はてなキーワード: 町山智浩とは
akutsu-koumi ネトフリはプレミアムプランでも1980円(税込)。同じ金を払うならNHKの受信料なんぞよりもこっちに払いたい。
akikonian お、ネトフリ契約するわ。
ryun_ryun 日本人はこういうドキュメンタリーライクな作品を好む印象が無いんだよなあ。Fukushima50みたいな感動ポルノにしないと、ミーハーな日本人には見てもらえないかもしれない。
sockscat 対政権の対立構造じゃなくて、組織VS官僚の良心の対立構造だっだから、そんなにプロパガンダ臭く作ってなくて、単純にドラマとしての質も高くて面白かった。
FN2199_traitor 海外でも評価されてるのは意外だが嬉しい。これが割と実話ベースだって知ったら呆れるだろうなあ
workingasadog-kt そこまで再現してるとは凄い。こういう社会派な作品が(ちゃんと出来がいいのであれば)正しく評価される土壌があってほしい。日本のNetflixのランキング、アニメと韓国ドラマばっかだし…いや、面白いなら仕方ないけど…
loomoo 映画だと大手芸能プロが尻込みして良い俳優が出てくれない。興行気にすると感動ポルノにしないとウケない。ネトフリはマーケットは世界だし、資金も外資。こういうドキュメンタリー作品がもっと増えてほしい
nowandzen このやり方があったか。どうせ界隈は「(詳しい誰かの受け売りで)スコアが低い 笑」「視聴者少ない、かさ増し 笑」とか冷笑キメるんやろうけど。ネトフリで日本の不祥事毎回ハイクオリティドラマ化してSOS出そう
egao123 日本のドラマにしては珍しく演出やら演技が上手かった。テレビドラマが学芸会にみえるレベル。WOWOWのドラマもそうだがスポンサー企業の声が小さければ日本も面白いドラマつくれると証明。映画のより良かったよ。
kyo1man 町山智浩も今日(1/18)の「たまむすび」で紹介していた…もうNetflixは大人の常識して契約して話題作は観ておく必要があるような気がしてきた… 事件netflix不祥事映画マスコミ
aktkro どう見てもクロなのに社会的に裁かれない問題に対して"実在する話ではないです"って建付けで映像化して当てこすりするというやり方が最高。Netflix好きになった。
nakamurataisuke 日本のテレビ局だと絶対に流せない&流したら確実に局に自殺に追い込まれる、ってテレビ局の知り合いに聞いたので見たいと思ってる(まだみてない)
yo2012 当局の検閲が及ばないNetflixだから実現した企画なんだね。予算も役者の質もストーリーもしっかりしている。日本のコンテンツメーカーも本当に作りたいものができるのではないかな。
[B! ドラマ] Netflix「新聞記者」海外でも高評価 現実と同じ不祥事描写に安倍夫妻“真っ青”|日刊ゲンダイDIGITAL
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/300079
SEALDsによる「安倍政権NO!首相官邸包囲」デモ内での「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せ」スピーチに対し、デモに参加した北村が「安倍的」だとダメ出し。これに対し野間や上原潔らしばき隊関係者が北村を執拗に叩く。
10月 クラウドファンディングによる啓発広告「#この指とめよう」に約320万が集まる。
11/6 中世史学者の亀田俊和が呉座にウザ絡みされ続けて喧嘩に発展する。
12/25 ガールスカウト日本連盟、ファミマのお母さん食堂名称変更を求める署名立ち上げ。
12/29 青識亜論、問題提起として「お母さん食堂」署名を模倣して不二家に「パパのミルク味ミルキー」販売を求める署名を立ち上げるも、迷惑だとの非難が挙がり、その日のうちに署名削除と謝罪。
1月 呉座、人間文化研究機構(国際日本文化研究センター)任期なし内定の通知。
1/17 TBSラジオ『アフター6ジャンクション』韓国映画特集に『映画秘宝』編集長の岩田和明がゲスト出演した回を聞いた一般人女性が、女性ゲストの不在、及びホモソーシャル的な映画秘宝文化について苦言ツイートを呈する。これに憤った岩田がその女性に直接DMを送り恫喝。
2/2 岩田が『映画秘宝』編集長の辞任とともに、オフィス秘宝を退社。
2/12 東京五輪組織委の森会長「女性が多い理事会は時間がかかる」発言をめぐり辞任。
3/16 亀田の網野善彦発言に対し、北村が「冷笑系」と評す。これに鍵垢の呉座が引用RTで反論。
3/17
・呉座の引用RTスクショが北村のDMに届き、北村がTL上にそれをアップして反応。呉座が北村を揶揄・誹謗中傷していた過去のツイートが続々と掘り起こされ、北村の元に集まる。
・五輪開閉会式演出の佐々木宏が『ブタ演出案』を考案していたことを理由に辞意を表明。
3/21 春日太一が北村を始めとする不快な思いをされた全ての方に向けて謝罪ツイート。
3/23
・志学社代表の平林緑萌、不適切な発言を謝罪するとともに中国史史料研究会顧問を辞任。
4/2 日本歴史学協会、呉座を念頭に置いた、ハラスメント行為の再発防止声明。
4/4 オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」公開(約1300人署名)。青識亜論、OLに賛同コメントとともに署名するも、運営に撥ねられる。
5/25 木村花選手の一周忌に合わせて、一般社団法人「この指とめよう」を設立。
11/1
・呉座、オープンレターが処分に影響したことを示す資料を自身のブログにて公開。
・「この指とめよう」が、活動を停止。
まず大元増田の「嘘吐くな」は一人一派云々みたいな話じゃないので、その時点で「まずそれぐらい認識合わせてくれよ?」って感じだけど、そこは横に置いとくね。
で、一人一派はわかる。
わかるよ。で、その、例えば「子どもへの悪影響を危惧する人」にとっては、特に根拠も無く性犯罪を誘発するとかいうレッテル貼りに行く人や、不快だという感情論で暴れる人は、敵だと思うんよね。そっちはそっちで子どもに悪影響ありそうでしょ。例えば90年代のクレヨンしんちゃん程度には。そんな大人、子供に見せたくなくない?
まあそこまで行かなくても、味方の顔してトンチキな暴れ方する奴って、普通に自説を通すのに邪魔になるでしょ。批判したり決別するのが妥当でしょって程度には、ベクトルがズレてると思うんよね。
でも、そういう人らが、何故か連帯してるの。いいね付けてRTして★付けてる。(もちろん、言ってる事がコロコロ変わる個人というのも普通にいるけど、そういうカスは除いておきますね)
それを外野の視点から「あの人ら主張は全然噛みあってないけど、オタクのお色気を社会から排除するために連帯してるんだな」って認識してしまう事って、そんなにおかしい?
「お笑いバラエティの真似してイジメが起きる」と、例えば「宇崎ポスターが売血に繋がる」「戸定梨香が性犯罪の増加に繋がる」を、同じ「エビデンスは無いっちゃあ無いよね」で、それ本当に自分で適切な比較だと思って並べてる? 程度問題ってあるやん?
まあ程度問題ってのは、つまり個人の匙加減の話だから、増田が「同じでしょ」っつうならもうそこで終わる話だけど。
議員の肩書使ってV個人に無茶苦茶なレッテル貼って異議申し立てにはだんまり決め込んで逃げに徹するとかいう政治家ムーブ決めるフェミ議連を積極的に支持する連中が、平気な顔して「ポルノが大好きなだけだろwww」ってセクハラ垂れて、それでオタクの美少女ポスターには悪影響悪影響言うの、バランス感覚がバグってるとしか思わんけど。仮に「社会への悪影響」なるものが存在するとしたら、どう考えてもそっちの方が悪影響は大きいでしょ。
あと個人的にはもものネタは気にしてない。ルッキズムへの皮肉と解釈できる余地があるので、そこを信頼する。ま~でもやっぱダメなんでしょうね~という諦観もあるが。
チー牛の件とかもそうだけど、普段はルッキズム批判でキャッキャしてた連中が、ことオタク?男?が声を上げた時に限ってフルスイングの当て擦りをおっぱじめる所はマジで気持ち悪いねとは思うけど。
どっちかっつうとイジられてない? 「タイムリミットが迫ってるのに律儀にシートベルトwww」とかって。タバコもそう。うろ覚えだけど、銀魂で本誌でイジられてなかった? 自転車二人乗りは知らん。
で、その規制を体現した化身みたいなもんがネットで殴れる射程範囲に降りて来ないから殴り合いが発生しないというのも思いつつ。
それで特に表現を大幅に歪まされて原作レイプ食らったとかが無い(僕が知らん所で起きてたのかも知れない。銀魂の土方ファンとか)から黙認されてるだけではというのも思いつつ。
レーティングも後者かな。実質的な支障は無いから容認されてるだけ。小学生は20歳のテイでアカウント作ってフォートナイトやってる。それでも例えばバイオハザードのゴア表現とかで時々俎上に載ってる。
最近だとクレカとFANZAの話とかもあり、そっちは危機感が高まって来た感じがありますね。
「相手が強すぎるから戦ってないだけ、勝てる相手を選んでイキってる」という指摘は、半分はその通りだと思う。残り半分は、お色気批判はずーっと続いてる話だから、反対側もずーっとそこが最前線になってるだけというのもある。
で、その増田の言う「エビデンスなくても規制してよい。お前らも受け入れてる」という主張は分かるよ。それが即ち「だから俺らのエビデンス無き主張も受け入れられるべきだ」となる理路は、何かしらおキメあそばしてるのかな?って程度には分からんけど。
エビデンス無いなら無いなりに、納得感が要るよね? 日本共産党も「社会的合意を形成する」って言ってたよね。要るのよ。合意が。反対論者と膝突き合わせて対話の努力して理解を得るっていう超々々泥臭い手続きが待ってるわけよ。
https://www.tyoshiki.com/entry/2021/11/11/121604
>長くなったのでまとめると「人に話を聞いてもらいたかったら地道なコミュニケーションが必要。サイゲームスは頑張った。フェミはサボった」
それ、誰がやるん? 誰もやってへんよね? ネットで暴れて反対論者を侮辱してたら自動的に形成されるとでも思ってるのか? それとも自分らはなーんもやらなくても、志位和夫という強くて優しい日本一のパパがお膳立て全部やってくれるみたいなつもりでいたのか?
実際は、若者はどんどんリベラルになって行ってるし、男女同権意識もどんどん広がってるわけやん? 今日日、「職場にスケベポスターを貼るのは普通」みたいなのおらんわけよ。誰かがやってるの。
ネットで暴れて雑語りして、たまに一線踏み越えて男性・障害者・トランスセクシャルを蔑視・排除する発言やらかしても「自分がやったのは差別じゃなく区別だ」って醜く正当化する様なネトフェミ連中などでは決してない、立派な人らが頑張ってるお陰で、50年100年掛けて社会はそういう風に変わって来たし、これからも変わって行くの。
で、50年掛かる様では意味が無いぞ、今すぐ変わらないと自分にウマ味が無いぞって癇癪起こす個人主義全振り野郎がネトフェミなの。そいつらがフェミニズムを騙ってるのもそう。過去の偉人の業績を笠に着てイキってるだけ。代紋チラつかせるチンピラが親分の顔に泥塗ってるの。
「勝ち馬に乗ってる」と言ってもいい。世の中はそっちに変わって行ってるんだから。町山智浩らの界隈もそうじゃないですか。内面は90年代の露悪のまま、表面的に先進さを装ってイキってる。「簒奪」と言ってもいいよ。
何の事は無い、ネトフェミ連中が例えば男性、例えばネトウヨ、例えば差別主義者に投げつけた言葉は、全部自分らもやってる事だったの。自分が蛇だから、相手も蛇に見えたの。
ってやり方もまあ模倣になっちゃうんだけど、当増田はメモスト氏とは別人です。元増田が箇条書きで返してたので、そこに乗っかった。それで誤解を招いたみたいで、申し訳ない。元々増田はメモスト氏かも知れんね。違うかも知れんけど。
個人的には箇条書き以外で寄せたつもり無いので、箇条書きオンリーでメモスト氏扱いされても困るなあというのはある。
あと、トラバとブコメで「連帯なんかしてねーよw被害妄想www」みたいなリアクションが多々ついてるんだけど、じゃあ「一人一派」って何なんだよ。「連帯してるが、一枚岩の群れとして一貫しているわけでは無く、個人個人の意見がある」って言葉じゃなかったの? 単なる個人ではなく一人一派を標榜するなら、連帯は前提だろ。それに対して「そんな身内の理屈は外野に通じないから、理解を得る努力を(アンチフェミ見下し遊びなんかよりも大きく優先して)するべきでは」って話をしてるんだけども。
はてサとかネトフェミ(に限らず、無論ウヨ側の底辺イナゴもだけど)ってそういう、目の前の気に入らねーモンの揚げ足取るためなら自分らの立脚する大前提をぶっ壊すのさえ厭わない猪突猛進って感じ、本当にかっこよくて尊敬してるんですよ。でも、
まずそれぐらい認識合わせてくれよ?
って言うとる元増田の顔立てるくらいはせえへん?
2021/12/04に『映画秘宝編集部とオフィス秘宝、悪質なのはどちらか』と題する文章https://anond.hatelabo.jp/20211204193505
が、はてな匿名ダイアリーに投稿されました。その内容を要約すると「旧体制『映画秘宝』主要メンバーであった町山・柳下・高橋・てらさわは誠実に動いていた。一方それに対して、造反組の岡本・奈良・ギンティ・市川は誠実に動いていなかった」と主張する内容です。
この内容は、一般人女性に対するDM恫喝事件の余波が未だ冷めやらぬ2021/3/18、元『映画秘宝』編集部員かつ高橋ヨシキらのシンパの秋山直斗という人物がNoteに投稿した、文章の焼き直しです。そのため、はてなユーザーの中には「この増田は秋山直斗なのではないか?」と推測する人もいるようです。私個人も同じことを疑いましたが、しかし、増田の正体が秋山であるか否かは確認する術もありません。
しかしこれも機会ですので、秋山直斗の文章から私が感じ取ったことを述べます。
まず、2021/3/18に秋山がNoteに投稿した文章から、一部を引用します。
23時ごろ(※引用者注:元『映画秘宝』編集長の岩田によるDM恫喝行為が発覚し、その対応に追われていた2021/01/25のこと)から柳下氏、高橋氏と共にオンライン会議を行い、上記の考えを伝えました。なお、18時ごろに状況確認のため高橋氏に連絡をしてきていた、てらさわホーク氏も会議に加わっています。3氏ともに、謝罪の必要を認識しており、私は実現のために実務を担うことになりました。
23時09分に、編集部メンバー4名(田野辺氏・岡本氏・奈良氏・ギンティ小林氏)に対し、「新たな謝罪文」作成の必要性をメールにて伝えました。早急には対応しないでおこうといった内容の返信があり、これは私の主観的意見にすぎないものの、主体的に事態収拾に乗り出す意思が感じられませんでした。
=引用その1・ここまで=
上に引用したNoteの文章は「誠実だったのは旧体制側。それに比べて新体制側は不誠実だった」というイメージを読者に植え付けたいと、秋山が考えていることをよく表す部分です。
では次に『〜悪質なのはどちらか』と題する文章がはてな匿名ダイアリーに投稿される2日前、2021/12/02に秋山直斗(アカウントSquids_squib)がTwitterに投稿した内容を引用します。
映画秘宝前編集長が送ったDMについては被害者の人とは和解してるわけでしょ? 当事者同士で解決したのだから、これ以上蒸し返す必要はないというオフィス秘宝と双葉社の判断が、被害者に対して不誠実なものだとは思わないけど。
=引用その2・ここまで=
私は、この秋山のツイートにある"蒸し返す"という表現から、秋山直斗の本心が読み取れるように感じます。恫喝DM事件及びその被害者に対して、秋山直斗が本心ではどのように考えているのか、端的に言えば「馬脚を露わした」のです。
DM恫喝事件の被害者は「雑誌『映画秘宝』の誌面上で何かしら掲載されることを期待していた」とする内容のツイートをしていらっしゃいます。ということは、被害者に対して『映画秘宝』側が示すべきであった誠実さとは、誌面の上というオープンな場で総括を行うことだったと考えるのは当然のことです。だとするならば、双葉社に対して「誌面上での総括を行うことを認めて欲しい」と、被害者の要望に沿うように求め続けていた新体制『映画秘宝』の中心メンバーが、被害者の要望に応えられなかった能力不足を批判されるならばまだしも、要望に応えようとした姿勢そのものを批判される謂れは無いと私は思います。
しかし、秋山直斗は「これ以上"蒸し返す"必要はない」と表現して、被害者の要望に応えようとしていた造反組4人の姿勢をこそ批判するのです。実に奇妙です。以前は「謝罪のために主体的に動いていなかった。不誠実だ」と批判した人間たちを、今度は「和解も済んだのに、わざわざ"蒸し返す"ようなことをするな」と批判するのですから、矛盾しているとしか言えません。
では最後に、さらに遡って2021/1/26付で秋山直斗のTwitterアカウントのツイートから引用します。
『秘宝』は映画を軸に、社会の不正義・不公正と闘う雑誌だと思っています。つまり、綺麗事こそ重要だという雑誌です。
=引用その3・ここまで=
これまで私は、古株の元『映画秘宝』読者の一人として、はてな匿名ダイアリーに『映画秘宝の記憶』と題する一連の文章を投稿して続けてきました。
過去のバックナンバーや『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判』等の『映画秘宝』関連の単行本を一読すれば、誰にでも直ぐに分かるとおり、雑誌『映画秘宝』はこれまでに女性、同性愛者、非・都市部居住者、非・富裕層、高等教育から疎外された人間etc.に対して、頻繁に、且つ執拗に差別発言を行い続けてきた雑誌です。それらの差別的な言動の実例を、引用によって具体的に私は示してきました。
秋山直斗が語る、美化された『映画秘宝』像は、虚偽以外の何物でもありません。したがって、秋山直斗の言う「『映画秘宝』を読むことを通じて、自分(秋山)は社会の不正義・不公正と闘うことを学んだ」という主張もまた、やはり虚偽以外の何物でもありません。つまり、秋山直斗は『映画秘宝』と同時に彼自身を美化しているのです。
近年の町山智浩、高橋ヨシキらは、人権尊重や差別反対のような言動を繰り返していますが、自分たち自身が女性や同性愛者に対して行ってきた差別に関しては全く総括していません。本当に「誠実な人間」であれば、己自身の罪や過ちとも真摯に向き合うはずです。しかし、そのような誠実さを町山や高橋が示したことはないのです。
元『映画秘宝』編集長・岩田による一般人女性へのDM恫喝事件を産んだ要因には、長年に渡って同誌内部に根深く蔓延っていた女性蔑視の思想があると私は考えています。そして、そのような女性蔑視の思想を『映画秘宝』に植え付け続けてきた張本人は、町山や高橋ら旧体制の人間なのです。繰り返しになりますが、本当に誠実な人間ならば、自分たちが女性への理不尽な攻撃の手本を示して、岩田のような人間に対して誤った教育や影響を与えたことを反省するべきでしょう。
町山智浩や高橋ヨシキの信者を今でも続けているような人間たちは「昔のことを"蒸し返すな"」と、愚にもつかない、擁護にもならない言い訳をします。そうです、秋山直斗と同じ"蒸し返すな"という言い回しです。この"蒸し返すな"という言い回しは、例えば関東大震災当時の在日朝鮮人虐殺事件や、日中戦争当時の南京虐殺、従軍慰安婦問題などについて「済んだ話を"蒸し返すな"」と言うネトウヨの言い回しと瓜二つです。秋山直斗が『映画秘宝』を読んで学んだ、社会の不正義・不公正と闘う姿勢とは「済んだ話を"蒸し返すな"」と言うことなのでしょうか?
そのような秋山直斗や、彼の同類の人間が言う「誠実さ」など、薄っぺらい虚飾に過ぎないというのが私の見解です。
「どちらが悪質か」などという無意味な比較と詭弁によって、旧体制『映画秘宝』を美化するのは、歴史修正主義者のネトウヨと同レベルと言うべきでしょう。
この投稿は以上です。
さる12月1日に映画秘宝の編集部員たちが、ツイッター上で発表したリリースにサブカル界隈がにわかに盛り上がっている。
詳しくは原文を読んでもらいたいが、
(https://twitter.com/narana801/status/1466225876731789314)
今年の頭に元・秘宝編集長が、秘宝のアカウントからDMを送った事件について、映画秘宝の権利を持つオフィス秘宝・映画秘宝を刊行する双葉社が、その総括を誌面で行うことを許可しないことに怒り、そんな無責任な雑誌にはつきあいきれんと、退職を発表する内容だ。
この文面だけを読めば、なるほど、責任感にあふれた編集者たちだ。
それに比べて、オフィス秘宝は非正規の労働者の声を押さえつける極悪非道じゃないか!
ツイッターの世論は、弱者の側の編集部員達に「私も連帯します!」と、同情が集まっている。
だが読者として、この一年間秘宝の(あまりにもしょうもない)問題をウォッチしてきた身としては、編集部の言い分に信用がおけないというのが率直なところだ。
手身近に論点を整理したい。
発生した問題を対処したい編集部VSなあなあにして沈静化を図ろうとするオフィス秘宝&双葉社
の、2つの陣営のあいだで事態が進んでいるかのように思うかもしれない。
しかし、この秘宝の問題にはもう一つ、最も重要な働きをしたファクターがいる。
元編集部員の秋山と、町山智浩・柳下毅一郎・高橋ヨシキ・てらさわホークらライターたちだ。
詳しい経緯については元編集部員・秋山が書いたnoteの記事に譲るとして、
(『映画秘宝』1月26日発表「ご説明」文書の投稿経緯について|秋山直斗|note)
ポイントは、少なくとも事件当日に編集部員たちは、真相究明を行うこともせず、謝罪の発表に動くこともしていなかったことだ。
いまさら、事態の解明を行うべく尽力していたと編集部員たちが文書を発表したところで、その本気の度合いは非常に疑わしく感じてしまう。
加えて、どういう判断がなされたのか定かではないが、
私の目からは、もっとも真相究明に力を発揮した秋山という編集部員は、この一件でクビになっている。
さらに、町山智浩・柳下毅一郎・高橋ヨシキ・てらさわホークらライターは、誌面から排除された。
町山智浩がいうに「創刊編集長としていつもスペシャルサンクスに名前が載っていたが、前触れもなく外されていた」のだという。
編集部らの言い分としては、謝罪文書の公開にあたってパワハラが行われたというのが理由だったと、ツイッターで発言していた(元ツイートをたどるのが面倒なので、各々でしらべてほしい)。
パワハラといえば、今回の編集部たちのリリースも、非正規労働者である私たち弱者の声を押しつぶした、オフィス秘宝という構図を彼らは作ろうとしている。
だが、じゃあ、当時編集部員の秋山を、事件に乗じてクビにしたのは、この一連のなかでもっとも大きなパワハラじゃないのかと。
話はそれたが、この項の総括として、編集部以上に問題解決に力を注いでいたように思しき、元編集部員の秋山と・町山智浩・柳下毅一郎・高橋ヨシキ・てらさわホークらが、排除しておきながら「問題解決を行おうとする私たち」と嘯く編集部のことばには、非常に信用がおけない。
編集部員たちが公開したリリースだけを読むと、あれだけの事件を起こしておきながら、被害者にすら謝罪を行わない酷い連中だと誤解を与えることだろう。事実、ツイッターでは「弱者の声に耳に傾けないとは」などの糾弾も少なくない。
しかし、現実には、オフィス秘宝と双葉社はちゃんと被害者に謝罪をしている。
被害者の方が自ら、オフィス秘宝からの謝罪を受け入れた旨の和解の合意書を、ツイッターで公開しているのだ。
(https://twitter.com/TDIyNT0BAID9mI9/status/1459844778611273736)
もちろん一読者として、この事件の詳しい経緯の説明責任を果たしてほしいとは思うものの、編集部がリリースに書くところの「被害者に対して不誠実」というオフィス秘宝への攻撃は不当なように思う。
むしろ、慰謝料も支払い、当事者間においては誠実に解決がなされていたわけなのだから。
ここからは、編集部が発表したリリースから離れて、ここ最近の『映画秘宝』の誌面について話す。
元編集長を解任し、岡本が新編集長に就任してから、悪い意味でガラリと雑誌が変わった。
先に名前を挙げた、町山智浩・柳下毅一郎・高橋ヨシキ・てらさわホークらは、映画秘宝のスターライターだったこともあり、彼らを排除したことによって戦力が落ちるのは避けられないことだった。
じゃあ、どうなるのか。どんな人を呼んでくるのだろうか。期待半分、疑い半分で、リニューアル号を開いたときの衝撃ったらない。
どこのページを開いても、編集長の岡本が何かしらを書いている『映画岡本』へと変貌していたのだ。
決して文章が下手なわけではないが、編集長自ら書き手を見つける努力を放棄し、それどころかライターの食い扶持を奪って書くのは、編集者の職業倫理にもとるのではないか。
単発の記事なら百歩譲っていいとしよう。岡本編集長は、あろうことか、ホラー映画ライターのナマニクが連載してきた「未公開ホラー映画」枠を、一方的に打ち切り、そして全く同じ趣旨のページを自分でやり始めたのだ。
町山智浩・柳下毅一郎・高橋ヨシキ・てらさわホークら古参ライターを排除したのは、このように映画秘宝の実権を簒奪する目的だったのではないかと、つい邪推してしまう。
また、これはまったく定かではないが、編集部が全員出て行くという経緯を踏まえる、オフィス秘宝という経営体を巡っても、編集部たちはなんならかの介入をしていたと考えるのが現実的な線ではないだろうか。
書くのも疲れてきたのでまとめるが、以上のように、長年の読者としては編集部が出したリリースにまったく信用をおくことができないわけです。
古参ライターも消え、コアメンバーの編集スタッフが退職し、映画秘宝のアイデンティティはもうほとんど残ってないわけで、これから出てくるのは映画秘宝に似た何かにしかならないことでしょう。
焦土からのやり直しですね。
覚えてる限りで。あとプロレスとシンゴジでもあった気がするけど見つけられなかった。
https://togetter.com/li/972567
・(演出家の独り言 蜷川幸雄)イケメン俳優人気への憂い:朝日新聞デジタル
https://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/DA3S11444426.html
・町山智浩「女の子がマニアックな事を言い出したら、たいてい男の影響」の謝罪まとめ
https://togetter.com/li/458740(ミラー)
・本広克行総監督「劇場版サイコパス」に客席見回し「こんなはずじゃなかった、残念」 - News Lounge(ニュースラウン...
https://b.hatena.ne.jp/entry/newslounge.net/archives/154976
・『パシフィック・リム』は奇跡の一本?樋口真嗣&中島かずきが激論トーク!
https://www.cinematoday.jp/news/N0057999
(これも棘が消えてる)
・竹熊健太郎「女性が見る特撮は私にとって特撮ではない。特撮魂が曇る。」
https://togetter.com/li/749752
テーマは深刻なんだけど、ジョニーデップの持ち味の出た、面白い映画だった。
どうでもいいことだけど、昔からなぜか、
ジョニー・デップのことをしょっちゅう、ジョニー・ディップと言い間違えてきた。
これは、バングラデシュのことを、バングラディッシュと言い間違えるより恥ずかしいことだと思っている。
そのジョニーデップが写真家ユージン・スミスを演じる?というのが、
パイレーツオブカリビアンのイメージがこびり付いた身には全く想像がつかない。
興味本位で観に行ったら、本人としか思えないユージン・スミスぶりに、おお、と感動してしまった(あったことはないけど)。
ユージン・スミスのことは、というと
この映画を見るまでほとんど何も知らなかったので、どういう背景があって、あの写真が生まれたのか、垣間見られてちょっと感銘を受けたりもした。
映画で描かれているユージン・スミスは、アル中で薬中。過去のいろいろで、メンタルをやられて写真家としてのモチベーションがどん底にあった頃のユージン・スミスだ。
一方、フォトジャーナリズムを標ぼうしたものの、売上が上がらず、次第に、魂を売るかのような大衆迎合的な記事や広告を載せ始めた、落ち目の写真誌「ライフ」が背景として描かれている。
ピューリッツァ賞を夢見て起死回生を図るべく、次の目標に選んだテーマが、当時、世界のあちこちで問題化し始めた公害だった。
当時、すでにMINAMATAの名は世界でも、
日本の辺境の地で奇病だの猫踊り病だのと言われ、長い間、対応がなされず蓋をされ続けてきた公害として知られていた。
この映画は、写真家として再起を図るユージン・スミスと逆転ホームランを狙う写真誌が、水俣病に目を付けるところから始まる。
いやー、こういう不純な動機、構図。なかなか良いと思う。
水俣の記録ドキュメンタリは、これまでも土本典昭やNHK、いくつかみたことがあったけれども、この目線はいままでなかった。
この映画の見どころはなんといっても、ユージン・スミスの写真家として、親としての葛藤を描くジョニーデップの演技。
日本にきたものの、途中でやる気をなくして投げ出してしまい、大切なはずのカメラまで現地の少年にあげてしまうシーンとか。
ただ、残念でならないのは、ロケ地。
違和感があったのでググったら、なんと日本ではない。観終わったあとに読んだ町山智浩のコメントによると、セルビア・モンテネグロなのだという。
どうりで、海のシーンが逆光でぼんやりしているものが多かったわけだ。
漁民も、漁民たちが扱う魚も、明らかに違和感ありまくりで、端的に貧相だった。違うだろ。。もっと豊かな海を描いてほしかった。
あと、土本作品へのリスペクト、というのもひそかに注目していたのだけど、
まあ特にないのかな、という印象だった。
過去の記録映画を観ていれば、モデルが誰なのか、すぐにピンとくる。
ここはやはり、あれだろう、船頭小唄だろう、と思ったのだけど
そのかわり、ユージン・スミスになついて、カメラに興味を示し、撮って遊ぶ天真爛漫な少年が描かれている。
しかし、考えてみれば、船頭小唄なんぞ奏でようものなら、そのメッセージ性が強烈すぎて、
物語を邪魔してしまうだろうから、日本の観客向けにはむしろないほうがいい、ということかもしれない。
映画のクライマックスは、水俣病の歴史で欠かすことのできない、大きな事件である、チッソ株主総会。
そこからの流れはとてもテンポがよく、裁判によりチッソが補償を決定するまでの激動の動きが、
ユージン・スミスのもっとも有名な写真である、「入浴する智子と母」の撮影シーンを織り込んで進んでゆく。
國村隼演じるチッソ社長が人間味があって、いい味を出していた。土本作品など過去のドキュメンタリ映画ではなかなか見ることのできなかった加害者の視点、被害者と向き合い補償を決断するチッソ社長の描かれ方は映画ならではであり、圧巻と言わざるを得ない。
見事な演出だと思う。
NHKアーカイブスでも視聴できる有名なチッソ株主総会は、1970年。
スミスが乱闘に巻き込まれて負傷した事件は翌年の東京本社での事件なので史実とはちょっと違うが、
映画は、1973年、チッソが補償を決断し、川本輝夫(映画では真田広之演じるミツオ)が裁判での勝訴をかみしめるところで終わる。
その後の水俣病の動きはわずかにエンドロールで触れられているに過ぎない。
この映画は、ベースの設定が雑誌ライフの復活とユージン・スミスの再起というテーマを背負っていたため、
チッソが責任を認め、補償に応じる、という、ここで終わりになるのは、それはそれでエンタメ的な収まりどころ、なのかもしれない。
しかし、現実の水俣病の歴史は、ある意味、まさにこの裁判勝訴と、それに続くチッソの補償協定とを契機に、
チッソVS被害者団体という構図から、経済優先で被害を黙認する行政VS被害者という構図に大きく変化してゆく。
この映画が第2幕の終わりだとすれば、第3幕はスーパーヒーロー不在の、果てしなき国との闘いだ。
チッソの社長が除去された水をコップで飲んで見せたことで有名な、有機水銀除去サーキュレーター。
効果がないのを知りつつ黙認してきた通産省を筆頭に、高度経済成長を錦の御旗に被害に蓋をし続けてきた行政の悪業が明らかにされてゆく。
最終的に国の規制権限を行使しなかった責任が最高裁で認められたのは、それから四半世紀後の2004年。
さらに一方で、1973年の被害者の勝訴判決は、チッソの患者への補償の契機となったものの、その補償協定そのものが、地域社会の新たな分断の出発点ともなった。
補償をするためには、患者が症状によって定義される必要があるのは自明の理だが、補償協定の1600万円を受け取るに値する症状という形で定義・整理されてしまったのだ。
そこに絡んでくるのが厚生省と当時の環境庁だ。国の定める、公健法上の患者認定基準が、チッソと患者団体との補償協定の要件に連動してしまったのだ。
どういうことかというと、国は広範囲に患者認定を推進するため、公害健康被害補償法により水俣病被害者の認定制度を創設したが、
そこで認定された被害者は、73年に本来は一部の患者団体と締結した補償協定の適用を受けることが認められ、1600万円を受け取ることができるようになる、という仕組みだった。
しかし、1600万という高額の補償が、結果的に、チッソの補償能力を超え、被害者認定の足かせとなってしまう。取りこぼされた多くの被害者が今日に至るまで苦しんでいる、というのが、
映画のその後の世界なのだ。2004年に最高裁が被害者の要件を国の認定基準より緩く認定した、にもかかわらず、だ。
そして国の重要産業である化学工業、そしてチッソの賠償破産を食い止めるため国や県が金融支援をし続ける、という構図がこの映画の後に待ち構えている世界だ。
国は当然、実態調査、疫学的調査に消極的で、というか一度もなされたことがない。
その意味では、映画のエンディングシーンである勝訴判決は、実は新たな闘いの出発点ともいえるのが水俣病の歴史だ。
そのことを思い返しながら、映画の話に戻ると、この映画の残念なところは、以下の点。
・風景が日本でない、不知火海が見えない、漁民がいまひとつリアリティがない
・写真家、出版社、一部の被害者闘争のリーダーという限られた構図で、実態解明に尽力した熊大や問題を放置した行政が出てこない
・だから、なぜ原因企業が折れて補償に応じたのに問題が解決しないか、みえてこない→多分世界中の公害で類似のことが起きているだろう。
・エンドロールで見せている世界の公害にリアリティを与えるためにはやはり行政の視点をどこかに織り込まなければならなかったのでは。
ただ、だからといってつまらない映画では決してなかったし、満足感は高かった。みようによっては、セルビア・モンテネグロにしちゃあ頑張って日本の漁村を描いた、ともいえる。
ジョニーデップのクズっぽいキャラは最高に楽しめたし、撮影に至るまでの信頼関係の醸成など背景がみえたのは、この映画の見どころだ。
(追記)
小山田圭吾の障害者虐待に関して執筆されたQuick Japan(QJ)やRockin' On(RO)の記事、そして北尾修一によって発表された村上清と小山田圭吾を擁護するブログ記事を読んで、改めて感じたのは「自分たち(=サブカル業界人)の欲求や愉悦のためには、他者の尊厳を踏み躙ること、他者に負担を負わせることを何とも思わない」と云う、昔も今も変わらないサブカル業界人の自己中心的な体質です。そして、この体質は、町山智浩ら旧体制『映画秘宝』と瓜二つです。
件のQJ連載記事『いじめ紀行』の中で村上清は「イジメはエンターテイメントだ!」と明言しました。それが本当ならば、村上清は何故、彼自身をイジメた加害者を取材しなかったのでしょうか?何故、村上清は、彼自身をイジメた加害者を探し出し、彼(ら)を取材して、村上をイジメた時に加害者(ら)が覚えたであろう興奮や愉悦、或いは村上自身が舐めた辛酸や屈辱感について、詳細にレポートしなかったのでしょうか?何故、村上清は加害者(ら)と「アレはヤバかったよね(笑)」と、いじめトークで盛り上がらなかったのでしょうか?村上清が言う「救いが無いことも含めて、イジメはエンターテイメントだ!」と云う主張が本物ならば、村上にはそれが出来たはずです。
もちろん、村上清がそれをしなかった/出来なかった理由は分かりきっています。本当は「村上清にとってイジメは、決してエンターテイメントではなかった」からです。記事を執筆した当時の村上清は、彼自身をイジメた加害者に対して、依然として恐怖感や忌避感を抱いていたのです。
本当は村上清は、彼自身をイジメた加害者にリベンジしたかったが、それは村上には出来なかったのです。本当の加害者へのリベンジが出来ないことは、村上清にとって大いなる屈辱であり、劣等感の源でした。その代償行為として『いじめ紀行』を執筆し、それを通じて仮想的に加害者となることで、被害者としての屈辱感を解消しようとしたのです。
この村上清の行動は、見れば見るほど町山智浩ら旧体制『映画秘宝』と瓜二つです。
小山田圭吾に対する世間の批判が高まった後、町山智浩はTwitterで「悪趣味・鬼畜系カルチャーの原動力は、電通・ホイチョイ・フジテレビ的なカルチャーへの対抗心だった」と云う主旨の発言を行いました。また町山智浩だけでなく、旧体制『映画秘宝』全体が、ジョックス(米国スクールカーストで上位である体育会系)に対する怒りと憎悪を撒き散らしていたことは周知の事実です。
では町山智浩らは、その電通・ホイチョイ・フジテレビ・ジョックスに対して復讐したでしょうか?していません。町山智浩らの怒りや憎悪を向ける本来の相手である、電通・ホイチョイ・フジテレビ・ジョックスには町山らの力では敵わないから、その鬱憤を晴らす代償行為として、女性や同性愛者やアニメ愛好者を攻撃して、憂さ晴らしをしていたのです。或いは『映画秘宝』内部のカースト下位の人間(ギンティ小林等)に対してパワハラやイジメをして、いじめ加害者としての立場を楽しんでいたのです。
そして、町山智浩による筋違いな鬱憤晴らしは、今なお止むこと無く続いています。現在も町山智浩は、女性差別・蔑視発言や同性愛者差別・蔑視発言を繰り返しています。
このように比較することで、悪趣味・鬼畜系であろうがなかろうが、また90年代から変わることなく現在も、サブカル業界人たちは、恨み(?)を晴らすべき本来の相手に敵わないが故に、その鬱憤を晴らすために「弱そう/反撃してこなさそうな相手」を選んで攻撃している卑怯者たちであることが理解できると思います。
この投稿は、以上です。
表題に反して、今回は小山田圭吾や村上清の話が主ですが、サブカル全体の話と考えて投稿します。予め言いますが、長文です。
小山田圭吾が障害者や在日朝鮮人に対して虐待やイジメを行った或いは関与したとして、東京五輪を機に一般人に広く認知され、これに伴って、過去に雑誌『Rockin' On(RO)』及び『Quick Japan(QJ)』が小山田に対して行ったインタビュー記事が注目されています。
それと共に注目を浴びているのが【小山田圭吾自身が、スクールカーストの中では上位ではなく、むしろ下位だったのではないか?】とする仮説です。件の雑誌記事でも「小山田圭吾がイジメの加害者だった?!」と、インタビュアーが驚く場面があります。外見的なイメージから「むしろ小山田圭吾は、イジメを受ける側だった」とインタビュアーも想像していたのでしょう。また、インタビュアーだけでなく、これまで雑誌記事の存在を知らず読んだことも無かったファンも同様に、外見的なイメージから「小山田圭吾がイジメをしていたとは想像もできなかった」とショックを受けていた人が少なからず見られました。
あまり他人の外見を云々したくはないのですが、小山田圭吾は顔立ちは整っているものの、身長はどちらかと言えば小柄で、頭部が大きくて肩幅が狭く、体格的には恵まれておらず、お世辞にもスタイルが良いとは言えません。(しかし、そんな小山田圭吾でも「オシャレでイケてるモテ系」に仕立て上げて持て囃すことが可能だった訳ですから、親の七光りやスタイリスト/メイク担当者の優秀さだけでなく、当時のマスメディアと一般人との間に、如何に大きな情報発信能力の差が有ったか、それを指し示す一つの証拠と言えるでしょう。)このような外見的な印象に関しては、アンチだけでなくファンの間にも共通認識が有ったからこそ、インタビュアーもファンも「イジメ加害者」と小山田圭吾がカミングアウトしたことには落差を覚えて驚いた訳です。
小山田圭吾を擁護する人間の一部には「小山田圭吾は、インタビュアー(村上清)に迎合して話を盛ったのではないか?」とする者もいます。
例えば、北尾修一などのQJ関係者、それに小山田圭吾ファンなど、村上清と小山田圭吾を擁護する側の人間の意見を総合すれば、彼らの仮説は概ね「村上清は、彼自身が『いじめサバイバー』だから、いじめ問題を無くすための試みとして連載企画『いじめ紀行』を立ち上げた。小山田圭吾は村上清の人間性に絆されて、連載企画を盛り上げる為に話を盛った」と云う感じです。
正直に言えば私も現在は、小山田圭吾が話を盛ったと云う仮説は少し可能性が有り得ると考えています。しかし、私の仮説は、村上清と小山田圭吾を擁護する北尾修一たちの言うような「美しい関係性」を想定した仮説とは異なります。私の仮説を、以下に述べます。
=仮説ここから=
そもそも「村上清は、社会に存在するイジメ問題を解決する又は発生件数を減らす為に連載企画『いじめ紀行』を立ち上げた」と云う前提は、果たして事実なのでしょうか?(※そもそもの話をするならば、村上清が『いじめサバイバー』とされていること自体も事実であるのか疑わしいのですが、煩雑を避ける為、ここではそれが事実であるものと仮定して話を進めます。)
むしろ村上清は、イジメの「被害者」になったことで彼自身が背負い込んだ劣等感を解消する為に、己がマスメディア関係者となった今(※記事を執筆した当時)こそ、イジメ問題の記事を書くと云う手段/大義名分によって合法的に「加害者」の立場になろうと試みた、それによって「被害者」であることから生じる劣等感の埋め合せにしようとしたのではないでしょうか。
何か/誰かを「観察/取材」して、それに基づいて執筆した記事を雑誌等の公的媒体に「発表」すると云う行為には、一種の「暴力性」が不可避的に付き纏うものです。観察や取材の対象に対して、好意的な感情を抱いている場合ですら。況や、SNS等の個人的なネットメディアが発達した2021年現在とは異なり、当時の雑誌と一般人との間には、情報発信力の差や「何となくマスメディアの人間は一般人よりも格上」と云うイメージなど、圧倒的な権力勾配が有りました。そのような権力勾配を利用して、取材と称して他人の領域にズカズカと入り込むこと、カメラやテープレコーダーを向けること、記事にして発表すること、これらの行為の持つ圧倒的な「暴力性」。
北尾修一によれば、村上清は極めて優秀な人間のようです。そんな優秀な人間が「取材/執筆と云う行為の持つ『暴力性』」に気づかないはずが有りません(それに気づかないならば、端的に言えば馬鹿でしょう)。おそらく村上清は、このように考えたのではないでしょうか。「マスメディアの人間になった自分(村上清)は、今や取材や執筆の名目で合法的に、他者に対して『暴力』を振るうことが可能になった」と。
取材対象者が「被害者」ならば、取材と称して心の古傷を抉り、取材対象者が苦しむところを観察して「加害者」の立場を擬似体験して楽しめば良い。取材対象者が「加害者」ならば、贖罪意識を持つ人間は、良心の呵責を起こさせて苦しむ様子を観察して楽しむも良し、過去の過ちを反省していない人間は、調子に乗らせて問題発言をするように仕向け、社会から批判を受けるように仕向けるも良し。どっちに転んでも村上清にとって「イジメはエンターテイメント」となる訳です。
差別や犯罪の被害者が、その苦しみから逃れる為に加害者の側に立とうとすることは、往々にして有ることです。例えば、白人から人種差別を受けた黒人が、鬱憤を晴らす為に黄色人種を人種差別するように。村上清も、そんな被害者の一人だったのではないでしょうか。
村上清は、彼の取材対象として小山田圭吾を選択しました。その選択の動機には、もちろん既にROの記事が先行して存在したことも有ったでしょうが、ひょっとしたら「オシャレな渋谷系のモテ系のミュージシャンに対して『取材と云う名の暴力』を振るうことが出来る」と云う愉悦の予感も有ったのかもしれません。更に、相手がイジメの「加害者」ともなれば、その悪行を証言させて世に知らしめる事で、世間からバッシングを浴びるように仕向けて復讐することもできると、そう考えたのかもしれません。しかし、村上清が想定した以上にQJの編集者や読者が本物の鬼畜系クズだったことから『いじめ紀行』を発表しても小山田圭吾への批判が一向に高まらなかったために、小山田圭吾を転落させるまでに到らなかったに過ぎないのではないでしょうか。
ここで私は、取材の暴力性に関して、別の可能性も考えます。当時のマスメディアは、果たして本気で「小山田圭吾はイケてる/格好良い」と考えていたのでしょうか?実は「コイツ、ヒョロヒョロのヘナチョコのくせに、自分のことを格好良いと勘違いしてるw」とか「コイツ、無理してワルぶって、イジメを武勇伝として語ってやがるw」とか、マスメディア関係者は表面的には持ち上げつつも、心の底では小山田圭吾を小馬鹿にしていたと云う可能性は無いのでしょうか。持ち上げて落とすのは、何と言っても、マスメディアが好む暴力の典型です。
そして、小山田圭吾も、己自身のスクールカーストが低いと見做されていることや、マスメディア関係者から心の底で小馬鹿にされていることを感じ取って「いやいや、オレはイジメられっ子じゃないから!むしろオレは、イジメる方だったから!」と、ROやQJの取材に対して虚勢を張ったのではないでしょうか。村上清が、もし本当に「いじめサバイバー」だったならば、小山田圭吾には同じイジメられっ子の臭いがすると気づいたかもしれません。もし、そうだとすれば、余計に小山田圭吾が虚勢を張ることに拍車を掛けたことでしょう。「いやいや!オレ(小山田圭吾)はオマエ(村上清)とは違うから!」と。
小山田圭吾が「報道内容には、一部、事実とは異なる部分が有る」と言いながらも、事実関係を説明することを避けて頑なに沈黙を守っているのは、もしもイジメ加害者であることを否定すると、和光学園在籍中の自分のスクールカーストが低かったことを認めることに繋がり、それはイケてる渋谷系として持て囃された自身のプライドが許さないのではないでしょうか。
=仮説ここまで=
さあ、如何でしたでしょうか?北尾修一は頻りに「こう考えるのが自然」「普通こう考える」と云う表現を用いましたが、私はそれを避けたつもりです。
身内であるサブカル業界人(北尾修一)が、自分たちに都合が良いようにアクロバティックに美化したストーリーと、村上清にも小山田圭吾にも利害関係を共有していない第三者(私)が、ごくありふれた話として考えたストーリー。どちらが本当っぽく感じたでしょうか?それは貴方自身が決めて下さい。解釈の無理強いは致しません。
「長々と書いて、一体これが旧体制『映画秘宝』と何の関係が有るんだよ?」と思われたかもしれませんね。しかし、勘が良い方は既に気づかれたはずです。これらの「若かった頃にイケてなかった人間が、大人になってから加害者になることで、若かった頃の劣等感を埋め合わせようとする」「ワルぶって武勇伝を吹聴する」と云う行動様式は、旧体制『映画秘宝』の主流派(町山智浩ら)と瓜二つであると云うことに。それに、小山田圭吾の語るイジメの話に登場する被害者が障害者や在日朝鮮人など反撃が出きなさそうな弱者ばかり選択しているところも、町山智浩ら旧体制『映画秘宝』が(電通・ホイチョイ・フジテレビやジョックスへの怒りや憎悪を唱えつつも、本丸のソイツらを避けて)女性・同性愛者・アニメオタクとかを攻撃対象にしているところに似ています。
要するに、悪趣味・鬼畜系であろうがなかろうが、サブカル業界人は五十歩百歩ということです。
思った以上に長文となりましたが、この投稿は以上です。
元ラーメンズ・小林賢太郎が、過去に行ったお笑いコント公演の中でナチスによるユダヤ人虐殺をジョークのネタにした事が発覚し、この情報が海外にも拡散してサイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)の知るところとなり、東京五輪開閉会式の総合演出担当を解任されましたね。
小山田圭吾の障害者虐待が世間一般に広く認知された結果、小山田が東京五輪開閉会式の音楽担当を辞任した際には、一部の人間が「90年代には、悪趣味・鬼畜系カルチャーが存在を許されていた、時代の空気が存在して云々」と小山田を擁護し、それに対して町山智浩は「小山田圭吾は悪趣味・鬼畜系とは無関係(だから、自分[町山智浩]たちには責任は無い)」と反駁しました。
ラーメンズは悪趣味・鬼畜系ではないと思いますが、間違い無くサブカル領域に属する芸能人です。また、今回問題視された90年代半ば当時の彼らの芸風が、当時の、いや、今もサブカル界隈に根強く蔓延る「不謹慎なことを言う/するのがオモシロイ/カッコイイ」と云う風潮の下に成立していたことも明らかでしょう。そして、この風潮を作り出すことには、旧体制『映画秘宝』界隈も関与していたと言えます。たとえば『キネマ旬報』の編集部を襲撃して同誌の編集部員に暴力をはたらいたことを、町山智浩はパイ投げ事件などと称して矮小化して面白おかしく笑い話扱いしていますが、アレは「言論の自由を脅かす暴力事件」以外の何物でもありません。しかし、サブカル界隈の身内贔屓の体質は、町山智浩の仕出かしたことに対して真摯な批判や反省を行うことを忌避する道を選びました。昔から、サブカル業界人は身内贔屓が大好きで、これは松江哲明の性的強要・搾取にダンマリを決め込んだのを見ても判るように、今も変わりません。
ラーメンズがお笑いコントの中でナチスのユダヤ人迫害・虐殺をジョークのネタにしたことに関して、擁護として「米国のサウスパークや英国のモンティ・パイソンもジョークのネタにしているのに、何故、彼我に批判の差が有るのか?」と言う人もいましたが、個人的には、連合国側の人間と枢軸国側の人間では、それをジョークのネタにする資格に差が有るのではないかと思います。何か死傷者を伴うような事件があって、それをジョークのネタにするのは、被害者の親族が言うならまだしも、加害者の親族が言ったらアウトになるのと同じです。
一般的な傾向として多くの日本人は、自分たちが枢軸国側であったこと、戦時中にはナチス政権ドイツと同盟国だったことについて、自覚が稀薄だと私は思います。だから、ナチスドイツをポップカルチャーの一部として、エンターテイメントとして、カジュアルに消費するのだと思います。
さて、エンターテイメントとしてナチスドイツの残虐行為を楽しむといえば、長年に渡って率先してそれを実行し続けてきた人間が、旧体制『映画秘宝』に1名います。ナチス強制収容所ネタのエクスプロイテーション映画が大好きと公言し、自ら「所長」と名乗ってそれらの作品の"素晴らしさ"を布教している、赤毛で入れ墨だらけのオジサンが1名。そう、高橋ヨシキです。高橋は、間違い無く、悪趣味・鬼畜系の範疇に属する人間です。高橋ヨシキによる布教活動は、日本において「ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺を、カジュアルに楽しんで消費しても許されるのだ」と云う風潮を作ることに寄与し続けてきました。
もちろん、高橋ヨシキの存在や布教活動が、ラーメンズを生み出した訳ではないでしょう(ラーメンズのネタの公表よりも、高橋ヨシキの布教活動開始の方が時期的に後だと考えられますし、世間的に認知されたのも、ラーメンズの方が高橋ヨシキよりも先でしょうから)。しかし、ラーメンズのネタが世間に発表されてしまった後、長年に渡ってそれが見過ごされたのは、観客である一般人たちの中に「コントのネタなのだから(批判するのはおかしい)」「たかがフィクションのネタに何をマジになってるの?」と云う間違った考えや言い訳の口実が存在したからです。これは、ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺と云う出来事が"エンターテイメント・コンテンツ"として、誤った"市民権"を獲得していたからでしょう。そして、高橋ヨシキによる「ナチス強制収容所エクスプロイテーション映画は素晴らしい!」という布教活動は当に、その誤った"市民権"を獲得するための活動でした。だから、次のようには言えると思います。
「高橋ヨシキによる『ナチス強制収容所エクスプロイテーション映画は素晴らしい!』と唱える布教活動は、ラーメンズのネタの"誕生"には影響を与えなかったかもしれないが"生存"には影響を与えたであろう。したがって、その点については、高橋ヨシキ及び彼に同調した人間に責任が有る」と。仮に時代の空気と呼ぶべき何かが有ったとしても、それは勝手に生まれたのではなく、それを意図的に作り出した人間がいるのです。この場合、それを作り出した人間の一人は、間違い無く高橋ヨシキです。
SWCの人たちも驚愕するのではないでしょうか。21世紀の日本で、ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺をネタにしたエクスプロイテーション映画を「面白い!素晴らしい!」と公言・賞賛し、他人にも観るように推奨活動している人間が存在して、しかも堂々とメディアに登場し続けていると知ったら。誰か英語が得意な人がいたら、高橋ヨシキがしていることをSWCに報告すると良いかもしれませんね。もしもそうなった時、町山智浩はSWCに対して「悪趣味・鬼畜系カルチャーをやっていたのは、電通・ホイチョイ・フジテレビに対する対抗心が有ったから」と弁明できるのでしょうか。見ものです。
それと、SWCといえば思い出しましたが、長年に渡る町山ウォッチャーならばご存知のとおり、過去に町山智浩自身が他人に対して「オマエのことSWCに通報しといたからな」と言ったことがありました。その矛先が自分の近しい人間に向けられた時、町山智浩はどうするでしょうか。
この投稿は以上です。
コーネリアスの件で問題とされているクイックジャパンが発行されていた当時は、「電波系」の根本敬や村崎百郎、「完全自殺マニュアル」鶴見済が活躍していた時代で、サブカルチャー(カウンターカルチャー)として悪趣味な世界観が消費される時代だった。
悪趣味カルチャーは80年代のオシャレやモテや電通文化に対する怒りだった。カーディガンを肩にかけ、ポロシャツの襟を立ててテニスやスキーしてホイチョイの「ヤレる店」読んでナンパして人を「ちゃん付けで呼ぶ」奴らにゲロや死体で嫌がらせしたかった。当時を知らない人にはわからないだろうけど。
https://twitter.com/TomoMachi/status/1417347576521629706
私は傍観者でしたが、「自分も壊れているし、君も壊れているし、社会(世界)も壊れているんだよ」というメッセージなのかなと思いました。
https://twitter.com/ak_tch/status/1417418603620491271
いま批判している人は、この時代を知らない若い人か、知っていたがそういうものを忌避していた人か、知っていてあえて無視しているのだと思う。
当時の自分もクイックジャパンを読んでいたのだが、twitterで紙面のキャプチャを一通り読んで感じたのは、あのときの空気感だった。
小山田圭吾に関しては「あー言ってるな」と。
時代の空気をキャッチアップして、わざと露悪的な表現で悪趣味を前面に押し出しているなと感じてた。
これはそういう時代性の発露であって、本当に起きたことなのかは定かではない。
個人的にはフィクション、もしくは一部が本当でも誇張されたものだと受け取っていた。
当時の表現がそうだったというだけ。
どうやら町山智浩が予防線を張り始めたようですので、町山が後で都合よく削除や改変することを防止するために、現時点(2021/07/20-18/05)のtweetを残しておきます。
【引用01】
悪趣味カルチャーは80年代のオシャレやモテや電通文化に対する怒りだった。カーディガンを肩にかけ、ポロシャツの襟を立ててテニスやスキーしてホイチョイの「ヤレる店」読んでナンパして人を「ちゃん付けで呼ぶ」奴らにゲロや死体で嫌がらせしたかった。当時を知らない人にはわからないだろうけど。
【引用02】
「90年代に悪趣味や鬼畜やってたのはお前だろう」と言われたら「はい、そうです」としか言えないが、それは電通フジテレビでセゾンでトレンディで一言でいえばSuntoryThinkingAboutTheEarthビール的なオシャレでバブルで偽善的で反吐が出るようなクソ文化への反抗だったんだけど、わかんねえだろうな。
【引用03】
根本敬と村崎百郎が「日本を下品のどん底に突き落としてやりたい」と心の底から叫ばねばならないほど1990年頃の日本は抑圧的なオシャレと健全さと明るさと偽善のファシズムに支配されていた。それを知らない人が悪趣味や鬼畜カルチャーを批判しないでほしい。
【引用04】
あと、QJは悪趣味でも鬼畜系でもなんでもない。全然関係ない。QJは赤田氏が創刊した頃からよく知ってるし、問題の号の担当の村上清くんもよく知ってるけど、悪趣味系でも鬼畜系でもないぜ。
【引用05】
悪趣味&鬼畜系カルチャーの内部にいた者としてはっきり言いますが、クイックジャパンという雑誌も小山田圭吾という人も鬼畜&悪趣味カルチャーには直接関係ないです。
【引用06】
悪趣味&鬼畜系カルチャーにはそれ自体の問題があるとしても、小山田圭吾とクイックジャパンとは関係ないです。アニメ・ファンでなかった宮崎勤からオタク・バッシングが起こったようなものです。
【引用07】
小山田圭吾のしたこととクイックジャパンの記事が悪趣味&鬼畜カルチャーとどう関係あるんですか? QJってまったくそういう雑誌じゃなかったですよ。
=引用ここまで=
@TomoMachi
悪趣味カルチャーは80年代のオシャレやモテや電通文化に対する怒りだった。カーディガンを肩にかけ、ポロシャツの襟を立ててテニスやスキーしてホイチョイの「ヤレる店」読んでナンパして人を「ちゃん付けで呼ぶ」奴らにゲロや死体で嫌がらせしたかった。当時を知らない人にはわからないだろうけど。
https://twitter.com/TomoMachi/status/1417347576521629706
@TomoMachi
「90年代に悪趣味や鬼畜やってたのはお前だろう」と言われたら「はい、そうです」としか言えないが、それは電通フジテレビでセゾンでトレンディで一言でいえばSuntoryThinkingAboutTheEarthビール的なオシャレでバブルで偽善的で反吐が出るようなクソ文化への反抗だったんだけど、わかんねえだろうな。
https://twitter.com/TomoMachi/status/1417350723633750018
@TomoMachi
根本敬と村崎百郎が「日本を下品のどん底に突き落としてやりたい」と心の底から叫ばねばならないほど1990年頃の日本は抑圧的なオシャレと健全さと明るさと偽善のファシズムに支配されていた。それを知らない人が悪趣味や鬼畜カルチャーを批判しないでほしい。
障碍者を虐待していた小山田圭吾に五輪の音楽を担当させて、政府がそれを承認し、NHKがそれを放送するわけですから、誰にも迷惑かけてない大麻使用の芸能人すべてを復権してくれないとなー。
=引用ここまで=
今回は小山田圭吾の件で一丁噛みしている町山智浩ですが、大麻使用芸能人を擁護する程度に留まるだなんて、パトリック・マシアスにパワハラしていた頃の町山智浩にタイム電話で聞かせたら「オメエのtweetは退屈なンだよ! 一般人がオメエに訊きてえことはソコじゃねえだろ!」と怒鳴られるのではないでしょうか?
では、一般人が町山智浩に聞きたいこととは何でしょうか? それは、小山田圭吾のイジメ自慢インタビューを擁護する人間たちが口にする「90年代にはワル自慢、悪趣味自慢を許す鬼畜系ムーブメントとでも呼ぶべき風潮が存在した」という主旨の主張に関してです。
この鬼畜系ムーブメントの有無については、90年代当時に物心ついていた年齢の人たち同士でも、認識には差と言うかグラデーションがあるようです。ムーブメントそのものの有無について、私の個人的な見解を述べると「有った」という人の記憶も「無かった」という人の記憶も、半分づつ当たっていると思います。「有った」と記憶している人は、何らかの形でその狂った風潮とその産物に触れた人間で、「無かった」と記憶している人は、そのような狂った風潮に触れなかった人間というだけのことです。
個人的見解としては、鬼畜系ムーブメントは「限られた領域の、少数の人間による、小規模の狂ったムーブメント」と言っても構わないと思います。だから、あんなムーブメントに触れたからと言って別に偉くも何ともないですし、むしろ「無かった」と記憶している、鬼畜系ムーブメントに触れなかった人の方が正常なのですから安心して下さい。
こういう鬼畜系ムーブメントに触れたことによって「自分は他の人間とは違う!」と、己が偉くなったと勘違いした人間が何をするか知っていますか?一例を挙げると、何か「切り株映画はセカイのシンジツを描いている!」とか馬鹿なことを言うわけです。耳(目?)にタコが出来るほど聞いた、この"切り株映画讃歌"の決り文句を此処で持ち出したのは、別に牽強付会ではありません。
例えば、90年代の鬼畜系ムーブメント、悪趣味系アンダーグラウンド文化を象徴するような出版物として『危ない1号』という鬼畜系ムックがあります(このムックは、90年代の半ばから終わりにかけて発行)。その執筆陣の中には、町山智浩と柳下毅一郎の名前を確認できます。
また別の例を挙げると、一部の精神疾患罹患者が示す"電波"妄想及びそれに翻弄される彼らを、特殊漫画家・根本敬が「電波系」と呼び始め、面白コンテンツとして消費するような悪趣味な風潮を生み出したことは有名ですが、この「電波系」を面白がる風潮に乗っかって雑誌『宝島』『宝島30』でも記事を掲載したり、別冊宝島を出したりしていました。その頃、彼らの言う「電波系」に該当する人が店主として経営する喫茶店に行って、店主が示す奇妙な言動などを陰で嗤ったり面白おかしく記事にしていた人間の一人に、町山智浩がいます。宝島における根本敬の担当編集者は、町山智浩でした。また、根本敬のツテで「電波系鬼畜ライター・村崎百郎」という悪趣味なギミックによるデビューを果たした編集者・ライターの黒田一郎は、ペヨトル工房時代から柳下毅一郎の友人でした。蛇足ですが、根本敬は、嫌韓/嘲韓ムーブメントを生み出した張本人の一人でもあると私は思います。
ここで幾つか例に挙げたのは一部に過ぎませんが、90年代の鬼畜系、悪趣味系の系譜を辿れば、その中に旧体制『映画秘宝』の源流の一つが有ることは確かです。あるいは、悪趣味系のムーブメントを作り出したのと同じ人間たちが生んだものこそが、旧体制『映画秘宝』と言っても過言ではありません。
さて、今回ようやく小山田圭吾は断罪の火刑場に引かれていく羽目になった訳ですが、爆笑問題の太田をはじめ有象無象のギョウカイジンは、小山田圭吾、Rockin' on、Quick Japanを擁護する為に「90年代には悪趣味系が流行ってたという、時代の空気も考慮しないと」などと言っています。
これらの擁護を見た時に私が感じたのは、関東大震災当時の朝鮮人虐殺事件や、戦争当時の性暴力や虐殺のことについて「当時の時代の空気を考慮しないと」と言う人間を見た時に似た気持ちです。
百歩譲って、90年代当時「一般人」だった人間が言うならば、たとえ許容は出来なくても、まだ理解が可能です。90年代後半からはインターネットが少しずつ一般人に浸透し始めていたとはいえ、Twitterのような高い情報拡散性と手軽さを兼ね備えたSNSの普及以前には、まだ名も無き一般人が社会的な流行や風潮を生み出すレベルの情報発信を行うことは、事実上の不可能に近かったからです。また、虐殺事件などにおいて、武装した多数の暴徒を目の前にして怖じ気づいた一般人が、独りで立ち向かうことができなかったと告白・懺悔するのも、これもまだ理解は可能です。
しかし「90年代鬼畜系ムーブメントの流行」を根拠にして、小山田圭吾を擁護しているギョウカイジンの多くは、既に90年代にメディア活動、芸能活動をし始めていて「ムーブメントを作り出す、或いは、影響を与えることが可能だった立場の人間」ではないですか。「オレたちギョウカイジンは、お前ら一般人と違って、世間を動かせるんだよ!」という考えの持ち主だったはずです。例えば、爆笑問題の太田は、当時から過激な発言が売りだったのだから、得意の毒舌で小山田圭吾を「アイツ、イジメ自慢して格好悪いな!」とか攻撃することも、やろうと思えばやれたはずです。反権力的な言動がウリのミュージシャンや文化人も同様です。なのに、それをやらなかったのは、結局は彼ら自身の打算や保身が理由でしょう。ならば彼らは「90年代の時代の空気や風潮」のせいにするのではなく、せめて己自身の問題として「打算や保身、我が身かわいさから、自分という個人は、小山田圭吾の蛮行を批判せずに見過ごした」とハッキリ言うべきなのです。先に虐殺に立ち向かえなかった一般人を例に出しましたが、90年代当時のメディア関係者や芸能人が「当時の空気」と言い訳するのは、関東大震災当時に「不逞朝鮮人」などと世間を煽っていた官憲の人間が、いざ朝鮮人虐殺が起きたことの批判を受けたら「時代の空気が」と言い出すのと同じぐらいには無責任且つ卑劣だと、私は思います。
更に、小山田圭吾を擁護する人間たちを卑劣に感じるのは、彼らが小山田圭吾のしていることを勝手に「過去の話」にしようとしているからです。私は「していること」と書きました。そうです。あの暴力事件を犯して以来、そして雑誌インタビューによって一般人に広く認知されて以来、小山田圭吾は被害者に対して謝罪も償いもせず、謝罪や反省を促す一部のファンからの真摯な声さえも無視し、逃亡し続けているのですから、これは「したこと」ではなく「していること」つまり「終わってしまった過去の話」ではなく「継続している現在の話」です。小山田圭吾の盟友である中原昌也も、小山田圭吾のしていることを「あの頃は」と「終わってしまった過去の話」にしようと画策した卑劣な人間の一人です。渋谷系って本当にダサいですね。石原慎太郎を罵倒することは出来ても、オトモダチのギョウカイジンの悪さは批判出来ない、そんな自称"反権力"作家は、毎朝鏡を見て恥ずかしくなったりしないんでしょうか。
長くなったので、今回は一旦ここまでにします。