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はてなキーワード: 普遍性とは

2014-04-12

http://anond.hatelabo.jp/20140412002002

現代人はアタラクシアに打ち勝てるのか

これだけ思想が溢れ、価値観が多様しても尚、ストア派で言う所のアタラクシアを志向する者が多い

それこそ数千年の以前に生み出された思想が、今も現代人の心に親和性をもつのはどうしてだろうか

強力な普遍性を持つアタラクシアという概念

「欲望が消滅し、平穏に過ごす事が幸福であるということだ」という論理に、どうして人間は抗えないのだろうか

そのような奴隷倫理を捨て、貴族倫理に従って生きる事が出来ないのはどうしてなのだろうか

それでも、こうして考えているという私が"存在出来ている"という例外が、"人間はエウダイモニアの中であっても自己拡張し、探求しうるだけの好奇心を持ち得る"という確証になるだろうか

エピクロスせやな

ピュロン「そうかもしれん。そうでないかもしれん(失敗)」

ゴルギアス色即是空空即是色」

プロディコス「それにつけても金のほしさよ」

デウス・エクス・マキナそうなんだ、じゃあ私生徒会行くね

現代人は涅槃原則に打ち勝てるのか

これだけ思想が溢れ、価値観が多様しても尚、仏教で言う所の涅槃志向する者が多い

それこそ数千年の以前に生み出された思想が、今も現代人の心に親和性をもつのはどうしてだろうか

強力な普遍性を持つ涅槃という概念

「欲望が消滅し、平穏に過ごす事が幸福であるということだ」という論理に、どうして人間は抗えないのだろうか

そのような奴隷倫理を捨て、貴族倫理に従って生きる事が出来ないのはどうしてなのだろうか

それでも、こうして考えているという私が"存在出来ている"という例外が、"人間涅槃原則の中であっても自己拡張し、探求しうるだけの好奇心を持ち得る"という確証になるだろうか

2014-03-06

http://anond.hatelabo.jp/20140305130519

>(基本的に)子孫を残さな属性の人が、自然淘汰されないのは謎なんだけど。

江戸時代あたりは、長男以外は子孫を残さずに死んだ人も多かったが。

「父と母と子」という世帯って、思った以上に歴史的普遍性はないんだけどなぁ

せっかくなのでもうちょっとググってみては

2013-11-06

利用したのかされたのか

http://b.hatena.ne.jp/entry/hotentry.hatenablog.jp/entry/2013/11/05/182712

サードブロガーが身内ブクマ問題でひよって謝罪始めたけど、

はてなブックマークお気に入り」を見れば、

はてなが身内によるブクマを禁止してるどころか、ソーシャルとしての可能性にかけてみた。なのは当たり前なんですよ。

じゃあ、なんて君らの行為が批判されたかというと

お前らの記事が単純に

つ ま ら な い か ら 

帰結するんですね。

もはやダブルスタンダードどころじゃない。

俺らは仲間内でも面白い記事ブクマするけど、お前らは仲間内だと糞記事ブクマするからやめろ。

このジャイアンスタイルは、本質的に間違ってない。というか、君らも心当たりあるから謝罪とかしちゃったね。

でも表の理論じゃ狂ってるのよこの理論

というより、自称情強のはてばかブックマーカーが日夜戦い続けてる普遍性という「理不尽空気」そのものなのよ。

ブラック恩恵を受けながら、ブラックを批判する。そういうダブスタこそブックマーカー本質なんだよね。


戦わなきゃ。はてなの新しい空気とかじゃないの君ら?

理論が間違ってるなら、誰かに責任なすりつけて批判とか出来るからはてなというアーキテクチャのせいとか。

なに村人に謝罪回りしてるの?

いや、違うんだよね。

君らは、本来はてななんてどうでもいいと思ってる。

はてなを動かす人達のアホくさい宣伝を「利用」しようとしただけ。

それを「利用」したら、なぜかほかのユーザーに叩かれた。

理不尽だ。でも、よい。だって。君らの目的は、はてなじゃない。

たまたまはてなという利用できるものがあっただけ。

ともだちの空気読んではてぶを利用しようとして怒られたら

ともだちの空気読んではてぶに謝罪する。

へこんだって良いものだって友達が慰めてくれるから

一番慰めてくるのは、アクセスログの人数なんですけどね。

2013-10-25

http://anond.hatelabo.jp/20131024141108

旨い不味いよりも

和菓子には洋菓子程の普遍性はないよな。

洋菓子のほうが世界中で万人受けする味ではある。

2013-08-24

超音速のMS少女から20

月刊"Model Graphix"誌上で、もっとエクスキューズの少ない(というか皆無の)ページは明貴美加の『MS少女である

ミリタリーやオート・モデリングはいわゆる"大人のホビー"としての正当性を主張し、

キャラクターモデリングは"メディアミックスがどうたら……"と詭弁をたれることが可能(僕のことだ)でも、

MS少女』だけは説明が難しい。

「キャッ♡♡」の前には、どんな言い訳も成り立たない。一網打尽。万事窮す。


ということはすなわち、『MS少女』が、模型雑誌といういわゆる"病気"の世界の、

そして僕らの欲望の、もっとも"生"な部分であるということだ。

MS少女にの生理的拒否反応を示す"良識的な"ミリタリー・ファン(じゃあ自衛隊にでも入ればいいのに…)が多いのも、

明貴美加の『MS少女』がその部分を、無邪気に暴露してしまうからに違いない。

(そして明貴美加の『MS少女』の存在の真の凶暴性とは、

社会派でもある宮崎駿御大と同じ雑誌に連載されているという事実なのである。)


この8年の間に、もともとの『ガンダム』というブランドも、あの手この手で消費され続け、

TVアニメーションとその周辺のトレンド自体も二転三転している。

それどころか、ビデオアニメゲームソフトメディア自体が拡散しつつある。


しかし、メディアバリエーションは数々あれども、

その内容はつまるところは"メカコスチュームつけたキレーなネーちゃん"に尽きてしまうのである

とくに最近は、後者さえあれば、前者は"魔法"や"スポーツ"でも代用できる。

前述したとおり、明貴美加方法はあまりに"生"なので、

世代にかかわらず「ファンである」と口にするのが気恥ずかしい。

だが、一見大人向け…とかシリアステーマ(もし、あれば…だが)の作品も、

それを抜いてしまえば、つまるところ残るのは、『MS少女』と同じなのだ

いや、それどころか、ヤマトと森雪、ガンタンク死語)とセイラさん、

ガンシップナウシカナイト・オブ・ゴールドラキシス…、

過去の名作/ヒット作も実はこの鉄則を守り続けているのであった。

まり、『MS少女』の存在は、一見TVアニメ副産物のように見えて、

明貴美加自身が知ると知らずとにかかわらず、

この8年間のアニメーションというジャンクカルチャーの、

実はかなり正確な批評として機能していたことに気がつかなくてはならない。

MS少女』を貧しいと批判する者は、

実は(量的にはともかく精神的に)かなり貧しい我々のアニメ文化を、

知らず知らずのうちに語っているのである

そして、その文化の本当の名は"特筆することのなさ"という文化であり、

そこに童話の『裸の王様』の中の聡明な少年のように君臨しているのが

明貴美加と『MS少女』だという印象なのである

最終的に笑われているのは僕のような

"特筆することのなさ"にまぎれもなく属しながら、

"特筆することのなさ"すなわちストレートさの意味と力を

理解出来ない者なのかもしれない。



村雨ケンジ「"特筆することのなさ"の普遍性

超音速のMS少女 明貴美加ファーストイラストレーションズ』(大日本絵画、1994)より

http://www.amazon.co.jp/dp/449922635X

(ただし、ブラウザ上での可読性を考え、引用者が適宜改行を加え、

段落間にスペースを挿入した)


ストパン」「ガルパン」「艦これ」とミリタリー美少女ものが大流行で、

ラノベでも「IS」分校が毎月のように刊行され、

あるいは宮崎御大妄想だだもれな「風立ちぬ」が絶賛公開中の現在に、

この文章を読むと、なんかいろいろ感慨深く思えたので引用

2013-08-17

http://anond.hatelabo.jp/20130817125113

情報が本人の弁しか無い状態であやふやな事言ってたらそりゃ何かしらの疑義は問われるでしょ。

特に日傘ネタ最近良く出るトピックから時事の報が持つ普遍性あやかろうとしてるのでは?

と思われる事自体は仕方ない。

元の匿名記事に意図が無い分わざわざ証明する必要も無いとは思うけど寛容求めすぎるのもどうかと。

2013-06-02

少~青年期のルサンチマン表現衝動になってる音楽はあっというまに色褪せる。

瞬間風速はあっても普遍性は獲得できない。

2013-05-14

http://anond.hatelabo.jp/20130514231100

少数とか多数の問題ではないのだよ。

この世に人類があり続ける限りこの世のどこかには必ず絶対に永久にあり続けるという普遍性の話だ。例えそれがどんなに不愉快だろうがいつかなくなると信じたいことだろうが。

2013-04-08

http://anond.hatelabo.jp/20130404114003

これも卑怯な女が論点ごまかしするためによく使う手の一つだね

2chで醜いババアテンプレになってるよw

昔の記事だと何が恥ずかしいの?

昔の産まれのババアのほうがよほど「はずかちーー!」ぞw

さらに、いい歳したババアがこれを使ってると思うと、かなり「はずかちーー!」ぞw

 

昔の議論で今でもこれだけ盛り上がるってことは

普遍性があって、今でも通用するってことだよねw

 

現実を見ようね オバサンw

ちなみに、卑怯な女の典型パターンのもう一つが

「男もー!」「精子劣化!」だけど

 

それも↓のコメ欄論破されてるぞw

 

30代半ば過ぎから卵子老化、女子高校生対象に講演会

http://blog.livedoor.jp/kekkongo/archives/1710440.html

 

おまえらはもう終わってるんだよw

  

自分の仲間を増やしたいからって 必死に足を引っ張るな

2013-03-28

http://anond.hatelabo.jp/20130327200908

アバウトなところで元増田問題点ピックアップ

1. 実は「思いやり」という普遍性共感ポイント)がある話だが、それが読み手に伝わらない

2. 照れの裏返しで異常な攻撃性のある文章になってしまって読み手が引いてしま

3. せっかく意味に含みを持たせた「センス」という言葉が死んでる

元増田自分感情を見つめてみたらいいと思う。

思いやりのない人への憤りを、「思いやりがない人→いろんなことをうまくやる能力がない→センスがない」と連想しながら、最終的には見下すことで静めているはずだ。

それを冒頭で

センスのない人」が嫌いです。いわゆるファッションカルチャー的なセンスのことではなくて、いろんなことをうまくやる能力、くらいに捉えてもらえればいいと思う。

と、もともと普遍性があって広がりのある話を狭めてしまった。

「思いやりがない人→いろんなことをうまくやる能力がない→センスがない」の流れを後ろにもっていったら、たぶん全然印象の違う文章になったと思う。

こういう「センスのない人」が世の中をちょっとずつ生きづらくしているんだと思う。

も、誰か生きづらくされているイメージ(たとえば「おじいちゃんおばあちゃんとか身体障害者の方」だ)

をもうちょっと説明したら、トラックバック方向性が変わってしまったと思う。

2013-03-20

http://anond.hatelabo.jp/20130320012645

ないわ。

ないけどわかるだろんなもんとしか。わかんなきゃしょうがない。

ま、逆の根拠もないわけで根拠合戦したら平行線よ。

ただ俺は声高に断言するね。「全っ然普遍性のないこの人個人の感覚だ」と。

http://anond.hatelabo.jp/20130319233016

ブログ主のこういうものに対する「キモさ」なんて全然普遍性のある感覚じゃないもんな。

単にその人個人が気持ち悪く感じたって域を出ないし。

2013-02-23

ツイッターブログでの自分語りがよくわからない

ほとんどの自分語り自己承認を求めていたり武勇伝を語りたいだけで、それらが透けて見えとても気持ち悪く感じる。おおっぴらにしているのにも関わらず自分しか見ていないのだ、ネットによる他者の疎外といえるのではないか

例外は面白い場合だけで、それは少しくらいは読む側のことを考えていたり、自己完結することなく普遍性なり一般性を持っているためだろう。面白いという言葉ごまかしているのだが自分の語彙には他に適する言葉は無い為しょうがない。面白いもの面白い理由はもっと色々あるのだろうが。

パソコンスマホの前では誰もが最も主観的となり、読む者がいてこそのブログツイッターであるのに読者を無視する。

あと2ちゃんでは2009、10を区切りにして、それまでは「お前ら」と言っていたのを「俺ら」と言うようになってると思う。すごい大まかであるが時期はともかく、主語を使わずに話せる日本語において主語が変化するという事は結構大きいのてはないだろうか。自分はこの事を言っている人を見たことがないけど、もっと指摘されていいんじゃないだろうか。

追記

 間違って解釈されているところがあるので訂正とその反応を受けて書いてく

 1 まず自分が気持ち悪いとか不快に感じるのは全ての自分語りではなくてつまらない自分語りだという事、タイトルの先頭に「面白くない」をにつけたら分かりやすかったか。広い意味での面白味が全く無くて自己承認だけしか求めていないものがよくわからない、本当に理解できずに化け物と遭遇したような気持ちになる。

 2 1に続いて、だからこそ読者に何の面白味を与えるつもりもないのにネットに現すことが出来るのはとても疑問だ。タイトルの「よくわからない」もそういう意味。何故そういう事が出来るのか、恥ずかしくないのか、他者が見えていないのか、無視しているか、そもそもいないのか、自分に酔っているのか、とにかく教えて欲しい。何故自分日記に止めて置かないのかその理由を教えて欲しい。

 3 これを書いている事自体が自分語りだという批判について。まずこれを書いてネットに上げるだけでは自分語りだろう。しかしそれに対して反応があった。これは読者が良いかいかは問わず何かしらの面白味を感じたという事だ。そうすると自分がここで言っている、つまらない自分語り定義からは外れるだろう。

 4 不快ものは見なければいいと言う批判について。確かに見なければいいというのは正論ではある。しかしそれが不快だという事を示して、何故そう言う事をするのか尋ねたい。嫌なら見るな、はそもそも面白味がない。疑問が生まれていてそれに対する反応が欲しいのに、思考停止しろと強制されても何の発展性もない。

 5 4に続いて、自分がこれを書いていた時自分語りをされる立場不快感を感じつつ、自分語りをする立場に立とうとしても不可能だった。これは1や2で述べたことだ。つまり自分語りをする側が何故それをするのかが知りたく、自分語り側の立場に立とうとしているのだ。その為に、嫌なら見るなという言葉には面白みがない。

 最後に 

 自分で書いていて何だがここまで述べたことが幼稚だという事は分かっている。だからこそさっさと完全に論破されたい。少なくともここまでの反応の中にはそういうものはなかった。

 恐らく自己承認では不快で、相互承認ならいいんだろうと、自分では思っている。自己承認は相互承認よりも劣っている、何故なら相互承認はその内に自己承認を含んで成り立っているから。つまらない自分語りをする人は自己承認立場で未熟なのだろう、というのがとりあえずの結論。

 未熟な人がこうも多いとは思わせない為にも、ここまで書いた疑問に答えて欲しい。

2013-01-21

http://anond.hatelabo.jp/20130121133026

人権解釈は国ごとに違っていい」という立場なら別に構わんよ。

ある案件については人権普遍性を強調しながら、別の案件についてローカル解釈を持ちだしたりしなければ。

2012-11-21

http://anond.hatelabo.jp/20121120232557

なんかあずまんにつぶやかれたしQ見て良かったわ。

https://twitter.com/hazuma/status/270937897249693696

https://twitter.com/hazuma/status/270943010051719169

それはさておき、庵野はひどい。

ヱヴァQは間違いなく凄い、主人公をどうしようもない加害者に叩き落としたという点でどうしようもなく凄い映画だと断言できる。

ひどいのであって、凄いのかどうかは判断が別れる所だと思う。

座談会でも言われていたけど、なんの理由があってシンジにこれだけのものを背負わさせるか…

共同戦線はっていたはずのミサトやアスカ勝手に成長して実年齢的に大人になってしまうし。(アスカ精神だけだけど、それがまたキツい。グロい。

90~00年代セカイ系覇者であるエヴァがこれだけまっすぐに残酷セカイ系いじめシンジ押し付けるというのは、ある意味では圧倒的に正解。

「君を失いたくない、そのためにセカイが滅びてもかまわない!」という無茶な行動に普通セカイ系作品ならハッピーエンドで答える。

破で新鮮だったのは「それをあのエヴァがやるなんて…」という意外性に尽きる。その意外性に大して庵野がどう答えるか?これはもうわからんね→といった所でこの裏切り。また旧エヴァかよ!この構造はたしかにシビれる。坂上がシビれるのもわかる。圧倒的な新規切り捨て、古参いじり。

さておき、ヱヴァQおよび庵野が凄いorひどいのはセカイを代償にレイを救わせようとしておいてセカイもだめになっちゃったレイも違うレイなっちゃったしと、ALL代償をシンジ押し付けたその点に尽きる。このひどい代償、並のアニメがやっていたら一笑に付されて終わりだろう。そんな壮大なおしつけ成立するはずないだろ!と。だがエヴァ場合これが成立する。なんといってもセカイ系覇者なのだから、これくらいの壮大さじゃないとむしろ釣り合わないくらいだ。

そう考えると、「庵野監督が旧エヴァ狂気に対抗するために理詰めで導き出した回答」という点はかなり納得が行く。庵野さんは狂気理論を同等に扱うことができる天才なのだろう。

からここで俺が気になるのは、あずまんがシビれるくらいの解答というのはどういうものなのか、に尽きる。他は正直どうでもいいのであしからず

キーワードとなるのは「狂気」や「世界(セカイではない)」だと思われる。あとおそらく「狂気」は必要条件であって十分条件ではない。

おおかみこどもの雨と雪」をあずまんが絶賛したのは「狂気」は関係ない。彼はあの作品に普遍的なものを見ていた。

普遍的なものとはつまり、親であるかそうでないかなどに関わらずすごいと感じられる作品だ。

おおかみこどもの雨と雪」は一見すると親である人間のほうが多くの感動を得られるが、そうではない。

では何が良かったのか。人間自然関係か。はたまたジブリ的な「生きる」ことの素晴らしさか。

俺はそれらのどれでもないように感じた。あくまであずまんツイートからだが。

おおかみこどもの何が良かったのか、ヱヴァQには何が足りなかったのか。言葉にするとそれは普遍性、または世界に通用する何かなのだろうけど、あずまんの口からそれはまだ具体的に語られていないように思う。ていうか正直よくわからないのでゲンロンカフェとかで語ってくれたら嬉しいです。

2012-05-29

http://anond.hatelabo.jp/20120529172701

興味がない、気持ち悪いと思う人たちは当然いるだろうし、無下に非難はしないけど。

風俗に通うという行為普遍性はあるよ。

好まない人間や嫌いな人間が居るなら普遍的とは言わないだろ…

日本語出来るようになってからディベートしてくれよ

あと「無下に非難はしないけど」ってなにw

風俗水商売に抵抗あるのって基本非難されちゃうことなのかよw

http://anond.hatelabo.jp/20120529171607

俺含めて俺の親しい友人はキャバクラとか風俗とか本当に興味がない

興味がない通り越して気持ち悪いと思ってるレベルだよ

「嘘だー」とか言われると話が終わっちゃう

そんなにそういうのが普遍的だと思い込みたいのかな

興味がない、気持ち悪いと思う人たちは当然いるだろうし、無下に非難はしないけど。

風俗に通うという行為普遍性はあるよ。

あと、キャバクラ風俗とは別。

あそこは話すだけだから口が立たないと本当に苦痛

風俗は行くがキャバクラダメという層もいる筈。

2012-05-21

http://anond.hatelabo.jp/20120521184040

横だけど、ananは「女のためのセックス」「女が気持ち良くなる為のセックス」という概念

少なくとも日本では初めて提示したという点で画期的雑誌だった

という言説をanan史か何かで読んだ事がある

女がセックスで気持ち良くなるとう概念は、比較的新しいものであまり普遍性はないのかもしれないと思ったり

2012-04-11

オウム真理教ナウい教化法”を実践した広瀬死刑囚手紙 vol.2

【vol.1「カルトに係わる契機」】はこちら。

宗教経験

 カルトの「超越的世界観」によって、現実世界においては解決の困難な問題が解決することと述べました。他方、この類の世界観は非現実であるために、受容が困難なのも事実です。ところが、「神秘体験」、「超越体験」などと呼ばれる幻想的な宗教経験は、その受容を著しく促進します。

 オウムにおいても、教義の妥当性の根拠は、その種の宗教経験でした。つまり、多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界現実として認識していたのです。地下鉄サリン事件への関与は誠に愚かであり、心から後悔しておりますが、この事件についても、宗教経験から、私は教義上の「救済」と認識して行いました。

 このように、宗教経験は、「殺人」を肯定する非現実的な教義さえ受容させる原因となります。したがって、宗教経験を根拠とする思想やこれを起こす技術の使用には注意すべきです。

 以下、宗教経験検討のために、私の経験を述べさせていただきたく思います

 前述のように、高校三年生ときに、私は、「生きる意味」の問題を意識するようになりました。しかし、その後、私は目を引いた本を読んだり、簡単な瞑想指導する団体に入会したものの、その問題は棚上げ状態でした。大学で学ぶことが将来の職業に直結するので、学業や学費のためにアルバイト忙殺されていたのです。

 そのようなとき、偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年ときでした。その後、関連書を何冊か読みましたが、彼の説く解脱悟りが気になりました。

 最終的な解脱悟りは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地であり、本来、私たちはその状態に安住していたにもかかわらず、煩悩にとらわれたために、輪廻して苦界をさまよい続けているとされていました。ここで、絶対自由とは、カルマ(業。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味でした。絶対幸福とは、金、名誉など自分以外の外的存在を必要としない幸福という意味でした。絶対歓喜とは、自己存在しているだけで歓喜状態にあるという意味でした。

 不明な点が多いものの、何らかの絶対的に幸福な境地の存在事実であれば、その追求は「生きる意味」に値するのではないかと思いました。

 また、麻原は修行を完成させて最終解脱の境地にあり、弟子指導して彼らをも解脱させているとのことでした。麻原や弟子たちの体験談を読むと、解脱への確かな道が存在しているように思えました。彼らの体験には普遍性が感じられたからです。さらに、麻原は自身の体験の妥当性を、ダライ・ラマ十四世をはじめとするチベット仏教インドの聖者たちと交流して確認したとのことでした。

 前述の解脱のような教義の話だけならフィクションを読んでいるようなものでしたが、このような実証的な姿勢は理解できることでした。この点は、私がそれまでに接した斯界のものとは違っていると思いました。

 しかし、事はそう簡単に運びませんでした。麻原が主宰するのは、宗教団体オウム真理教」だったのです。(なお、当時、オウムほとんど無名の団体でした。)

 私は新宗教に対して拒絶反応が起こるのを禁じ得ませんでした。「輸血拒否事件」、「霊感商法」…新宗教に関するマスコミ報道は、決まって言いようのない不快感を催すものでした。とりわけ、「輸血拒否事件」は、高校三年生ときに話を聞いた団体のことだったので、新宗教に対する問題意識が高まりました。

 この事件の報道では、事故に遭った子供が「生きたい」と言っていたのにかかわらず、両親が教義に従い、輸血を拒否したとされていました。この団体の聖書解釈が正しいという保証はないのだから―私にはほかの解釈も可能に思えました―、そのような不確実なことに基づいて命を犠牲にすることが信じられませんでした。ですから、この事件で、私の新宗教に対する不信は決定的なものになっていました。

 このようなわけで、私は本を読む以上にオウムに近づけなかったのです。

 ところが、本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一ヶ月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。

 眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。

クンダリニー覚醒―」

 意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニー覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。

 続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーのことでした。そして、それはゆっくり背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。

 「クンダリニーの動きが正しくないと、くも膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚醒危険だ」―オウムの本の記述別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意志に反して、クンダリニーは上昇を続けました。

 クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。

 突然の出来事に、どうなることかと思いましたが、それをピークに一連の現象は収束しました。どうやら、無事に済んだようでした。

オウム真実だ」

 オウム宗教世界観が、一挙にリアリティを帯びて感じられました。麻原をグル修行指導する師)として、解脱悟りを目指すことが私の「生きる意味である確信しました。麻原の著書を読み始めて以来相次いだ体験に、彼に強い「縁」を感じていたからです。クンダリニー自然覚醒したのは、前世グルの著書を読んだために、修行者だった私の前世記憶が甦ったからだと思いました。

 このように、急激に宗教観念を受容して、思考体系が一変する心理現象は、「突然の宗教的回心」と呼ばれています。これと漸進的な宗教観念の受容との違いについて、研究論文には次のように述べられています

 突然の回心は、被験者のものが全く変えられるように思われる経験として定義した。つまり、その変化は、被験者が生じさせるのではなく、彼にもたらされるように思われた。また、その変化は、被験者の生活様式、道徳的特性を形成する態度におけるものだった。

 漸進的な宗教的発達は、上で説明したような回心経験がないという特徴のもので、そして被験者が自身を無信仰と識別したことがないものである

 すべての回心者は、疑いの余地なく、無信仰の状態から信仰深い状態になった。

 二つの集団の特色をかなりよく示す、二つの自伝を下に引用する。一人の突然の回心者は、彼の経験を次のように記述した。

 この経験は、私が一四歳の秋に起きた。私は畑を耕して働いていた。突然、嵐が近づいたように思われ、そしてあたかも私の周りの全てが止まったようだった―私は神の存在を感じた。馬たちは完全に止まった状態になった。真っ黒な空がとどろいたので、私は祈った。嵐はすぐに通り過ぎたが、この瞬間だった、―私は祈りながら―主が望むならば、クリスチャンになり、主に仕える決心をしたのは。

 漸進的な宗教的発達をした集団の一員は、彼の経験を次のように記述した。

 私が信仰深いと自覚したときを説明するのは難しい。それに対し、何年か前に私は十ポンドで生まれ、そして現在はそれよりかなり重いという事実を説明するのは、全く簡単だろう。この成長には、出来事の印象がないわけではない。しかし、少なくとも回想では、そのプロセスはあまりに完全に連続したように霞んでいる。だから、私が自身の認識に現れた時点を思い出せる以上に、私は“信心深く”なった時点を分離できない。私はその二つの出来事はほとんど同時に違いないと思う。

引用英語で分からず。)

 このような宗教的回心は、人が葛藤状態にあるときに、幻覚的な超越体験と共に起こることがあり、このとき葛藤が解決するとされています。また、突然の宗教的回心においては、常識から非常に逸脱したビリーフ・システム(思考体系)が受容される場合があるとされています。そして、「カリスマグループの一つの注目せざるを得ない特徴は、入会の特徴がしばしば劇的な回心の経験であることだ」といわれています

引用英語で分からず。)

 私の場合、「生きる意味」に係わる葛藤のために、回心が起き、オウムの教義体系が受容されました。このように、非現実的な世界観が突然現実として感じられ、それが受容されることがあるので、超越体験に基づく世界観には要注意でしょう。後述のように、それが日常生活との間に摩擦を生じる場合は問題が起こるからです。

 オウム宗教世界観現実となった私に、入信以外の選択はありませんでした。また、新宗教うんぬんといっていられる状況ではありませんでした。クンダリニー覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。この状況について、ある共犯者は「広瀬君は、本を読んだだけでクンダリニー覚醒して、困って教団に相談に行ったと言っていた。ある種の困惑広瀬から感じた。」と法廷証言しています

 こうして、オウム真理教在家信徒としての生活が始まりました。在家信徒は、社会生活しながら、教義の学習、守戒など教義の実践ヨガの行法、奉仕などの修行をすることが基本でした。

 オウムの教義と修行目的について、あとの話の理解のために必要な部分のみ説明致します。

 教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならなのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優住になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に地獄餓鬼動物の三つの世界三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。

 それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。

 私たちは自己存在するためだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貧りの心は餓鬼快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。

 これらの煩悩行為過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己カルマが身の上に返ってくることを「カルマ法則」といい、これも重要な教義でした。

 カルマ法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですからオウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした。

 [なお、前述の「殺生」は、虫を殺すことも含みます。ですから、そのほかに挙げた行為もそうですが、一般人日常的な行為ほとんどが悪業となります。したがって、信徒についても、入信前は悪業を為してきたことになり、それらを浄化しない限り苦界に転生することになります。だから信徒たちは必死修行していました。また、家族など周囲の非信徒たちは苦界への転生が避けられないことになり、それを信徒たちは案じていました。後述しますが、日常生活と相容れないこの教義のために、一般社会は苦界への転生に至らせる世界とみなされました。そのために、信徒は一般社会を離れて出家していきました。さらに、苦界へ転生する現代人を救済する目的で、殺人まで犯すことになりました。]

 また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は、人を解脱させたり、高い世界幸福世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化していないと苦界に転生するのですからカルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。

 麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウム世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです。

 回心による教義の受容の後、入信後は、私の身の上に個々の教義の体験が現われ、教義の世界観に対するリアリティがますますまりました。たとえば、入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。

 その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、その指示は絶対だったのです。

 なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義(二十一頁)が暗示になり、「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおりの幻覚が現れたものと思います。(このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやすい状態になっていました。)

 なぜあの男が―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義の世界観現実だったことでしょう。ヨガの行法によって、多くの信徒が教義どおりの宗教経験をしていたのです。

 現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる経験をしているようです。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒帰依しているのは生身の麻原ではなく、宗教経験によって知覚した麻原です。「現実」よりも「宗教経験」のほうがリアリティがあるのです。

 このような宗教経験作用について、文献には次のように述べられています

 アメリカで(そしてしばしば国際的に)現在見られる多くのカルト様のビリーフ・システム概観することは、臨床医が特定のセクトを正しく評価するにあたり役に立つ。ビリーフ・システムは、一般に部外者を困惑させるもので、多くは超越体験や神秘体験に基づいている。あるものは、なじみのない東洋伝統から得ている。あるものは、教義を再構築する程度にまで、既存宗教を粉飾する。

 超越体験あるいは神秘体験は、回心のプロセスにおいてしばしば重要だが、このことはジェイムズフロイトが注目した。葛藤の解決における超越体験は、非精神病者精神病者の両方に急性の幻覚的エピソードが起こる程だが、この重要性も強調されてきた。これらの経験はまた、カリスマセクトの多くの全員にとって、グループの全員をを続けされる総体である。これらの出来事は、類似した現象を経験したことのある他の人たちとの友好関係を、最高潮に高める強力な感情的経験になる。

 宗教経験コンテクストにおける精神病様超越現象が生じることを説明できるモデルは、まだ開発されていない。しかし、注目すべきなのは、かなり注意を引く知覚現象を、これらのセクトの全員が普通に報告することである。たとえば、一つのグループの百十九人の全員のうちの三十パーセントが、瞑想中に幻覚様経験を報告した。明らかに、このような現象は、心理学者が正常な精神プロセスのみならず病的プロセスを理解するのにもかなりの影響があるはずだ。それらはたぶん、精神病といわれる人に幻覚状態を起こすあるコンテクストの性質を、心理学的に理解する助けになるだろう。

(前出 引用英語で分からず。)

 (A教団は)夢さえも「お父様(教祖)の夢を見ますよ」などと暗示を与えて教祖の夢を見やすいように誘導したりする。それらのプライミングの結果、信者は身辺でおきる現象がすべて神やサタンといった心霊現象ととらえることになっていると思われる。さらに、こうした経験西田のいう個人的現実性を高める。つまり体験や推論が教義と整合しているという認知を与え、ビリーフは強化される。

西田公昭 一九九五年 ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4) 社会心理学研究、一一、一八-二九

プライミング―特定の情報に接触させることによって、人間情報処理一定の方向に誘導すること)

 瞑想のより高い段階は多くの経験を含む。これは、伝統的な文献によく載っており、明るい光のヴィジョン、身心の喜びに満ちた陶酔感、静けさ、明晰な知覚、および愛や献身感情を様ざまに含む。“超意識”、“超越体験”、“神秘体験”、あるいは“クンダリニー覚醒”と名付けられており、これらの状態は、人を引き込む影響を及ぼす。この影響は、瞑想伝統によれば、非常に深刻になるものだ。

引用英語で分からず。)

 また、宗教経験が起こる状態においては、世俗的なことに対する関心が薄れるという報告があります

引用英語で分からず。)

 以上のように、宗教経験およびそれが起こる状態は、非現実的な教義の受容や日常生活から離脱を促進するようです。


※「輸血拒否事件」1985年6月神奈川県川崎市高津区で起こった事件。ダンプカーにひかれた当時小学5年生の男の子が、両親の輸血拒否にあい、約5時間後に死亡。「大ちゃん事件」とも。

【vol.3「宗教的経験(後半)」】へ続く。

2012-02-22

http://anond.hatelabo.jp/20120222111121

>なんで今回の判決「以前」を論じるんだよ、苦しい奴だなあ。

「出てくる」の意味曖昧だったからに他ならない。

死刑囚が出てこなくなるのがうれしい」を

「出所」ではなく「新たに発生しなくなる」に取るのが?

苦しい奴だなあ。


というのも、出所者が減ることを喜ぶ心理は、実は被害者のものではないのではないか、と考えられるから

??? 

そりゃ、「凶悪犯が出所しないことになってうれしい」っていうのは被害者以外の声じゃね?

被害者もう亡くなってるし。

これは「近所に刑期を終えた凶悪犯罪者が来るなんてイヤだ」という外野の心理である

イヤだって人は多いでしょ普通に

心理としては理解できないでもない。いち外野の同類としては。

しかしそれを元増田のように、「極めて当然の感情」とまで拡大するのは問題があると考える。

極めて当然に、福田が出所して近所に住むのはイヤだろーと思うよだれでも。

外野感情外野感情だ。外野の数が大きいということは感情妥当普遍性は担保しない。

普遍性って言葉辞書で引いてきな。

被害者とその関係者加害者関係者が完全に置き去りになっている。それでは「当然」とまではとても言えない。

意味がわからない。

まず、「凶悪犯が二度と世間に放たれないのがうれしいな」っていう人は

から当人の利害・感想としてそう言ってるわけで、

被害者やその関係者の為にどうこうではない。

で、被害者やその関係者の為の言ってないからその感情が「当然じゃない」???

チョットニホンゴジタイカライミフメイデスネ。


あと個人的なアドバイスだけど

君は持って回った言い回し言葉遣いをやめたほうがいい。知性が追いついてない。

もっとざっくりした平易な言葉を使う方がよい。

自分でも何言ってるかわかんなくなること多いでしょ。

http://anond.hatelabo.jp/20120222105019

なんで今回の判決「以前」を論じるんだよ、苦しい奴だなあ。

「出てくる」の意味曖昧だったからに他ならない。

出所者は確かに減る。わずかだが確実に。

しかし喜ばしいかは別の問題。

というのも、出所者が減ることを喜ぶ心理は、実は被害者のものではないのではないか、と考えられるから

これは被害者の「出所という選択肢がないことで救われる」という心理とは端的に質を違えている。

これは「近所に刑期を終えた凶悪犯罪者が来るなんてイヤだ」という外野の心理である

心理としては理解できないでもない。いち外野の同類としては。

しかしそれを元増田のように、「極めて当然の感情」とまで拡大するのは問題があると考える。

外野感情外野感情だ。外野の数が大きいということは感情妥当普遍性は担保しない。

被害者とその関係者加害者関係者が完全に置き去りになっている。それでは「当然」とまではとても言えない。

現に外野は「出所者が減る」ということをイコール死刑囚が増えるという風に捉えすぎる。

出所者を減らす方法は少なくとももう一つあって、そもそも入所したり裁判にかけられたりするような事案の発生を防ぐという発想があってもいいし積極的に実行に移すべきなのだが、「近所に犯罪者が来なければ何でもいい」くらいの大部分の外野はそこまで心が回っていない。

「ウチの近所にはあのとんでもない元犯罪者は絶対来ない!ひゃっほう!」で止まってる。

あと、「こんなとんでもないことしでかしたやつ生かしておけるかwww言い訳もめちゃくちゃだし死刑妥当だざまあwww」。

2011-12-21

http://anond.hatelabo.jp/20111221131717

さっきから噛み付いてる奴は数字統計で提示しないと

普遍性という概念が理解できないのかな?

2011-11-17

から元気をもらう。

こういう考えは普遍性を持つものなんだろうか?

全く理解できない。

ハイファッションだろうがファストファッションだろうが

「何故これに金を払わなければいけないのか?」という思いしかない。

から、服を買う時のストレスたるや相当なものだ。

元気をもらうどころではない。

「買わなきゃいいじゃん」と言われたらそれまでだが、いい年した大人が

身だしなみに全く気を使わないのも問題アリだ。

「被服」という概念がこの世から消えてしまえばいいのにと思う。

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