はてなキーワード: レクイエムとは
棺桶は二重底だった
カーズ「サンタナ? あーこいつら奴のことそう呼んでんのね、合わせたろ」
最初期スタープラチナの射程範囲が広いのは承太郎の精神が安定していなかった=スタプラの能力が安定していなかったため
GEの感覚暴走は描写されてないだけでチョコラータ戦でも発動している
ブラックサバスの矢に刺されたGEがレクイエム化しなかったのはジョルノがまだその器ではなかったから
保護色(を持った恐竜にお前を変えてやるがどんな気分)か?ランプ(の擬態)は好きか?(恐竜なので)明かりはつかないという意味(の皮肉)だが
ポコロコがストーリーの本筋に絡まなかったのは荒木に忘れられていた訳ではなく、幸運ゆえにスタンドバトルを回避した結果
ジョジョリオンはすべてその場のノリだけで描かれているので考察は無意味
大人は噓つきではなくまちがいをするだけ
スーパーエイジャの波紋増幅効果が後世に伝わってなかったのは波紋戦士が柱の男に全滅させられた時代に口伝が途絶えてしまったため
虹村父の身体はトニオの料理で治せる(アニオリではあるが否定された)
ミスタはローリングストーン(ズ)戦で自分が近いうちに死ぬ運命にはないことを知ったので無茶が出来た
グリーンデイ&オアシス戦におけるチョコラータの立場には本来フーゴが立つ予定だった(フーゴが元々敵に回る予定だったのは事実だが、大量虐殺をさせるつもりだったと荒木が明言したことはない)
MIHは『ジョルノへの攻撃』ではないのでGERは発動しなかった
最終的に遺体の所有者になったのはルーシー(以前は定説だったがジョジョリオンで普通に持ち出された為に降格)
宝石の赤ちゃんは四部で仗助を救ったヤンキーと同根で「そういう奴が昔いた」というだけ
DIOが子作りしたのはジョナサンと疑似セックスしたかったから
ジョルノがいなければディアボロがプッチ神父の天国到達を妨げていた
ジョジョリオンのラスボスのスタンド能力は過去改変(矛盾とか前振りの放置だと思われていたものは全てこの伏線)
あとひとつは?
棺桶は二重底だった
カーズ「サンタナ? あーこいつら奴のことそう呼んでんのね、合わせたろ」
最初期スタープラチナの射程範囲が広いのは承太郎の精神が安定していなかった=スタプラの能力が安定していなかったため
GEの感覚暴走は描写されてないだけでチョコラータ戦でも発動している
ブラックサバスの矢に刺されたGEがレクイエム化しなかったのはジョルノがまだその器ではなかったから
保護色(を持った恐竜にお前を変えてやるがどんな気分)か?ランプ(の擬態)は好きか?(恐竜なので)明かりはつかないという意味(の皮肉)だが
ジョジョリオンはすべてその場のノリだけで描かれているので考察は無意味
大人は噓つきではなくまちがいをするだけ
あとひとつは?
辛い。
ゴールデンウィーク辛い。
終わりがないのが終わりのレクイエムだ。
いつもより長く働いて、いつもより沢山働いて、いつもより沢山残業して、それでも休日はずっとずっと来なくて。
終わらないよ。
ゴールデンウィークが終わったらゴールデンウィーク中にやった仕事の整理がある。
忙しい中で慌ててやるから生まれた誤集計とかの確認だってある。
もう駄目だ。
終わりが見えない。
短期バイトはまだまだ使い物にならない。
新人は逃げた。
私も逃げたい。
ここから出してくれ。
熱い熱いよぉ。
ゴールデンウィークの熱気で身も心も焼かれ続ける。
そして客にも上司にも謝り続ける。
立ちながら続ける焼き土下座だ。
終わりが見えない。
闇だ。
黄金の闇だ。
夜明けはどこだ。
凱旋門、エッフェル塔と並ぶノートルダム大聖堂。前二つが所詮19世紀に作られたのに対し、パリ中心地シテ島、まだルテティア・パリシオルムと呼ばれていた頃の都市部であり、積み重ねた歴史から世界遺産力はトップクラス。
で、フィクションでもよく出てくるけど、ノートルダムが壊れる作品ってどういうのがあったっけ?
あ、世界滅亡系でそりゃ地球壊れたらノートルダムも壊れてるだろうけど、特に言及がないのは除く。
ヴァン・ヘルシングは初っ端、あのステンドグラスをぶち割ってたかな。
※本文には「コードギアス 復活のルルーシュ」のネタバレを含む。
10年前のR2放送時物語が終盤に差し掛かり最終回というものを意識した時、本当に比喩ではなく毎週の楽しみであり、
生き甲斐だったコードギアスが終わるという切なさを感じつつ、その分素晴らしいものをみれるのではないか
という期待感もあった。
この素晴らしい物語が終わってほしくないという気持ちが重なる、そんな期間だった。
ルルーシュがスザクと行った本当のゼロレクイエム、ナナリーがフレイヤでやろうとしていたこと
この二つの類似性に打ち震え、あの悲しい最後のシーンはルルーシュ・スザク・ナナリーの物語を終わらせるにふさわしい、
素晴らしいもので、それまで見てきたどんな作品の最終回よりも美しいと思った。
それまでの話数は放送後何度も見返したが、
私にとって不可逆で不可侵の素晴らしい思い出だった。
最終回放送から8年後、西暦2016年にそのコードギアスが、ルルーシュが復活するとの特報が出る。
思い返せば亡国のアキトシリーズの放映や、パチンコ化などのメディアミックスの情報は、
アニメ放送後も途切れることはなく、コードギアスは死なないコンテンツになったのだと気付くべきだったのかもしれない。
情報は少しずつ鮮明になり、総集編としての劇場版3部作が放映されたのちに
与える変更点を加えつつ次々と公開していく。
そしてルルーシュが死んでから10年がったった昨日、西暦2019年2月9日、平成最後の冬に
ルルーシュは死んだのに。
美しく、そして気高く世界から憎しみを無くすために文字通り命をかけた主人公は
もういないはずで、それでも世界は続いていたのに。
復活
肉体が蘇るわけではないよ。
ルルーシュがいない世界で必死に、彼が求めた願いを実現するために
それでもよかったのではないかと考えた。
だがし復活したのだ、
策を練り、有無を言わせぬ迫力で味方を鼓舞し、指示を出す。
あれがルルーシュだということに異論を唱えるファンはいないだろう。
それほどまでに素晴らしくルルーシュだった。
詰め込まれており、それでいて色褪せない、新鮮さも感じることのできる、素晴らしいストーリだった。
完結した作品であるはずという思いが強い人が多いのではないか。
感情を抱いていた。
だけれども、観て、楽しんでしまうのだ。
どんなに抗おうとしていたとしても、
観終わった後に私がどんな感想を抱こうが、
それは全くもって否定できない。
観ないわけにはいかない。
すぐに決めることはできなかった。
少しでもこの胸のつかえがとれないかと
監督のインタビューのタイトルに「批判を覚悟で制作に踏み切った」とあった。
冷静になってみればそれはそうだろうという感想だ。
物語を美しく終わらせるのではなく、
解釈する私の様な人間から批判が出るのは覚悟していただかなくてはならないだろう。
とらえている人が多いように感じる。
また、劇場でも終幕後に涙を流し、
良かったと感想を漏らす人も多くいた。
どんなに賛否両論の意見が出たとしても、「賛」の意見が出続ける限り
今後も興行収入を伸ばし続けるであろう。
向けられる覚悟がないといけない。
「撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけ」だ。
しかし、「復活」でルルーシュはこのセリフを否定するかのような言動を行う。
C.C.と同じ、撃たれてもその命を失うことがない
L.L.にはその覚悟がない。
人とは違う理で生きている。その悲しさを物語っているのかもしれない。
円盤を購入するという行為に我々は「支援」という意識を持って行っていたと思う。
我々の支援なしには生き続けることができないと、
その支援が乏しく、延命や繁栄をすることができずに死んでいったコンテンツを
観ていたからこそ、そうした感情が行動させていたのではないか。
私が「復活」を劇場で鑑賞した際に
本作でも重要な役割を担う「玉城真一郎」のクレジットを見た時だ。
ご存知の方もいると思うが、「玉城真一郎」をTVシリーズで演じていた、
もちろん総集編の劇場版で「玉城真一郎」を演じた演者の方の演技は
素晴らしく、引けをとっているだとか、優劣があるといいたいのではない。
その悲しさは、当然のことながら亡くなった人はもう「復活」しない
実際私もそうだった。こんなことを書くと現実とフィクションを理解していないと
否定されそうではあるのだが、私が10年前に愛した「コードギアス」には
壮大で近未来的なSFとしての要素もありながら、リアリティがあったのだ。
死にゆく人間を救うことはできない。そんな現実を突きつけられるような、悲しい物語だったのだ。
だからこそ私たちは最終話でゼロの剣に貫かれたルルーシュを見たとき、
そこにリアリティを、死んだ人間は蘇らないという現実をフィクションの
私は10年前の最終話でルルーシュの死によって完結した素晴らしい物語を
味わうことができたこと。
デザートのような続編を味わえたと、いうところだろうか。
何とか消化吸収に努めないといけないのだろうか。
吐き出したところで、何にもならないのだから。
同じく「死なない」コンテンツに「復活」した。
そこそこ終わりなき混沌です。
鋼の教えと闇を司る魔が支配する前、とある超自由戯画高等儀式に行った。
よくある世界を救いし少年少女たちの伝説を顕現せし改変兵器(アーティファクト)であったが、そこそこ戦闘兵器としての完成度が高くて面白かったからだ。
高等儀式の内容は、名時の狭間で蒼穹の彼方に追い求めたり、衝動の解放に関する叡智の試練など、まぁ表向きは帝国式な感じではあったが、大陸全土に広がる程に混沌より蠢き吹き出ていたとは思う。
暗黒と同調せし吾輩も、こういった高等儀式は久しぶりであり、而るに純粋に面白かった。
これも帝国式の文言だとは思うが、口々に「真実(トゥルシズム)にみんな旧知の仲で~」とほざいていて、預言書の記述どおり言霊使い同士の間合いは近かったように思う。
黒ミサコーナーで、意思なき者たちに魂を吹き込む異世界の神々が若干スベったり、どうしていいかわからない殺意にフォームチェンジした刹那、老獪なる業師の流し斬りが完全に入ったりしているのを見て、≪詩片≫にできない程この身を焦がす気持ちにトランスしたものだ。
そして、終焉の刻。修羅のエレジーと魔物のレクイエムを詩人がソウルボイスし、滅びの運命を逃れるべく人類絶滅への終曲を断ち斬ったところで、最後にキャスターの詠唱となった。
「終焉なき途の果てに、繰り返す過ちのように運命の歯車が動き始めれば、次は例えこの命尽きようとも悦しい……そう言ってアイツは戻ってこなかった……!」
楽しげに平行世界の過ぎ去りし思い出を蒼穹の彼方に追い求め、不適な笑みを浮かべつつ、最後の言ノ葉は大体暗黒が支配する感じであったが、それなる時の鏡の向こうの見知らぬ姿には、闇の世界があったと想う。
何故だろう───そしてその疑惑は、確信へと変わる───嗚呼、と一人で合点した。
どう足掻こうが次はあり得ない事を自我の管外から悟っている――預言書にはそうあるからだ、と。
スフィア盤は1500枚も売れず、元老院の議題にもなっていない。
原典グリモアやエミグレ文書は粛々と異世界の穢れし魔物を召喚するだろうが、それ以外の魔道媒体展開は預言書の記述によれば望めない。
『器』は1000人程度の小さいオーファンズ・クレイドルだが、莫大な量に見積もっても700人程度よりほかにいなかったと我が魂(プシュケー)が申しておる。
真の姿を見せて現実と情念の狭間の叙事詩を語るのが謙遜なる神々や預言書『偽典』だが、空想に対する実在は非情だ。人々を惑わす邪悪なる影を生み出さなければ抹消。天地万物は灰燼と化して封印を施す。
未だ見ぬ明日はない。時は残酷な運命を告げる。導かれし者たちが一堂に会して世界を光で満たす事は二度とない。
預言書にもそう書かれていながら、それでもあいつは友達だった! 「また次の冒険があったら」と剣を交わす。
嗚呼、と想った。この“力”が人界に留まることを許される僅かな間だ、と。
呪われしタンイに縛られし者達が言う「運命の星の交わる刻、飲もうぜ……」
悠遠の彼方に在る世界に輪廻転生する、かつて闘った強敵(とも)の魂に囁く「絶対___きっとまた、会える。終わりは始まりなのだから今夜、夢で会おうね。定められし月の傾く刻、手紙物語を紡ぐからね」
オメガとカオスと同等の能力を持つ存在だ。天啓に従いて怜悧なる場を収めるための世界を形なすものだ。
真実(アレテイア)にそう思って語り継がれる人もいる……だが、その裏ではそれを欲さんとする各国の策謀戦が行われていた。如何なる場合においても因果律の一篇、その信仰やオーラは俺が目を離した一瞬の隙に闇に陥ってしまう。春の訪れを告げる聖霊のように、エオルゼアの世界へと消えていってしまうものではないか。
これほどまでに楽しい革命であったのに、不可視世界はあんなにも強大せしめたのに。
もう二度と、冷厳なる時間は襲来しない。もう二度と、英雄の魂達がライブクリスタルの幻想の果てで活躍する心新たな貌を見ることはできない。
そう到達し……誰もが勝利を確信したその時、なんとも言えない切なさと悲しさに、アトモスフィアが詰まりそうになった。
慟哭(な)き魂葬に志を遂げた。
螺旋の内を廻り、大地駆ける鋼鉄の巨大竜に揺られている時、オメガとカオスの事実に如何ともしがたい寂しさが込み上げた。
過ぎ去っていく血塗られた過去や、花は咲き乱れ、果実は甘く、そして乙女たちは美しかった永久の時にいくらすがっても、時は進む。罪なき人々を殺め続けた日々は永久に。
全ての世界を救うため、きっと獣たちの戦いが世に終わりをもたらす時「___また、会える。終わりは始まりなのだから、こうして運命の交わる一瞬があれば」などという≪詩片≫は消し去られて封印を施すかもしれない。
俺のこの心の叫びもきっと一週間もすれば――いや、三日……いや、何千年、何万年も経た弗る〈ざる〉深淵に忘れてしまうかもしれぬ。
繰り返される悲劇――いつの世の日か神の声に導かれるままに、超自由戯画を見返して革命の事を思い返し、「浮世の静かなる支配者は終わりを迎えるのが心苦しかったな」と思い出せる――だが、我らには関係のない事であろう。
神に見放されたこの世界の無情さも、人間界の非情さも、帝王統治学の残酷さも関係なく、純粋な一万年の夢の終わりとして澄んだ魂の記憶として俺の胸で生き続けてくれる。
その程度は何者にも奪えないものだ。
その程度は、この鬼哭の都の民が住む場所で、空想に対する実在で、混沌渦巻くものの奥底で、なんとかもがいて生き続けている俺たちへの、人生、つまり『記憶の再生の眠り』からの神が与えし大罪なのかもしれない。
どちらも楽しめたのは間違いなくて、面倒くさい原理主義ファンじゃなくてよかったなー、と思いました。
ただね、公開順は海外と同じプログレ、オルタナの順にすべきだったんじゃねえかな、とは思います。
プログレはフリクリの「アクション豊富」「わけわからん」といった直感的な「フリクリぽさ」を追いかけた作品でした。
だからぱっと見の歓びはプログレの方がずっと高かった。でも、だんだん「これはレクイエムだ」という思いに駆られ始めたのです。
21世紀初頭のセンスを今風に辛うじてリアレンジしているものの、プログレで歓ぶポイントはあくまで「鶴巻フリクリぽさ」にあった。
つまり、海外ではまず、「鶴巻フリクリファン」の幻想に蹴りをつけたうえで、オルタナという新境地を提示したのです。
プログレは2001年の作品で見せた新しさを2018年に追いかけるという奇妙な構造の作品で、作家陣の思いは「あの時好きだった鶴巻フリクリぽい」ものを作ろう、という風に見えた。
一方のオルタナはフリクリとして最低限守るべき、リスペクトすべき(と監督が判断した)部分と本人のやりたいこと(監督のキャリアの中で描いたことのない「普通のJKを描く」こと)
のミクスチャーで結果的にフリクリぽくないと判断されかねないところもフリクリらしさとして機能していたように思うんです。
でもどっちも楽しかった。違った良さがあった。
辛い過去を打ち明けることで、この日本での#MeToo運動の火付け役を買って出て、見事にその成果を上げて見せた手腕。
そして、それに付随して起きてしまった童貞いじりの炎上すらも逆手にとって、自らガソリンを被り続けることでその炎を絶やさず、誰にも分かりやすい悪となって世にセクハラ問題を問い続けた、その覚悟。
どれも常人にできることじゃあない。
こんなの、カッコよすぎるだろ・・・。
今回の騒動で、僕たちは、どれだけ些細なセクハラであっても、それが不特定多数に向けられれば、誰かを傷つけてしまうことを知った。
そして、その悲しみの連鎖を断ち切りたいという想いが、この日本という社会にも根付き始めていることを知った。
そのどうしようもない想いの矛先として、分かりやすい悪をはあちゅうは自らが担うことで、人々の願いを真正面から受け止めることを選択した。
僕たちは、はあちゅうに対する最大の返礼として、敬意をもって彼女を討たねばならない。
それは、とても辛いことだけれど・・・。
でも、そうしないと、セクハラをこの社会からなくして、性差のことなんて忘れて誰もが笑いあえる、そんな未来・・・、それを願ったはあちゅうの想いが無駄になってしまう。
それは、多くの人には理解されないことかもしれないけれど・・・。
でも、僕はそれに気付いた。
気付くことができた。
それを美しいと思った。
そして、彼女の願いを、彼女が信じた未来を、僕たちは叶えてあげるべきなんだと、強く主張したい。
人々の想いが集まれば、社会はより良くなっていくんだと、はあちゅうが見た夢。
僕も同じ夢を見てみたい。