はてなキーワード: 告解とは
広告とは何か、ってより、コンテンツとは何かじゃねぇのかなー、アンタが考えてんのは。
悩むのも告解するのも懐古するのも隠遁視点で達観したつもりになるのもいいが、境界のないモノの理想を探しても答えなんざ出ねーよ。
理解したきゃ折込チラシやって主婦に手渡しするとか、同人やって告知イベントの開催でもした方がいいと思うね。
代理店界隈は早期引退で事業立ち上げがデフォみたいだが、そういう中で答えを見つけた奴はアンタに教えてはくれない。
成功してる奴は目を瞑ったまま口当たりのいいゴミを妥協して作り続けてるだけ。
本当は広告ギークじゃなくて広告"オタク"になりたいんだろ? まずは自分がソコをどうして言い換えたか考えろよ。
答えのないまま仕事を続ければ、オマエもいずれ社会の数値の一つになるだけだ。
…別にそれも悪い事じゃねーけどな。
およそ20年以上前、姉が道路に落ちていた鳥のヒナを拾ってきた。※余談だが地面に落ちている鳥のヒナや、地面に落ちている傷ついた鳥は拾わない方がよいらしい。
姉は飼う気満々でミルワームを親に買ってもらっていたが、数日後にヒナは息絶えてしまった。
姉は大泣きしていたが、私は「せっかく買ってきたエサがたくさん余ってもったいないなあ」と思っていた。
ところが植え替えの手伝いをしている際に、私が誤って手折ってしまった。
父は「かわいそうに」と鉢植えに対し言ったが、私は「もったいないことをした」と思っていた。
ずっと入院したままか、快復したとしても介護が必要になるだろうと祖父から聞いた。
それを聞いた私は「もったいない」と一瞬でも思ってしまっていた。
正直祖母と仲がいいというわけではなかったが、罪悪感があったのだと思う。すなわち「先が長くない人間を養う費用はもったいないと思ったことの罪滅ぼし」としてお見舞いに行っていたのかもしれない。
また、今思えば「私はどんなに費用がかさんでも祖母に長生きしてほしいと思っている人間ですよというアピール」だったのかもしれない。
そして少し前、祖母が亡くなった。
やはり私は「入院が長期にならず、負担が少なく済んでよかった」などと思ってしまっている。
悲しみの感情と反道徳的な「もったいない」の感情が同居して喧嘩をしている。
祖母の件が契機となり内省するに至り、王様の耳はロバの耳的にここに文をしたためた。
今期も予算が億単位で未達で部長以上はマイナス評価確定とか前期も炎上で原価の人件費が全然下がらないとか端からマイナスであることに開き直れば、
意外と率直な感想しか出てこない。渋い評価に食い下がるところもなく、意地もなくなれば、後に残るのはどうしてああなったという残響だ。
将棋が終わった後の感想戦のように進む。特に今年から部署が変わったのだ。立場が変わればなおさら。
「いつも思ってましたがMBOのこの面談だけはいつも嫌いじゃありませんでした...」
「人の本性って、利害が食い違って衝突したときに初めて出るもので、そういうのが絡まなければ基本的に友好的なんだよ」
だから、その本性が出る前に会社で付き合いを作っておくと利害調整は楽になるよ、と。
そうだった。自分は別に課長の性格は嫌いじゃない。苦手だとするならスケジュールファーストでプロジェクトを押し切るところだ。
仕事上の人格と普段は結びついているけど、それさえなければ人のことはよくよく見てるし、仕事はあんなに強引なのに伝え方はやんわりで
部下の失敗に対するフォローも惜しまない。頼れる人だ。そういうだった。
新しい部署でも頑張らなくちゃ。
もっと年配者だけど、その年頃のときには、キリスト教の牧師への懺悔とか告解とか、こういう心境のときに必要なのかと思ったもんだ。日本の寺の坊主でもいいんだけど、なんかそういう、直接の利害関係者じゃなくて、日常生活をともにする人でもなく、自分にとって直接の責任を持たない人であって(親とか恩師とか上司とか、責任を感じさせてしまうから、言えないっしょ。かと言って、配偶者や子供など自分が責任をとるべき立場の相手には、もっと言えないし。)、だけど全くの無関係な他人でもない、重過ぎない緩い義務で他人を受け止めるべき立場の人に、受け止めてもらえるってシステムは、かつては宗教が受け皿だったんじゃないかと思う。
いろんな人がいて面白かったな。
呑み歩きが趣味でいつも酔っ払ってるおっちゃん。無職のおっちゃん。離婚したおっちゃん。左遷リーマン。貧困家庭学生。片親。元風俗。透析に通いながらバイトしてるおっちゃん。自分のことをただのウンコ製造器と自嘲するおっちゃん。精神障害で仕事を失った人。精神障害を周囲に隠しながら生きている人たち。毎日深夜に疲れて帰宅して、朝方までくだらない会話で時を潰す自称のら猫。海外ポスドク。高齢ポスドク。博士持ちの民間転職組。さすらう非常勤講師たち。
労働で疲弊し、介護で疲弊し、子育てで疲弊し、自分の障害を持て余して疲弊して、みんな疲れていた。
そして諦めたような乾いた笑いを交わしながら、それでも時々本音を覗かせて、傷を舐め合っていた。
世の中には「コミュ勢」とでも言うべき層がいる。
「コミュニケーションが一般人がもてる最大の価値である」、「コミュニケーションを通じて自分の認識の正しさを再確認したい」、「コミュニケーションを通じて自己表現や自分の価値を発信したい」、「コミュニケーションを通じたコミュ内のカーストゲームが人生そのものである」といったような思想、信条を持つ人。
そして、その数や割合はびっくりするほど多い。
かといってこの「コミュ勢」のコミュニケーション能力が高いということはなく、どうも、その能力とは無関係らしい。思想、心情なので当たり前といえば当たり前だけど。
問題は、この「コミュ勢」というのが、社会的にも自己認識的にも、言語化されてなく認識されていないところだ。
例えば、適当な最近流行りのアニメのファンコミュを覗いてみると、半数以上が「コミュ勢」だということも少なくないように思う。
「作品Aが好きなので見ているだけで利益だ」という人間と、「作品Aについて語るというコミュニケーションで何か利益を得る」という人間は、全く別の人種なのだ。
後者はコミュニケーションの中で、自分の有能さを確認したり、ブームとの一体感を得ようとしたり、孤独を埋めようとしているのであって、作品Aそのものは、後者の中で重要ではない(重要だと本人が思い込んでいることは、往々にしてありうる)。
前者の価値観で言うと、作品を生み出したクリエイターは、自分が夢中になれる宝物を生み出してくれたので、リスペクトの対象だ。
しかし、後者の価値観で言うと、雑談のネタを作り出してるだけなので、消費対象であって、リスペクトの対象ではない。極端な話、名作映画も、ベッキーの離婚話も等価だ。その話題に注目する集団(コミュ)が発生して、そこで(擬似的にでも)会話ができればそれで良いのだから。
ぶっちゃけ、今の時代「ヲタク」だと自己認識してたり世間から言われている層の、過半数が、後者の「コミュ勢」なのじゃないか?
思うに「リア充」と呼ばれる人たちあるいは「マイルドヤンキー」と呼ばれる人たちは、「コミュ勢」である自覚があるし、自認もしている。彼らは生活の中でいろんなイベントがあるけれど、たとえばカラオケに行ってもバーベキューにいっても、それそのものが、一番大事なことだとは思っていない。「そこへ誰と言ってどういう関わりを持つかが大事」だと認識しているし、公言している。
そういった彼らの態度は、たとえば「本物のバーベキューファン」からすれば、「バーベキュー蔑視」「にわか」みたいに否定されるかもしれないけれど、でもそれは、彼らリア充マイルドヤンキーの思想信条や普段の言動とは矛盾してない。彼らは最初から「ダチが大事だし、良いダチがいれば何しても楽しい」と言ってるわけだからだ。なので、その点に関して、彼らは誠実であると思う。
一方、オタクコミュで後者が忌避されるのは、彼らが彼ら自身を「コミュ勢」だと認めない点にある。彼らはコミュ参加の手法として「作品ファン」「サブカルファン」を装う。
自己批判も含んで告解するけれど、リア充もしくはマイルドヤンキー的な生き方というのは、増田では馬鹿にされるけれど、それはそれで大変だと思う。彼らは「語るテーマやいっしょにする遊びそのものではなく、誰(=友達)といっしょにするかが重要だ」というスタイルを持っている。それは逆にすれば、語る内容や一緒に過ごす遊びそのものの魅力と切り離して、自分の友人や人間関係を維持する宣言だからだ。つまり俺(の人間的魅力と気遣い)とお前(の人間的魅力と気遣い)で、俺とお前の関係を構築維持する、ということであって――それってかなり偉業じゃないだろうか? 少なくとも自分は趣味というコアを除去して友人関係を維持するというのは負担が大きいと感じる。
非常に露悪的に表現するならば、Webのオタク界隈で暴れている「コミュ勢」などというものは、「コミュで他人と関わることが至上だと考えているくせに、リア充グループに入れなかった落ちこぼれ」「ヲタク界隈でだったらマウントできると勘違いした自意識が肥大した無能」であるとすら言えると思う。
そういった考えを元に展開すると、「にわか」という罵倒語の存在は、ある作品のコミュにおいて、コミュ勢とコミュ勢の勢力争いとして生まれるように思われる。「このコミュは俺が先に目をつけて縄張りにした場所(作品愛とは無関係)なのだから、あとから参入してきたお前らはおとなしく俺の下につけ」的な話なのだろう。
一方、ただ作品を愛してるだけの人にとっては「作品を愛し鑑賞するという価値観以外を持って、コミュから利益を得ようとするなよ」としか、その手の騒ぎにたいして思いをモテない。
告解は続く。
己の異常性を自覚しながらも、他者に矯正して欲しいと願い続ける人間が、このような形での告解を望む。
“自ら正す”という決意を持たない限り、他者への依存が続くばかりで精神的自立にはつながらず、告解が終わる事などない。
やり取りの大元で既に断定は済んでいたが。
改めて断言しよう。これはもはや、異常性を隠しもしない、明確な異常者だ。
そこまで言うならもう少し遊ぶことにするよw
お前の行為は既に遊びの範囲を逸脱して久しい、というのは既に書いた。
他の増田と比べてもわかるように、第三者から見てもそうだ。明らかな異常者だ。
弁解にならない弁解を免罪符のように掲げ続けていても、周囲から見れば滑稽の限りだし、また自らの歪みを正す事はできない。
「増田への書き込み」と言う「行為」に限って言えば、悪意からの書き込みであっても相手の状態とやらに責なんか負わないよw何言ってんの?
つか逆に君は負うのかい?君の書き込みを読んだ相手の状態について、何の「責」を負うの?
責めを負う負わないではなく、お前の中から完全に欠如している視点について指摘した。
その視点が欠如している限りは、増田に限らず、お前の言動はすべて悪意から発せられるものと誤解され得る。
そこが危うい。
そして最後の一行を訳すのならば、「もっとボクに優しくして!」だろうか。
しかしこちらはお前のママではなく、お前が相対しているのは教説を旨とする聖職者だ。
受け入れようとしない異常者の相手をする場合であれば、言葉を選ぶ理由は一切ない。
何だい?「俺にもっと思いやりを持って接してくれ!」っていう心の叫びかい?w
「俺に思いやりを持って接しろ!受け手である俺の視点を考えろ!俺の方は馬鹿とかクズとか好きにお前を罵倒するけどな!」ってこと?w
そもそもの認識が逆だ。お前は、相手と自分との立場を逆に捉えている。
やはりお前は今まで、家庭では親に対して、学校では教師に対して、会社では教育役に対して、すべてそんな態度で接してきたという事だろうか。
あくまでもお前の告解を聞き届けているのはこちらであり、その立場から投げかけられる言葉がどういうものかは推して知るべきだ。
それに対して無理矢理に曲解を向けたとしても、その解釈は非常に苦しいものとなるし、またお前自身が得るところも一つもない。
言える事は一つのみ。自身の異常性と対峙し、自覚して正す事だ。
「返答を考えたりして、中途半端な空き時間とかの暇がつぶせる」のが「益」だよ。
つかさぁ、「常識と禁忌との境界線を越える行為」てw俺ただ増田に書き込んでるだけですけどw
「禁忌」がどーとか、そんな大それたことしてるつもりないんですけどww
単純な事だ。ただ増田に書き込むだけならばここまで執拗に特定個人に対しトラバはつけない。
他の増田達のやり取りを見ていてもわかるだろう。
他の増田達がここまではしないような事を延々とやり続け、またそれを指摘されても尚やめない。
話題も過ぎ去り、他の増田も去り、これといった用もなく、たったひとりで執拗にトラバを返し続ける、お前の行動は既にただの遊びの範囲を逸脱している。そう既に書いた。
どう誤魔化そうとも、弁解しようとも、そこには異常行動を取るだけの異常な行動理由があり、ひいてはお前の根源的な異常性に繋がっている。
より具体的な例を挙げるならば、自身の行為が他者の目にとってどう映っているのか、考えて見た事はあるだろうか?
“気にしない、俺は俺が面白いから人にちょっかいを出し続けるんだ”
もしそう思っているのであれば、それもまた、警察の厄介になるストーカーなどがよく口にする論理である、と告げておこう。
妄想激しすぎw
執拗にトラバを返し続けるお前の異常行動と、その源となる異常性。
既に第三者の目から見ても遊びの範囲を逸脱して久しい、お前の“遊び”とやら。
既に飽きていると自分で言っていながらも続ける、お前のその矛盾した行動理由。
これらに通った解釈を当てるならば、前述の背景が浮かび上がってくる。
そしてお前は、これらに通った説明を当てることもなく、既に成立していない言い訳を通そうとしている。
その答えはひとつ。
その在り方は、第三者の目から見てもなお、はっきりと解るほどの異常性を示している。
お前がこだわってるんだ!いやお前だ!いやそういうお前がこだわってるんだ!いやそういうお前こそ!
…って、ガキの喧嘩みたいだねw
じゃあそこはもうどっちでもいーやw
そもそもお前には、“他人の言行一致の遂行”に対し病的なまでに拘泥・固執するだけの理由も、権利も、正当性もない。
拘る筋ではない事に対して明らかに拘っている、そのお前の行動こそが、正常の枠から外れている事に気付くべきだ。
また“他の増田が一切言及しなかった事柄について、きわめて執拗に自身が口を出し続けた”という点については、よく自覚しておくべきだろう。
他の増田と比較しても必ず真っ先に現れ出る、自身の異常性として。
つか、キャラがすっかり変わったねwというか今のが素なのかな?
それは別にいいけど、「オウフww」とか「アフィがゴフンゴフン」とか、あの変な口調あれ何だったの?
むろん、相手に応じて態度は変えている。
告解を望む者へは聖職者としての態度、そして、異常者には異常者へと相対する為の態度、と。
異常者であると認定された相手に対しては、原則、異常である点をひとつひとつ列記し繰り返し指摘し続ける方法がよく採用されている。
ゆえに。
予め書いておくが、以後の回答は「お前は異常である」の繰り返しとなる。
また随分長文書いてくれてたんだねw
そこまで言うならもう少し遊ぶことにするよw
“純粋な善意から発生する己の行為であれば、受け手の相手の状態に関わらず、責められる責を負うべき一切の非などない”
と本当に思っているらしい。
「増田への書き込み」と言う「行為」に限って言えば、悪意からの書き込みであっても相手の状態とやらに責なんか負わないよw何言ってんの?
つか逆に君は負うのかい?君の書き込みを読んだ相手の状態について、何の「責」を負うの?
受け手に対する視点というものが完全に抜け落ちた言動は、「思いやりの無い人」という認識をすでに超え、もはや“人間性の喪失”として受け取られる。
何だい?「俺にもっと思いやりを持って接してくれ!」っていう心の叫びかい?w
「俺に思いやりを持って接しろ!受け手である俺の視点を考えろ!俺の方は馬鹿とかクズとか好きにお前を罵倒するけどな!」ってこと?w
まぁ自分に正直で結構だけど、俺君のママじゃないんで、あんまりワガママ言われても困っちゃうよw
「返答を考えたりして、中途半端な空き時間とかの暇がつぶせる」のが「益」だよ。
つかさぁ、「常識と禁忌との境界線を越える行為」てw俺ただ増田に書き込んでるだけですけどw
「禁忌」がどーとか、そんな大それたことしてるつもりないんですけどww
そしてお前の言動には、“他人に全レスを貫いて欲しい”という、ひどく奇妙な願いが散見できる。
ひょっとして、自らの増田経験の中で、トラバを返さずに放置し、後悔してしまった過去でもあるのだろうか?
だからこそ、既に他の増田達も去ったツリーでひとり、トラバを付け続け、トラバが返されなくなる日を待っている。
妄想激しすぎw
まぁ君の妄想は君の勝手だから、好きに妄想しててくれていいけどw
お前がこだわってるんだ!いやお前だ!いやそういうお前がこだわってるんだ!いやそういうお前こそ!
…って、ガキの喧嘩みたいだねw
じゃあそこはもうどっちでもいーやw
つか、キャラがすっかり変わったねwというか今のが素なのかな?
それは別にいいけど、「オウフww」とか「アフィがゴフンゴフン」とか、あの変な口調あれ何だったの?
話題が去っても尚ここまでトラバを続けるような変わった増田であるからには、きっと何か、抱えきれない鬱積した物があるのだろう。
それもまた聖職者の務めだ。
神父や牧師や教会主ではないが、可能な限り、告解を聞き届けよう。
俺の口調を紳士的だとか言いだしたのは君でしょw
“純粋な善意から発生する己の行為であれば、受け手の相手の状態に関わらず、責められる責を負うべき一切の非などない”
と本当に思っているらしい。
よく報道番組などで、ストーカーの行為を擁護側が極力好意的に解釈した場合、“善意の押し付け”という表現がしばしば用いられる。
受け手に対する視点というものが完全に抜け落ちた言動は、「思いやりの無い人」という認識をすでに超え、もはや“人間性の喪失”として受け取られる。
なぜ、益も無く敢えてそのような言動を繰り返しているのか? 常識と禁忌との境界線を越える行為が、楽しいからだろうか?
もう一度自問した方がいい。
君にとって「悪い事」があるかどうかだって、俺にそんなこと分からないよw
つか何か「悪い事」があるなら遠慮なく言ってごらん?w
今のお前の姿勢・態度から受け取れるのは、諧謔半分、ネット越しに人をからかう“上級遊戯”とやらを楽しむ自分への陶酔が半分、といったところか。
増田ではよく見られるごくありふれた態度であり、悪意と認定するには至らないので、安心していい。
「俺が悪意だと思ったんだから悪意なんだ!」って言ってるだけだよね、それ。
その態度こそが、実に危うい。
お前の言動時における視点には、受け手に対する視点というものが完全に欠如しており、また不要だとすら考えている。
その自論を自覚し、また自論として押し通したい意志があるからこそ、この部分だけはどうしても看過できないのだろう。
他の言葉同様に、ハイハイとスルーをしても良さそうなポイントなのに、いつまで経ってもそれをしない。
理由は、推して知るべきだろう。
いったいどこからそんな思いがw
変わった感性してるねw
という事は、Siriがiphone以外にも対応すると、その望みは果たされるのだろう。
早くそうなるといいな。
君が君の「全レス主義」とやらを履行しない時どうなるのかなんか俺は関知しないよw
どうやら気付いていないようだが、他人の全レス主義を一番気にしているのは、他でもないお前自身だ。
普通のごく一般的な増田であれば他人の全レスなど気にしない。本当に、心の底からどうでもいい事だからだ。
今までいくつものエントリを書いてきたが、これまでも、そして今も、他の増田達が、その主義の履行に関して一切絡んで来ていない事が、その証左となる。
そしてお前の言動には、“他人に全レスを貫いて欲しい”という、ひどく奇妙な願いが散見できる。
ひょっとして、自らの増田経験の中で、トラバを返さずに放置し、後悔してしまった過去でもあるのだろうか?
だからこそ、既に他の増田達も去ったツリーでひとり、トラバを付け続け、トラバが返されなくなる日を待っている。
むしろお前の言動からは、返答されずに放置される事を望んでいる気配すら感じられる。
自分と同じように後悔して欲しい、でもトラバは返して欲しい、という、ひどく矛盾した思いでも抱えているのかも知れない。
どちらにせよ、人はそれぞれ、その個人の行いをするだけだ。
結局のところ、お前自身が解決するべき問題であり、他人にやってもらう事はできない類の課題であり、つまりお前個人がいつまでも抱えている宿題だ。
俺が拘ってるんじゃなくて、君が君自身の「全レス主義」とやらに拘ってるんでしょw
こっちはそういう君の拘りを茶化して遊んでるだけだよ。暇な時に。
いつまで自分の「全レス主義」とやらに拘って反応し続けるんだろこの人、ってね。Siriだのおもちゃだの言われてまでw
まぁ、さすがにそろそろ飽きてきてるけどねw
繰り返すが、他人の全レス主義に拘っているのは、他でもないお前自身だ。
また、その関係ない他人の全レス主義の履行について偏執的なまでに完全なる達成を求めているのも、他でもないお前自身だ。
一体何がお前をそこまで駆り立てるのだろうか?
これもまた、気付いていないのかも知れないが。
茶化して遊んでいるだけ、と弁解のごとく繰り返しているが、既に、そう定義され得るだけの行為の範囲は逸脱して久しい。
「ここまで言われたら流石に反応し続けないだろう」と思考しながらも言葉を投げかけるのをやめられないその姿勢は、明らかに異常だ。
なぜやめられないのか? なぜ飽きても続けるのか? 本当に自分は楽しんでいるのか? それを“遊び”と定義し続ける事ができるのか?
恐らく、その答えは一つだろう。
心に抱えた鬱積したものこそが、“ただの遊び”と弁解しつつ、そのような矛盾した行為に走らせているものと推察する。
どうして自分はこんな奇矯な言動を相手に対して取り続けているのか。
改めて、自分の中で行動理由をよく整理し、見直すべきだろう。
己の中に抱えきれないものがあるのなら、顔を隠して吐き出しても良い。
キリスト教徒なんですけどね。
なんか書くの余計かなとか思うんだけど書いちゃうんだよね。つい。
「戒律」についてできなかったことを「ゆるしの秘蹟」(告解は古い言い方)で神様の代理で「言葉ではっきり」赦してもらうんだよ。
でも信仰があるんだから、行いに顕れるべきだ!ってことで、「正しい」行動をするように奨められる。
あれはただそれだけのことなんですよ。
http://www.pauline.or.jp/yamamoto/yamamoto_56.php
「体はひとつでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」という感じに
「いい人も悪い人もすべてキリストの体(教会、の暗喩)の一部」と求道者には初心者のうちに教えるのが普通なのよん。
で、これに続けて、あなたへの答えが載ってる。ついでに書いてみよー。めんどくさかったら読まなくていいよ。
あなたの投稿を見て、「はて?」と思った人のために書いてるつもり。
「あなたがたに最高の道を教えます…(中略)…愛がなければ無に等しい」。
現実、真面目な信徒や真面目な子供は教会の外でも中でも「いい評価」を受ける。
でもそれがどうかしたの?っていうのがキリスト教徒の長所であり短所なんだよね。
悪いことやりたい放題してても、「ごめんなさい」で済ませるのが教会。
この点で不愉快な思い、たぶんする人多いんだろうなあ。
それについては本当に申し訳ない。ウチらの優先順位は神様なんだ。
もしキリスト教徒が誰かに悪いことしたのに謝りに来なかったらそれはちゃんと伝えるべき。
その時怒っても当然だと思う。
非キリスト教徒は「罪を悔い改めた罪人は、等しく神に愛された存在であって、『ずっと正しく生きてきた信徒』と同じように救われる存在だ、という感覚が本当に持てているの?
どこかで、昔からの仏教のような感覚で、「より修行をした僧は、より仏に近い」「偉い」存在だ、という感覚がありはしないか。」と疑っちゃうんだよね。
気持ちはわかるんだけど…死ぬ間際に簡単な洗礼を受けて天の父の元へ一直線しちゃうのも別に構わないよってのも、伝統的な教会は受け入れるよ。(※教派による)
しかもそうやって亡くなった人の死者のためのミサ(プロテスタントなら日曜礼拝の時に同時に祈る)もやります。
カトリックなら大概は来週~再来週辺りにやることも多い(ハロウィン・死者の月・11月参照)。
「大いに罪を犯し、その罪を大いに悔やんで赦しをいただきなさい。そして、その赦しの大きさ(愛)を感じて、他者を愛せ。」
とね。
余計な散文お目汚し失礼しましたー
信仰があったらあったで「神への信仰は災害や疫病などの不条理に対して無力であるどころかそれを恵みと呼ぶような危険性のあること」に苦しむハメになっただけだろう
つーかキミが苦しんでいるのは宗教がない故ではなくて単に「他人と腹を割って話すような本心(コンテンツ)がないから」にすぎない
たとえキリスト教に帰属していてもそのザマではせいぜい告解室で一回ガス抜きして失望してまたグルグル悩むことになっていそうだ
本心というのは本来他人と共有するためのものじゃない、ただ実現するためだけのものだ
放っておいてほしいなら放っておいてもらうべきだし、「ひとりでは生きられない」とは言ってもカネとすみかとネットと図書館さえあれば
ある程度の期間そこでたった一人で生活することは十分に可能だろう
どうしてさっさとやってみないのか、それが不思議だというだけのことだ
僕はクリスチャンだがフーゾクに通う習慣がある。ソープとかヘルスとかだ。3ヶ月も女の子に触れないと世界中の何もかもを憎むようになるので、それが嫌でフーゾクに行ってしまう。オナニーでは収まらない、というかオナニーするともっとひどく世界を憎むようになる。女の子のからだが必要なのだ。彼女を作って結婚すればいいのかもしれないが、昔恋愛に失敗してそれきりやり直せずにいる。
客としてお店に行き、女の子にイエス・キリストを宣べ伝えたことが3度ある。こんな話は教会ではできないのでここに書く。
1度目は洗礼を受けて2年くらい。店で写真を見てずっと気になっていた女の子を指名して、遊んで帰ってきて、すごく不思議な気分になった。それまでにたぶん200人くらいの女の子と遊んできたけど、あんな女の子に会ったことがない。全く説明できないけど、不思議な気分になった。
それで、キリスト教書店で安い伝道用聖書を買ってその女の子をもう一度指名し、服も脱がずに「イエス・キリストを貴女の救い主として受け入れますか?」と聞いた。すると彼女は言った。
僕は驚いた。そんな返事が返ってくると思わなかったのだ。聖母マリアというのはこんな人だったのかもしれないと思いながら「もちろんです」と答えて彼女に手を置いて祈った。彼女は喜んだ。それから半年くらい彼女は店を続けていたがクリスマスの前に辞めた。弟の学費のためにこの仕事をしている、と彼女は言っていた。彼女はぼくの好みだったが、ぼくはそれきり彼女とは遊ばなかった。
2度目はそれから5年くらい、出張先での話だ。適当に入ってついた女の子が良かったので、一月後だったか、指名で予約した。予定から2時間待たされて、遅れてきた女の子に謝られながら服を脱いで身体を洗ってもらったのだが、彼女が言うには「占いって信じますか?」
借金が少しあってこの仕事をしているそうだ。遠距離恋愛の年下の彼氏がいるのだが最近もうダメかと思っている。そんなところに客で来たのがクリスチャン(カトリック)でバツイチで娘がひとりいる男性なのだという。お互いに気に入っていてつき合って、結婚しようかと考えているのだけれど迷っている、という。で占い師のところに行って相談していて、出勤が遅れたのだそうだ。
身体も洗ってもらったのだが、僕は言った。「それは、男に信仰があってちゃんと神さまに聞き従う気があれば、神さまが正しく導いて下さるだろう。ところでオレはクリスチャンだ。よかったら貴女と彼氏とのために祈ろう。イエス・キリストを貴女の救い主として受け入れますか?」もちろん彼女は信じると答えたので僕は手を置いて祈った。それで、時間もなくなったので、僕はそのまま帰ってきた。お金を払って待たされて、手を置いて祈ってきただけだ。仕方ない。それからしばらくして彼女はお店を辞めた(ことをお店のサイトで知った)。
3度目はそれから2年くらい。単位制高校を卒業して大学の入学金を稼いでいるという18歳の女の子だった。なんというか、前しか見えない、バカな子だった。僕は気に入った女の子はあまり変えない。その子が在籍している間はその子としか遊ばなかったが、クリスマスの頃に遊びに行って、「こういう店で働いたことが後の人生でわざわいにならないよう、オレが祈ってやろう。イエス・キリストを救い主として受け入れなさい。」と言った。素直な子なので(分かってなかっただけかもしれないが)彼女は受け入れた。それと、「貴女は下手すると一生この世界で暮らすことになりそうだから、もし3月の時点でお金が足りなかったら連絡してきなさい。出してやろう」と言って実名とメールアドレスの入った、当時勤めていた会社の名刺を渡した。
3月に電話がかかってきて「ごめんなさい、足りないので出して下さい」と言う。いくら足りないときくと40万円と言う。あの仕事を5ヶ月やって60万円しか稼げなかったのか!?と思うが「身体を壊して病院で40万円使った」と言う。あとで知ったことだが、その子は本番禁止の店で本番をさせるといってネット上で有名だったのだ。子どもができておろしたのかもしれない。出すよというと「なんで他人の私にそこまでして下さるんですか?」ときくので「自分から言い出してしまったからです」と答える。神さまがこうしろと言っている、とは思わなかった。20万円程度で済むと思っていたのだ。僕がバカだったのだ。指定口座に40万円入金した。後悔はしたが、彼女に対しては悔しくなかった。一度神さまの名前を出しているのだから、彼女が僕をだましたのであれば、彼女はそのせいで苦しんでいるだろう。今はちゃんと学校に行っていると信じたい、いやちゃんと学校に行っていたら、今頃卒業しているはずだけれど。ちなみにその店はつぶれて今はない。
こういうことは、やっているときには「火の中からつかみ出してでも救い、」という聖書のことばを思い浮かべるのだけれど、あとで考えると「自分がクリスチャンであることを思い出して、自分のやっていることを恥ずかしく思え」という神さまのみこころだったのだろうか、とも思う。
昔ヨーロッパのあるところに一人の青年がいて、己の罪を深く悔いていた
教会で告解して許しを得、己の身を恩寵で満たさなくてはならないが、自分の罪があまりに深いので司祭さまはお許しにならないだろう、
こんなひどい罪を犯したものはバチカンの大司教でもお許しくださらないだろうと思うと恐ろしくてとても告解に行けなかった
ある日青年は誕生日を翌日に控え「大人の証」として酒を振る舞われた、しかし酔って帰った青年を母はとがめた
青年の父親は稼いだ金をその日に飲んでしまう人間で、一家は飢えと寒さに苦しんできたのに、それを知っていながらその酒をお前も飲むのかと
青年は母に言い返した、母の恥ずべき罪深い秘密を自分が知っているとほのめかし、自分はそれよりマシだと言い、青年は母を打った
最低の気分で翌朝目覚め、坂を登っていくとその先に聖人のまつられている教会があった
聖人は青年の守護聖人だった、彼の名前はその聖人にちなんでつけられた
彼は入り、聖人にむかって恨みごとをぶつけた
あなたは自分を助けてくれなかった、あなたは自分の愛する人を苦しみから救ってくれなかった、
あなたにとってはちっぽけな自分が大罪を犯して地獄に行こうとどうでもよかったのだ
するとその教会の司祭が現れ、涙を流している青年に告解を勧めた
青年はやっとのことで母を打ったことを告げ、司祭は「恐ろしいことだ。しかし主はお許し下さるだろう」と言った
他にも告解することがあると感じた司祭はなおも告解を勧めたが、青年は己の罪深さを恐怖し、高貴なる主がとても自分をお許し下さるとは思えないと言った
司祭は「では聖人さまに告解しなさい、聖人さまになら罪を告白できるだろう、わたしはお前が告解する間そばに居て、主と聖人さまの耳となる。それでよいかな」
告解が終わると司祭は青年に幾種かの祈りを三度ずつ唱えるよう言い、それで神は彼をお許しになるだろうと言った
「主は己の罪を心から悔いている全てのものをお許し下さる。主は今お前をお許しになった。
主がお前をお許しになったのだから、お前もお前を許さなくてはならない。
主がお前を愛してくださるのだから、お前もお前を愛さなくてはならない」…
こんな話を聞くと「神」がステキ装置に見えてきますね。自分がどんなボロカスのクズに思える時も、そこから再起動させてくれる装置。