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来年の初詣は「分散参詣」を 成田山新勝寺のコロナ対策 参道入り口で検温や歩行者誘導も | 千葉日報オンライン
なんかさあ、「分散参拝」しか呼びかけないのが手ぬるい。来年の初詣は人の混みあう寺社ではなく近所の寺社へ、と呼びかけるべきでしょ
ベビーカー相手にはこんなことを言ってたんだからね。コロナが収まるまでの数年間くらい、人の混みあう寺社への初詣はご遠慮いただくべきでしょ。こんなことを平気でベビーカー相手に言ってたような奴が、来年の正月に人の混みあう寺社行ってたらただのテロリストだよな。どうせ、こんなこと言ってた奴も人の混みあう寺社に行くんだろうし、人の混みあう寺社に行く人間を咎めようともしないんだろうし。みんなのサンドバッグ・ベビーカー。ベビーカーで人の混みあう寺社に行くのと、コロナが暴れてるにもかかわらずクラスター上等と言わんばかりに人の混みあう寺社に初詣に行くのと、どっちが危険なんだか。はっきり言って、ベビーカー相手にさんざん言いたい放題言ってた奴が、コロナが暴れてるのに人の混みあう寺社に行くのを咎めないとしたら、そいつのことを人殺しと呼んでやるよ。
ベビーカー排除の風潮はバリアフリーや合理的配慮をも阻害する - Togetter
で、何故「混み合っている時は避ける」とか「もっと参拝しやすいところに行く」とかいう利用者側が相手に配慮するという視点はまるっと抜け落ちてるんですかね...この寺は公共施設じゃなく私有地なんですがね。
ベビーカーと障がい者を一緒にして考えるのはミスリードでは。ベビーカーはせいぜい1、2年。その間だけ「三が日に人が一杯いく有名神社・寺に初詣に行く」という行為を遠慮してもらうことが果たして差別なのか?うーん。いやまあ少子化も進んでるし子育ての障壁が云々は分かるけれど……。
「地元の小さな神社や檀家の寺」という選択肢がなぜないのかね。むしろそういう方が好きなタイミングで参拝できると思うのだが。「人の集まることがわかっている寺社仏閣」に行こうとするから不便が発生するんだし。
武威ノ本の戦において軍勢の姿、備えは大事だ。最も大事と主張する者さえいる。
ゆえに同じ備えを用いることで軍勢の強さすら引き継げると考える家が出てくる。これは近年の幌生家四天王や為力家の稲ヶ嶺五行衆のようなユニット化によって、個々の評価を底上げする手法の延長線と言えなくもない。
一方、最初に備えを用いた元祖こそが本物であり、それ以外は評価に値しないとする日ノ本戦国甲斐国民のような原理主義者もいた。
備えを受け継ぐ人物がその備えにふさわしい器量をもっていれば、しっかと強い軍勢を育てられるはずという意見もある。だが、それほどの人物ならば最初から新しい備えで軍勢を育てても成果を挙げられるのではないか。
もちろん、備えを整えるための賄いは莫大なものであり、善し悪しの議論は一筋縄ではない。
実例では、かつて家臣の国士無双により強盛を誇ったM家にて、お家騒動により家臣全員が出奔、その備えを新参の家臣が受け継いだものの精細を欠いた事例がある。
あるいは最初の戦国大名と言われる愛宕縁の備えを同時に四人が用いることで戦力を高い方に引っ張ろうとして逆さまの結果に陥ったこともあった。
また、宝槍家が備えの正統使用者の座を数十人に競わせた催しは、分散して育んだ力を一点に集めていこうとした逆方向の試みと言える。
かように備えの継承は難しいのだが、戦術レベルで一時的に備えを交換する作戦は概して効果的であり、討ち取られる兵も多い。
特に為力家の蟐娥光圀が行った備え替えは大規模なものとして音に聞こえている。
備えは引き継いでいないながら、小鯨白姫の流れを汲みつつユニットの力も発揮した居戸家の十二星将こそが、この手で一番の成功例だったのかもしれない。
なお、血縁者が備えを引き継げば話が変わってくるとも考えられるが、そこまで月日を経ると軍事技術が更新されて備えを引き継ぐ意味も失われる可能性がある。
楠永玉秀の謀略
https://anond.hatelabo.jp/20200823175138
株兎の屈辱
大坂なおみ選手が大会ボイコットで話題になっているが、個人的にはあまり支持できない。
自身が目立つことを優先しているように見えて若干の嫌悪感があるのと、自分の影響力に無自覚なところが気になるのだ。
以前のBLMで大阪でデモをしようと呼びかけがあったときにも感じたのだが、
コロナウィルス感染拡大防止のために飲食店や、スポーツ・音楽イベント等が全て自粛しているときに、
人を集めて集団感染リスクを高めることをよくもできるなと思ったのだ。
そして、そういう慎重な意見をSNSで投げかける人には「あなたは差別主義者なの?」的なリプライをしていて、
大義名分のもとに反対意見を一方的に切り捨てて、対話ができないところも気になった。
で、ぶっちゃけその手の嫌悪感を感じるのは大坂なおみ選手に限ったことだけではない。
環境活動家のグレタさんも苦手だし、反原発運動や最近のフェミニズム運動も苦手だ。
個人的嫌悪感の共通点が何なのか言語化すると、いわゆる『活動家』嫌いという傾向だ。
もっと言うなら、『急進的で実効性が乏しい主張をする人たち』に強い違和感を覚えるのだ。
ぶっちゃけ例として挙げた活動についても、個々の論点自体は賛同できる部分が多い。
黒人の権利は大事だと思うし、気候変動の問題は放置できないし、原発事故の危険性は対処しないといけないと思う。
大学入試で性別が違うだけで合格点が変わるなんて論外だと思う。
が、しかしだ。
それなりに清く正しい社会生活を送っている自負のある一市民に対して、いきなり「良くもそんなことを!」言われて
お前は環境破壊する悪い奴だ見たいなレッテルを張られるのはイラっとするし、自動車を使うなと言われても、利用をやめると生活が成り立たなくなる。
原発事故の危険性は理解している。だけど原発を即時全廃して安定的な電力供給はどうするのだろう?太陽光や風力は天候に左右されるし、
無秩序に再生可能エネルギーの新設を推進したことで、山林の乱開発といった新たな問題も発生している。
東日本大震災後の日本は、天然ガスや石炭火力の比率を増やしてしのいでいるけど、天然ガス資源には産地が偏在しているリスクがあるし、
石炭は比較的産地が分散してるけど、採掘・燃焼による環境破壊や温室効果ガスの排出に目をつぶってよいのだろうか?
性差によって職業差別を受けるのは許してはいけないと思うけど、
いわゆる萌え絵のようなイラストはすべてが男性に媚びるために書かれているのだろうか?
全部まじめに対応した先に待っているのは、人民服や就活のリクスーのような、画一化して多様性のない社会なんじゃないだろうか?
なんというか、正義感で突っ走って始めたものの、『私のいう事を聞け、多少の問題は大義のために目をつぶれ』というような、
話が通じない雑な主張には反射的に虫唾が走ってしまうのだ。
大会ボイコットが警官による射殺事件への抗議なら、落としどころはどこになるのだろう?
BLMが全面的に収束するまで全ての大会をボイコットするのが正解なのだろうか?
個人的には大坂なおみ選手の事例ならば、大会ボイコットというような強硬的な態度を取られるのではなく、
「大会の獲得賞金を全額事件の被害者遺族と支援団体に寄付する。皆さんもこの問題を考えてほしい」的な呼びかけだったら、違和感なくすんなり支持できると思うのだ。
今の態度だと、社会の分断と対立を必要以上に煽る方向になってしまっているように見える。
なんだかんだ言って、社会を構成している人の過半数はノンポリに近い穏健保守派なわけだし、(世論調査の無党派層の多さでわかるだろう)
トーンポリシングと言われるかもしれないが、社会運動をしようとする人たちは、声の大きな支持者よりもサイレントマジョリティの方を向いて世論に刺さるように行動しないと逆効果と思うのだ。
テレワーク導入、導入しないを決めてるのかを表明してないからじゃないかなと思う。
雇用されてる側で、メリット・デメリットを意見するのは当然だけど、
「接触者を減らすために!」
そういうのを会社は表明しないまま、
世間がなんとなくテレワークしてるから「我が社もやらねば!」になって始めたって事かな?
なんとなくテレワーク導入したとか?
いろんな業種があって、テレワークできない仕事もいっぱいあるけど、
会社側が通勤電車を含め、「密を避ける事」「接触人数を減らす・分散する事」「社員の感染リスクを減らす」って言う方針があれば、
それで雇用されてる人が、
カナル型のイヤホンというと、一般人は弾丸型のようなものを耳に詰め込むのを想像するかもしれないが、俺が勧めるのはそれとは違う。
オーディオマニアが装着するイヤホンは、カナル型の中でも大抵はIEM、いわゆるイヤモニのようなものだ。
これの何がいいかというと、補聴器と同じように外耳の形に合わせてつくられているため、遮音性が極めて高いことだ。
高価なものはカスタムIEMと言って耳型を採取して作るのだが、ユニバーサル仕様で一般的な人の耳の形に合わせた筐体で安めに大量生産されるものもある。
最近は主に中国のオーディオブランドより数千円からの安価で高音質なIEM型イヤホンが発売されている。
使ってみると遮音性と音質の両方に驚くことだろう。
こういうものを愛用していれば、外のノイズなど過去の問題になる。部屋に入って呼びかけてきている人の声にすら気づかなくなるレベルなのだ。
耳掛けスタイルの装着になるので慣れないうちは戸惑うかもしれないが、慣れるだけのメリットがある。
耳の後ろにケーブルを這わすことによって、タッチノイズというケーブルに何かが触れたときのノイズも低減される。
これに慣れると、弾丸型のケーブルを下に垂らすタイプのイヤホンを使うのが苦痛に感じるほどだ。
また、外耳全体で筐体を保持し、ケーブルの重みも分散されるので、耳穴にかかる負担が小さい。いいことづくめだ。
これでユニバーサルIEMタイプのイヤホンの世界に踏み込む勇気が湧いてきただろう。
おすすめの機種はたくさんあるが、まずは自分でいろいろ調べてみると良いだろう。
東西でみたhttps://anond.hatelabo.jp/20200811170757は雑だったので、
ちょっと考え直す。
京都に直結する海上の動脈である瀬戸内海周辺の勢力は日本の覇権争いに関心があるが
主に九州の勢力はあまり中央の政治に深入りしたがらない傾向があるんじゃないか。
九州から軍を興して覇権をとったのはそれこそ足利尊氏と幕末だけでは?
南北朝時代には南朝が九州を押さえたのに、それ以上はできなかった。
黒田官兵衛の関ヶ原プランも実際にあったとしても、出身地・拠点から考えて瀬戸内海勢力的なものだろう(藤原広嗣の乱も同じ)。
やはり九州(山陰も?)は大陸との距離が近く、関心が京都と大陸に分散してしまっているのだと思う。
九州なら大陸との関係を独自に構築して地方勢力として独立することも琉球をモデルケースとして考えられる。
磐井の乱にもそういう怖さがあったはず。
白馬観光協会のボスが「コロナ環境後には休日を分散する必要がある」だって。
クソが。
悪夢の民主党政権が分散化を検討した時には即座にフルボッコにした連中がこれ。
コロナって言えば何でも許されると思ってる界隈が多すぎる。
最近、ノーコードが流行っていますね。誰でもコーディング不要でWebサイトやアプリが作れちゃう。
中には、それで収益を上げている人もいるようです。
ただ、ガートナーのハイプ曲線で見ると、今ノーコードは流行期だと思います。
なので、これから反動期がやってきて「やっぱノーコードはダメだ!」という時期がやってきます。
なので、少し気が早いけど、ノーコードの次に流行りそうなモノを予想したいと思います。
私はノーコードの次にクラウド開発環境が流行ると思っています。
今って殆どの場合、ローカルでターミナルやVSCodeを立ち上げて開発しています。そ
れらを全部SaaSが提供するサービス上で開発する流れがくるんじゃないかと思っています。
私が思うに、開発環境って全然クラウドネイティブじゃないんですよね。
プログラミングをやるためには、ハードウェアもちゃんとしたものを揃えないといけません。
少し前、メモリ16GB以下のPCだと人権がないというツイートがバズっていました、まだまだハードウェアに依存している部分が多い感じです。アプリ開発だと、未だにPCとスマホをケーブルで接続するか、同じネットワーク環境に接続する必要ありますしね。
そこで、もし開発環境がクラウド化してSaaSとして使えるようになれば、ハードウェア的な問題には悩まされず、家ではノートPC、移動中はスマホみたいな感じで開発できるようになる時代がくるかもしれません。
https://speakerdeck.com/twada/understanding-the-spiral-of-technologies
こちらのスライドは、 Developers Summit 2018 でベストスピーカー賞を取った和田卓人さんのスライドです。
技術の変化は流行り廃りの振り子のように見えて、実は螺旋状に進化しているということが書いてあります。
このスライドでは、集中と分散が例として上がっていますが、ノーコードにも同じことが言えます。
実は、数年前にノーコードによく似たMDAという技術が登場したりしました。
登場した当時は今のノーコードっぽい持ち上げられ方をしていて、エンジニア不要論がでたりしてました。
しかし、残念ながらMDAは開発の主流になることはありませんでした。
ツールが高いなど、いろいろ敷居が高かったことが原因だと思います。
じゃあ、ノーコードはMDAと何が一番違うのかというと、SaaSとして提供されていることだと思います。
誰でも、そのサイトにアクセスして、アカウントさえ作れば、開発をスタートできます。料金も無料から初められるものが多いです。この手軽さが、MDAにあったエンプラ感を解決し、今のノーコードの流行を後押ししてるんじゃないかと思います。
先程の技術の進化は螺旋理論で行けば、ノーコードで取り入れられたSaaS化の流れが、今のコーディング環境に取り入れられる未来も想像しやすいと思います。
ネットに繋がりさえすれば、すぐにどの言語でも開発をスタートすることができるようになれば、多くの人にプログラミングの門を解放すると思います。
先日、GitHubがオンラインエディタとしてVSCodeベースのエディタが使えるようになることを発表しました。
すでに、GitHubはActionやPagesなど、ビルド環境やホスティングのサービスを展開しています。
そこに、エディタも登場してきて、いよいよGitHubだけで全てが完結してきそうな流れがでてきました。
オンラインのプログラミング教育サービスのPaizaやProgateもクラウドで開発環境が用意されブラウザでアクセスするだけで、すぐに使えることを売りにしています。
この流れで、toB向けの開発環境も、どんどんクラウド化していくんじゃ何でしょうか?
近い将来、GitHubのアカウントさえ開設したら、アプリやWebサービスの開発から公開まで行える時代がくるかもしれませんね。
今のノーコード系ツールって、コーディングは不要にしたかもしれないけど、設計力は求められるんですよね。
むしろ、ノーコードでアプリを作るほうが、実装のサンプルが少ないぶん、普通のプログラミング言語より、設計力求められるんじゃないでしょうか?
今どきは、どの言語でも少しググれば、やりたいことを実現する方法はでてきますしね。
なんというか、今のノーコードは、NewsPicksの記事がでたあたりから、バズワードになっちゃった気がします。
「コーディング不要でアプリが作れる!」という言葉だけ一人歩きして、プログラミング能力自体が不要と勘違いさせちゃってます。
たぶん、もうちょっとしたら「コーディング不要」につられてやってきた大量の人が「やっぱダメじゃん」って言い始める時期が来ると思います。
多くの人は、アプリやWebサイトを作る設計力は持ち合わせていないと思うので...。
次にノーコードが流行り始めるとしたら、設計も面倒見てくれるようなツールが登場するころだと思います。
そのときに、ノーコードいう名前か、別の名前で呼ばれているかはわかりません。
というわけで、ノーコードの次はクラウド開発環境が来る!という予想でした。
もし、この予想を信じてくれる人は記事を「いいね」してくると嬉しいです。
最後に、ノーコード自体は、多くの人にアプリ&サービス開発の扉を開かせる大変素晴らしいツールだし、無料で始められるので、気になっている人は片っ端からやってみることをオススメします。
それでは。
ポリコレの一般的な浸透が進んで今回の件は到底看過できない事態になっている
少なくともそうした人物を輩出し、あまつさえ青少年の購読誌に抜擢するという愚行
集英社はその責任を取るべきであり、速やかなる「週刊少年ジャンプ」の廃刊を要求する
明らかに厳罰であるという声もあるし、同誌で連載する作家陣にも迷惑はかかるであろう
しかし犯罪、それも性犯罪であることを加味すれば妥当な処分と言える
各作者も分散するとはいえ他紙に移籍し連載すれば良いだけの話ではないか
少なくとも作者本人と、その作者を見て見ぬふりをして囲って子飼いにしていた本誌は徹底的に排除されるべきである
それだけ性犯罪は重いものであり、女性に対する強制わいせつ、売春、その他女性に危害を加えることのあさましさとことの重大さを知らしめてほしい
国民の過半数がジャンプの廃刊を求めていること、集英社は知ってください
そして直ちにジャンプを闇に葬り去って再発防止に努めてください
以上
ポリコレの一般的な浸透が進んで今回の件は到底看過できない事態になっている
少なくともそうした人物を輩出し、あまつさえ青少年の購読誌に抜擢するという愚行
集英社はその責任を取るべきであり、速やかなる「週刊少年ジャンプ」の廃刊を要求する
明らかに厳罰であるという声もあるし、同誌で連載する作家陣にも迷惑はかかるであろう
しかし犯罪、それも性犯罪であることを加味すれば妥当な処分と言える
各作者も分散するとはいえ他紙に移籍し連載すれば良いだけの話ではないか
少なくとも作者本人と、その作者を見て見ぬふりをして囲って子飼いにしていた本誌は徹底的に排除されるべきである
それだけ性犯罪は重いものであり、女性に対する強制わいせつ、売春、その他女性に危害を加えることのあさましさとことの重大さを知らしめてほしい
国民の過半数がジャンプの廃刊を求めていること、集英社は知ってください
そして直ちにジャンプを闇に葬り去って再発防止に努めてください
以上
仕事でコミュニケーションができなくなった。考えることが出来なくなって、支離滅裂なことばかり口にするようになった。自分でも直せない。正しい情報を伝達できない。仕事もどんどん外されるようになった。あたまがぼおっとする。思考が分散する。苦しくて仕方がない。人を苦しませてるの辛い。どうしようか
3・11の地震では都市は震源地から離れていたこともあり、それほど大きな被害には遭わなかった。
でも都市で同じ規模の地震が起きたら多大な被害が出ることがわかった。地震でビルは倒壊し、津波は地下街をも飲み込む。液状化現象で沿岸部は住めなくなるかもしれない。
じゃあみんなで地盤のしっかりした高台に引っ越そう。電力も地方に負担を強いるのはやめてみんな分散して暮らそう。とはならなかった。
新型コロナウイルス禍では、都市は感染リスクが非常に高いことが明らかになった。
人が密集して暮らせば未知のウイルスを前にひとたまりもないことがわかった。人が多すぎると医療ももたないこともわかった。
なかには人の少ない地方に移住しようと叫ぶ人もいた。実際に移住した人もいた。
じゃあ都市に残っている人もなるべく地方に移住しよう。これからは分散して暮らそう。ひとつの場所に人間が密集して暮らすのは良くない。とはならなかった。
未知のウイルスに感染するリスクがあっても人は都市に住み続けている。
結局、人間は田舎では暮らせないのだ。それにはいろいろな要因があるのだろう。
都市部はリスクがあるかもしれないけれど、自分だけは大丈夫だろうという正常性バイアス。
やっぱり人は人がたくさんいるところで暮らしたいという心理もあるのかもしれない。