はてなキーワード: 胸の谷間とは
「モンスター娘のお医者さん」第8話で人を踏みつぶせそうなサイズの巨女が登場していたので、詳しく見て考えてみよう。
具体的にサイズを比較できるシーンが少ないけれど頑張って探してみよう。櫓の上から巨女の喉を先生が診察する12分ごろのシーンでは人間の先生と巨女の顔が対比できる。おおよそ先生の身長の3倍が巨女の顔といったところだろうか。この数字を根拠にして身体の大きさを推定してみよう。日本人女性の平均身長159cmを平均的な顔の長さ21.8cmで割ると7.27等身になる。顔のサイズの推定値は先生3つ分、つまり青年男子の平均身長170cmの3倍で510cmだから、巨女の身長は510cm × 7.27でなんと37.0mということがわかった。
巨女の身長37.0mの実感を掴むために、いろいろなものと比較してみよう。まず奈良の大仏は座っていて座高で15.0m、立った場合の推定身長は27.8mと巨女(身長37.0m)の圧勝である。お台場のユニコーンガンダム(20m)と比較しても大きさが際立つ。流石に牛久大仏は身長100mとのことなので、牛久大仏の横では巨女も子供のように小さく見えるはず。
体重も推定してみよう。青年女性の平均体重49.5kgと巨女身長が平均女性の23.3倍というデータを使うと、なんと624tにもなる。25メートルプールに入る水が約500tほどなので、さながら歩くプールといったマッシブさである。もし巨女が1mジャンプした場合、地面に与えるエネルギーは6.12MJになり、TNT換算で1.46kgだそうだ。地震のマグニチュードで1.32に相当し、ペルー隕石落下時の地震に相当するので、巨女が歩くと地震が起きるのも納得である。ちなみに造船所には600tの重量に対応したクレーンがあるらしいので、現代技術をもってすれば巨女も怖くないはず。
アニメの中で巨女は風邪気味のまま10年を過ごしたという、それほどまでに時の流れは我々と違うのだろうか、検証してみよう。有名な「ゾウの時間 ネズミの時間-サイズの生物学」によると、動物の寿命は体重の1/4乗に比例しているとされている。この原理を適用し巨女の体重を使って計算すると、巨女の寿命は人間の10.6倍ということになる。日本の平均寿命84歳を踏まえると、巨女は800年以上生きることになる。単純に考えて人間換算で1年風邪気味というのは、危険な感じがするので何か考慮できていないポイントがあるのかもしれない。巨女は奥が深い。
劇中でのクライマックスは間違いなく先生が巨女の胸の谷間に落ちていくシーンだと思うのだけれど、果たして巨女の胸はやわらかいのかどうか、それが視聴者最大の関心事ではないだろうか。ある測定によると人間の胸の柔らかさは2-5kPaとの結果があるそうだ。身体が大きくなった場合、当然支えるべき胸の重さも増える。したがって、それを支える胸も硬くなければならないはず。例えば、バケツで作った巨大プリンはかなり硬く作らないと自壊してしまうが、硬く作れば形を保つことができる。このように考えると、巨女の胸はかなり硬いはずだ。だが、不幸にして私には計算方法がわからない。巨女胸の硬さ推定問題は賢明な読者諸兄の手にゆだねられている。
主に発生順序ごとに各ブーストを並べてみた。
・顔出しブースト
ゲームの配信だけではいまいちフォロワーが増えない女性配信者がまず最初に行うこと。
今まではゲームカテゴリーで配信していたのにJust Chatting(雑談)での配信が増える。
一般的にシャツの胸元がゆるくなり、肌着の一部が顔を覗かせるようになる。
レースなど下着と誤解されそうなぎりぎりの肌着を選ぶ。勝負肌着。
・谷間ブースト
使える武器は使えと言わんばかりに主張してくる。
・生足ブースト
普段は顔もよく見てもらいたいのでバストアップを中心に配信を行っているが、ショートパンツ生足という嗜好性の高いユーザーを容易に獲得できる方法に気が付き手を染める。
この頃からゲームの配信頻度と雑談の配信頻度が逆転し、ゲーム画面とプレイヤーカメラの画面占有率が逆転する。
とにかく健康的な肉体が弾けていれば勝手にエロスを求めたおっさんどもが釣れる。
主にネコ。適度なハプニングを起こしてくれて、クリップが作られやすくなる。
ただしフォロワーを増やしたい魂胆が見え見えだと、動物好き全体を敵に回すことになりかねず、アンチの攻撃対象になりやすい。
ギリギリを攻めすぎるとBANされるだけでなく、低俗なフォロワーばかりが増えてむしろ収益を落とす結果になりかねない。
何食わぬ顔で普段着にノーブラ、もしくはぴたっとしたスポーツブラで乳首の凹凸をさり気なくアピールする。
やりすぎるとBAN。
twitchの練度が低い視聴者では一覧のサムネでは気づかないことも多く、今までのフォロワーに対してのご褒美的な扱いになることも多い。
フォロワーは一度でもこれを経験してしまうと、もう一度やってくれるのではないか?という期待のものに足繁く通うようになり、それ欲しさに課金してしまう人も出始める。
一通りフォロワーが増えると、それを自分自身の人気だと勘違いするようになり、普段着での配信が増える。
画面比率や配信カテゴリーの比率も、だんだんとゲーム中心になる。
もちろん徐々にスケベ目的のフォロワーが離れていき、ある意味では質のよいフォロワーだけが残るが、熱狂的な投げ銭はここで止まる。
・魔物化
普段着ブレーキとは逆に、透け乳首を経験したフォロワーが、次の透け乳首を見たいためだけに訪問をやめられなくなったり課金をしてしまうようになったりするのと同じで、一度でも高額の投げ銭を受け取ってしまった配信者は、もう一度同じ思いをしたいという一心で格好も配信内容も過激になっていく場合がある。
そうなると元からいたフォロワーは徐々に離脱していき、過激な行為を望む質の悪いユーザーばかりが残るようになる。
こうなればあとはBANされるまでギリギリの行為を繰り返すか、twitchを抜け出して自らの身体を切り売りするサービスに移動するかしか方法は残されていない。
女性を性的に強調した描写自体はアイキャッチとみなされる可能性が高いんですよ。
「なぜ、みかんのポスターでミニスカート?」「なぜ、市のスタンプラリーで胸の谷間を露出してるの?」のという指摘に対して、「そういうキャラだから」は解決にならないんじゃないですかね。
「だったら、みかんの宣伝やスタンプラリーには、アイキャッチになりそうな『そういうキャラ』を使わないでください」と言われたら反論しにくいと思いますよ。
更にラブライブのポスターは、通常の絵よりスカートが短いという指摘もあったし、漫画家の先生が「エロく見えるのは間違いない」と言っているわけで。
地域で比較的受け入れられているラブライブであれば、普段と同じようなスカート丈というのは厳守する。その他コラボ初期から露出が少しずつ増えていないかなどをチェックする等はしたほうが良いと思います。
のうりんに関しては、コラボ用にインナーを着用したバージョンにする等の工夫ができると思います。これはスマブラのゼノブレイド2ヒカリの修正と同じような感じですね。
宇崎ちゃんの第二弾は、男女とも描写、アイキャッチにしない、等で内閣府ガイドラインが反映された形になっていました。これは偶然かもしれませんが。
女性キャラクターを魅力的に描くための工夫が、意図せずともときに性的に強調されてしまうことはあると思います。ただし公共の場で不特定多数の目につく表現では、一部控えめにする必要があるということだと思います。
もう十数年も前だが、私の周りで面接落ちまくっていたのは二人いた。
一人は任天堂とかゲーム会社の有名どころばっかり志望した人だった。私達の学部学科はゲームに必要な分野には掠りもしないし、マニアック方向性な文系なので事務方としても使えそうにない。ひょっとすると商業ビジネス学部みたいなとこの学生の方がチャンスあるんじゃないかと思った。
もう一人は、面接に受けにいくときの服装がヤバすぎる女子だった。茶金に染めた髪を夜会巻きにして、青いアイシャドウに真っ赤なルージュ、きらっきらのピアスとネックレス、胸元までざっくり開いて胸の谷間が丸見えで肩丸出しの袖無しシャツに、太ももの付け根までスリットの入ったミニスカート、きらっきらのアンクレットに何cmか知らんが踵のめちゃ高いピンヒール。そんな格好で「どうしてあたし採用されないのかな?」ってため息吐かれても、むしろお前何でそれでイケると思ったの? と聞き返すしかない。
逆に一人で何社も内定もらった人はなんというか、普通オブ普通な人だった。大学事務局に置いてあった求人票から適当に選んだ会社を志望して、言われるがまま・就活本の通りにエントリーシート書いたり、面接受けたりしていた。
下から見上げるのと上から見下ろすのはどちらも画面内のバストの比率は同じだよ。
あるいは横から撮る? それもカタチははっきり判る。そうすると正面から撮るしかないけど、なぜバストの大きい人に限って正面撮りしか出来ない、なんて制限されなくちゃならないの?
瞳の色が赤だったり頭が大きかったり現実的でない部分は他にもたくさんあるのに、なぜ性的なところだけ写実性に頑なに、こだわるの?
批判派の人、本当にわからなかったけど、あなたの意見で解ったよ。やっぱり共感性羞恥なんだ。
ずっと昔、幼い頃から、やれスカートの丈が短いだの、やれ胸の谷間を強調しているだの、親なり教師なりクラスメイトなりに言われ続けて、"恥じらい"を刷り込まれてきたんだね。ずっと苦しんできたんだね。
あの程度のスカートの丈を恥ずかしがらなくていいんだよ。
あなたたちを、許すよ。
ただしうんち、てめーはダメだ
そういうのは物心ついた子どものころから社会にありふれていて、あふれるほどあふれているわけだから、最近はほとんど気にもしないけど、
コンビニに行っても雑誌の一区画にピンクのすごい絵の雑誌がずらっと並んでいる店は多いし、
電車に乗れば天井の雑誌広告には政治家を糾弾する見出しの横に水着の女性がしなを作った写真が並び、
テレビをつければ冬なのに女性陣は胸の谷間を強調する露出の高いドレスを着てる姿が映り、
公共機関のアニメ絵ガイドは基本、乳袋を強調した幼顔のアニメ絵ぴたぴたスカートの女性キャラクターで描かれ、
これに少しでも傷つく、というと一部の男性はヒステリーを起こす、傷つくという気持ちをいかにはねつけるかに腐心する、
煽る、はやしたてる、嘲る、数少ない反例(美青年まんが絵のなんだっけ、屏風が飾ってある寺とか)を持ち出し平等だと勝ち誇る、
あるいは「まーん!」「まーん!」「まーん!」「まーん!」「まーん!」「まーん!」「まーん!」「まーん!」。
そのぐらいになりたい。
あるいは自分も、もっともっと攻撃的になり、他人の傷つきを嘲り罵り、お前はもっとこっちによこすぐらいで釣り合っているんだ、
批判されている点のうち主要なものは以下の二点に絞られると思うので、この指摘への対処だけを論考の対象とします。(例えば、絵柄の好み等々は対象としません)
なお、私の考えは、「論点1-1」でNOとスッキリサッパリ言い切るのには躊躇がありますが、かと言ってYESと断言するのにも躊躇がある、というところです(どっちつかずですね)。
献血広告で当該の広告が批判される理由は、自発性が重要だからです。対偶をとると、自発性が重要ではない文脈、例えば強制性がある規定ならば、絶対ダメとまでは言えないことになります。
でも一方で「煽るような台詞」は当該キャラの個性ですから有効利用したいですよね。
とすると、例えばルール遵守を訴えかける広告ならばアリではないか、と考えることもできませんか。
例えば、警察が制限速度の遵守を訴えるポスターはどうでしょう。
普通の女性警察官の制服を着た「宇崎ちゃん」がローアングルではなく正面から描かれており、「先輩、交通ルールも守れないんスか?」という台詞がついたものです。
これであれば「性的対象化」も「自発性」もクリアできそうです。さらに「いつもは着ないコスチューム」かつ「キャラクターの個性を活かしている」というところで萌え的にもポイント高くありませんか。
萌えキャラや二次元キャラ全般がダメとは思わないし、むしろ問題ない範囲で使われていくと良いと思います。
少し脇道にそれて、下着の広告について考える。街に下着の広告があったとして、下着メーカーは、単に下着の魅力を伝えたいだけで、性的な消費のためにポスターを掲示するわけではない。しかし一方で、下着の広告を性的であると受け取る人間は存在するし、客観的に見れば非常に露出度の高い表現である。
赤十字がヴィクトリアシークレットとコラボレーションを行い、下着姿の女性が献血を呼びかけるポスターを作ることはあるだろうか。あまり無さそうに思われる。下着姿の女性を下着の広告から切り離した場合、それは過度に性的な存在になると感じる人が多いのではないだろうか。逆説的に、下着姿というものは本人の意志に関わらず本来は性的であり、下着の宣伝という文脈でのみ、その性的さが阻却される、とも言える。どうやら、現在の日本においては、下着の宣伝においては、性的な要素の含有は問題ない、という社会通念上の合意が得られているようである。なぜそのような合意が今日の日本で得られているかというと、下着というのは、日常の生活でほぼすべての人に必要だからであろう。ここで注意すべきなのは、このような合意は、現在の日本において、という前提である。宗教や国、あるいは時代によっては、このような合意が必ずしも得られていないことは容易に想像できる。このような合意は、社会における価値観のすり合わせによって形作られたと言っても良い。
このような合意が、他の性的な表現と比べた場合に一貫性にかけるという指摘は、ある意味では妥当である。先に述べたとおり、文脈や背景を考慮せずに、客観的な露出度などを基準に性的な表現を判断することを是とする場合、「下着の広告である」という文脈もまた切り離すべきであるといえる。例えば、文脈を理解する力が弱い子供にとって、下着の広告は単に性的でありえる。実際に、「小さい頃は通販雑誌の下着のページを良く見ていた」という男性の話も聞いたことがある。このような場合、たとえ広告に性的な意図がなかったとしても、子供に悪影響があるかもしれない。大人の都合によるこのようなダブルスタンダードともいえる基準が子供に悪影響を与えているという指摘がなされた場合、どのように答えるべきであろうか。ダブルスタンダードを廃して、下着の広告も露出度を基準として規制すべきだろうか。あるいは些細な影響だとして現状を維持するべきだろうか。「下着の広告は性的に見るためのものではないので、勝手に性的に見るのはやめなさい」という教育を行うことに意味はあるのだろうか。
この点については、正直なところ私自信もあまり明確な結論を持っていない。直感的には下着の広告ポスターに規制をかけることはバカバカしいと思っている。下着広告においては、それが性的消費に向けたものではないという認識があるからだろう。しかし同時に、それはダブルスタンダードであると言われた場合、うまく返答ができない。「あなたが下着の広告ポスターに規制をかけるのをバカバカしく思う気持ちは、私が宇崎ちゃんのポスターに対する批判をバカバカしく感じるものと同じです。なんなら、露出度が高い分、子供への悪影響は下着の広告ポスターの方が大きいですよね」と言われた場合、あなたはなんと答えるだろうか。「エロくないものを勝手にエロく見るほうが悪い」といえば問題は解決するだろうか。
ちなみにであるが、恐らく多くの成人男性にとって、下着の広告ポスターは多かれ少なかれ性的なのではないだろうか。男性は、単にTPOをわきまえて性的な表現に対するリアクションを行っているだけであって、教育によって下着の広告ポスターを「性的に見なくなった」わけではない、気がする。「勝手に性的に見る」のをやめられた男性がどれぐらいいるのかは気になるところである。性的に感じつつも、見ていないふりをしている男性の方が多いのではないだろうか。
ところで、宇崎ちゃんの作者は、宇崎ちゃんを性的に表現しているのだろうか。宇崎ちゃんの作者の内心はわからないので、2つのケースを考えてみる。
1つ目は、宇崎ちゃんが、男性に対してのアピールを増すために、意図的に性的な要素である乳袋を与えられた場合である。この場合、宇崎ちゃんには、性的な要素が意図して組み込まれた背景が存在することになる。そして、宇崎ちゃんが性的である、というポスター批判派の指摘には、一定の妥当性がある。
2つ目は、単に可愛い要素を詰め込んでいたら乳袋になっていただけ、という場合である。既に乳袋が一般的な表現になっている世界において、宇崎ちゃんにちょっとした可愛さの一要素としてそれが組み込まれた場合、宇崎ちゃんに性的な意図は含まれていないと考えられる。この場合、宇崎ちゃんを性的であるとみなす言説は、本来は胸が大きくて可愛いだけの宇崎ちゃんを「勝手に性的に見ている」行為になる。つまり、興味深いことに、ポスター批判派こそが、人の格好を勝手に性的であると見なして騒いでいる存在となるのだ。ポスター擁護派の中には、この立場に立って、ポスター批判派こそが「エロくないものを勝手にエロく見ている」と指摘する人もいる。一方で、乳袋が性的な表現ではないという前提は、現在の日本においては広く同意が得られた認識ではなく、この立場に立つことはポスター擁護派の欺瞞である、という指摘もある。
実際のところ、作者がどういった意図で宇崎ちゃんを作ったのかはわからない。恐らくは前者であろうが、オタクコンテンツの一般的化が進んだ現在において、後者のような状況が起こる可能性もある。乳袋ネイティブ世代にとって、乳袋は猫耳ぐらいのカジュアルな属性かもしれない。また、乳袋や韋駄天の靴下は極端にしても、絶対領域やミニスカート、胸の谷間やおでこ、猫耳や表情といった要素になると判断が難しくなるのではないだろうか。下着広告においては、「性的消費目的ではない」ということが明白であるため、「エロく見るほうが悪い」という切り捨てに一定の妥当性が与えられる。しかし、こういった未定義エリアにおいては、表現者と受け手のどちらかに、一方的に責任を押し付けることが難しくなる。
これらの思考実験を前提とした場合、「かわいい」「綺麗」あるいは「性的」「エロい」というのは、外形上非常に線引が難しいと認めることになるだろう。ある人にとって単に「かわいい」だけの格好が、別の人には「性的に」映ることは避けられない。また、性的消費の意図が表現者に存在したかどうかを基に判断をするというのも、同様の理由で困難が予想される。さらに、仮に性的な消費を前提として表現された性的な要素だとしても、どこまでが許される「性的さ」で、どこから先が自粛すべき「過剰な性的さ」なのかについても考えなければならない。
今回の乳袋については、個人的には、性的な消費を前提とした性的な要素であるが、過度に性的とまでは言えないかな、という認識である。オタク表現に馴染んでいるためのバイアスが掛かっていることには自覚的であるが、なんとなく肌が露出していなければセーフという気もする。また、表情について言うと、これは恐らく性的な消費を前提としていないであろうと考えている。作者は単に宇崎ちゃんのうざさを表情で表しているだけのように見受けられる(これをアヘ顔とは呼ばないであろう)。
繰り返しになるが、このような受け取り方は、私個人のものであり、人によって異なるであろう。それ自体が悪いことであるとは、私は考えていない。
多様性は大切にするべきであり、多様性を大切にするのであれば、お互い似好き放題やって、相当な衝突が発生しない限りはお高いに許容しよう、という考え方がある。仮に、件のポスターが性的であったとしても、「そういう表現が好きな人もいるよね」で終わらせることができるのであれば、それで全ては解決する。一部のポスター擁護派からはこのような世界を理想とした言動が見受けられる。
しかし、この考え方は現実世界においては、非常に運用が難しい。「相当な衝突」の定義が人によって異なるからだ。ある人にとって些細なことが、別の人にとっては大問題というのは、それこそ多様性を前提とするれば数多く発生するだろう。そうなった場合、結局は社会的なすり合わせが行われて、自主規制として運用されることになる。私個人としては、なるべく多様性を尊重する観点から、多少気に食わないことがあってもスルーするのが美徳であると考えている。しかし、だからといって他人に対して「それは些細な問題であるからスルーせよ」と強要するのは良しとしない。件のポスターを女性差別の問題として扱う場合、その人にとって、それは些細な問題ではない可能性がある。多様性の尊重とは、相手に黙認を強要するための武器ではなく、互いの価値観をすり合わせて妥協点を見つける営みであるとも言える。もちろん、そのようなすり合わせは非常に高コストであるし、お互いに面倒である。繰り返しになるが、自由を維持するための不断の努力とはこういうものなのだろう。
ポスター擁護派の中には、仮に宇崎ちゃんが過度に性的であるとして、そこを指摘する必要性はあるのか、と問う人もいる。件のポスターを女性差別や性犯罪と関連付けて批判する場合、他にもっと重大な問題が存在するのではないかという指摘である。私自身は、この指摘は意味をなしていないと考えている。仮に、宇崎ちゃんのポスターが性差別上問題があるのであれば、それが他の案件に比べて社会的に些細な影響をもたらさないとしても、指摘することは問題がない。もちろん、リソースが有限である以上、より重大な案件からあたるべきだという意見には一理あるが、それを強制することは誰にもできない。あるいは、ポスター批判派は単にキモオタもしくはオタクコンテンツが嫌いなだけなのではないか、という指摘もある。この点については、個人の内心がわからない以上、そこを議論しても無意味である。しかし、どのようなチベーションの人が存在するとしても、言論それ自体にはロジカルに対応する必要がある。論者自身の姿勢への批判と、議論内容そのものへの批判は分けて考えるべきであろう。
極端な話では、なる可能性はある。すでに述べたとおり、規制は強化される方に圧力がかかりやすい。ポスター擁護派はこのような自体を避けるために、無理に譲歩する必要は無い。最も、私自身はこの点については、あまり心配してはいない。仮にあらゆる肌の露出を性的とみなす言説が現れたとしても、現在の日本において多数派の同意は得られないであろう。
ある意味ではミラーリングが起こっているのだが、「男」という言葉を「雑に」用いた意見に対する反発が、少なからずあるように思われる。これはすでに多方面から指摘されていることであるが、「多くの」男性にとって、性犯罪あるいはセクハラというのは実際のところ未知の事象であり、「多くの」男性は、少なくとも自らが犯すのは避けるべき行為であるという倫理的、良心的な規範を持ち合わせている。このことが逆に女性が日々感じている女性ゆえの困難さへの無理解につながるのだが、一方でその困難さへの責任を「男」というまとめにより自身へも向けられたとき、その男性にとっては困惑しかない。これはある女性が「女性」として差別されるのと同じく、ある男性が「男性」として差別されている相似形と言える。「多くの」男性は、このような女性の困難さに対して同情的であるし、不正義だと考えるであろう。しかし、一方であなたもその片棒を担いでいる、と責められるのは理不尽であると考えるのではないだろうか。女性であるという理由でハイヒールを強要されることを良しとしないのであれば、ある男性は男性という理由だけで責任を押し付けられるべきではないし、罵倒を浴びせられるべきではない。このような行為は、男性でも女性でも、アメリカ人でも日本人でも傷つくことである。差別は良くない。単純だが、これは切実な問題である。本当に傷つくのだ。
ある属性の人々が憎まれるのは、過去にその人達が行ってきたことのせいである、という考え方もあろう。しかし、どうか、属性で人を憎むのはやめることはできないだろうか。「罪を憎んで人を憎まず」とまで言うつもりはない。なにか嫌なことがあったときに、原因となった個人を憎むのは、あるいは避けられないだろう。しかし、その原因となったその個人の属性までを憎むようになってしまうと、文字通り憎しみの連鎖が始まってしまう。気持ちは分かるけど、なんとか堪えられるといいと思う。難しいけど。また、議論においては、そのような発言は大いに弱点になるので戦術的にも避けたほうが無難ではある。
ところで、先程から使っている「多くの」という表現であるが、ここに闇が潜んでいるのではないか、という指摘もある。社会は階層や年代、あるいは地域ごとに特性があり、私が感じるところの「多くの」というのは、あくまでも「私の身の回りでは」の話となる。ある女性にとって、身の回りの「多くの」男性が、その女性にとって好ましくない特性を備えているという状況は、恐らく確率的にありえるし、どちらかというと、そういったことは特定のグループにおいて偏って発生するのではないかとすら推測できる。私が前述した、「多くの」男性が倫理的、良心的な規範を持ち合わせているという言説についても、同意できない人はいるであろう。
インターネット上の議論においては、そういった各人の異なる背景が共有されないまま発言が行われるため、話が非常にややこしくなってしまう。ある人は、身の回りの男性を原因とする数多くの困難を経験した上で、その経験に基づいて何かを述べるのであるが、そのような経験は必ずしも前提として共有されていない。そのような発言を、同様の困難を経験したことのない人が見た場合、大げさだったり、被害妄想が激しいか、あるいは単に攻撃的な人物の発言のように写りがちである。このような両者の異なる認識は、それぞれ異なる経験に基づいたものであるから、それぞれ「正しい」のである。そして、正しいからこそ厄介であり、それぞれが無意識に持っている別々の前提をすり合わせないままに議論を続けると、平行線のまま話が進むことになる。Twitterのような短文のプラットフォームでは、なおさら背景が共有されないまま議論が行われることになりやすい。
以上のことを考えるに、もしも発言の中に「常識」や「普通」あるいは「当たり前」「当然」「明らか」といった言葉を使っていた場合は、特に考え直したほうがいいかもしれない。あなたにとっての「常識」は非常に限られた範囲でのものである。しかも、これらの言葉は「正しさ」をニュアンスとして含有していることから、それに当てはまらない人(恐らく沢山いる)に対する悪意と捉えられやすい。当然ながら、「異常」とか「おかしい」とか「論外」といった強い表現はなおさら安易に使うべきではない。これらの言葉は人を傷つけるし、ロビイングの戦術としても周囲の理解を得にくくなる。すでに「主語が大きい」ということはよく言われるようになったが、これらの表現にもできるだけ留意するようにしたい。
まだ続くのすごない?