はてなキーワード: 学問とは
私自身が理系萌えで工学部に進んだものの、憧れと自分がそれになりたいかは違うことに在学中に気づいて就職時に専攻から離れた人間なので、他人事とは思えなくてね…
とりわけ情報系の男性が好きだったが、私の場合はお付き合いとか結婚とか、増田よりもう少し推しに近づきたい願望があった。
そうなったときに専門が同じだと、お互いの専門への思いの熱さが災いして、どの実験手法を採用するかとかで軋轢が生まれ、離婚の危機とかになったら嫌だなあ…と妄想して、
非情報系の専攻にしたのも良くなかったと思う。(方向性は違うけどかなり拗らせていた)
大学の専攻も学問としては面白かったが諸処の事情で仕事にしたいとは思えなくなってしまった。
で、いくつかの転職を経て叩かれがちな所謂職業プログラマになったけど、これが思ったより自分に向いていて、
今は理系男子よりも、とは言わないけれど理系男子と同じくらいプログラミングが好きなので充実した日々を送っている。
同時に、18のとき妙なことを考えず、普通に大学で情報系の専攻に進んでおけばどれだけ良かっただろうと後悔したし、情報科出てないコンプレックスは今も消えない。
思えば、普通に自分自身が好きなものと向き合って極めようとする過程で挫折することへの恐怖心が強く、
「理系男子萌えが理由で自分も理系になっちゃう私マジヤバイ女~」というメタ的視点に立つことで自分を守ろうとする意識もどこかにあったと思う。
別に増田がそうだとは言わないけれど、私はそれで自分が本当に好きなものを見つけるまでに30超えてしまって人生遠回りしたので、もし増田にもそういう部分があるなら自分を省みるのは早い方がいい。
親に頭下げて転科/文転が可能ならそれもいいし、学生やり直すのが現実的じゃないなら、就職時は分野を変える大きなチャンスだし、第2新卒ぐらいまではまだまだ全然やり直しもしやすい。
増田は人生を楽しむ力が強そうなので、別に今のままでも上手く生きていけそうな気はするけれど、ちょっと似ているババアからの小言でした。
というか増田は、勉強と違って仕事なら楽しめる可能性も大いにある。研究職は知らないけど、一般的な仕事なら良くも悪くも大学の勉強とはベクトルが違うから。
同じというのは思想がということではない。
「お題目は大変崇高で、実現できれば素晴らしいが人間が素晴らしくないのでダメな方に転がっていった。」という所である。
本来はマジョリティの無神経さからマイノリティを守るという何気ないものであったはずであるが、今や「自分が不快なものに相対主義を持ち出してすりつぶす行為」に変貌した。
というかそのまんまだ。プロタゴラスなどのちゃんとした知恵者が節度を持って使っていれば、学問のツールとしての懐疑論に収まっていた相対主義も、市井や政治の場に降りていった時点で、相手を蹴落とし、自己肯定のために用いられるごろつきの便利ツールへと変貌してしまった。
野球のルールの中で使えば人々を楽しませることができるバットも、人の頭に使えば簡単に不幸を量産できるようなものだ。
ポリコレもきちんと自己批判、懐疑、考察を繰り返すことのできる「ルール守って議論できる学者」が使っていれば人類の倫理を底上げできるものであったのであろうが、
自己批判も自己観察もできない我々のような一般市民の手に落ちたことで、自己肯定や社会の中での地位闘争に転用されてしまったと言って良いだろう。(その間に「自己批判ができない学者=ド三流の学者」が挟まっているのは相対主義でも同じである)
竹田恒泰@takenoma
分子生物学の最先端の見地により、日本人は最初から日本人だったことを証明。「◯◯人の子孫が日本人」などということはあり得ないことを述べる。日本語が日本列島以外に無いことなど、言語学の見地も活用し、日本人の成り立ちに迫った。
https://twitter.com/takenoma/status/1290613241203195905
竹田恒泰@takenoma
神武天皇と、第2代綏靖天皇~第9代開化天皇(いわゆる「欠史八代」)が実在していたことを学問的に証明。また、イザナキから神武天皇まで男系の系譜で繋がっていることを示した。これらは、万世一系の大前提となる部分で極めて重要。
https://twitter.com/takenoma/status/1290614803816312832
竹田恒泰@takenoma
これまで主張されてきた王朝交代説を全て学問的に否定した。崇神天皇王朝説、応神天皇騎馬民族征服説、仁徳天皇河内王朝説、継体天皇王朝説などを論破。神武天皇から今上天皇までの万世一系の皇統の事実を述べた。
「学問に貴賎なし」などと言うのはインテリっぽくてかっこいいですが、事実に反します。
たとえば、数学や理論物理の論文を書くのは馬鹿には無理ですが、情報科学の論文は馬鹿にも書けます。生物系博士なんて大学では試薬を混ぜてただけです。
数学や理科を教えても、何の効果も無い。こんなことに税金を費やすのは無駄であるから、やめるべきである。
一般的に言って、学校教育に数学や理科などの専門学問の基礎科目を課す理由は、以下の2つである。
現状、国民に学校教育を施しても、このどちらも成果を上げていない。
将来、研究者や高度な専門技術者になる人はごく一部であり、その一部を輩出するために、全体に教育を施すのは無駄である。
また、このような専門家(具体的に言えば大学教員や有名大企業の研究職・技術職など)になる人たちは、全国レベルの有名進学校出身がほとんどである。そういう人たちは最初から学問への関心が高く、学校の勉強など課せられなくても、勝手に才能を伸ばしてくれる。
それ以外で学校の勉強が役に立つケース、つまり「学校の勉強がきっかけで学問に関心を持ち、優秀な研究者や技術者になる」などというケースは無視できるほど少ない。
第一、二次方程式や三角関数などを教えても社会に出てから使う人は皆無である。つまり無駄である。
また、日本(に限らず先進国)の国民の約3割は小学校3〜4年生レベルの数理的能力しかなく、PCを使った基本的な業務ができる人は1割しかいない。電磁波有害説やがん放置療法などの社会的に問題のある疑似科学を信じる人も後を絶たない。国家規模のコストをかけた教育の成果がこれでは、やる意味は無い。
そもそも、数学や理科に限らず、義務教育の公民で選挙について教えたって、投票率は半分もない。国民の3割は簡単な短文すら読めない。あらゆる領域で学校教育のコストは無駄になっている。
学校教育から数学や理科を無くしたところで、何か問題が生じることは無い。
上に述べたように、研究者や高度な専門技術者になるような人は最初から優秀なのであり、学校で教えなくても、勝手に才能を伸ばす。したがって、学校教育から数学や理科を無くしたところで、そういう人材が減ることはない。
また、国民のほとんどは、数学や理科を習ったところでその素養を日常生活の中で活かせていない。そして現状、日本にはそういう人たちにもちゃんと仕事があり、ほとんどの人は不自由なく生活が営めている。つまり、学校教育から数学や理科を無くしたところで、職を得たり生活することが困難になる人が生じることもない。
経済とは希少資源の分配をどうのこうのする学問で一般的にお金をメインに扱います。
あなただけがお金を無限に持てたらすべての問題が解決しますか?答えはnoです。お金以外にも希少資源はあり、時間や健康といったものが次の束縛条件になってきます。(どちらもお金さえあれば多少は緩和されますが)
日本社会ってあまり尖った人を歓迎せんのよ。社会はアホの方が多いからな。構造的に仕方ないよ。東大で男ばっかのムサ苦しい空間行ってな、東大生だからって大して優遇もされない社会に出ていくよりな、やっぱ慶應くらいのちょっとアホやけど世間的には賢いとされてて女子も多い集団の方がエエよ。サークルで女子大の子と遊ぶ手もあるけどな、女子大の子はアホやねん。東大生、それなりに女性経験あれば遊びには困らんけどな、結婚相手探しに苦労してる人多いよ。やっぱ結婚相手は賢い方がええやん。慶應くらいやったらなんとか話は通じるもんや。女子大の子はアカン。可愛いかしらんけど遊び止まりやわ。社会は正論を求めてないんや。賢いこと言ったって理解できる人の方が少ないんよ。それより正しさなんか気にせずに迎合してく方が楽ってもんよ。慶應の奴らはその辺諦めがついてる奴が多いな。東大落ちとかで東大コンプある奴ももちろんいるけど慶應生はどっちかっていうと下を見ることで自信がある奴が多いな。東大生は自己肯定感低めな人ばっかやな。勉強ばっかしてたっていう負い目がある奴多いよ。学問で上を見ると劣等感あるしな。遊びの面では上とは言われへん、早慶マーチあたりの奴らに劣等感あるよ。まあ適度に遊んで適度に賢いとされて女子もそれなりの数いてっていう集団が自己肯定感高く上を見ず優越感に浸って生きていけるんだから幸せってもんよ。
三国志の英傑達が100年間戦ってきた結果が、晋の皇族の内紛で力を得た異民族の台頭から始まる300年の三国志以上の乱世。
英傑の子が英傑ではない例は三国志でも多く見られることではある。
しかしあの諸葛孔明と渡り合った司馬懿の子孫達がアホな権力争いで殺し合うってのが実に人間臭くてほっこりする。
彼らの中には学問もろくにやらない文盲までいる。司馬懿の子孫とは思えない有様だ。
皇族に力がないために司馬氏に取って代わられた魏の反省として皇族に権力を集中させたら皇族同士の権力争いが起きたというのもまた理不尽で笑える。
同じものを100円で買える店と10000円で買える店があるとします。このとき、後者で買う奴は馬鹿です。
文系と理系も同じです。同じ大卒資格を得るのにわざわざ理系に行くのは、馬鹿か、マゾヒストか、ガリ勉陰キャだけです。
勉強しか取り柄のないガリ勉くんにはお似合いですが、大学とは、勉強を片手間に遊ぶところです。友達や恋人を作ったり、バイトやサークルで社会経験を積みつつ、先輩から貰った過去問などを丸写しして最小限の労力で単位を取るのが大学です。社会ではそういう社交性と要領の良さが評価されます。
大学に入ってまで勉強なんかしてる陰キャは、非常に自己満足的で滑稽です。彼らは自分が鼻で笑われていることに気付いていません。
理系の勉強は大変です。これは主に、以下の2つの理由からです。
まず、ほとんどの理系分野は、現象を正確に記述するのに数学と物理の知識を必要とします。この2科目は、論理を地道に積み重ねていく学問なので、誤魔化しが効きません。つまり、「AはB、BはC、したがってAはC」のような完全に正当化される論理のみを紡いで議論する必要があります。またその性質上、基礎となる分野を飛ばして、応用分野を学ぶことができません。つまり、一度躓いたらそこでドロップアウトすることになります。
一方文系の場合、計量経済学のような一部の人気のない分野を除けば、教員の指定した本を順番に読んで、その内容を日常用語で適当に再解釈した感想文が書ければ、卒業論文として認められます。というか単位を取るだけなら、本すら読まずとも又聞きした情報を適当にまとめれば良いです。何のスキルも必要ありません。
また、理系では理論系の分野を除けば実験があります。実験は研究室によっては徹夜で行うことも珍しくなく、非常にハードです。また、やはり実験の前提となる基礎理論を正しく理解していなければなりませんし、誤差等の評価を数学的に正しく行える必要があります。実験ノートの取り方、論文の書き方などのマナーも非常に厳密に決まっており、一般的な文書作成技術よりも高い技術が必要になります。
分野によっては、直接の専門とは別にプログラミングや電子回路設計などの技術も身につける必要があります。
機械工学科や電気工学科などの産業的に非常に需要のある分野を除いて、専攻に関係した職業に就く人はほとんどいません。したがって、文系が就職に不利になることはありません。むしろ、大学入って勉強しかしてこなかった理系は、コミュニケーション能力などの点で文系に大きく水をあけられます。
また、学部別の平均年収なども、1割くらいの高額所得者が平均を吊り上げているだけで、どこに行っても実態は大差ありません。
つまり理系というのは、大学に入ってまでわざわざ勉強なんかしてるガリ勉キモオタ陰キャが、結局社会に出たらなんの役にも立たないというところです。非常にコスパが悪いです。合理的に考えたら、理系に行く選択肢はないでしょう。
【1】
数学や理科など習っても使わないのだから、教えるのは無駄である。
【2】
将来的に数学や理科を使う研究職・技術職などに就くような人は、別に学校で習わなくても自分の興味に従って勉強している。
【3】
残るは、自然に数学や理科に興味を持つことは無かったが学校教育をきっかけに数学や理科に興味を持ってそういう職業に就く人である。
しかし、このケースは無視できるほど少ない。将来、高度な研究職・技術職に就くような人は、ほとんどが有名進学校出身者だ。つまり、そういう人たちは最初から教育や学問に高い関心があった人たちであって、田舎の情報弱者が学校教育をきっかけに研究者・技術者を志し実際になるなんてことはほとんど無いのだ。
学校教育が意味を持つのは【3】の人達だけだが、それはあまりにも少ないから、無視して問題ない。それ以外にはなんの効果もないのだから、無駄である。
あんなあ
「統計学」を使って男女差を解析するのは「統計学」とは言わんのやで
統計学の講義をとったとするやろ?期末試験に出てくるのは、男女差か?女の子がピンク色を好む傾向があるようでーす、か?ちゃうやろ
試験に出るのは統計処理の方法やろ。検定はどれを使いますかー、とかそんなんやろ。
授業で例として男女差なんかを使うのかもしれんが、それは統計学ちゃうで
日本人とアメリカ人とか、試薬Aと試薬Bとか、マウスのオスとメスを授業で扱ったら
経済学でも、心理学でも、医学でも、工学でも、生物学でも化学でも統計学は使うで。
統計学は科学の基本や。データを集める。データを統計処理する。データから考察する。科学は再現性が命やから、主観でズレが出ないように数字を使う。
経済学の統計じゃ、消費行動の男女差を扱うかも知れへんし、医学の統計じゃ、大腸ガン罹患率の男女差を扱うかも知れへんけど、それは統計学じゃないんや?わかるか?
こんな、手に負えない馬鹿はワイは初めて見たわ……
君は統計学の何を習ったんや……
さして文章が上手いわけでもないがつらつらと書いていこうと思う。
他人の希死念慮が好きだ。増田でもnoteでもブログでも、タイトルに「死にたい」だとか「自殺に失敗した」といったような希死念慮を匂わす記述があると心が躍るし、自殺した人の最後のツイートは保存してたまに見返している。同様に拒食症や精神疾患など死に近づいている人の記述も好きで、つまるところ追い詰められた人が見たいわけだが、「慢性的に死にたい」というタイトルを見て本エントリに興味を持ってくれた誰かの中にも同じような嗜好を持つ人がいるのではないだろうか。私の独り言がそのような同志の一瞬の暇つぶしにでもなれば僥倖である。
昔から中途半端な人生を送ってきた。特に受験勉強もせずにそこそこの成績で中堅の高校に合格し、そこで何かに熱中することもなく、まずまずの成績で指定校推薦をもらって大学に進学した。やりたいことも学びたいこともなかったから今は文理もよくわからない宙ぶらりんな学科で毎日を過ごしている。(学科・学問を貶める意図は全くなく、高い志をもって勉学に励む方のことは尊敬している。ひとえに私の受け取り方の問題である。) 就職のサポートが手厚く、どこかしらには就職させてくれることを売りにしている大学でもあるので、きっと就職活動もつつがなく適当なところで終わらせることになるだろう。
そう、ここまで読んでいただけたらわかるように私は努力も挫折も全くしたことがない。いまさら努力の仕方なんかわからない。というか人生に目標がないから努力もクソもない。わたしの目の前は常に真っ暗で、でも押されて足を出してみたらなんか道があったから一歩進んでみる。これを繰り返していたらいつの間にか成人を迎えようとしていた。積み重ねてきた努力も明るい未来への展望も私にはないから、大事にできる自分なんかないから、私はいつも死にたいなあって思っている。
そんな中で、もしかしたら自分が誰かにとって価値ある何かになれれば生きたいと思えるのでは?という仮説を立てて、手っ取り早く価値を高めるために整形をした。ちやほやされれば死にたくなくなるのではと考えて水商売をやってみた。誰にも内緒だけど、風俗もやった。風俗を始めたあたりで、病んだ勢いで自殺するかな?なんて思ったが、今日に至るまで私の手首には傷の一つも付いたことがない。思えば、人生の中でいじめだの一家離散だの身内の自殺だの十分に自殺を考えそうなタイミングは何回か巡ってきた。それでも今まで自殺を図ることがなかったことを考えると、結局のところ、私は死にたいのではなくてただ生きていたくないだけなのかもしれない。タイトル詐欺になっちゃう上になんとも中途半端だな。持論ではあるが死にたいと生きたくないは全然違う。死ぬことにすら希望を見出せないから積極的に死のうとは思えないけど、生に執着がないからいつ死んでもいい。もし今この瞬間に通り魔に殺されたとしても、私は欠片も恨まず笑って成仏する自信がある。死ぬ時まで人任せとは我ながら怠惰なことだ。
自殺を考えることはよくあるよ。でもそれを実行できるとは思えないから、やっぱり私に死ぬ気はないんだと思う。一昨日は銃で自殺するとしたらこめかみか咥えるかどっちにしようか考えたし、昨日は自殺配信するとしたら最後に居もしないリスナーになんて声をかけようか考えながらお風呂に入った。今日は自分の葬式で泣いてくれそうな知り合いについて考えながら寝ようと思う。おやすみ!!こんなまとまってなくて厨二臭い文を読んでくれてありがとう。目を覚ましたくないなあ。