はてなキーワード: 独善とは
久々にネット上に駄文を書き散らしてみようと思う。書く意味などまあそれほどないだろうし読むことにも大した意味はないだろう。読み手を置き去りにした全く持って個人的な独善文章になってしまうとしても別に気にはしない。そもそもこうして無駄な文章をしこしこ作成することもかなり久方ぶりなので、文章の流れも内容も言葉の使い方の端々における配慮チックなものも滅裂になっている気がする。何を書くかなど決めてもいないしイメージすらも浮かんでいない。しかも唐突に「よし、なんか書くか」と思いついてそこそこお気楽なこの増田にやってきたのであって、すぐにでもやる気が尽きてやめてしまうかもしれない。既に書くことを思いつかなくなってきているのだからひどいものだ。下らない脳内垂れ流し文章を習慣的に書いていた時期と比べると、駄文製造能力が著しく下がっていると強く実感する。しばらくものを書いていなかったのだから書くネタも溜まっていそうなものだが、それを引っ張り出してくる思考力ががっくしと落ちてしまっているのだろう。駄文製造業務もしくは駄文製造ボランティアともいえる暇潰しに向かう原動力となっていた、思考が堂々巡りするほどの多種多様な(と言うほど多様ではない)個人的かつ心理的な葛藤が消えたというか減ったというか可視化されてきたというのが駄文を書かなくなった第一要因だと思われる。一言でその葛藤いわゆる悩みを表すならば「将来に対する不安」という漠然としていつつも誰しもが抱えるであろう懸念だ。以前は、自分は将来どうすればよいか、どんな職種に就けばよいか、どんな勉強をするべきか、何をなすべきなのか、などといった殊勝かつ曖昧模糊な悩みをいつまでもうじうじとこねくり回していたのだが、今となってはその問題が眼前に迫ってきていてうじうじと脳内ループする段階から実際に殴りあわねばならぬ状況になっている。それゆえに頭を無用に暖機して見えない未来に備える行為たる駄文製造をしなくなり、実生活での少し先にある未来との殴り合いにおもむくようになったのだと考える。要はかかっていた靄が少し晴れてきて『しまった』ということだ。駄文を製造する暇がなくなっていた、ともいえる。時の流れは恐ろしい。
しかしこうしてノープランで書きつけてみても、意外と心の中やら頭の中の判然としなかった何がしかの一端を言葉にできてしまうのだからやはり書くことの効用というのはあるものなのだろう。読み手にとって価値があるかは関知できないのだけれども。ある程度書き連ねてみてこれまた久々に思うのは、結論というか文章の締めをどうするべきか考えるのがめんどくさいということだ。駄文だから適当でいいですよね・・・。かゆうま。
無断転載のご指摘があり、無断転載した事を素直に謝罪させていただきます。
誠に申し訳ありませんでした。無断転載部分は削除しております。
ことは、事実なのでこのブログ削除しない方向で残しておきます。
ブログは個人の好きな事を書く事ができるので
本人らしき方も好きな事を書いてるではないですか?
違うと思えば違うし、そうだと思えば正解であるでしょう。
このゲームに関して、はてなに課金する必要なしと書いてました。
IDをGoogleやFaceBook等で検索したらご丁寧にディーエヌエーと書いておりました。
現在、日記(怪盗ロワイヤルは課金する必要なし!)は削除されていますが、
記事があり見てみると画面に表示されず
togetterがchromeが固まるくらい重いのと、書いてある内容に同意できてもエタ東となる4時の組み合わせは気分が悪いので、自分用に。
最初に書いておくと、これは特にpixiv擁護ではない。というより、擁護できる部分は特にない。
pixivを擁護したがっている人たちというのがいて、連日出てくる問題を鎮火させようと頑張っている。
カオスラウンジとズブズブだったpixivも悪の企業であると認めず、pixivは悪くない、pixivは俺たちの居場所だ、と信じて自分たちの立場を守ろうとする。(俺正義タイプ)
本の宣伝をしたいが代替サービスのユーザーがまだ少ない。pixivを宣伝用に使い続けるしかないのからpixivを守りたい。(我欲タイプ)
pixivとかユーザーのことなんて全くどうでもいいけど、批判に対して反対意見を言える俺かっこいい。(自己顕示タイプ)
大体想像できる動機はこんなところ。
メンツは固定しているないが、毎度の騒動で発生源となっているtogetterまとめを網羅的に眺めると、誰が鎮火しようとしているのか分かりやすい。
はてブでいうとb:id:sa_tie、b:id:katsura_1、b:id:tailtame辺りが該当。彼らを駆り立てているものは一体何なのか。(なお、エタ東も方向性が違うだけで同類にカテゴライズしている)
もっとも動機が不純だからといって、成すことが正しければ良い結果をもたらすこともあるし、独善が「悪事」としか呼べない暴走を引き起こすこともある。評価は人による。
pixivの新規登録画面は極めてシンプルで、pixiv idの用途については特に記されていない。(※要改善)
登録するとユーザーにはユニークな数字のidが付与されるので、pixiv idはログイン用のみだと考えている人は少なからずいるようだ。
実際にはpixiv id名でディレクトリが作られるほか、スタックフィード(活動履歴)のid、アカウントを共用するpixivブログや、姉妹サイトdrawr(flashで手書きできるサイト)のidとして利用されている。
pixiv idを外部から見られないものとして、個人名を使うなどする人もいて、問題となったことは過去に数度ある。id変更の機能追加をするという話もあったが今のところは実現していない。
今回の騒動の発端となったのはこのpixiv idが画像の絶対パスから参照可能だ、という最初期から判明していたことを何度運営に要望を出しても改善されないまま放置されたことに業を煮やしたことユーザー達のtwitterである。
これを、「最初期から判明していたことだから今更問題ではない」と擁護する連中が現れた。
「idは最初期から漏洩するような仕様で、スタックフィードなどからidを参照することも可能だ」と判っても問題点を把握できないユーザーが多数いたことで、危機の周知は次段階に移る。
「IDとパスワードを同じにしている人は危ない。プレミアムユーザーならクレジット番号などの登録もしているので危ない。」と危険を訴えた。この辺りから「ただの言いがかりレベル」などと鎮火ツイートが広がる。
現在のPCスペックの技術の向上は目覚しく、家庭用でもハイスペックなPCがあれば簡単なパスワードであれば数分~数十分で破ることもできるとされる。
が、それはメモリ内で高速に試行できるローカル環境上の話であって、web上のパスワード認証に対して必要とする時間は全く別物という視点が抜け落ちていて、とても現実的ではない。
だが、総当たりなどせずとも、簡単な単語やIDと同じパスワード、誕生日などであれば簡単にログインできてしまう可能性がある。
それを、「例えローカル上で10万回/秒でログイン試行できるPCでも、web上のパスワード認証に対しては通信とサーバーレスポンスがボトルネックとなって100回/秒程度のパフォーマンスしか発揮できないと思う。並列で大量にリクエストを殺到させればサーバーが落ちるだけだし、そもそも膨大なオーダーのログイン攻撃が仕掛けられれば、突破するより前にファイヤーウォールが異常を関知するか、サーバー管理者が気付く。そもそもイラストコミュニティサイトに対して逮捕されるリスクを犯して潜入したところで、成りすまして暴言コメントを書いたり個人情報を抜く程度で、不正アクセスのリスクにリターンが見合っていないわけで…。」
などと問題点をすり替えて、指摘する側がさも間違っているかのように発言を繰り返す。
大手ポータルサイトや銀行、携帯キャリア、有料ポイントを運用するネトゲなどであればそれなりに堅牢なログイン構造にするのが当然で、既に大手のお絵描きコミュニティ、しかもカードの支払まで行われるサイトにパスロックがないというのが問題でないはずがない。
admin.pixiv.net他に接続するとグローバルIPからでもログイン認証が出てくるというもの。発覚したのは実は1年も前だという。今回twitter等で公になってからも1時間程度は誰もがアクセス可能であった。
あくまでログイン認証画面が出てくるだけで、ID/パスワードが判明したわけでもなく、webのログイン認証に対するブルートフォースは非現実的なのは変わらないが、「外部からadminツールにログイン可能」というセキュリティ意識の無さが露呈し、大騒ぎとなる。
更に話が広まる際には「adminツールが流出した」「バックドアが仕掛けられた」「ログインにキーロガーが仕掛けられている」「アクセスするとウイルスを仕込まれる可能性がある」「今すぐ退会せよ」など虚実入り乱れた話となる。
普通に考えれば、外部からアクセス可能な状態で晒され続けたという事態が発覚した時点でサーバーを落として対策を取るはずなのだが、隠蔽体質に定評のあるpixivが何のアクションも起こさない為、念のためアクセスを控えるよう呼びかける。
「そこまで大事になっているのであればサーバーを落とすわけで、実害はない」などと見当違いな「俺の脳内のpixivのセキュリティ安全神話」ツイートが擁護派から出てくる。
admin.ads.pixiv.orgに接続すると「It workssl!」と表示されるもの。これがapacheのデフォルト表示「It works!」と異なることから、「何者かに書き換えられたか、運営が謎のミスをしたのか」と疑惑が生まれる。
ads.pixiv.orgは広告関連のサーバーのようだが、侵入された場合は他のサーバーも同様に危険である可能性が高く、「個人情報やカード情報が抜かれる危険性もある」と指摘されると「万が一侵入されていても個人情報が流出する可能性は低い」と根拠のないpixivの言い訳を持ち出す。
カード情報は決済代行会社が保存していると運営から「なぜか」一部ユーザーにメールで通知されていたようで、ここまでの騒ぎになっておきながらサイトトップでも発表しないなど、さらに不信感が募る。
「IDが漏洩する危険性がある」という問題点から、罪のないユーザーが被害に遭うことを防ごうしたものの、サービス開始時からの仕様で改善される望みが薄い。
さらに管理者ページが外部から閲覧できたことは、あってはならないセキュリティ意識、にもかかわらず、「批判は的外れで間違いだらけ」というまさに的外れな擁護ツイートが広まる。
ここまでサンドバックになってて何も発言せずパスロックを実装するpixivはある意味凄いが、その沈黙がさらなる疑惑を生んでいることにいつ気が付くのか。
アスペの人はすごくニッチなところで力を発揮できることもありますね、
独善的で、他人の感情に無関心というか、共感性がまるで無かったりする反面で、
地図や図形・数式やグラフを視覚的・直観的に把握・思考できたりするので、
科学や芸術系で活躍している人にはアスペっぽい人が多い気がします
ただ環境の変化が異常に苦手で、些細なことでパニックになったりすることがあり、
(自分は二律背反的な情報が与えられると頭がフリーズして止まってしまいます)
彼がどんなタイプのアスペ(案山子?ブリキ男?ライオン?)で、
どんな能力を持っていて、何ができて何が出来ないのかを何なのかをよく知れば、
魔法など使わなくとも二人の願いが叶うかもしれません?
お前はクズだ。
大学生っていう肩書きはあっても、それに見合っただけの成長をしてるのか?
周りはみんな大人なのに、お前だけ何もできてない。
看板倒れもいいところだ。
肩書きだけで大人になれると思ったら大間違いだ。
周りを見る能力というか空気は感じられるようになったのかもしれない。
前よりましになったのかもしれない。
だけどさ、そんな気休めこっちだって聞きたくないんだよ。
空気わかっても、それをきちんと消化して、空気にあった行動していけるかは別問題だろ?
お前が喋る度に微妙な空気になって、それを解消するのにみんな大変なんだよ。
ずっと一人で、他人を寄せ付けずに、結局はなんか勝手に変なテンションになってさ、
それで勝手に自爆して、自分という存在がいやになったけど、って、でも自業自得でしょ?
自分がやったツケが自分にまわったら自分が嫌になって、逃げ出したくなって、
自分が自分であることがいやで、って無料子供相談室じゃないんだよここは?
お前なめてんのかよ。何歳になって泣き言言ってんだよ?
それでお前の失敗を知らない人と新しい関係を築いて、
それでまた失敗してドロンして…
何の意味があるの?
すごく臆病だよお前。
だから、失敗しても失敗しても学ばない。
失敗したことから逃げてばかりで俺は失敗してないみたいな態度。
いい加減俺も疲れてきたんだけど。
他人の指標で自分のことを測ってるくせに。
他人にすごいね、って言って欲しくて、
あぁ、センスいいね、とか、かっこいいね、とかなんとかいって欲しくて、
色々やってみるけど、でも、それでも、できてないし笑
あまりにもわかりやすいからみんながお情けで言ってやってるってことぐらい理解できないのお前?
それを笑ってネタにすらできない。
自虐はするのに他人に言われるのは嫌なんだね。ホントに独善的。
それで話題変えたいのかなんなのかしらないけど、適当なこと言って滑っては、
ただでさえアレな空気を微妙にしてさ、お前は喋らない方がいいんだ、って。
俺嫌われてるのかな、って、ホントお前何様、ってかお前がその空気作ったんだろ?
たかが1回の失敗、とか、そういうふうに言うけどさ、それが全てだから。
で、ずっと周りにいい顔して、
でも、できてないから。ドヤ顔で俺はこんなにすげえんだ、とか言ってみても、
だからもう金輪際俺のところに来て泣きつくな。
日本で始球式をすることも決まっている、話題のサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。
シリアスゲーム的な考え方だと思った。押し付けがましくなく、それでいて熱意がある。
ダン・アリエリーの「予想通りに不合理」では、行動経済学として人々の社会規範と市場規範に焦点を当て、さまざまな実験を通して規範の適用の仕方を検証している。
サンデル教授はこれまで社会規範の適用されてきた社会に市場規範を適用するという最近の風潮を危惧している。
それは、アメリカのみならず、諸先進国においても同様だろう。GDPでは幸福は測れないということだ。
そうした現状で、公正な正義を一人一人が認識しようとすることは社会の幸福への試金石になるかもしれない。
宮台真司の推薦文にもある通り、サンデル教授はコミュニタリアン(共同体主義者)だそうだが、一部のコミュニタリアンにとっては違和感のある呼ばれ方だそうで、その原因は「正義は個々のコミュニティが好き勝手に定義したものに過ぎないという相対主義的見方を表しているように思える」からだそうだ。
つまり、コミュニタリアンと呼ぶ側(功利主義、自由主義)がコミュタリアンの物語の探求という考え方を見落としているということだ。
NHKの白熱教室を観た方はわかると思うけれど、サンデル教授は功利主義、自由主義、そして共同体主義を実際に起きた問題や思考実験によって人の正義と自由、正義と権利、自由と権利といった問題を焦点に繰り返し問題提議、検証していく。
5章以降のカントの示した人生観やロールズの考える自由は、より具体的で、わかりやすく、刺激的だ。
人生観で特に印象的だったのは、マッキンタイアの「物語の探求としての人生を生きる」という考え方だ。
自由を追い求める考え方は目的論を独善的とみなす。しかし、現実的には人々は人生という物語を解釈している。
自由に選択できることが真の意志の尊重とするが、
物語の探求という生き方は、アドベンチャーゲーム、ロールプレイングゲームのようにマルチエンディングのような、または、SF的な多世界解釈に近いと思う。
そして、それは強烈だ。これからの諸問題との対峙する時、コミュニタリアンの正義に対する捉え方は安易な自由や平等主義よりも解決への熱意を持っている。
サンデル教授は功利主義、自由主義、共同体主義という選択肢を検証し、最終的にトゥルールートとでもいうように納得させる形で共同体主義への道筋を示した。
心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱されたフロー体験というものがある。
フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。
チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
フローを経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。
(フロー:wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC ])
目的論的な解釈や考え方はフロー体験を促しやすいのではないだろうか。
自己実現理論(じこじつげんりろん)とは心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。又、これは、「マズローの欲求段階説」とも称される。
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。
自己超越
マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(self-transcendence)の段階である。 自己超越者(transcenders)の特徴は
1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている
5. 深い洞察を得た経験が、今までにある
6. 他者の不幸に罪悪感を抱く
9. 聡明である
10. 多視点的な思考ができる
11. 外見は普通である(very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。
(自己実現理論 :wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ])
フロー体験や自己超越といった段階は、ただ安易な自由や平等を考える以上に、個々人が社会で生きる目的を認識することが重要であることを示しているように思える。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/feb/01/egypt-tunisia-revoltを和訳しました。
チュニジアとエジプトにおける叛乱では、イスラム原理主義の姿をまったく見かけない。これは注目すべきことだ。民主主義というもっとも非宗教的な伝統にのっとって、エジプトの民衆は、抑圧的な体制や体制の腐敗、そして貧困に対して叛乱をおこしたのだ。そして、自由と経済的な見通しを求めたのである。「アラブ諸国にあっては真の民主主義的センスは少数のリベラルなエリートのみに存在し、それ以外の膨大な数の大衆は、宗教的原理主義か、さもなければナショナリズムによって動員されるだけである」という西洋のリベラル派が持つシニカルな知見は間違っていると証明されたのだ。しかし、大きな疑問は残る。次に何がおこるのか?政治的な勝利者として、誰が登場するのか?
チュニスにおいて臨時政府が成立したとき、臨時政府はイスラム主義者と急進派左翼を排除した。これに対する独善的リベラルの反応はこうだ。「よくやった。奴らは基本的に同類なんだよ」。同類、すなわち両者とも極端な全体主義者だということだ。しかし、それほど単純なものだろうか?イスラム主義者と左翼との間には長年にわたる反目が存在しているが、それは存在しなかったとでも言うのか?もし仮にイスラム主義者と左翼が体制に対抗して一時的にせよ団結したとすれば、彼らはひとまず勝利するだろう。しかしその団結はすぐに元通りに分裂し、彼らは死闘に身を投じて、より残虐に振舞うのだ。
去年のイラン大統領選で、我々は今回のような戦いを目の当たりにしなかっただろうか?ムサーヴィーを支持して立ち上がった何十万の人々は、自由と正義を掲げたホメイニ革命はまだ継続中であるという人々の夢を表していたのだ。たとえその夢が非現実的なものであったとしても、それは政治的・社会的構想力の息をのむような爆発や経験の組織化、そして学生と一般市民との間の討論を導いたのだ。こうした社会を変容せしめる法外な力の解放のはじまりは、体制派のイスラム主義者が統治権を奪ったことで、次第に抑えつけられていった。
原理主義者による運動だと明らかな場合でも、その運動の社会的構成を見落とさないように注意すべきだ。タリバンは普通、テロにより支配を押し付ける原理主義的イスラム主義者の集団だと表現される。しかし、2009年の春、タリバンがパキスタンのスワット渓谷を占領していたころ、ニューヨーク・タイムズはタリバンが「富めるわずかな地主とその小作人たちとの間に広がる深い亀裂につけ込んだ階級闘争」を工作したと報じた。タリバンは、農家の困窮という「アドヴァンテージを得て」、ニューヨーク・タイムズが言うように「広範にわたる封建制を温存するパキスタンに対し危機を警告した」のかもしれない。もしそうだとするのなら、パキスタンやアメリカのリベラル民主主義者が同じように困窮という「アドヴァンテージを得て」、小作農を助けようとしないのはなぜなのだろうか?パキスタンにおける封建的勢力こそが、リベラルデモクラシーにうってつけの同盟相手ということなのだろうか?
これらから導かれる当然の結論は、次のようなものだ。すなわち、急進派イスラム主義者の台頭は、イスラム教国における世俗的左翼の消滅と常に関係がある。アフガニスタンは今は強固なイスラム原理主義の国と考えられている。しかし、40年前のアフガニスタンは強固な非宗教的伝統に則った国だったのであり、ソ連とは無関係に、独自に共産党が力を持っていたのだということを、誰か憶えているだろうか?そして、こうした非宗教的伝統はどこへ行ってしまったのだろうか?
こうした背景をふまえたうえで、チュニジアやエジプト(そしてイエメン、さらにはきっとサウジアラビアでも)で進行中の出来事を読み解くことが重要だ。もし現在の状況が、旧体制にリベラル風の彩りを付け加えるだけに終わり、結局は旧体制を生き残らせ、安定させてしまうとしたら、原理主義者による逃げ場のない反撃を生み出すことになるだろう。リベラルという遺産を生き残らせるためには、リベラル派は急進派左翼からの支援を必要とするのである。話をエジプトにもどすと、今回の件で最も破廉恥かつ危険なまでに日和見主義的な反応を見せたのは、CNNの中継放送に登場したトニー・ブレアだった。「変化は必要です。しかし、それは着実な変化であるべきなのです」。今日のエジプトにおいて、着実な変化とは、政府中枢の人数枠をわずかに増やすという目的にもとづいて、ムバラク勢力との妥協を図るということを意味するだけなのだ。このようなわけで、エジプトの平和的推移という語りは、鼻持ちならないのである。敵対者を押しつぶすことによって、ムバラクは自身に敵対することを不可能にする。抵抗する市民に対してムバラクが軍隊を派遣して以降、選択肢は明確になった。ほとんど何の変化もない中でのわずかな変化という見掛け倒しの変化か、真の破壊か。
ここが正念場なのだ。10年前のアルジェリアでは、自由選挙の容認によって権力がイスラム原理主義勢力へも平等に分配されたが、今回もそうなるというわけではない。もしムバラクが去った場合、体制を引き継ぐことができる組織的な政治勢力が存在しない、というのが、リベラルの一方の心配の種だ。もちろん、そんな政治勢力は存在しない。ムバラクは、つまらないことに対する反対意見であっても、反対意見であればすべてを却下することを通して、そうした政治勢力を始末してきたのだ。その結末は、アガサ・クリスティの著名な小説のタイトル、「そして誰もいなくなった」を思わせる。ムバラク自身やその混沌とした政治をめぐる議論は、ムバラクに敵対する議論なのだ。
西洋のリベラル派の偽善には仰天させられる。彼らは公然と民主主義を支援してきたのだが、宗教のためではなく、非宗教的な自由と正義のために人々が暴君に対し叛乱をおこすと、彼らは深く懸念を示したのだ。なぜ懸念するのか。なぜこの自由のチャンスが与えられたことを喜ばないのだろうか?今日、これまで以上に毛沢東の古きモットーが適切だ。「天の下に混沌、絶好の機会」(訳注)。
さて、ムバラクはどこへ向かうべきか。答えは明白だ。ハーグへ向かうがよい。ハーグの国際司法裁判所に着席するにふさわしい人物がいるとしたら、それはムバラクその人なのだ。
訳注:毛沢東のモットーについてはhttp://bit.ly/eSBrn9を参照。
世界には半分くらい女がいて
その中の成熟した大人で生理あって生殖機能があるのが半分くらい。
見た目は女の形してるけど、元増田や他の男性の皆さんと性別しか変わらない人間なのに
男と寝たことあるという事実だけで性生活感だけじゃなくてその女性の人間性を否定して掛かってる頭の悪い「処女厨」が居るから
普通に処女が好き、っていうのが言えない世の中になってるだけじゃないの。
肉好きとかベジタリアンとかそう言うのと一緒なんだから処女好きの人は胸張って生きていきなよ。
ただ、誰か女の子の(恋愛に関わらない)友達が出来てその子に結婚するまで女は処女であるべきとか、
好きで好きで苦しくなるような相手が処女じゃ無かったりしたときとかに、罵倒したり強制したりする権利はない。
それはその人の人生なんだからそこまで介入するのは人として頭が悪いというか性格が悪いし、独善的。
なんで君はこんな遅くになって、こんな手紙をよこすのか、そう君は思うのだろうね。理由は単純だ。君が自己満足の為に僕に書いて、僕によこしたように、僕も自己満足の為に書いて、君に送る事にするよ。それにあたって、ただ一つお願いがある。どうか返事を書かないで欲しい。僕にとって君との関係はキラキラとした美化され、風化された思い出というよりはむしろ、呪いや呪縛に近いのかもしれない。僕は君との関係を思い出す度、罪悪感に苛まれるんだ。この行為は別の言葉に変えるならば、償いに近いものかもしれないと思う。無論、こんな自己満足の手紙を送った程度で、僕の行いは贖われるとは思わない。
最初に謝っておきたい。僕が非常識な行いを行ったのは重々に承知しているし、そのことを忘れた事なんて一度もない。あれは責められるべき事だったと思うし、君がそう判断するのももっともだと思う。君は疑問に思うだろう。なぜ何もしなかったのかって。率直に言うと、君の中に抱いている僕と、実際の僕自身の落差に驚き、その砂上の楼閣を維持すべきか逡巡したあげく、何も選び取ろうとしなかった、つまりは自分が傷つきたくなかった、そして君に対して臆病だった。
僕は確かに、友情以上の意味を込めて、好きだ、と言った。そんな言葉を言ったのは生まれて初めてだった。その時の君の表情の移り変わり、春の穏やかな周りの風景、部屋のオブジェ、机に彩られた食事。全てを色鮮やかに思い出すことができる。君の手を握ったときの、ちょっとひんやりとして、僕よりも小さな、可愛らしい手の形や、僕の一挙一動にあたふたしてこじんまりとした小動物のようにコミカルでコケティッシュな君の仕草は、今でもまるでそこでの一部始終が8ミリビデオで撮られていたかのようにを鮮やかに思い出すことができる。そこで僕は確かに好きだと言った。しかし、本心では無かった。僕はしばしばそういった必要もないのに、そういった類の愚かな過ちを犯す事がある。しばしば、僕は人に嫌われたくないと思う余り、本心から乖離した行動をとってしまう事がある。そしていつも後悔する。学習しないのだ、僕は。それにしても僕はあまりにも軽率だったと思う。
君との関係を継続していく気がなかったと責められていても仕方がない。僕は君が思うほどに倫理的な人間でもない。君が思うほどに、自分が何か価値のある人間だなんて今の際まで思ったことは一度もない。世界からある日突然僕が消え去ったとしても、多分何の変哲もなく世界というものはそれまでと変わらぬ歩みを続けるのだろう。君はそんなことないって言ってくれたのは、とっても嬉しかった。それでもこの考えは変わらない。でも、あんなにたった一人の人について想いを巡らせたのは、初めてだったと思う。僕の周りの人間は、喩えて言うのであれば旅の途中にふとすれ違う、街角の風景みたいなもので、人生の短い時間を共有しては、時間という川の流れに押し流されるような、刹那的な存在だった。僕はそのまま、生涯孤独のままに生きていくのだろう、そう思っていたし、君に会うまではその考えは揺らぎすらしなかったんだ。それは僕の土壌の中に大きく根を張って、巨大な木へと成長していた。
君みたいな人間は初めてだった。君とのメールでのやりとりはとても楽しかった。君からメールが来る度に、思わず口笛を口ずさむほどに嬉しかったし、この時間が永遠につづけば、なんて今考え直すと陳腐な事を考えた。傍から見たら馬鹿げているのかもしれない。でも僕にとって君と僕との関係は、それこそ実存をかけた問題だったし、真剣だったし、真摯にとりくまねばならないことだった。君みたいな素晴らしい理解者を得られた事は、多分神様の贈り物だったんだって心から思うんだ。なんでそんな得難い関係を保っていた君から僕は離れていったのだろうか。聞くに耐えぬ理由だと思う。君はそれを聞いたら怒るどころか呆れるだろうから。無論、なんの矛盾も抱えていない人間は世の中にはいないだろうけど、それにしたって限度がある。僕は矛盾した人間だとこの時ほど思ったことはない。
僕はあれほどまでに苦しめた僕に対する過剰な信頼と、敬意と好意と愛情を・・・失うのが怖かったんだ。だから僕は結局言うに言えなかった。だってあんなに手酷い別れになったにも関わらず、最後にこんな綺麗で美し過ぎる手紙を受け取っては、返そうにも返事が出来なかった。それを行う事は、恐ろしく酷いことのように思えたんだ。知らなくて良い事もある。もちろん、率直な想いを打ち明けるという選択肢もあったけれど、僕はそれを選べなかった。これが君に対するせめてもの償いなのか、それとも病的な利己心のなせる業なのか、僕には分からない。ただ君はとても悲しんでいるに違いないだろうし、その上に辛辣な言葉を浴びせる事は、もはや暴力であり、君に対する最大級の冒涜なんじゃないかと躊躇してしまったんだ。
君の言動に違和感があったわけじゃないんだ。君はメールのやり取りを介して、僕が想像した以上に君らしかった。どこか、違うだなんて違和感を感じた事は一度たりとて無かった。ああやっぱり、まさか君はそんなことで僕が君を諦める、なんて思わなかったんだろうね。だからこそこの言葉を言うのが辛い。一年以上もの間、君に返事の一通さえも出せなかったのは、とりかえしの無い事をしてしまったという罪悪感と、なんて空疎な事に時間を費やしてしまったんだろうという虚無感から逃れるためだった。
誤解しないで欲しい。君が空疎だとか、薄っぺらいとかそういう意味じゃない。むしろ逆だ。無邪気で純粋な君に接しているうちに自分のどうしようもなく矮小な部分や目を覆い隠したくなるような恥部を覗かれる恐怖に怯えて、逃避しただけの哀れな男なんだ。
恐ろしく動物的で、独善的で醜い。僕は自分自身のそういったどうしようも無く、醜くて矮小な自分自信を受け入れることができなかったんだ。だから僕は君との関係を拒否した。逃避した。切断した。逃げ出した。
僕は君と付き合う、その可能性ももちろん考えた。それは一見とても素晴らしい事のように見えた。だって僕の短い人生の中で、これほどまでに心を通わせる人なんていなかったから。君を失ってしまう事はとても辛いことのように思えた。でもそれは出来なかった。僕の心が拒否していた。君は僕といつまでも過ごしていたかった、そう言ったね。でも僕はそうじゃなかった。あの空間がとても-そう、とても重苦しいものに思えたんだ。心に重石が乗っかったようだった。いつまでこの狂った芝居を演じなければならないんだろうといっぱいいっぱいだった。帰りの電車の中では今までに経験したことのないほどの疲労感が襲った。
君がセクシャルマイノリティであることや、君の家庭環境とかに、違和感を感じていたわけじゃない。そういう人間がいたって可笑しくないとは思うし、僕はそこまで差別的思想に凝り固まっているわけではない、と信じたい。理由はもっと別のところだ。多分、僕がもっと思慮深く、善良でもっと本質的に物事を考えられるのであればこんなことにはならなかったと思う。しかしながら実際の僕は君が考えているほどには素晴らしい人間ではなかった。
しかしながら、結局のところ差別主義者と誤解されざるを得ないような酷い最後になってしまった事については、釈明のしようもないと思う。君を尊重すべきと考えるならば、それは絶対やってはならない類の行動であったし、今でももっといいやり方があったんじゃないかって思ってる。結果が似たようなものであれ、それに至るまでの課程が全く違うものであれば、たぶん、君もこんなに傷つくことは無かっただろう。
君がとても辛い人生だったのは察するに余りある。出来ることなら傍らにいて、君といつまでも一緒にいられれば良かったのだけれど、恐らく僕では分不相応だったのだろう。あのときは悲しみに暮れていたかもしれないけれど、僕なんかよりきっと素晴らしい伴侶が見つかる事を確信している。君の本質に触れれば、君ほど繊細でピュアな心を持ち、尚且つ魅力的で素敵な人間なんて早々いるものではないということを理解できるだろうから。この手紙が自己満足なのは言うまでもないが、君の幸福を祈る気持ちだけはどうか理解してもらえたらと思う。君の存在は唯一無二のもので、僕にとって特別であることはこれからもずっと変わらない。これからの君の人生が幸溢れるものでありますように。
よくわかった。
ただ俺は最後にこうも書いている。
ただ、そういう家柄を国家の補助のもと税金を大量投入して残す必要があるのか? という論議は、またどんどんすればいいと思う。
だから俺は天皇制云々はシステムの問題としていろいろ議論してもらえばいいとして、尊敬の念を忘れてはならないと言っているのだ。
天皇を崇めている人の神経がわからない。なんでただの「人」をああも崇拝できるのか。神様だと思ってるの?いちいち敬語とかつけて、あほみたい。
こういう主張から天皇制廃止に飛躍しているのだと思ったから、俺はもう少し他者に敬意を払うべき、ということを言いたかったのだ。
元増田の意図を取り違えていたのだから、元増田の求めるものに対しては結果的にずれた主張になってしまったのだと思う。
これはねえ。
難しいな。
確かに言っていること自体はおかしくない、間違ってないとは思う。
しかし、そんなに色濃くないとは言え日本には儒教精神のバックボーンがあるし、年長者を敬うべきとか、そういう慣習がある。
その点からすると、増田の言っていることは、間違ってはいなくとも、広く日本で受け入れられる考えか、と言えばそうではないように思う。
というか、俺を含む人間で、受け入れられないと思う層は必ずいる。
天皇は色々仕事をする→尊敬されるべき→天皇制っていいね→(天皇は色々仕事をする……
↑このサイクルができてるわけでしょう?このサイクルを除けば実際、天皇制を支えるものなんて迷信によって支えられてきた歴史の「過去」しかない。
そのサイクルが尊敬を生み出す、と言いたいようだが、それだけでは絶対にない。
歴史の「過去」しかない、と言っているがその歴史こそがもっとも重く、最も尊いものだと俺は思う。
つまりまあ、ちょっと飛躍するけど、功労者って言われて何年も働いてないのに高額契約する野球選手もいるでしょう。
すっかり変わってしまった元彼女ではない、かつての優しかった彼女のことばっか思い出して行動するやつもいるでしょう。
そういう感じで、いま働かなくなったから何十年かですぐさま尊敬に値しない一族になるとは俺は思っていない。
歴史上の偉人の末裔は尊敬していいと思うし、日本で一番高貴な血筋を保っているのだ。
他国の歴史では権力構造が変わるときに前王室を虐殺して、自らが王になることが多いのに対し、日本ではそのようなことは行われなかったのだ。
日本の権力者は天皇に自らを高官に任命させる、または天皇の子を娘に産ませる、それしか考えていない。
天皇家を虐殺して自ら天皇になろう、という発想のものがあらわれたっておかしくはないのに、だ。
あとついでに全然論理的じゃないことも書いて申し訳ないけど、俺は権威主義なんだ。
だから現在も続く徳川家の末裔だって、いまや民間人だけど俺は尊敬する。
こういう考えの人も、少なくはないと思う。
学会の開会式に皇太子来るって聞いたら、見にいきたくなるじゃん? というか、行ったしね。
論理的じゃないことをさらに書いて申し訳ないけど、天皇家は問答無用で、制度によらず、尊敬すべき家柄だと俺は思っている。
ただ、税金をどの程度使うか? 大臣の任命権などの社会的役割をどう扱うか? などの天皇制については、廃止を含めて議論したっていいと思う。
しかし、廃止するのであっても、家や伝統の維持のために、小額の補助を出すことくらいは、認められてもいいんじゃないかと思っている。
ただでさえアイデンティティを失った日本人が、これ以上失う必要はないのだから。
元増田の言いたいこととかみ合う部分は最後の三行だけになって申し訳ないです。
アイコさん障害児っぽい風貌だけど。
それを嫌うだけで認めないっていうのは、どーも格好悪いっつーか…建設的じゃないと思うんだ。
排他主義の権化みたいな体制の中国が経済、軍事で世界を席巻しようかという今のご時世をもう少し鑑みて頂きたく存じます。
韓国も同様、外国人(主に日本人)を卑下し排除しこき下ろし、その結果一部からは経済や技術分野等で日本を追い抜こうとしている、いや既に追い抜いた、などと論じられるほどに成長しました。
これは大いに注目すべき点だと思います。今日本が這い上がるために彼らから学ぶべきは、その排他性、独善性、攻撃性である事は論を待たないでしょう。彼らと逆の方向を進むのは衰退の道です。
こういうのを独善的というのだろうか
超金持ちになって、貧乏な人にどんどん金を配りまくればいいんじゃね?
医療機関とか学校とかもガンガン建てまくって、みんなタダで行けるようにするとか。
金がないのが原因で不幸になってる人は救えるし、自分も死ななくていい。
なんかねぇ、自分が犠牲になって全人類を救うって、ヒロイズムに酔ってるだけなんじゃないの?
その上、そのヒロイズムに乗れない奴は悪だ、って他人に犠牲を強いる考え方が独善的でサイアク。
すごく小さな話に変換すると、例えばお前が赤字垂れ流しで潰れる寸前みたいな会社にいたとして、
上司から「お前が毎日10時間くらいサビ残したら会社潰れないで済むよ、でもお前は過労死しちゃうけど」って言われたら、
それで同僚にも同じようにサビ残させようとするのか?
俺がそんな状況に置かれたら、定時に帰って転職活動するけどね。
たかがコピペ相手にそこまで憤慨している増田が怖すぎる。 思い込みが激しすぎるというか、独善的というか。 リアルでこんな人と関わりあいたくねえええええ. Permalink | トラックバック(0) | 23:34 はてなブックマーク このエントリーのブックマーク ...
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増田俊樹
増田塾
増田都子
増田 b'z
長年付き合った彼女とひょんなことから別れてしまい、
その寂しさを埋めるべく、とても安易に、簡単に新しい彼女を作った。
新しい彼女は中々頭のよろしくない子で、
やれ「昔の浮気相手(?)からヤラないか…と誘われて困る」だの、
「私の事が好きじゃないから仕事を優先するのね…」だの、
そんな事付き合って一ヶ月の彼氏に言うか!?
(それともこれが普通なのか?良く解らんよ女は)
まぁ何が言いたいかというとだ、安易に物事は決めちゃイカンということだ。
多少は吟味をしよう、何事も。
往々にして僕は簡単に手に入るものへ安易に手を出してしまいがちだけど、
それがとんでもない毒りんごって可能性もあることを理解しよう。
さて、どうやって別れるか思案中。
その考えはキライだ!っていうのが一番いいのかどうなのか。
ただ何らかの形でガス抜きをしたかったの。
なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?
しかし、例えば僕などは日記をみてもらえれば判るようにキリキリ監督に尋常ではないレベルの妬み・嫉み・恨みを抱いているが、それとこれとは別で、「CASSHERN」という映画じたいは素晴らしく面白い!と手放しで絶賛してるし、一発目でいきなりこんな凄い映画を作れてしまう紀里谷監督はリアルに天才なのでこれからも凄い映画を作り続けてほしいです!と応援してしまうのである。
つまり嫉妬の要素というのは、この際、さほど重要ではない。
CASSHERNは、人間の感情の、何かこうクリティカルな部分を直撃する映画なのだ。それゆえに、そのクリティカル・ヒットを受容できる人はハマるし、受容できない人は切れるのだろう。(受容はできるけど、もうこの手の話は飽きた、という人もいるだろう。しかしそのような人は、呆れ果てることはあっても、切れたりはしない)
CASSHERNのクリティカルさというのは、そう、ブライのセリフに集約されている。
「つまり、憎しみとは、人間也!」
さらに、キャシャーンはキャシャーンで、「人間が生きていることじたいが、人を傷つけることになる」という意味のモノローグを語っている。
・人間は、生きていることそれじたいが罪悪だ(原罪論)
これはキリスト教的な「罪」の論理であり、無神論が主流の日本では受け入れられる余地の少ないテーマといえる。性善説がベースとなっている日本でいきなり「お前の存在じたいが罪だ」といわれれば、切れる人が多いのも当然だろう。しかもこれ、漫画映画である。「敦煌」とか「砂の器」じゃないのである。アニメだよ、キャシャーンだよ。なんで漫画映画で、そんな説教されんといかんねん!という人もたくさんいるはずだ。
しかも、紀里谷は、これらの作品のテーマを、役者にセリフとして語らせてしまうのである。これがまた、この類のテーマを受容したくない人にとっては、許しがたい行為なのである。セリフで語りさえしなければ、スルーできたはずだからだ。人間は、自分の見たいものしか認識しない。従って、通常、映画を観ていても自我を脅かすようなテーマが提出されても、その部分を認識せずにフィルターをかけて消してしまうことができる。しかし、「言葉」で投げつけられてしまうと、そうはいかない。紀里谷は確信犯的にこの映画を観た全ての人間に
「憎しみとは、人間也!」
というテーマを強制的に植えつけることによって、この映画のテーマを曲解される可能性をふさいでいるわけだ。
このテーマを容認できない人にとっては、監督の独善、ということになるのだろう。
伊勢谷友介が演じる東鉄也は、一度死ぬが、LCLのようでもあり命のワインのようでもある赤いプールに肉体を沈められることにより、再び復活する。この赤いプールの中で行われる復活劇は、あたかもパプテスマのヨハネによる洗礼の儀式のようでもある。この復活により、鉄也は自らを救世主キャシャーンと名乗ることになる。もちろん、上月博士や三橋達也演じる老医師、鉄也の母みどりの幻影などが、復活した鉄也に「君の復活には、何か意味があるはずだ」「この街を守れるのか」「人々の争いを止めるのです」と、鉄也を救世主の道へと導こうとアシストするわけである。
しかし、鉄也は救世主キャシャーンとなっても、奇跡を起こすことはできず、人々はみな挫折して死ぬ。そして鉄也自身も傷つき、血まみれとなっていく。鋼鉄の扉の隙間からバラシンに刀で心臓あたりを抉られるシーンは、あたかも十字架にかけられたイエスのごとくだ。
しかもキャシャーンは抽象的に人類の業を贖罪するという存在ではない。鉄也自身が生前、殺人という罪悪を犯しているのだ。「反戦映画」ともうけとられがちなこの映画は、実は、戦争だけに反対している映画ではない。「人間存在そのものが罪だ」というテーマをもっとも端的に表現できる場こそが戦争という極限状態なので、戦場における戦闘の結果としての殺人という光景が何度も繰り返されるのだ。
が、この映画の恐ろしいというか念入りなところは、懺悔したはずの鉄也がさらにダメ押しともいうべき父殺しという罪を背負うことである。母親を寝取り、父を殺すというのは、いうまでもなくエディプス・コンプレックスなのだが、鉄也は最終的に父殺しを達成することによって、人類の原罪をことごとく背負って自殺することになる。
では、鉄也の懺悔は無駄だったのか? そう、無駄だったのだ。この映画のテーマは「憎しみとは、人間也!」なのだから。従って、鉄也は、キリストの如く原罪を背負って血に塗れ、死んでいくしかないのだ。キリストと違う点は、人類の原罪を肩代わりしたのではなく、自ら原罪を犯して死んでいくという点だけだろう。もちろん鉄也は単なる殺人犯というわけではなく、「戦争」や「愛する人を殺した殺人犯への復讐」といったどうしようもない事情がある。決して、悪意で殺人を犯したわけではない。人間存在そのものが悪なのだから、生きる限り、どうにもならない、どうしようもないのだ…したがって、救世主になるべくして復活させられた鉄也の地獄巡りは、ドアーズの「The End」の如く、母を寝取り、父を殺して完結する。「地獄の黙示録」を参照するまでもなく、フロイトの絶対的な影響下にある現代のキリストは、エディプス・コンプレックスの持ち主でなければならない。フロイトによれば、エディプス・コンプレックスこそが、人類の原罪意識の大本にあるのだから。
さらに、鉄也の父親・東博士が下層階級の出身であったことも最後に明らかになる。東博士は下層階級出身でありながら、政府側について少数民族を抑圧する側にまわり、最終的には鉄也の最大の敵となる。このあたりも、なにやらイエス・キリストの物語を髣髴とさせる。
だから、キリスト教圏では、この映画は日本からやってきた現代の救世主譚として評価されるかもしれない。
過去に、日本のアニメ映画では似たようなテーマが何度も描かれている。いうまでもなく「イデオン」と「エヴァ」がそれだが、エヴァでは、主人公のシンジが救世主となるべく人類の原罪を背負う……という流れの物語だったはずが、最後にシンジは人類の原罪を背負わずに話が途切れてしまった。「エヴァ」は、「人間の性は、悪だ」という自らのテーマに向き合うことができなかったのである。キャシャーンは、エヴァと非常に似た構造の映画であるが、主人公の手を父親の血に染めさせることによって、エヴァが途中で放棄したテーマを完結させた作品であるといえる。
もう一つ、近作で似たような映画がある。それは「マトリックス」だ。この作品は3部作だが、それぞれ救世主ネオの誕生・生・そして死を描いている。ネオもまたキリストの如く、一度死んで復活する。だが、最後には人類の原罪を背負って死ぬ道を選ぶのだ。終盤、ネオは目を焼かれて失明し、エディプス王の如く盲目となる。機械の触手に支えられて死んでゆくシーンは、やはり十字架にかけられたイエスを髣髴とさせる。
ただ、マトリックスは「何も語らない」「観客に考えさせる」というスタイルを貫いたのに対して、キャシャーンは「全てをセリフで語りつくす」「観客に議論の余地を与えない」というまったく逆のスタイルで作られている。このスタイルこそが、一種の押し付けがましさ・説教臭さ・青臭さ・傲慢さと受け取られ、反発される一因になっているのだろうと思う。だが、この説教臭さ、愚直なまでの必死さこそが、かつての邦画のひとつの魅力だったのではないだろうか。邦画の黄金時代には、説教映画が多数製作されていた。「新幹線大爆破」の宇津井健のウェットな説教や、「ノストラダムスの大予言」や「人間革命」で丹波哲郎が繰り出す強引極まりないオレ流説教。かつて、日本人はこれらの説教映画で感動して泣いていたはずである。みんな、かつては馬鹿だったのだ。
80年代以後、邦画から泥臭さが消えていくとともに、邦画の魅力は失われていった。特に、角川春樹の逮捕とホイチョイ・プロダクション的なテレビ局誘導の企画映画のブーム化以後は、有能な監督には集客力が無く、大作はどれも質を伴わない、という状況が長らく続いていた。例えば、世界レベルで評価されている黒澤清や三池崇史が、「デビルマン」を監督させてもらえないのである。宇多田ヒカルの夫であるということ以外、ほとんど映画界では実績が無く、世間にもあまり知られていなかったPV監督が従来の邦画のシステムとはまったく無関係なところで突然作り出した「CASSHERN」は、そういう硬直した邦画をとりまく閉塞構造をいきなり破壊した作品といえるのだ。
無論、システムの面だけではなく、愚直なまでに真剣かつ本気というその姿勢もまた、古くて新しいスタイルではないかと思われる。むしろこちら(熱さ)のほうが重要で、80年代から長らく続いていたシラケ世代は2001年あたりを境に終息しつつあり、70年代を最後に滅んでいたはずの愚直な熱さが求められる時代が復活しているのだ。アントニオ猪木が「馬鹿になれ」というフレーズでカリスマ化したのも単にジャイアント馬場がいなくなったからというだけではない(主にプロレスと関係ない人たちに猪木が評価されているのだから。むしろ保守的なプロレスファンは旧来のプロレスのシステムを破壊する存在である猪木を嫌っている。このあたり、CASSHERNの評価とも重なってみえる)。「馬鹿になれ」という熱くて愚かで泥臭い姿勢こそが、閉塞しつつあった日本の気分にマッチしていたのではないか。
従来なら「大人げのない幼稚な愚直さ」と嘲笑のネタにされるような熱いキャラクターがカリスマ化していく作品としては、「最強伝説・黒沢」というコミックもある。この漫画の主人公の黒沢は、中学生と本気で決闘するようなどうしようもない中年なのだが、その必死さ、熱さが、周囲の人間(主に、シラケきった若者世代)の心をわしづかみにしていく、というストーリーのようだ。
すでに我々には、冷笑や嘲笑で生きていけるほどの余裕が無いのだろう。すべてから距離を置き、自我を脅かすものすべてを嘲笑して生きていくライフスタイルは、「勝ち組」「負け組」が明確化されてしまった現代日本ではもう限界なのだ。そうなれば、道は二つ。「感動など、無い」「自分には何の値打ちもない」という悲惨な現状に気づいて、馬鹿になり、泥にまみれて足掻く道。もう一つは、「自分がこうなったのは、すべて、外部に責任がある」と犯人探しの旅に出る道だ。
僕がCASSHERNを支持するのは、紀里谷監督の製作姿勢そのものが、前者の道を示しているからだ。紀里谷の才能を持ってすれば、もっとソツなく、映像美とアクションに徹した娯楽映画を作ることだって可能だったはずだ。だが、あえてこんな熱くて泥臭くて人に嫌がられる映画を作ってしまった。というより、作らざるを得なかったのだろう。その過剰ともいえる熱さが、CASSHERNが賛否両論喧々諤々と騒がれる原動力となっていることは疑いない。こんな熱い邦画は、しばらく見なかった。いったい、いつ以来なのだろうか。
そしてこの映画のテーマもまた、後者の道…「犯人探しの旅に出る道」を遮断するべくして設定されている。そして紀里谷は、それでも「犯人探しの旅に出る道」への抜け道を探そうとする人間に、抜け道すら与えない。テーマをそのままセリフとして喋らせることによって。つまり紀里谷にとっては、作品の映画としての完成度よりも、テーマを訴えることのほうが重要だったわけで、紀里谷はここでも熱い。
このCASSHERNがどうしようもなく発散させている愚直さ、熱さこそが、実は人々に求めらていたのではないか、と思われるのだ。この映画は、冷笑させることを観た人間に許さない出鱈目な熱さを持っている。いやまあ突っ込みどころはあまりにも満載なんですが…あちこち破綻しまくってるし。だが、それだけでは絶対に済まされない映画なのだ。だからこそ、嘲笑で片付けられる人間よりもマジ切れする人間のほうが圧倒的に多いわけなのだ。僕は紀里谷監督に、もっともっと熱い映画を作り倒してもらいたい。僕自身は、熱さは持っていても、作品を作る社会的な能力が皆無なので……。
(04/5/1 本田)