はてなキーワード: 日本人学校とは
いや普通にそりゃそうだろな、って話だと思うが
小3からじゃ、努力しなくても聞いただけで自然に言語を身に着けられる時期は過ぎていて大人と大して変わらんし
日本人学校行ってたのならそもそも英語を使う機会が現地校通うのより圧倒的に少ないし
親からしても「日本人学校にするか現地校にするか」ってのは選択として悩ましい所だよ
日本人学校なら日本語や日本の勉強は遅れないし日本社会に適応出来る人間になるが英語は覚えない
現地校なら英語は覚えるが(あと帰国後に名門校に帰国子女枠で入れる可能性がある)日本語や日本の勉強は遅れるし日本社会から浮く人間になりかねない
匿名で書けるという事なので、今まで誰にも話せなかった事を書いてみる。
私は、小学3年生〜中学卒業まで、父親の仕事の都合で海外で生活をしていた。
海外では、日本人学校という、先生は皆日本人の学校に通っていたし、友達も皆日本人だった。
日本語が喋れない外国人の先生との英会話の授業はあったものの、それ以外は基本的に日本語で会話をするので、英語は身に付かず。マクドナルドで注文が出来るくらいだ。しかもちゃんとした文章で話せるわけではなく、ワン、チーズバーガー、アンド、ワン、オレンジジュース、みたいに単語を言うだけの注文である。
その程度の英語力だったので、日本へ帰国後、日本の高校に通っていたが、出身中学の話は全くしなかった。
帰国子女だという事がバレれば、英語喋れるのすげえ!とか喋ってみて!とか言われるんじゃないかと思い、怖くて言えなかったのだ。
高校の後輩には、英語がペラペラの帰国子女がいる。多分一度も海外に行った事のない日本人の中には、この後輩のように、帰国子女=英語が喋れる、と思われている方が結構いらっしゃると思う。
ただ、そうではない奴もここにいるんだよ、という事だけ知って頂ければ幸いである。
横だけど、子持ち在外日本人って短期滞在の駐在族の方が多くない?
彼らが子供を日本人学校に通わせてても、それは単にどうせすぐ日本に帰るんだから日本の勉強遅らせたくないとかそういう理由で
逆に現地校や現地のインター通わせるとしても、英語覚えさせたいとか途上国なら現地校は教育面安全面考えたら通わせられないとかそういうのだし。
その国に根付いてもう二世三世とかになっていて第一言語が日本語な訳でもないし日本人としてのアイデンティティもほぼないけど
国籍は日本人、って人だけで日本人学校が成立する国はあるんだろうか。
芸能人が(日本で)インター通わせたがるのは、「芸能人の子」として注目される生活を送らせたくない、ってのもあるかと。
外人多けりゃそういうの薄まるだろうし。
まずこの話に驚くようなオチは無いことをあらかじめ書いておく。小学校3年だか4年だかの頃の話。プールの授業での出来事だった。
風邪気味で見学してた俺と、水着を忘れて同じく見学してたタカシ(仮名)は落ち着きなく暇を持てあましていた。その学校のプールは地下二階にある室内プールで、湿気がこもって居心地が悪かったのもあるだろう。
プールサイドをウロウロするのにも飽きた俺たちは、シャワー室の隣にあるドアに入ってみることにした。それまで全く気にも留めておらず、そんなドアがあったこと自体初めて知ったくらいの感覚だったように思う。
ドアは上半分にガラスが埋め込まれている、よくあるタイプのものだった。入ってみるとそこには上階へ続く階段があるのみで、他にはなにもなかった。どこへ続くんだろうという話をしながら扉を閉めると、鍵がかかって開かなくなった。
当時俺が通っていたのは海外の日本人学校で、オートロックは珍しくなかった。そのため2人とも「やっちゃった!早く戻らないと怒られる!」くらいの反応だった。
ちょうどそこへドアの前を先生が通りかかったのをガラス越しに見たので、ドアを思い切り叩いて開けてもらおうとした。ところが先生は全く気づかず通り過ぎてしまった。
俺たちは怒られる恐怖からとにかくダッシュで戻ることにした。裸足のまま必死に階段を駆け上がると体育倉庫の中に通じていたため、そのまま体育館に出てプールへ戻った。学校の構造としては地下二階にプール、地下一階に体育館があったため、特に不思議に思うことは無かった。
戻るとどこにいってたんだと怒られた。だがどちらかというと俺とタカシがいなくなった驚きと心配、それから戻ってきた安堵を先生から感じた。
この日の出来事はこれで終わりだが、後日俺は用事があって体育倉庫に入ると驚いた。階下へ通じる階段なんか無かったからだ。出入り口は一つだけで、ただの狭い部屋だった。
まさかと思いプールの方を見に行くと、俺とタカシを閉め出したドアは無く、壁があるだけだった。
冒頭にあるとおりこれというオチはない。階段もドアも無かったことについて当時タカシと話した記憶も無い。全て俺の夢なのかもしれない。ある部分は事実で、ある部分は記録が書き換えられているのかもしれない。だが夢で済ますには難しいのは、タカシというもう一人の観測者がいることだ。
この間同窓会タカシと再会した。タカシとは小学校卒業以来初めて会ったが、よくつるんでいたのでお互いに覚えていた。彼との昔話の中でこの話もでてきた。彼の記憶は俺のものと一致していた。そして彼も当時、階段とドアが消えていたことを確認していたとのこと。だがそのことについて俺と話した記憶が無いのは同じだった。
この話を他人にしたことは何度かあるが、まず信じてもらえない。同窓会でも周りのクラスメイトからはタカシと組んで騙そうとしてると言われた。俺も他人からこんな話を聞かされたら同じリアクションをすると思う。なんなら頭がおかしいとすら思うかもしれない。
確かにありえないことだ。だが俺の中では確かにあった。少なくとも「あった」という記憶を10年以上紡いでいる。こうなると自らの記憶の連続性にも不安を抱く。物事のありえなさと俺の記憶、それからタカシの記憶が対立している。
女性解放運動の象徴であり窮屈な衣服しかなかった時代に画期的な運動着だった『ブルマー』が、後に「ブルセラ」として性消費の象徴になったことからも、「これはこれでアリ」順応力の高さを舐めちゃだめ
マジだ!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC
19世紀中頃、コルセットで腹を締めるような当時の下着に反発した女性解放運動家によって、自由度が高くゆとりのある下着として考案された。これは旧弊な拘束型衣服からの女性衣服の転換という革新的なものであった。
ショーツ型ブルマーをオリンピックで最初に採用した国は旧ソビエト連邦
大国化と近代化を目指していた戦前の日本で、ブルマーが普及するまでは教育現場や学校で体操時に女性が着用した運動着は従来からのもんぺぐらいであったため、新しいウェアは非常に斬新に映り、全国の学校の標準運動着として採用された。
ずり落ちたり引きつったりせず軽量で、動きに対しても体に密着したショーツ型のブルマーが、オリンピックや国際競技の場で公式に使用されたことで、女子体操服の代名詞としてブルマーの認識が広まり、小学校・中学校・高校・日本人学校などで、指定体操着として採用されるようになった。
化学繊維とニット素材の発達により、ブルマーは臀部にぴったりフィットしたショーツ型へと進化した。このタイプのブルマーが日本で普及していくのは、1964年東京オリンピック以降の1960年代後半からである。
ブルマーは下着のショーツに対し、概ね以下の相違点がみられる。素材はナイロンやポリエステル等の厚地で伸縮性がある。色が濃紺やえんじ色等の濃い色調の色が用いられる。腰のゴムが太く、裾にゴムが入っている。内側にショーツを穿いた上から重ねて穿く。クロッチが必要ないため、二枚布を股間で縫製する。股上が下着に比べて深い。
スポーティーで格好いいと好意的に受け止められる向きがあった反面、性的な羞恥心が強くなる思春期の女子にとっては潜在的な抵抗感もあったという。軽量で動きに対する追従性が良く、各種スポーツに好適であった。しかし、初経を挟む前後1年からヒップが大きくなり始めて、初経の1年後以降になるとヒップから殿溝にかけてボリュームが生じ、ブルマーの裾からヒップが露出したり、ヒップが露出しなくても臀部のラインが目立ったり、女子生徒・児童向けのジュニアショーツがフルバックタイプで、ブルマーの裾からショーツが露出するいわゆる「ハミパン」が生じやすいという問題もあった。そして、座るさらには座って開脚する際、下半身で股間周辺以外の部分が露出される問題もあった。
1993年、広島県立井口高校や東京都立F中学校の体育祭のビデオが市場に隆注していることが判明する。1990年代に入ると、それまでは一部のマニアのものであったブルセラ趣味が商業的に展開され、女子生徒から着用済みのブルマーやセーラー服などを買取り販売するブルセラショップが誕生した。ブルマーが性的好奇心の対象として一般に認知されるようになると、運動会などの学校行事においてブルマー姿の女子生徒を盗撮したり、校舎に侵入してブルマーの窃盗をはたらいて逮捕されるといった事件が、社会問題として取り上げられるようになっていった。
ジェンダーフリー教育論者の中からは、通常体育の授業時は男女別服装である合理的理由はなく、男女平等教育の観点に照らして男子・女子とも同じ運動着を着るべきであると主張する人々も現れた。
公立校は2004年、私立校でも2005年を最後に、女子の体操着としてブルマーを指定する学校は日本から消滅した。2000年代後半あたりまで9割以上が生産を打ち切っており、現在は店頭をはじめネット通販でさえ入手困難な状態となっている。しかしオーバーパンツ(見せパン)としての用途や保温性の高さにより、現在でも生産され、利用されている。
小学校を丸々6年間海外で過ごして、中学は女子校、高校は共学で大学をこの3月に卒業しました。
みんな初めてGoogleの画面を開いた時のこととか覚えてると思うんだけど、
そういう話をはてなで書いてる人、あんまり見ないなーって思ったのでダラダラ書いていきます!
(OSの出た時期とか、間違ってるところがあったらごめんね。)
初めて「パソコン」に触ったのは小学校1年生の「せいかつ」の授業。
「パソコン」の授業が週1回あった。教室に30台ぐらいのパソコンが並んでて、OSはWindows 95と98が混ざってた。
パソコンは途中で全部98に入れ替わって、6年生になる頃XPになってた気がする。
ペイントで絵を描くのが主な授業内容で、すごく楽しかった記憶がある。ひたすら女の人のスタンプをベタベタ貼ってた気がする。
2年生になると「インターネットエクスプローラーのショートカット」をクリックすることが許された。
「Yahoo!きっず」で自分の知りたいことを「けんさく」してみましょう!
クラスの半分ぐらいはもう「Yahoo!きっず」の事を知っていて、「Yahoo!きっず」では「ゲームができる」んだよと誰かが教えてくれた。
わたしは「Yahoo!きっず」の事を知らなかったのでちょっと恥ずかしかったのを覚えている。
「Yahoo!きっず」はやってみたらあんまり面白くなくて、がっかりした記憶がある。
家に帰ってお父さんに許可をもらってパソコンを触らせてもらった時、「Yahoo!きっず」を開くとお父さんが
と言った。(何故かは分からなかったし、理由を聞こうとも思わなかった。お父さんって絶対だった。)
クラスの子たちは「Google」を知らない子の方が多かったので、わたしはそれから「Google」を使うようになった。
話は少し変わる。先述したようにわたしは小学校時代を入学から卒業まで海外の日本人学校で過ごした。
日本人学校で「日本」の流行りを知っている人、「日本」のものを持っている人はスクールカーストで高い地位を得ることができた。
(たとえそれが半年ぐらい古い情報だったとしても、わたし達にはそれを確かめる術がなかった。)
遊戯王カードも、ベイブレードも、ポケモンの金銀も、コロコロコミックも、持ってる子はたくさん持っていた。
わたしは日本のものをほとんど持っていなかったから日本の話には貪欲で、
たしか小学校3年生の時に当時すきだった男の子から聞いたのだ。
その話を聞いた時、デスノートは日本でもまだ読み切りの短編しか出てなかったはずで、
きっとその子はたまたまお兄ちゃんの持ってるジャンプに載っていた読み切りのデスノートを読んだのだ。
でもその子の「デスノート」の話はわたしを凄くワクワクさせた。
次に日本に帰ったら、きっと「デスノート」を買うんだ!と決めて、次の一時帰国をわたしは指折り数えて待った。
1年が経ち、わたしが4年生になって日本に一時帰国した時、本屋さんにそれは平積みになっていた。
本当は漫画は禁止だったけど、日本に帰った時は欲しいものは(高くなければ)なんでも買ってもらえた。
わたしは頼みに頼み込んで、「デスノート」の1巻を買ってもらったのだ。
本当に面白かった。
「名前を書くとその人を殺せるノート」という設定にびっくりした。
月くんはあまりすきじゃなかった。リュークのことは怖いとは思わなかった。
わたしはLが一番すきだった。
早く続きが読みたかった。次の一時帰国はどんなに早くても1年後。
待ちきれなかったわたしは「Google」を開いて「検索」したのだ。
その時のことは本当によく覚えている。
「デスノート」と検索したら一番上に「デスノートサーチ」が出てきたのだ。
そこからわたしはインターネット(というかインターネット上のBL同人)にハマっていく。
男女のセックスはBLから逆算して理解したし、そもそもセックスで妊娠するということを理解したのも随分後になってからだった。
デジタルネイティブと呼ばれる世代のおそらく先頭集団を走ったわたしの思い出話を、誰かが面白がってくれればいいなと思う。
こんなにたくさんブクマついてこんなにコメント貰ったの初めてです!ありがとうございます!
デスノートが出たのって2004年だっけ...6年生になった春だ...。
なんかもっと昔な気がしてました...。
次からは調べられることは調べてから記憶と照らし合わせます。間違ってること書いてごめんなさい...。
1巻を買った1年以内にもう一度受験のために日本に帰ってて、その時に4巻まで出てて
「くぁswでfrtgyふじこlp;@」って言いながらまとめて買った記憶があるので
それだとそっか、2004年なのか...って思いました!
侍魂も面白FLASH倉庫も見たよ!!!めちゃ懐かしい!!!!!
先行者とか馬鹿みたいに笑ったし、流石兄弟がすきだったなー。あと再翻訳系のネタ!
言われれば思い出すけど、たぶんクラスの子かお父さんに教えてもらったんだと思う。
能動的に初めてGoogleを使ったのが「デスノート」でググった時だったから、その時の印象がめちゃくちゃ強くて
たくさんの人にポジティブなコメント貰ったり、指摘してもらったり、めちゃくちゃ嬉しいです!
間違ってることはどんどん指摘してほしいです!よろしくお願いします!
ただ、わたしは「正しい年表」を作るつもりはなくて、
それを見た人が「面白いな〜」って思ってくれたら、嬉しくてにや〜ってするよ!
ブコメで正しいことを指摘してもらって、自分の思い出と事実がきちんと重なっていくのはすっきりして気持ちが良いので、
また間違ってること書いたらどんどん教えて下さい!お願いします!
[]でカテゴリ設定するのってこれで合ってるのかな...
こういうテキストは得てして不幸自慢や感傷に浸りがちになってしまうものが多いから
そうならないようにできるだけ書いていこうとおもう。もちろんこれを書く目的はそんなことのためではないし、
最後までかけるのであればこれはむしろポジティブな、読んだ人に何か得るようなものがあるものになってほしい。
両親はとある新興宗教の出だった。二人はその教会の教祖の祝福という名のいわゆる合同結婚の元、結ばれた。
自分はその5番目に生まれた三男末っ子だった。(長女は里子に出されたらしく、実質4人兄弟)
物心がつく前から教会にも行かされていたが、一般的な保育園や幼稚園にも行き
特に当時はうちが変わっているということも意識することはなかった。
それから母と子の4人の子供との生活が始まった。かろうじて離婚は母が嫌がったのでしていなかった。
一応、住んでいる地域も父に合わせ、父の住んでいる地域に家族も引っ越していた。
そのため月末にお小遣いをもらったり誕生日プレゼントなどでその頃まではまだ父と関わることができた。
ただ、住まいも違えば、両親が家族の前で顔を合わせている瞬間を見ることもそれからはなかった。
物心ついてから理由は分かったが、父が宗教を去った、いわゆる還俗によるものだった。
養育費などもないため、母は働くことになり、やがて子供たちが教会に連れて行かれることもなくなった。
教会では私達のような存在を二世と呼び、年頃になれば両親と同じように祝福とよばれる合同結婚をする。
その後、三世、四世、、、などと続いていくのだろうと思う。
小学校に入ると自分の境遇が特殊であることになんとなく気づき始め、
学校の友達とは一種違うこと、宗教という概念はどこかタブーなんだということも静かに悟った。
それから小学3年生になる頃、人生の岐路ともいえる出来事が起きた。
その頃になると家族内で信仰しているのはもはや母だけであった。私も教会のことは口にはしなかったものの小学校はとても充実していた。
その母が敬虔すぎたあまり、小3の夏に布教活動に出ると言い出した。
行き先は 家 族 で アメリカであった。
当時はなんのことかも分からず、旅行気分で帰ってくるものだろうと、旅行など両親の不和から一度も行っていなかったので
私は脳天気なまでに楽しみにしていた。
そのまま父を日本に残し(もはや家族間の交流はなくなり見送りすらなかった)、私達一家は渡米した。
現地での生活はその教会の保有する宗教施設で、自分らと似たような一家が何家庭か集まり、共に暮らす特殊なものだった。
うちの家族は母以外は教会から離れていたので正直まわりの人々としばらく温度差があった。それでも幼かったので多くの他の大人や子供たちとの生活は新鮮で楽しかった。
学校は州の公立の学校に通った。いまでこそ帰国子女という肩書きではあるものの、
一般的な帰国子女というのは現地の学校と併せて、日本人学校に土日通ったりする。
しかし、それはもちろん私立であり、シングルマザーで、かつ他にも兄姉がいるうちのような家庭には
公立学校で経済的にいっぱいいっぱいであった。(姉だけは女の子という理由で無理して通った)
母には話していないが、もちろん人種差別もあった。その分、優しい人々の思いやりにも触れることができた。
日本では禁句であった宗教の話は、無宗教であると伝えると逆に大きく驚かれたのが印象的だった。(これすべて小学校の段階での話である)
住んでいた地域は移民が多く、学校でもESOLの他にスペイン語なども必修科目に含まれていた。
アメリカ人は白人というイメージをしてしまいがちだが、今でこそ言えるが、そんなことは決してなかった。
その地に4~5年暮らし、中学校3年になる頃、宗教ビザが切れ帰国した。
今度の日本での引越し先は父のいた地域とは別で、母の教会でのコネによって貯金がなくとも引っ越すことだけはできた。
正直、日本人学校にも通っていなかった自分はゆとり教育云々依然に日本の勉強に着いて行くのがやっとであった。(漢字や理科など)
英語だけは生い立ちに恵まれたものの、自分だけ答えて授業を進行させてしまうと他の生徒が学べないことを悟り、あまり積極的に参加することも避けた。
一般的には苦手とされるものが、できてしまうとやはりいじめられた。さらに帰国子女という肩書きも裕福な家庭を連想させていたらしい。
しかしそれは人種差別を体感していた自分にとっては人間の本能なのだと甘んじることができた。
間髪いれず続いてきたのが『受験』という壁であった。欧米では高校は義務教育とされており内申のみで入れるものだったのでこればかりはどうしていいのかすら分からなかった。
周りの友達がどうやら塾や予備校というものにいっていることを知った。あれは一種日本の文化といってもいい。
もちろんうちにはそんな金は無かった。もはや家の光熱費すらままならないといっても過言じゃなかった。(学校の友だちにはもちろんそんなことは言えない)
それからしばらくして、当時、担任であった先生からある話を持ちかけられた。それは『帰国子女制度』というものを使う方法であった。
現地での滞在年数や帰国してからの期間などいろいろと条件はあったものの見事にパスした。
その制度を利用すると、体裁としては一般受験をするものの、その制度枠を設けている高校に空きがあれば、ほぼ確実に学力関係なしに入れるという最強チートであった。(大学にもあり)
それのおかげで高校に入学することができた。
さまざまな中国の日系企業を訪問したが、内情はボロボロだと感じる。
もちろん全部ではない。
ユニクロや日本ではボロクソ言われているPanasonicなどはとても健闘している。
でも、雰囲気がどんよりした日系の方が多い。
なぜだろう?
このなぜ?に一部答えているのが下記の記事。
なぜ中国人は日系企業に就職したがらないのか 日本人が知らなかった「不人気の理由」
http://diamond.jp/articles/-/16098
上記は的を得ているものの、広告主との兼ね合いからダイレクトには書いてないが、
いろいろな業種の多くの中国人と話をしてみると、総じて言えば「駐在員」がすべての原因じゃないかと思う。
駐在員としてやってきた日本人は社内・社外でとても恵まれている。
社内においては、権力者としてやって来て絶対権を握り、お伺いを立てる日本との唯一のパイプになることが多い。
彼らが日本にいたころは絶対にやってなかっただろう分野にも口出しができるようになるので、ある種天皇みたいなもんだ。
社外では、現地の人からはちょっと想像つかないような豪華なマンションに住んで、外国人専用のVIP医療サービスを受けて、
外国人がたくさんいる国際学校や身内だらけの日本人学校に通い、日本との移動なども含めて全部会社が負担してくれる。
おまけに、彼ら自身に決裁権があったりするので、日式KTV(日本で言うところのキャバクラ)なども経費と称してバッサリ。
中国人は意外に思われるかもしれませんが、思ったことでも腹の中に留めることが多い。
上司ましてや外国人である彼らに面と向かって言うのは、その会社に見切りをつけた人かアウトローくらいだ。
だから、彼らは言わないが、上の記事を引用しながら言うならば以下のような感じじゃないだろうか。
ローカル企業に比べれば高いけれど、ほとんどの人材は大卒だったりする。
良くも悪くも過激な競争を勝ち抜いてきたのに、欧米系と比べてさほど高いわけじゃない。
おまけに、日本採用という超えられない壁があるから、努力してもどうしようもない。
何をどうすれば昇級するのかが不透明。
そもそもこういう制度を考えるトップや上層部が、コテコテのサラリーマンなので、
職種や業種を超えてステップアップするやり方なんて概念がないので存在しない。
加えて言えば…
中国人(台湾人や香港人も同じ)はキャリアを自分で作っていく。だから、会社に依存しない。
逆に言えばヨソで経験積んでるからみんなのバックグラウンドは異なる。
また、自分自身のキャリアのためにみんな仕事をするのである種わがままだ。
そういう人たちをまとめるには、トップが優秀であること、そして、ある種強権的にものごとを決める勇気があることが大切。
少なくとも私が前職(台湾系)ではそうだったし、それがうまく動いていた(まるで暴力団のようだったが)。
しかし、日本から来る駐在員は優秀だけれど、ただのサラリーマンで、キャリアの一環で中国に来ているだけに過ぎない。
だから、いつまで経ってもサラリーマン的にものごとをのんべんだらりと決めてしまう。
日本語はマイナー言語の最たるもんなので、こういうのを選択する人は言語が似ている朝鮮族か、
英語専攻から漏れた二級人材が多いので、上層部と相まって会社運営をグダグダにしてしまう。
駐在員が英語か現地語しゃべれて日本語を排除するだけでも相当人材の質は上がる。
数回会ったことがあるのですが、死んだ魚の目をしたような日本人社員とも会う。
日本人として期待されるものは、礼儀正しさや、まじめさ、仕事の正確さなどだと思う。
でも、これらの人にはそういうのがなかった。というか、廃人みたいで怖かったです。
こういう人が日本人だからという理由で(駐在員の日本採用だから…と同じ)、中国人スタッフより高かったら、
そんな彼らも結局駐在員から言わせると日本人ということで頼ってしまうのだろう。
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ここで仕事をしても何も得られない、給与も高くないと来れば優秀な人はさっさと見切りをつけるし、
かくして、日系に残っている人材はいまいちな人や残り物だらけになって、雰囲気がどんよりしている。
おまけに、トップ層は総じて日本語に囲まれ、外人な生活しているので中国のことなんてさっぱりわからない。
今は好景気な上に、ローカルの品質が悪すぎて、こんな状態でも売れ行きは伸びていくだろう。
"反抗期"っていうと悪く聞こえるけど、本来は”自立期”というべき期間なんだよ。
その自己表現の仕方が妹さんはある意味分かりやすい「荒れ方・暴れ方」で、
あなたの場合はどう表現していいのか悶々としてしまうって形で分かりづらい形なんじゃないかな?
>たったそれだけなのですが母が「ママのこと好かんとか言うなら●●(妹)と同じ扱いになるよ」
>「『お弁当?知らん』ってことになるよ」「まぁ、そんなことぐらいしかできないけどね」
あなた自身が怒っていいべき事項だよ。
5年間の海外駐在を経て帰国子女になってしまったものの、セルフイメージと周囲からのイメージが
異なり過ぎて辛そうだね。
現実的に勉強についていくのが辛かったら、中高一貫の私立ぽいからサポートを受けるべきだと思う。
もしなかったら、大手予備校や塾にそういうサポートコースあるからHPだけでも調べて
ちなみに帰国子女だから英語ペラペラというけど現地の日本人学校いっていたり、
英語圏でも英米ではない英語圏で肩身が狭かったり、非英語圏の子もいるからそれ程気にしなくていいんじゃない?
ドイツ系ハーフのウェンツ英二も見た目から英語ペラペラで英語のテストでできそうに見えるからと
カンニングにあい結果点数が悪かったので文句を言われたそうだけど「外見で判断するやつが悪い。(テストを)見るやつが悪い。」と
言い切った。
嫌味を言われたら(特に女子の場合は)「話せても子ども言葉だし、文法も分からないよ」と自分をちょっと下げて相手に優越感を持たせるのも手ではないかな。
成る程。つまり、第二次世界大戦の時に米国で日系人が迫害受けたけれど、彼らは米国人だから正しくない、っていうのと同じだよね。
真っ先に切るべきカードではない事は理解したけどじゃあ朝鮮という経済制裁をすればミサイル打ち込んでくるような国に対して日本は何をもって非難の意を表すべきだと思う?結構手は出尽くしてると思うんだけどな。そもそも彼らのご先祖が日本に来たときは存在してなかった「北朝鮮」っていう看板を掲げている民族学校が何故大事なのかがもうちょっと理解したいのでなんかいい情報や説明をよろしく。なんで韓国人学校じゃなくて朝鮮学校に拘るのか、ちょっと理解が薄いんで。
あと、
それでは北朝鮮と変わらない。
ってあったけど、北朝鮮じゃ日本人学校なんてないでしょ。もし作ろうものなら支援なんて考えられもしないでしょ。
日本は朝鮮学校を今取りつぶそうともしてないし、国籍が朝鮮の人々を強制退去させようともしてない。今日本の社会で朝鮮籍で生活してる事を許容している。
それだけでも全然違うよ。逆のことできないでしょ。日本人が向こうに行ったら生活どころか通信すらできないでしょ。
戦争を起こそうとしている(まあもう起きているんだが)朝鮮への流通、金融機関、団体への制裁と同時に、教育機関に国として制裁を入れるのが筋が悪いとは私は思わない。
それがたまたま、今回無償化対象の移行期間に起きただけ。その問題を混ぜてる人があまりにも多すぎる。
私は、私達がある程度の規制を受けながらも米国や欧州で暮らす選択肢があるのと同じように、彼らが自分の起源としないと自覚しながら日本という社会で生きていく選択肢があるのは悪い事じゃないと思う。もっとも、戦争を起こそうとして他人を脅かさせる朝鮮という国の籍より、韓国籍の方がもっと悪く無いと思うだろうけどね。
ttp://nihon9999.blog77.fc2.com/blog-entry-4517.html
105 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 09:58:05 ID:UDsN7pWl
118 :可愛い奥様:2010/03/05(金) 09:51:24 ID:ZqXvSO5Z0
厚生労働委員会より。
643 名前:無記名投票[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 09:40:50.37 ID:6gCLyOWn
事実である @厚労
107 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 10:00:56 ID:a5gnitpd
»105
さっきやってましたな
タムノリが結構突っ込んでた
朝鮮学校無償化よりこっちのほうが危ういんだが
108 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 10:01:29 ID:R0uNTZxd
»105
その為に、
110 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 10:01:46 ID:KKXLzB+y
»105
えええええええええええええええ
115 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 10:05:53 ID:GpZ0vE8P
»105
てか、子供の数はどうやって確認するん?
単なる自己申告制?
120 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 10:10:55 ID:YcjPOwbk
»105
逆に高校無償化については海外の日本人学校に通う子弟は対象外らしいね
132 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 10:33:13 ID:qe7tYFXC
»105
へ?
その場合、養子も対象になるんですか???
国によっては、日本円で26,000円って滅茶苦茶デカイし・・・
133 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 10:34:19 ID:R0uNTZxd
»105
172 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 11:15:38 ID:+jSsBn7y
»105
米兵にも出るのかなあ?
195 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 11:35:41 ID:kbx5A2bm
»105
両親を失った日本国籍を持つ子に支給はされないが
そうだなぁ、シナーや半島の戸籍ブローカーは諸手を挙げて大賛成するだろうな。
養子になったら\10000等で人募集して残り\16000ピンハネ。