。
これについて既存の議論を簡単にまとめれば、割と最近までは、応報刑論と目的刑論との二つの考え方が対立していたと説明されていて、前者は犯した罪に対して罰を与えるのが刑罰の本質であり、後者はもう2度と犯罪を犯さないように矯正したり、社会に対して犯罪を犯すとこういう辛い思いをするからやめたほうがいいよと伝達したり、あるいは犯罪を犯すような人を社会から隔離することで新たな犯罪が発生することを予防することを目的として与えるのが刑罰だというもの。
前者はカントやヘーゲルに遡るようなクラシックなものだけど、罪に対して罰を与えるっていうけど、それは何のためになされるのか、本質というのは何なのかよくわからないよねという批判がある。
後者については、再犯可能性が非常に高い人だと、どんなに軽い犯罪でも、犯罪者なら終身刑にすることになるよね、とか、さらにその考えを進めて、犯罪を犯しそうな(けどまだ犯罪を犯していない)人を刑務所に入れようとかそういう話ななってしまうけど、それでは流石に良くないよね、といった批判がなされている。
それを踏まえて近年では、社会的な規範を回復するためになされるのが刑罰である、というような学説も有力で、結局、応報刑論と目的刑論ってそんなに違わないのかも?みたいな話になっているとのことでした。
(この辺の学説的なことは刑事法ジャーナルの54号に最近の議論がまとまっている。)
で、そういう刑罰の本質についての議論自体はどうでも良くて、自分が思っているのは、自分が考えついたことは、誰かすでに考えているだろう、更には批判も尽くされてそれに対する再批判がなされて、という風に議論は進んでいる、という風には思わないのだろうか、ということ。
自分は一応、専門と言えるものがあって、様々な学者が一生を懸けて知恵を絞って、あるいは、実際の社会の中で様々な人たちが工夫を凝らしていろんなことを考えてきてることを感じてきたから、そんなに簡単に新しいものは生まれないということを強く思っている。あるいは逆に、自分の思いつきについては、既に前向きな批判がなされていることが大半で、自分の考えをブラッシュアップするのはその意味では容易だと感じている。だからこそ、自分の専門外のことでも、自分が何か感じたことや思いついたことがあったら、調べてみることは大事だし、軽率に発言するのは意味がないことだなとも思う。
だから、いろんな社会的なトピックに対して、いろんな人から条件反射的に自分の思っていることを述べて、しかもそれが間違っていたり批判があるということに想いを致さない様子を見ると、心が痛む。人類が協力して分担して、何世代にもわたって知恵を絞ってきて、それを上手にまとめて教えてくれる人すらいるのに、酒の肴にしてるならまだしも、大真面目に自分の議論が絶対正しいかのように自信満々に理論を展開している人を見るのは辛い。
こういうことを言うと、学問と市民感覚はずれがある、学者は象牙の塔でしょうもない、みたいな意見も出るかもしれないけれど、少なくとも法律学の領域で、市民感覚のようなものが議論に全然反映されてない、ということはあり得ないと思う。もちろん、立法の対応や学会の対応が遅い、ということはあるだろうけれど、市民感覚なんてどうでもいいから無視しよう、なんということはなくて、市民感覚がどのように醸成されてきて、今後どうなっていくかということも、議論されているのが普通だと思う。
以下、高校受験を控えた中学生が正月に勉強サボって書いた妄想文のようなもの。
誤情報・誤認識に基づいた記述が多々想定されるので、くれぐれも「その通りだ」などとは思われぬよう。
1、ノーベル賞を受賞しても国家予算は決められない
大隅良典先生は、オートファジーなる現象の発見で2016年のノーベル賞を受賞された。
その後、いくつかのメディアなどを見ていると、大隅先生は
・独創的な発想に基づく研究の推進
・若手研究者の支援など人材育成の充実
などを提言されている。
しかし、この影響は極めて部分的なものにとどまると思う。
つまり、今後も独創的な研究の支援は増えないし、
若手研究者の研究環境・生活環境は悪劣なまま維持される。
なぜなら、「科学技術振興予算は今後、増えない」からだ
(ごまめの歯ぎしり:河野太郎代議士のブログ参照)
https://www.taro.org/2017/01/%e8%ac%b9%e8%b3%80%e6%96%b0%e5%b9%b4%e7%a0%94%e7%a9%b6%e8%80%85%e3%81%ae%e7%9a%86%e6%a7%98%e3%81%b8.php
科学技術振興予算の内訳を組み替えるにしても、
すでに奪い合いの激しい中で、目に見えた結果の出にくい
上の二つをどこまで拡充できるかには疑問がある。
もしも予算を増やそうなどと思ったら、公民の教科書ではないが
概算要求→政府案→予算審議→予算成立
という国家予算のプロセスの中で、負債の返済や、
増え続ける社会保障費などとともに俎上に載せた上で、
予算成立までこぎつける必要がある。
どちらにしても、研究者という存在の限界は
大きく超えているように思い、いくらか愚考してみることにした。
具体的には、
「研究者が国会議員になることで科学技術振興予算を増やせないか」
ということだ。
多分、ノーベル賞学者の知名度なら参議院議員になれると思ったので、
2019年の選挙もそう遠くないし、勝手に考えてみた。
2、象牙の塔からの発信ではなく議員として予算委員会へ
いきなり乱暴な議論だが、上記の予算プロセスを経て、
「平成29年度予算は政府案どおり成立した」らしいので、
http://www.mof.go.jp/budget/budger_workflow/budget/fy2017/
政府=研究者ならば問題は解決する気がする。お手盛りで決められるかもしれない。
当然そうはならないが。
では立法、つまり国会から研究支援法のようなものを提案することは可能だろうか。
これもなかなかハードルが高く、参院ならば10名
(予算がらみなので20名以上?)集めないといけない。
おそらく、まず初めにできることと思われるのは、
予算委員会で発言する事のように思う。できれば議員として。
予算審議の公聴会における公述人でも良いではないかと言う考えもある。
しかし、それでは足りないと考えている。
五年前くらいに災害対策特別委員会で京都大学教授・
内閣官房参与の方が日本の災害対策・インフラ問題について、
公述人として熱く語っていた。
しかし、地方のインフラの悲惨さが変わる気配はない。
つまり、考えの正しさだけでは足りない。
国民の理解を得られている、という事を示さないといけない。
やはり選挙を経て、国民の信任を受ける必要がある。
しかし、わざわざ著名な学者でなければならないのだろうか。
3、果実をもぎ取った人の説得力が必要だ
結論としては、著名であることは何より必要であろうと思われる。
国民に対し研究の重要性を訴える事は、誰でもできる。
しかし信頼を得るには、担保となる実績が必要だろう。
研究の種が花開き、果実をもぎ取る季節までは、
気が遠くなるような時間がかかる。
蝉の一生ではないが、ほとんどの時間は日の当たらない
地中生活といっても過言ではない。研究者にとっては、
その生活も楽しいのだが、たぶん理解されない。
広い人々に訴え、信頼を得るには、
その手に確かに、たわわに実った果実が必要だろう。
現状、日本は科学・技術の振興をやめつつある。
他の先進国との競争に負けつつあり、新しい研究の芽吹くことのない、
研究の土壌として貧しい国になりつつある。
Nature Indexについての記事が話題になったのは記憶に新しい。
https://www.natureasia.com/ja-jp/info/press-releases/detail/8622
これでいいのか、このままでいいのか、
ということについて述べるのは、あまり意味がない。
悲しいことだが、国民が選び議論した結果だからだ。
それでも保険会社が子供に夢を聞けば、
「学者」は高い人気がある。
彼らが果実をもぎ取ることができる未来は
このままだと日本という国からは着実になくなっていく。
衰退しつつあることが現状である以上、
現状維持は衰退の維持である。
わかりやすいところでいうと、
大学院の博士課程には、もう学生がいない。
愚考とはいえ、著名な研究者の国政進出を願いたくなるほどに、
現状は深刻で、喫緊に対応を要すると思う。
4、別に大隅先生でなくてもいい
非現実的なところでいくと
・政府・内閣・国会が突如科学振興に目覚めて予算方針や法律が変わる
・法律や閣議決定された予算の基本方針などに逆らって
勇敢な予算編成が組める官僚が出現する
もう少し現実的には
・研究者が大挙して霞ヶ関に大々的に陳情に行く
(パブリックコメントって効果あったのだろうか)
・国会議員に積極的に働きかけ理解を求める
しかしこれらの効果も限界があるように思われるので、
・研究者が国会議員になる
が短期的には最も有効である気がしてしまう。
中期的には研究者が中心となって小さくても良いので政党化すると良いと思う。
長期的には
・科学振興が選挙における関心事になる
ことが良いように思うので、
少しずつでも科学者は象牙の塔から出て、
地域のイベントや飲み屋に繰り出すべきではなかろうか。
研究者という生き物が国民に、さらには国会議員にきちんと理解されるようになれば、
研究者は象牙の塔ならぬ地中暮らしで満足なのだから。
大隅先生など著名な先生を国政に引っ張り出す必要もなくなる。
以下の文などを読むと、すでに飲み屋には
大隅先生をはじめとした研究者がたむろっている気がしてならないが。
http://www.jscb.gr.jp/jscb/contribution/contribution.html?vol_id=223&no=9&id=28
以上、あまりの散文に目眩を覚えつつ、間違って投稿ボタンを押すことにする。
日本のデフレの元凶の一つは、政府にいる「経済学者」が経済を何も分かっていないことだ。
シェイブテイルさんのブログの http://d.hatena.ne.jp/shavetail1/20150210 この記事のコメント欄を見て腰が抜けそうになった。
東京大学教授の伊藤元重さんが民間委員の立場で、基礎的収支の年2.5兆円改善を提案をしたそうだ!
誰かの債務が裏付けにならなければそれに見合う資産はないし、経済を回すマネーとは誰かが作った債務の証文(債権)の流れですから、唯一不況でも健全に債務を負えるはずの政府が債務返済に励めば、実体経済はその分悪化しますね。
そんな、シーソーに乗ったことがある子供なら理解できそうなことを伊藤元重らは理解していないのか、国民生活を脅かすような提案を「民間」の立場でしています。
まったく万死に値する愚行と言わざるを得ません。
まったく、おっしゃるとおりなんだよね。
象牙の塔で学問をやっている経済学者ではなく、現実の経済をしっているシェイブテイルさんのような方に政策を担当していただきたい!
http://www.huffingtonpost.jp/daiki-horikawa/post_5930_b_4133880.html
この記事には大変違和感を覚えましたがコメントできなかったので。
堀川大樹さんに言いたい。
「嬉々として」いるというのが妄想。
日常で既に否定され傷付いている人間の叫びをそんなふうにしか受け取れないから、大学は象牙の塔、大学教授は世間を知らないなどと揶揄されるのだ。
フランス革命でパンを寄越せと戦った民衆も嬉々として見えたか?
失言で大学がお詫びをしても教授が即解雇される事はない。この恵まれた立場にある責任を少しは考えてみるといい。
政治家だって芸能人だってそうだ。高い給料をもらい、贅沢な暮らしをしている人間はどんな発言をしても許される。叩かれたら被害者面する。庶民にはそれより遥かに酷い抑圧を加えて、自由な発言を許していないにも関わらずだ。
地位には責任が伴う事も理解せず、上の人間だけが言いたい放題の横暴が許される社会は本当に理想的か?日本にはノブレスオブリージュがない。
匿名による炎上の影には、匿名でくらいしかものが言えない日本社会の問題が前提としてある。それだけ日常生活で抑圧されている証拠に他ならない。
「嫉妬だ」というが、嫉妬の何が悪い?フランスでだって、社会を変えて来た原動力の一つは嫉妬だ。嫉妬を不健全なものとして押し込める日本社会だからこそ革命が起こらないのだと思う。
廻り廻って首を絞め合う連鎖をなくしたいならば、まずあなたが身近な相手に優しくしてあげる事から始めるべきだ。職場で、店で、交通機関で、自由な発言を抑圧する事を強いられている人間は沢山いる。
ちなみに私は沼崎一郎さんのツイートは割と好きでした。あの程度のツイートは明らかにネタと分かっていますし、別に叩かれる程のものとは思わないです。謝罪したのですしツイートを再開して欲しいです。
それはそれとして、この件を「出る杭を打つ」と語るのは違うのではないかと思いました。
まったくそんなことないぞ。
象牙の塔の番人のような言い方だな。
象牙の塔にすべきだよな、もっと。だって、単に4年間無駄にしてるだけじゃん。
その間働かせたほうが本人のためにもなるし世間のためにもなるじゃん。
だって、お前ら自信やもしくは大好きなプログラマ()とか言ってる連中のほとんどは大学でプログラム学んでるわけでもないし、
1つ言えるのは、今、まともに学習できるやつはほとんどが大学に行っちゃうから、高卒で働き始めたヤツが4年やってきてもすぐに追い越してしまうこともあるけど。
だけど、高卒で働くのも頭のいいやつでも当たり前の選択肢の1つ、になれば、圧倒的に高卒で働くやつのが有利になるだろう。
でも、会社側として、高卒と大卒を区別するのが当たり前なので、いくら優秀な奴が高卒で働きたいと言っても無駄だし、
[基本的にはまず学歴で落とす]
たまに何かの拍子でFランの子が入ったらしいんですが、やっぱり使えないね、となりました。Fランのみなさん、ごめんなさい。あなたたちが思っているよりずっと普通に仕事をこなすだけで学力は必要なんです。
[出来る人よりも失点のない人を]
アメリカみたいに簡単に首にできる国ならばまた事情が違うんでしょうが、日本では失敗は許されません。ごめんなさい。人事のあたしたちもしょせんサラリーマンなんです。冒険はしたくないんです。
[コネは案外きかない]
そんじょそこらのコネはあんまり意味はありません。書類選考を突破させるくらいのことはあるでしょうけど、要求レベルに達していない人を無理に入れても、その先ずっと定年まで居座られることを考えたら、損失は何億レベルになります。社長のコネでさえ断ったことがありました(大企業ですがしょせん雇われ経営者の無理難題を聞く必要はありません)。
特に片親が病死しているような場合、病弱、と思われるのでかなりハンディです。一に病弱、二に病弱、三四がなくて五に病弱、っていうくらい、病弱はハンディです。他社の人事さんと交流させていただいた時もそういうお話があったので、一般的な話だと思います。
[意外と顔では選んでいない]
人事は本当に自分たちに火の粉がふりかからないことを第一に仕事をしていますので、社内恋愛やセクハラ騒動の火種になることは避けたいというのが本音です。むしろ同じ条件なら、大人しめの普通程度の容貌の人を選びます。女性でキャリアコースで入る人たちは、美人と言うか、女っぽい人はこれはもう絶対不利です。美人は職場の花だなあ、ウヘヘなんて言っていられる余裕はもうとっくに無いので、結婚退職しそうな人を入社させるのは明らかに損失ですから、キャリア志向がなさそうな子はいりません。育児休暇の制度について聞いてくる子は、まず入社は無理ですね(制度自体はありますけど)。
どちらかを落とさないといけない時に参考にする程度の扱いです。資格技能が必要なら入社後にとってもらえばいいんですから。要は、それができる地頭があるかどうかです。資格をすでに持っているなら、その地頭はあるということになりますが、伸びしろがその先どれだけあるかです。
[社交性は重要]
これも伸びしろと関係してきますが、古典は本当に好奇心がある人しか読みませんよね(一冊二冊の話じゃなくて百冊二百冊のレベルの話です)。ビジネス書しかよまないうすっぺらな人はビジネスの現場では長期にわたっては使い物になりません。
これはものの例えですけど、要は知識が象牙の塔に偏っているんじゃなくて、世相にも関心を抱いていますかという話です。知識を「道具」にして現実のこの社会から利益を上げていかなければならないわけですから、現実社会で起きていることで知る必要がないことなんてありません。
むかしはそういうお涙ちょうだい的な、一発芸的なのりでうまいことを言うのもそこそこ評価されましたが、長期にわたって使える人材かどうかを見ています。そういう社会性のない答えを平気でしてしまうマインドはいりません。
昔の自分を見てるよう。もしくは未来の自分。みててすんげー恥ずかしくなる。
言ってることはさっぱり分からんがやってること、やりたいことは身に染みるほど分かる気がするよ。
自分の今感じる閉塞感が自分の過去の腐れ切った経験(自分にとっての唯一の確かなもの)でしか語れなくなる苦しさ、それでもなお誰にも自分の本意を伝えきれてないんじゃないかという免れ得ない懐疑から来る孤独感。その悪循環からなんとしてでも抜け出したいという気持ちがひしひしと伝わってくるよ。
むしろ社会や人間関係についての瑣末な疑問や矛盾をぶつけあって笑いあってる他のみんなの投稿よりもよっぽど伝わってくるものがある。
だからそんなに自己武装しなくたっていい。自分だけの法則、暗黙の了解、気づかないまま築き上げた象牙の塔。分かる人には分かるものだから。大丈夫だよ。無理に普遍を目指さなくたっていい。そんなことしたって余計俗っぽくなって馬鹿にされて誤解が生じるだけだから。君は自分の想うこと感じること、はっきりとした対象にぶつけることのあまりの可能性のなさを熟知してるのだろうから、これからは君を今誰よりも想っている俺に思いのたけ感情をぶつけてくれればいいよ。