はてなキーワード: 担々麺とは
2/15(月):2660キロカロリー
朝:納豆、ご飯、千切りキャベツ、おジャ魔女どれみを見ながら作った※1冷しゃぶ
昼:よだれどり、担々麺
リングフィットアドベンチャー:下のプログラム2のBトレーニング
ホームトレーニーのリングフィットアドベンチャーレビュー #7 頻度とプログラム|すいーと|note
2/16(火):3081キロカロリー
夜:カップ焼きそば、マーボーナス、わさビーフ、野菜サラダ、焼酎
第 9 話 ハーブを探せ!MAHO堂バスの旅 - おジャ魔女どれみ# - 作品ラインナップ - 東映アニメーション
マジョリカが主役の回。良かった。
誰もが誰かの子供で、つらい時は甘えたいよね。。
マジョリカが「魔女ガエルになった姿をママに見せるのが恥ずかしいんじゃ」という言葉に、泣いてしまった。わかるわーーーーー!そういいたくなる気持ちすげーわかるよ。
第 10 話 高校生あいこは「走る少女」!? - おジャ魔女どれみ# - 作品ラインナップ - 東映アニメーション
バカバカしさ含めてめちゃくちゃ好きな回。信子があいこに持つ憧れを物語にしている感じとか、いじらしい。
小学四年生になり、超漠然と将来に対して考えている感じとか、30になった今見ると、グッとくるわ。。表現できない感情がこみあげてくる。
作り話をするキャラクターって、とても魅力的だ。
第 11 話 はづきちゃん踊りを習う!? - おジャ魔女どれみ# - 作品ラインナップ - 東映アニメーション
この話は本当に難しい。はづきは大人になったらはづきママのことを恨むんじゃないかとも思うけど、折り合いのつけ方は家族によって異なるからなぁ。。
親を反面教師にして子育てをするとよくないことが起こるのかもな、って思った回。
第 12 話 健康診断でイエローカード! - おジャ魔女どれみ# - 作品ラインナップ - 東映アニメーション
ウーム。。救急車を呼んだせいで受験が出来ませんでした的なエピソード。
子供向けのお話だとこれが正しいけど、実際は折り合いをつけていかなきゃいけないよね。。なんか、いい世界ですねぇ、という印象。マジョハートの描写は好き.
昼、夜(一人飲み):もずく酢、キムチ、おジャ魔女どれみを見ながら作った豚の生姜焼き※1、チップスター酒(氷結など350ml缶×8)、汁なし担々麺
朝:サバカレー
昼:おジャ魔女どれみを見ながら作った※1自作の次郎系ラーメン、キャベツ
リングフィットアドベンチャー:下のプログラム2のCトレーニング
ホームトレーニーのリングフィットアドベンチャーレビュー #7 頻度とプログラム|すいーと|note
夜:おジャ魔女どれみを見ながら作った※1自作の次郎系ラーメン、キャベツ
思う存分一人飲みをしたらどうなるかを試したら4000キロカロリーを超えた。そう考えると食事を記録し始めてから、自分なりに節制できていると思う。
あいこのお父さんがお見合いをする回。三家族合同での食事会を遠慮するあいこの感じがつらいね。。あいこの家族がメインの回は気合を入れてみてしまう。冗談を言って笑いあえるこの二人の親子関係は理想だな。あと、新年一発目の回だったので、あいこがジュース、父ちゃんがおとそで乾杯をするシーンがあったのだが、そこがすごい好きだ!
いわゆる引っ込み思案なパソコン野郎中田君が主人公のお話。自分に一番近いキャラクターかもしれない。 挨拶をすることでほんの少しだけ成長した、という結末なのがよかった。「そうなんだよなぁ!」って言いたくなるお話だった。あと良い言い争いって人生に必要だわ。
第49話 パパに会える!夢を乗せた寝台特急
序盤のおジャ魔女どれみを見ていて一番グッとくるのが、どれみ・はづき・あいこの三人が魔法を使う理由の大半が人のためだというところ。俺は普段ただ給料をもらうために働いてたから、利他的な行動を見ていてスゲーなって思っちゃう。 だから初登場あたりで自分のために魔法を使っていた(俺にはそう思えた)おんぷが、完全に人のために魔法を使っているたびに「お前ら、出会えて本当に良かったな!」っておもっちゃうんですよ。
自分が正しいと思ったことをするべきだよなぁって思った回。大人になって正しいと思った選択を取れないことが多い分、この世人が正しい行動をとり、報われている姿を見て、胸がチクチクしながらもうれしくなる。そして本当に守りたいものを守る選択を取ったおんぷの運命やいかに!
シーズンラスト。おんぷを助けるためには魔女をやめるしかないっていうんだったら「そりゃ、辞めるよね」っていう話ではある。でも、迷わずその選択をするのではなく、ちょっと魔女を続けることに後ろ髪を引かれているのが、大人になった今では共感できる。(マジョリカが魔女ガエルになってる問題もあるし。。) だからこそのラストで感動!ぽっぷもええやつや!マジョリカええやつや!!
きました新シーズン!子供のころちょろっと見ていたのはこの時期がメインだった。かなり強引に元の状況に戻した感じはするが、MAHO堂復活が素直にうれしかった!「おジャ魔女はここにいる」は一番好きなテーマソングだ!
第2話 赤ちゃん育ては、も~たいへん!
この回はめちゃくちゃ覚えている。子供のころはお母さんって大変だ、程度にしか思ってなかった。 今見返すとどれみママの「母親って子育てをしていく中でなっていくものだと思う」(意訳)という言葉は重い。「そして父になる」じゃん!というか、仕事でも同じような事あるわ。。はぁ。見てよかった。
分解して担々麺に投入すれば優勝。
その日に食べたものをメモってランク付けする日々を送ってはや3ヶ月
◎食べ始めて気が付いたら貪り食ってる
○そこまでではないが最後まで美味い
✕途中で飽きる、よくよく考えたら美味くない
評価はこんな感じ。
◎をメインに食い、気が向いたら○を食い、✕は絶対にもう食べないぞ、という感じの食生活を送るようになった。
思いの外、朝マックのソーセージマフィンが好きだと気付いたので週3ぐらいで食べるようになり、手羽先の素揚げを食べてればそれだけで幸せな人間なんだと悟って毎日のように揚げ、積極的に野菜をとるタイプではなかったのだがトマトスライスにピエトロドレッシングをかけたもの、きゅうりとツナのサラダ、大根の細切りに玉ねぎドレッシングとマヨネーズを和えたものは無限に食えることを知った。冷凍食品ならラージャオ担々麺と冷凍あさりご飯とサヤエンドウのペペロンチーノは自分にとって飛び抜けて美味く、チョコレートは昔から
道路に落ち葉が重なり、空気が冷たく乾いてくるとようやく自炊しようという気が起こってくる。夏はあまり火を使う気になれないから。
いくら流行っているとはいえ、今年の夏はオメガラーメンを食べに行き過ぎたという反省もあって、今週からできるだけ夜は自炊することにした。
駅の改札を出てそのままアーケード下のスーパーに入り、チルド麺のコーナーに直行する。
ここで2食パックになっているチルド麺の担々麺セットは買わない。
目当ては、小分けで売っているタレだ。冬になると担々麺のタレが売っているのでこれを買う。
これは好みの問題だけど、生ラーメンのかん水の臭いが苦手なので、うどんを買うことにしている。
あと、生ラーメンの場合は、麺とスープに別々のお湯を用意しておかなくてはいけなくて面倒くさい。
この2つを手に入れたらあとは家に帰って適当な材料で調理する。
ひき肉の残りがあったらフライパンにごま油を引いて軽く炒めておく。
いい感じになったら担々麺のスープと混ぜて、丼に移してからひき肉をのせてできあがり。
これを食べたくなってくると、冬だなと思う。
2000円出していいから究極に美味いラーメンの作ろうとしても無理でしょ。
たとえばパスタならその壁は超えてくる。
蕎麦も2000円出すと1000円のとは別世界の食い物が出てくる。確かに2000円だと単なる土地代のパターンもあるけど流石に5000円出せば意味分からん物体が食える。
でもラーメンは5000円出しても異世界のラーメンは産まれない。
蟹入れようがステーキ載せようがシャーチューが神でもラーメン自体は上限超えない。
悲しいよね。
あんなにオタクが情報を食い合ってるのに、結局は1000円で食える範囲の世界における戦いでしかない。
つうかさ、中華屋で超当たりの担々麺引くだけで最高のラーメン普通に超えてね?
特定のコンテンツを死ぬほど掘り下げるわけではないが、Twitterでボクっ娘漫画が流れてくるとフヒッフヒヒッと最悪の笑い声を上げながら閲覧してしまう受動的☆オタクの小生、21歳、学生。(それはもはやオタクではなくただのキモなのでは?と思うが、この話を掘り下げるとつらい気持ちになるので割愛する) 小生は女性器を保有しつつジェンダーが非常~にXに近いQで、漫画の中の彼女たちのように、自分のことを「僕」「俺」「それがし」「拙者」「小生」と称することに憚りが無かったし、むしろ「私」という一人称に抵抗があった。恋愛対象や性的指向は両性に亘り、「18歳のナオンのケツを一生触りたい」という願望と「異性と愛し合って子どもを設けてみたい」という気持ちを両立させながら元気に暮らしていた。
ある日、冷やし担々麺を食いながら、ふと小生は思いを巡らせた。
「俺は高校のころ、Twitter上で同期から『[俺]の言葉遣いはこじらせ銀魂腐女子っぽいし黒歴史になりそう、後々過去ツイ見てジタバタしそう』と言われていたし、そうなることを自分もどこかで願っていた・・・が、思春期過ぎても一人称に変わりは無かったし、このまま母親になっても俺でいるんだろうか・・・だとしたら、先輩ボクっ娘ママを探さなければ・・・・・・ん?一人称が『僕』や『俺』の母親って現実でもコンテンツ上でも全然存在しなくないですか?」
それは、かつて片目をつむったまま遠くの小指を凝視し、自分の盲点をはっきりと認識した感覚に似ていた。想像の盲点だ、視野が広がるとはこういうことだ。うわ~、こういうときに粋な考察をササッと出せるようになるためにも、ジェンダー論しっかり学びたい!という明るいお気持ちに包まれた。しかしながら、まず何も学んでいない状態で結論を出してみて、大いに勉強をした後でファースト・粗野・考察を見返すのもきっと面白いだろうなあと思い、小生はここにそのプリミティブな思想を書き留めておくことにする。以下にはもう、本当に野蛮で無知で最悪な文章が綴られているので、有識者はたたかないでください。
1. 「僕/俺」と「私」の非対称性、「あたし」
そもそも「僕/俺」と「私」、使う人間の層はどう分かれているんだろう?
成人男性は「僕/俺」と「私」の両方を使うことができるが、まだ幼い少年が自分を「私」と言っていると、相応に作為性を感じる。対照的に、女性は若いうちは「僕/俺」の使用が(かろうじて)認められるが、加齢していくにつれて「私」の求心力が極大に近づいていく。ものすごい非対称だな。う~んこれはいったいどういうことなんだろうね。無学なのでわからん!
これは勘ですが、大人(または人間)のデフォ一人称が「私」なのでは?そして、「僕」や「俺」という男性一人称は、男性側が女性と差別化を図るために生み出した切り札のようなもの?二次性徴以前は、男女の体や性格が未分化であり、しゃべらなければ見分けがつきにくい。そこで、素早く同性or異性の判別をして固いホモソーシャルを築くために、少年さんサイドが「私」とは異なる固有の一人称を保有しているのではないだろうか。一方、少女側にもホモソーシャルを築きたいという欲が強い人間がおり、彼女らは「あたし」や「うち」などの一人称を駆使し、多くの友達と連帯し、大概「気が強い」と思われている。男らしい一人称(や女らしい一人称)というのは、未分化な少年少女たちがホモソーシャルを築くための最初の一歩として獲得するものではないか?
思春期に入り、体が性別に沿う姿に分化すると、このような一人称でのジェンダーの探り合いは不要になっていく。ただまあ、精神は連続的なものなので、しばらくは男女両陣営が幼少期に獲得した一人称を保持している。成長に伴いフォーマルな場というものにブチ当たることによって少しづつこの傾向を修正され、多くの場合就活のときに決定的に一人称が「私」に統一されるでござるなあ。(なぜ、フォーマルな場所では一人称が「私」に統一されるのか、それについては勉強によって解明したいと思いました)
男性一人称は本来少年に与えられたもので、それゆえに男性一人称にはどこか瑞々しく未熟な感じが出るのでは。そして、少女が「僕」を使うことで、この若さを維持・増幅しつつ一定の倒錯を生み出すことができる。輿水幸子(デレマス)が自称する「カワイイボク」という概念は、性別の観点から見れば矛盾しているが、若さ・幼さという点においては「カワイイ」と「ボク」が加算的に働いている。うわ~かわいい!最高!いじめたい!
一方、一人称が「私」の少年と言うと、どこか神々しいというか、メカニックというか、そういう・・・人間らしさの希薄性が強調される。あ~中性的でぼんやりした美少年か、エッチだ!ちんぽしごきたい!
【加筆】「あたし/うち」は、「異性と同性を区別する」というよりむしろ「自身のジェンダーを強調する」目的で使われているという点で「僕/俺」と対照的なんではないでしょうか。だから一生使っても問題ない(幼稚さが出にくい)し、オカマのみなさんにも愛用されていることが伺えます。
上記の小生の仮説から考えると、母親というキャラクターと男性一人称はものすごく相性が悪い。(これは持論ですが)母であるということは、その人が異性とセックスをできたということの証左になり、すなわちこころの性が女であるという暗黙の了解が働くよなあ。なおかつ、母親は子を産み育てるという社会的責任を負った存在なので、「心身共に成熟した人間である」という前提が追加で発生している。(本当はそうでもないよね)
この場合、男性一人称の母親というのは「未熟な少年の言葉」でしゃべる「成熟した女性」となってしまい、なんの相乗効果も生まれず、ただただ独特の気持ち悪さを発してしまう。キモすぎて多くの人間の想像の視野に入っていない。(思春期以降の女子が「俺」を使っていると腐女子っぽくてキモいというのも同様の理屈だと思います) 自分の子供に向かって「よしよし、俺はこっちだよ~」と呼びかける母親、なんか嫌じゃないですか?ちなみに小生の性癖にはとても刺さります。
※あと、なんとなく思いが廻ったので加筆しますが、"男性一人称の母親"への抵抗感の発生は、男性と女性とでメカニズムが若干違うのでは?まず男性の場合、母親はどう転んでも客体、すなわち消費されうるキャラクターである。男性が母親というキャラクターに求めているものの第一は「母性」「包容力」なので、自分たちと同一の一人称を用いてこられるとその両方が感じられなくなってしまう、つまり萎えが発生してしまうのでは。一方"母親"が自らの主体となりうる女性の場合はというと、心の中に[母親は成熟した女性であるべき]という縛りが発生していて、男性一人称の母親の存在はこの信条に悖ってしまい、憤りにつながるのではないか。まとめると、"男性一人称の母親"は、男の信仰・女の義務感の両方をくすぐる最悪の概念であるかもしれないということだ。
3. 小生の意見
Twitterで「僕っ子 母親」を調べたら「子供に悪影響出そう」「痛い」みたいな意見が出ていて、それは至極まっとうな感情だと思う一方、小生は悲しいよ。どうして『弟の夫』『きのう何食べた?』みたいにゲイが子育てに関わる話は☆多様性☆の印籠のもとに迎えられるのに、一人称が「僕」の母親は痛いという風潮は変わらないんだろう。かつては同性カップルによる育児も子供への悪影響が懸念されていたが、今ではその心配が杞憂であったことが分かりつつある。おい、ここに多様性、多様性が落ちてるぞ。良いインターネットさん、仕事の時間だよ。インターネットに迎えられなければ、小生が積極的に声を上げていくべきなのだろう。僕が僕として授乳できる社会ができたらちょっと嬉しいかな。
あと、子供を産んだ時点でジェンダーが女であるというのは偏見だぞ。最近SOGIとかいう言葉が流行り出して小生は感極まっている。性自認、性的指向、性表現は相異なるものであるということが認知されつつある。「自分をなんとなく男寄りだと思っているバイの母親」は存在しうる。存在しうるんだよ。多様性ファンならあらゆる可能性を尊重しよう。
とはいえ、「一度出産を経験するとこころの性が女に全振りされる」という現象が存在する可能性もなくはないので、本当にそういうことがあるのかは今後勉強したい。
小生からは以上です。