はてなキーワード: 砂場とは
視線を辿れば、満開の桜の大樹。
昨晩はどうして気づかなかったのだろうと、自分も足を止めてしばらく見ていた。
しばらく経った頃だろうか。背後の公団団地から子どもの泣き声と母親の叱る声が漏れ聞こえてきた。
中々泣き止まない子どもに母親の焦れったい感じが伝わってくるようだった。
子どもの頃、私も泣き止むことは下手だった。
親の躾に、独りでに零れるものを止めることはできなくて、
鼻の奥をくしゃくしゃにして、痛いほど下瞼を擦って
しゃっくりにも似た喉のえずきを必死で抑えようとしていた。
泣いたらますます叱られるとそんな強迫にも似た気持ちを覚えながら。
仕事で、年次が二番目に古い(といっても一番若い人から二歳しか違わないのだけと)から
という理由で、チームリーダーを任されたのだが、
これをどうすればいい?と持ち込まれた質問の半分が分からない。
結局その場で即答出来ない気まずい雰囲気が嫌で、
帰り際にちょっと、別室へ。
花粉症で良かった。
そんなことを思い出して、ため息をついたら、
とりあえず、鞄を振りかざしたら、社員証や折りたたみ傘が砂場に向かってばさっと凄いことに。
思わず、彼女と顔を見合わせて、どこからともなく吹き出した笑いが夜の公園を覆った。
その後、彼女と荷物を拾って、軽い世間話をした。さりげなく電話番号を聞いたら、
やんわりと断られたが、近くのオフィスビルに勤めてるとも、また会うこともあるでしょうとも聞いたので、多分線は切れてない。
ピラミッドのある世界とピラミッドのない世界という比較があるそうだ。
あるかないかという二択である。本当にその意味ならピラミッドの大きさは関係がない。世界中に小さなピラミッドはある。いや、砂場で作ることだって出来る。
ここで問われているのは、あるかないかではなく巨大さである。巨大なピラミッドだから人を威圧出来るのだ。そして大量の労働力を必要とするのである。
そして巨大さが重要なら、これまでに存在したどのピラミッドよりも大きなピラミッドを作るべきだ。そうでなければ、巨大なピラミッドのある世界を選択した意味を失うだろう。そしてさらに巨大なピラミッドを造ることを繰り返すのだ。いつまでも。
風を切って飛ぶ飛行機は美しいのか。その機体が美しいなら、模型飛行機も同じ美しさを持つはずだ。もちろん、材料の比重などによる問題の相違があるが、小さいことによる技術的な問題もあるだろう。そういう問題の解決に技術者として興味持ってもいいはずだ。戦争はなんでも利用するから、小さな模型飛行機だって作られれば戦争に利用されるだろうが、開発費は少なくて済むだろう。
両親と夕食を囲んでいて、隣のお宅の話題になった。
そのときの話を書こうと思う。
いつの間にか沖縄の梅雨が明けたというけれど、私の住む西日本の県はこのところめちゃめちゃ渇いている。
梅雨だというのに2週間も降らない。
庭の木を見れば、ただでさえ薄い葉の端々が、潤いが足りないと言わんばかりに茶色くなってしまった。近所の山の松なんかも、もともと生育が良くないのに加えてますます立ち枯れてきた。
やっと降ったと思った翌日にはもう、忘れたかのようにカンカン照りだ。
もー、夏ってことでいいですかね?
西日もあんまり強いしで、父に頼んで、「すだれ」を買ってきてもらった。
窓に吊るして日差しを遮るアレだ。父の部屋も二階でめちゃめちゃ暑いので、自分の所にも付けたという。
それで午前中に作業をしていたら、隣家のMさん(主婦)がその様子を見かけ、父に声を掛けてきたそうだ。
「うちにも付けられたらなぁー」
父は「すだれを付ける作業は難しいことじゃないし、忙しいのかいな」くらいに思って、軽く受け流したそうなのだが、話を聞いた母が、食卓のかつおのたたきをつつきながら言った。
「あの家はどうにもならんじゃろうねー」
そういえば今日、父が私の部屋の窓を開けてホイホイと引っ掛けていたのを思い出す。
うちの家は祖父が建てた日本家屋だが、土木屋をやっていた祖父がかなり手を掛けて基礎から作り、家屋はこだわりの材木・土なんかで出来ている。
床が桜の木で出来ていて、塗りの知識がなかった祖父はリビングをペンキ塗りしてしまい、大失敗したのだけど、キッチンの床は色は塗らずにニスみたいなつや仕上げがうまく出来ていて、素足が気持ち良い。
建って35年経つが、水場の壁に几帳面に埋め込まれた四角いタイルは、一枚もひび割れずに整然と壁を飾っている。
風呂などは当初ソーラーパネルで沸かせるように作ったが、作って10年くらいでパネルが壊れてしまい、今は灯油のタンクを入れて、ボイラーで沸かしている。
屋根瓦はときどき割れるが、日本瓦なので、吹きつけなどのメンテナンスをしなくて良い。割れたら、予備と交換するだけだ。
細かいところをいろいろ言えば不便もあるが、なにせ神経質な祖父がすみずみまで目を光らせて作った家なので、やっぱり良くできている気がする。
祖父が死んでから、わたし達家族は祖母の一人住むこの家に移り住んだ。しばらくして、庭の一部を潰して増築した。
増築した別棟はあまりお金をかけずに作ったので、母屋よりは少しグレードの低い感じに仕上がった。
具体的に何で安かったのかは、当時中学生だったのでよくわからない。
母屋に比べて、というだけで、十分にいい建物だと思っていたし、都内のマンションやアパートを数件移り住んで大人になった今も、ひどく安い建物だとは思わない。
ただし、なぜか床下が白アリに食われてメンテが必要になったこともあるし、
帰省した時にいつの間にか一階の内壁に洒落た木材が貼られていたので、北欧気分で内装を変えただけかと思っていたら、カビが生えたのだということだった。
建って4年目の夏のことだ。
このとき初めて、裸の木材が湿度を調節することを知った。靴箱に活性炭を置くのと同じ要領だ。
別棟をお願いした土建屋さんは祖父の古い知り合いなのだが、仕事は毎度きっちりやっていたと思うし、手を抜いたからトラブルが起きた、というわけでもないと思う。
ただ、白アリ対策を施したはずの木材に運悪く入り込むスキがあったのだろうし、締め切った部屋の角にカビが生えるほど、断熱材やサッシの性能が良すぎたのだろうし、風通しの問題でもある、という風に家族はその件を受け止めている。
そういえば、母屋はめちゃくちゃ窓が多い。ほとんど四方にあるか、ない面は、どことなく気が遣われていて意外と通気が良い。
一軒家は窓が多くて戸締りが大変だ、なんて言うけれど、だからといって窓を少なくしないのは、やはり理由があるということかしら。
わたしの部屋はその増築したほうの二階にある。夏は当然暑いのだが、西日の入る窓に軒(のき)があるので、そこに、どうにかしてうまいこと掛けてもらった。
父は梯子も使わずに窓の外に乗り出して、手を伸ばしてフックを掛けたりしていたので、まだ若いもんだと思った。
さて、Mさんのお宅は某有名ハウスメーカーで作られた注文住宅だ。
数年前に越してくると同時に建てられ、2人の可愛らしいおにゃのこが砂場や自転車でよく遊んでいる。
道路に面した一階に大きなリビングがあり、ときどき食器の音や、子どもの無邪気な声が聞こえてきたりする。
庭というか、地面はコンクリートでまっさらに固められており、道路に向かってゆるやかなカーブを描く駐車場になっている。
パーキングブロックも置くつもりはないようで、あまりにいさぎよい面っぷりに、竹を割ったような感じ?と住人の性格を勝手に想像してしまったりしていた。
夏は照り返しが暑そうだな、と思ったこともある。
そのリビングがとても暑いのだそうで、窓を開け放すとリビングが丸見えになってしまうこともあり、毎年毎年、何とかしたいと思いつつ、実際何もできないのだそうだ。
母が言うにはどうも、リビングの窓にはすだれをかける軒がないので、よしず(縦に立てかけるすだれのようなもの)を考えるだろうけど、よしずを立てかけると風が吹いた時などに地面のカーブで倒れる具合になってしまうし、たぶん無理だと。
グリーンカーテンを作るには、やはり上方にネットを留めるところがない。
サッシに付ける金具とかで何とかなればよし、無理なら家の内側に屏風的なものを立てるか、ブラインドを付けるか…。
物干し台みたいなセットを建てるのも、安くあがるかもしれない。
毎年のことだから、きちんとやるなら外のコンクリートに穴を開けて、柱を刺し、棒を渡すしかないのでは、といった意見に落ち着いた。
家の壁に穴をあけると不都合を招きまくるので、壁改造はやはり話題にも上がらない。
もちろん、これはぜんぶ他人の勝手な意見であって、Mさんを交えた会話ではない。
昔、システム屋に勤めていた時、会社の上司が自宅を新築するということで、確かその某ハウスメーカーに発注していて、既製のユニットを組み合わせて半注文住宅に出来るんだ、それがSIerの提案のやりかたと似ていてとても参考になるんだ、と言っていたのを思い出した。
何か出来るように機能を考慮すると、料金も持ち上がる、積み木のようなシステムだと言っていた。
これはこれでコストダウンとのバランスを取った、とても革新的なビジネスアイデアだと思う。
メタボリズムって考え方は好きだし、建築の側から考えると、とてもワクワクするものを持ってるとも思う。
ただし、閉じやすい、完成された(建築家側にだけ開けた)性格を持っているので、居住者(ふぜい)がどうにかできる隙がまったくないケースもあるということだろう。
注文住宅に比べて日本家屋がとても優れている、なんてつまらないことを言いたいわけではないけれど、ハウスメーカーの提案するユニット式は、気を遣って作らなければいけないんだな、みたいなことを思った。
新しい人と出会って出身の話になると、未だにきまって震災大丈夫でしたかーといわれるのが鬱陶しい。
こういう人は、家族死んだから全然大丈夫じゃないよ、子供できても放射線が怖くて福島の両親のところには連れて行けないんだよ、
福島で寝たきりの祖父母はおでの孫の顔見られないんだよ。といったらどうするんだろう。
大丈夫じゃないといわれたときの反応をちゃんと用意しているのだろうか?
はっきりいって初対面の人が、おでの郷土、両親を心配する理由はないはずだ。しらじらしいだけなのでやめてくれ。
初対面のテーマは天気とか趣味とか他にもある。重い話は、ある程度仲良くなってからすべき。
反原発、原発推進で政治的な話につながりやすいことから考えても、初対面の話としてはタブーだ。
あるいは表面上も心配しているのではなく、どのくらいヤバかったのか知りたいという好奇心で訊いているだけだろう。
訊いている方にとっては、たった一度のお節介でも、どこに行っても同じ事を訊かれるおでにとってはお節介の連続だ。
放射線問題が全然解決してないのはニュースみりゃわかるだろうに。
全然大丈夫じゃないし、
そう訊かれる度に、おでは実家の有様を思い出してイライラするんだよ。
思い出がつまった実家が除線で更地にされて、庭の花壇や池が砂場になっちゃって
原発がお漏らししたってニュースが出る度に、両親の顔が浮かんできて、
出身の話になる度に、無神経なヤツに、できるだけ忘れたがってることを掘り起こされてみろよ。
全然大丈夫じゃねーだろ。
でもおでも、関西の人に対しては阪神大震災について、2005年に新潟の人に対しては中越地震について、「大丈夫でしたか?」っていっちゃったから人のこといえないんだ。
出ちゃうんだよこれ。
新しい人と出会って出身の話になると、未だにきまって震災大丈夫でしたかーといわれるのが鬱陶しい。
こういう人は、家族死んだから全然大丈夫じゃないよ、子供できても放射線が怖くて福島の両親のところには連れて行けないんだよ、
福島で寝たきりの祖父母はおでの孫の顔見られないんだよ。といったらどうするんだろう。
大丈夫じゃないといわれたときの反応をちゃんと用意しているのだろうか?
はっきりいって初対面の人が、おでの郷土、両親を心配する理由はないはずだ。しらじらしいだけなのでやめてくれ。
初対面のテーマは天気とか趣味とか他にもある。重い話は、ある程度仲良くなってからすべき。
反原発、原発推進で政治的な話につながりやすいことから考えても、初対面の話としてはタブーだ。
あるいは表面上も心配しているのではなく、どのくらいヤバかったのか知りたいという好奇心で訊いているだけだろう。
訊いている方にとっては、たった一度のお節介でも、どこに行っても同じ事を訊かれるおでにとってはお節介の連続だ。
放射線問題が全然解決してないのはニュースみりゃわかるだろうに。
全然大丈夫じゃないし、
そう訊かれる度に、おでは実家の有様を思い出してイライラするんだよ。
思い出がつまった実家が除線で更地にされて、庭の花壇や池が砂場になっちゃって
原発がお漏らししたってニュースが出る度に、両親の顔が浮かんできて、
出身の話になる度に、無神経なヤツに、できるだけ忘れたがってることを掘り起こされてみろよ。
全然大丈夫じゃねーだろ。
でもおでも、関西の人に対しては阪神大震災について、2005年に新潟の人に対しては中越地震について、「大丈夫でしたか?」っていっちゃったから人のこといえないんだ。
出ちゃうんだよこれ。
まあ、今自分に評価を下すんじゃなくて、やってみればいいんじゃないかな。春から大学生ってことだよね。大学行ってみればまた考えが変わるかもしれないし。
自分も工学系(理I→工学部)だったけど、入試より入ってからやる勉強の方がうんと難しいよ。当然だけど。受験勉強よりも大学入ってからの方が勉強してた。もちろん入試が振るわなくても入ってからばりばりやれる人もたまにはいるけれど、入試問題が出来ないのに入ってから数学や英語が突然出来るようになるわけもない、ってことは頭の隅に置いとく必要がある。(あと、難しいけど、そのぶん面白いのも確かだ。受験勉強って砂場で遊んでるようなものだったな、って思うようになる。)
どこぞの、幼稚園が。子供に怪我をさせたくなければ、当幼稚園に入れないで下さい。
遊具や砂場で遊べば、怪我することもアレば、風を引くこともあります。当たり前でしょ。といった。という例もあるが。
いわゆる、不良や非行対策。や信賞必罰の観点から、必ずしも体罰に相当する事が不要かといわれるとそうでもない。
よく言われるけど、殴り方を知らない、喧嘩の仕方を知らない男子ほど、凶悪事件をこす。という話もある。
体罰というか、なじるとか、酷い言葉づかいをする。というのもそうだけど。罰に頼らない教育が必要なのであって、罰が不要という事じゃない。
ちゃんと、大人たちで協議して、最低限の罰で済むようにする。という話し合いが必要なのと。
生徒が納得できる事が必要。
昔の例で言えば、遅刻したなら廊下に立ってろ。というのは、授業が遅れる。というのさえフォローできるなら、妥当な罰だろ。
だが、お前はバカだから廊下に立ってろ。というのは、単なるイジメ。
頭がイイやつだろうと、バカだろうと。遅刻したら立ってろ。 公平だろ。
Marco11。
この名前にピンと来た人間は古参はてなユーザーだ。2007年、マルコは颯爽とはてな村に現れた。そして傍若無人な振る舞いをして村民から嫌われた。あいつはうざかった。皆が迷惑した。でも楽しかった。みんなではてなダイアリーという砂場で遊んだんだ。うざいマルコは、うざさを個性にして時には村民と取っ組み合いの喧嘩をしたりもした。いい思い出だ。
May_Romaもうざい。でも、そのうざさが何か楽しいし懐かしい。昔のインターネット、こんな感じだったな。昔はこういう風に口汚い言葉を飛ばし合ってた。傷つく人もいるだろう。泣く人もいるだろう。でも、そのキャッチボールが僕らを熱くさせるんだ。「いいね!」を付け合うインターネットなんてくそ食らえだ。俺達は今日もお互いを憎み合い、戦うんだ。
同じ団地の高校生男子の家(通称 おにいちゃんの家)に預けられていた。
3年生になってから、そこんちのお母さんがちょっと留守になると、
毎回、穴に指をつっこまれるところまでやられていた。
その高校生のおにいちゃんに、誰かにバラしたら殺すといわれたから
誰にも言えないまま、私は5年生になって
おにいちゃんが大阪の大学に行って、そこんちのおかあさんがパートをはじめて
うちは家を建てて別の町に引っ越して、私は普通に遊べるようになった。
首を絞められるときに目の裏が真っ赤になったこととか
体を触られるときに団地の中の砂場で近所の友だちが遊ぶ声がぼわんぼわん耳にひびいたこととか
たまに思い出して叫びたくなるけど
私がいなけりゃそもそもこんな目にはあわないんだと思っていた。
普通の人みたいに学校行ったり仕事したりして結婚して母親になった。
母親になってから、数年後に子どもが外に一人で出ていくであろうことが怖くて仕方がない。
娘が一人で留守番をすることが心配した母が私を預けたおにいちゃんの家は
私には全く安全じゃなかった。
だったら、子どもが安全に過ごせるところはどこにあるんだろう。
私はこの子とずっと手をつないでいられない。私はこの手を放さなきゃならない。
でも、自分に素直で相手の気持ちなんか全然気にしない人は世の中にたくさんいる。
何であのとき私はおにいちゃんを殺しておかなかったんだろう。
変にヒネた態度で世の中を斜めに見るヒマがあったら、おにいちゃんを殺しておけばよかった。
パソコンはMS-DOS、インターネットはWin3.1の時代から触れている。
最近考えるのは、新しくインターネットの世界に触れた人と古い時代からネットにどっぷり浸かっている人との
たまにしかネットに触れない人や深い所まで読み込まない人達と一日何時間もネットに入り浸っている人達では全く勝負にならない。
インターネットのヘビーユーザーにとってネット経験値が低い人達(なおかつ誰かの受け売りでRTばかりして自分の頭で考えない人達)を騙くらかしたり扇動するのは簡単なこと。
「砂場の落とし穴」砂場で遊んでいた大人気ない子どもが浅い落とし穴掘ってたけど、幼児が穴に落ちて、幼児にとっては
思いのほか穴が深くて泣き出したりトラウマ与えた結果、周りに責められる
23歳のとき、幼稚園年少の男の子を持つ10歳上の男性と交際。
奥さんは出産の時に亡くなった。彼は跡継ぎ田舎の長男で、周囲は親戚だらけ、
私は心の中で、結婚までいったら大変だな、応援したくないような複雑な気持ちだった。
まあでも友人も獣医になったばかりだったし、仕事もこれからっていうときだから結婚どころじゃないだろうと思っていた。
がしかし、交際10ヶ月であっさり結婚し仕事も辞めて同居もした。まだ24歳。
結婚後、どうしてそんなに急いだの?と聞いたら
「毎週日曜日にデートするんだけど、彼は子供をつれてこない。お父さんが毎週日曜日に出かけて
子供はそぞ寂しいだろうと毎回気になってた。
それである日、今日は3人で遊ぼうと誘って家まで迎えに行ったら、庭の砂場で一人でつまらなさそうに遊んでいたの。
その小さい背中を見たら、今すぐ結婚しようって。私からその日の帰りにプロポーズした。」って。
今、友人は42歳で、友人もそれから女の子を2人産んだ。幼稚園だった息子さんも今は社会人で同居。
思春期で同居の親戚や父親に歯向かっていた時期も、友人には優しくいろいろ相談していたらしい。
とても優しくていい子に育ち、並んで談笑している姿を見ても本当に自然。
親父、茶碗ぐらい下げろよ!と言ったり、重い買い物が率先して連れて行ってくれたりするそう。
今でも思い出すんだけど、友人に2番目の娘が生まれたときにお祝いを渡したとき、
「もう3人目なんだからそんなお祝いなんていいのよー。」って言っていて、
友人にはとっくに連れ子なんていう意識はなくなってるんだなってびっくりした。
強くて優しくて、誰に対しても同じ態度を取る自慢の友人です。
友人自慢の長文ですみません。
この記事が話題になっているけど、どう考えてもアホです。
いや、2chのせいで他のSNSが恐ろしいサービスと化してるんだろ
http://anond.hatelabo.jp/20110723204316
何がアホかって「砂場としての2ちゃんねる」の意味を読み取っていないからアホ。
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/1174
「砂漠としての2ちゃんねる」を簡単に説明すると、2ちゃんねるは
・恐さを体験できる場
・良くも悪くもリテラシーを考えさせられる場
このような働きがあるから、ねらーは自ずと防衛策やリテラシーを身につけた。しかしmixiやTwitter民は、全然そういう意識や経験をしていない人が多い。しかもSNSは基本的に「友達と友達のつながり」だから、馴れ合いもひどい。本来、叩かれるべき問題もスルーされたりする。2ちゃんねるは、そういう残念な部分を矯正する働きもある。しかしmixiやTwitterはその働きは弱い。ネットリテラシーが培われていないにも関わらず、ネットは進化し、多くの人が使うようになった。しかし多くの使う人は進化していない。「砂漠としての2ちゃんねる」は、その部分を問題提起した。と、考えている。
「砂場としての2ちゃんねる」は2ちゃんねるのせいで他のサービスがおっかなくなったとか、そういう話じゃないでしょ。「砂場としての2ちゃんねる」が提起している問題は、ネットは複雑化しているのに、使う人が進化していないということ。「誰でもネットができる」というのは、言い換えれば「バカでもネットができる」ということ。だからバカな炎上が起こる。
Twitterがバカ発見機なら、2ちゃんねるはバカ通報機と言えよう。ある意味ジャーナリズムの精神だから、別にそれはそれで良いんじゃないか。バカな発言で人生を終えたくないなら、バカな使い方をしないことだ。まぁ、バカはそんなこと気付かないんだろうけど。
叩く側は正義のつもりだから、叩くときに匿名である必要はない。
2chが原因で炎上しているからといって、それが2chの匿名性によるものだとは限らない。
匿名性が原因となるのは、炎上の発端が身内のリークであるケースぐらいだ。
それ以外のケースなら、仮に匿名掲示板が存在しなければ、実名SNSのどこかで炎上する可能性がある。
炎上に油を注ぐ奴はたいていアホなので「自分も実名だから叩かずにおこう」と考えること自体が少ない。
2chにいる一部の祭り好きの連中が他のSNSを監視して、揚げ足を取ってるからネット上でいろいろ炎上してるんだよ。
誰かがブログやSNSに変なことを書く→2chでスレが立つ→まとめブログが記事にする→それを見た他のネットユーザが更に盛り上げる→マス媒体が取り上げる(酷い場合)
っていう負の流れじゃん。(もちろん間に違うものを介す場合もあるよ。togetterとかね)
ブログやSNSで誰かが変なことを書いたとしても、普通はそれだけじゃ炎上なんてしない。というかそこまで注目されない。
mixi、twitterの発言→いきなりマス媒体に取り上げられて叩かれるなんてケースはほとんど見たことない。
誰かが油を注いで、人を集めるからこそ炎上する(そして最悪の場合マス媒体に取り上げられる)わけで、
2chはちょうどその発火装置であり、且つハブみたいな役目を果たしている。
だから、この「砂場としての2ちゃんねる」[ http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/1174 ]という記事にある
>初心者に一番優しい2ちゃんねるが怖いところだと喧伝されて、本来はおっかないmixi やFaceBook が、明るく楽しい場所みたいに紹介されるのは何か違う気がする。
という一文は間違ってると思う。
まぁ2chというサービスが存在しているのを前提に、他のサービスを"本来は"おっかないと言ってるのかもしれないから、別にこの記事を責める気もないけど
昨晩も同じようなことをちょっと書いたが、反響は全くなかった。まあ、それはいい。
http://with-c.sakura.ne.jp/meguro_kodomo/?p=116である。
今日、twitterをチェックしたら(http://p.tl/vRZl)、「すばらしい」とか「拡散希望」とか(こんな情報を拡散してどうするんだよ)。肯定的な評価ばかりで、タイトルにあるようなことを書いている奴はいないかった。それどころか「マトモな人間に出会った♬素晴らしい事だ!」なんて書いてる奴もいる。馬鹿の癖にどこまで上から目線なんだよ。
この測定結果の何が問題なのか。まず有効数字が多すぎるが(3桁も取れるわけがない)、このことは測定グループに学生実験レベルの知識および経験が欠如していることを示唆している。「内部被曝ホットスポットを特定しました」などと書いているが、もともとの線量が小さい上にホットスポットとそれ以外の場所の差はごくわずかであり、「それ本当にホットスポットなの?測定誤差じゃねえの?」という疑いを持たざるを得ない。また、地表での測定線量を「内部被曝想定線量」と勝手に定義しているが、乳児を砂場で遊ばせるならともかく、小学生は恒常的に地面をなめたり匍匐前進して地表の埃を吸入したりすることはないから、あまり意味のある定義ではない。そして、地表5cmにおける無遮蔽状態のガイガーカウンターの測定値を最大空間線量と称してμSv/h単位で発表しているが、これは非常に問題のある行為である。この値を外部被曝量の判断に使うべきではない。
他にもあるがきりがないので、いいところもあげておく。その妥当性はともかくサイトに測定手順が記述されているし、それによるとγ線測定の際はちゃんとアルミカバーをつけている。わざと突っ込みどころを用意する、いわゆる「釣り」ではないのだろう。
だが、善意の測定者にしてもデータの信頼性や解釈に疑問がある測定結果がtwitteで持ち上げられたり、他の学校に広げようという動きは非常に気に入らない。こういう連中に応対する先生方には本当にお気の毒としか言いようがない。
そんで「目黒こどもを守る会」のみなさんは除染とかいって水かけてブラシでこすってるみたいだが、問題になるレベルの放射性降下物でも同じことするつもりなのか。それ単に広がっちゃうだけじゃねえか。次回は水+重曹+グリセリンで除染します、だってさ。セシウムを鍋の焦げ付きか何かと思っているのか。
厚生労働省は10日、食べ物を落としてもすぐに拾えば食べてもいいとする慣習「3秒ルール」を禁止する方針を固めた。微量でも病原菌が付着する恐れがあるためで、食品衛生法を改正し、罰則をつけることも検討中。乳児やお年寄りなどが深刻な食中毒になるのを防ぐための措置だとしている。
3秒ルールは、主に高校生や大学生など、若者の間で広く知られている。はしなどでつまんだ食べ物が床などに落ちても、3秒以内に拾えば病原菌の付着もわずかで問題ないとするもの。「5秒ルール」など、地域によっては設定された時間が微妙に異なるものもある。
食中毒問題は今年に入り、牛生肉を加工した食品「ユッケ」による死亡例が出たことで注目が高まっている。厚労省によると、同省が今月、ユッケやレバ刺しの提供を禁じる措置を打ち出したことについて、国民からは「危険性が少しでもあればダメだというなら、3秒ルールも問題ではないのか」とする指摘がファクスで1件寄せられていた。
このため、厚労省の研究班が過去30年を調べたところ、3秒ルールによる食中毒が15件起きていたことが判明した。新潟県の男子高校生が自宅台所の床から2.5秒で拾い上げたマグロの刺し身を食べて下痢をした(1985年4月)▽埼玉県の男子高校生が校庭の砂場から1秒で拾い上げたアイス(ガリガリ君)を食べて下痢をした(1999年8月)▽福岡県の男子大学生がトイレ個室の床から2.2秒で拾い上げたメロンパンを食べて1週間入院した(2010年9月)――といったものだという。
禁止規定を盛り込んだ食品衛生法改正案は年明けの国会に提出し、実際の導入は来年秋ごろの予定。他人が3秒ルールを続けているのを見た場合には保健所に通報することも義務づけ、違反した場合には、懲役半年と罰金20万円の罰則を検討しているという。
厚労省研究班の班長をつとめる東京衛生大学の清木広教授(食中毒防止学)は「今のところ死に至るような事例は見つかっていないが、3秒ルールに慣れた人が親になって、抵抗力の弱い子どもに不潔な食べ物を食べさせたり、自分自身が高齢化して免疫力が弱ってきたりすれば危険だ。不衛生なものを食べるような不適切な慣習を放置できないと判断した」と話している。
大学生になり、もうじき4期目が終わる。
有り余った時間はひたすら堕落した生活につぎ込み、勉強も労働も人間関係も遊ぶことさえ蔑ろにしていた。
愛していた物語も音楽も絵も、その場限りの感動しか与えてくれないことを悟った。
波が引いては押し寄せるような感情、同じところを延々と周回する思考。
ネットにある砂場で穴を掘っては埋め掘っては埋め。それで良いと、それこそが正しいと思いながら、甘えながら自分を内側から痛め続けていた。
それは今、内側だけにとどまらず、外側に滲み出るように人との不和を引き起こしているようにも思える。
それなのに自分を信じられないから人も信じられない。そろそろ見捨てられる気もしてきた。
もう自分を貶して反省するのも疲れた。ブチ切れたことないけどブチ切れるのかもしれない、気が違ってしまうかもしれない。
俺の心は今までで一番疲れきっている。