およそ20年以上前、姉が道路に落ちていた鳥のヒナを拾ってきた。※余談だが地面に落ちている鳥のヒナや、地面に落ちている傷ついた鳥は拾わない方がよいらしい。
姉は飼う気満々でミルワームを親に買ってもらっていたが、数日後にヒナは息絶えてしまった。
姉は大泣きしていたが、私は「せっかく買ってきたエサがたくさん余ってもったいないなあ」と思っていた。
ところが植え替えの手伝いをしている際に、私が誤って手折ってしまった。
父は「かわいそうに」と鉢植えに対し言ったが、私は「もったいないことをした」と思っていた。
ずっと入院したままか、快復したとしても介護が必要になるだろうと祖父から聞いた。
それを聞いた私は「もったいない」と一瞬でも思ってしまっていた。
正直祖母と仲がいいというわけではなかったが、罪悪感があったのだと思う。すなわち「先が長くない人間を養う費用はもったいないと思ったことの罪滅ぼし」としてお見舞いに行っていたのかもしれない。
また、今思えば「私はどんなに費用がかさんでも祖母に長生きしてほしいと思っている人間ですよというアピール」だったのかもしれない。
そして少し前、祖母が亡くなった。
やはり私は「入院が長期にならず、負担が少なく済んでよかった」などと思ってしまっている。
悲しみの感情と反道徳的な「もったいない」の感情が同居して喧嘩をしている。
祖母の件が契機となり内省するに至り、王様の耳はロバの耳的にここに文をしたためた。
ドストエフスキーの著作をたくさん読んでほしい。人間の醜さには限りがなく、一方で高貴さも兼ね備えていること…などについてもっと知ってほしい。