はてなキーワード: 学問とは
スーパーカリスマ経営者様の中では「名刺の出し方」が大学で教えるべき学問に分類されてるみたいなので、スーパーカリスマ経営者様のためにその方法を考えてあげよう。
大学で教えてる普通の学問すら学生の頭に残らないのが問題なのに、大学で名刺の出し方教えて卒業後も覚えてるかどうかは分からんけどな
植松は人間と非人間の線引きの意識があり、第三者が同意なく(意思表示できなければ)殺して良いとする優生思想だが、
大久保山本は腐っても医師なので「全ての医療行為は患者の同意がいる」としており、終末医療の在り方と医療経済学的な問題意識だと思う。
欧米で合法化されている終末期の安楽死・尊厳死は、"命の選別"とか"優生思想"ではないのだが
マスメディアや政治家がその辺りを混同してるのは意図的なのかバカなのか。
優生学(ゆうせいがく、英: eugenics)は、応用科学に分類される学問の一種で、一般に「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と定義される[2]。
優生学とは,「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし,悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存することを研究する学問」である(『広辞苑 第6版』岩波書店,2008)。
ただの不幸に対する「反応」を個性の発露だったと思うな。
不幸だったという点では確かにおまえは少数派で個性的だったかもしれんが、それを失ったところでおまえ自身は何も変わってない。
不幸だったが故に敏感だったアンテナが鈍ったと思っても、アンテナの性能自体が元からそうだったんだよ。
だから幸せになることから逃げるな。頭から不幸に突撃して周囲に撒き散らすな。
「貴方だって周りを巻き込んで幸福になろうとしてるから同列でしょ」とか論理的にだけ正しいクソの役にも立たねえこと言ってねえで悪縁を切れ。心療内科に行け。
普通の人間になることを怖がるな。怖がってる時点で普通の人間だから心配すんな。
何らかのアウトプットのために自分の幸福を犠牲にするつもりなら、芸術でも学問でも社会運動でも何でもいいが本当に一生を捧げられるものだけにしとけ。
そんで周りを巻き込むな。
彼・彼女らにとって、欲しいのは議論による解決じゃなくて、「彼・彼女らの自治ルールへの共感」なんだろうな、と。
上で、
なんて書いてる人がいて正気を疑ったけど、議論じゃなくて共感が欲しいのであれば確かに「整合性」なんていらない。
放課後の教室で、「あいつキモいよね~なんかエロいマンガ読んでるし、服もダサいし」とか言いてる集団に、
「そういういい方は良くないのでは?それにそういう基準ならあなた方の趣味も間違ってるのでは?」
なんて言ったら、そりゃ
陰口を言ってる人間に「自治ルール外」の整合性なんて求めても無意味。自治ルールによる共感しか受け付けない。
これが放課後の教室で行われてるなら、整合的な話なんて求められてないってわかるんだけど、
曲がりなりにもジェンダー学・フェミニズム学と言った学問をベースにしていると主張され、かつ、政治的に正しいと主張され、ツイッターのようなだれでもアクセスできる場所でなされてるから、ついつい論理的に整合的な話が求められてると思ってしまう。
そして集団の中では確かに彼・彼女らの意見が多数派なのだろう。(というか、異物は即排除するんだろう。)
そりゃ話がかみ合うわけがない。残念だけど。
山中先生の専門は再生医学だから、感染症と公衆衛生の舞台である新型コロナ対策に上がってくるのはおかしいと思う。どれくらいおかしいかというと、イチローがサッカーの指導をするくらいおかしい。しかし、多くの人々はイチローがサッカーの指導をするのがおかしいことは理解できても、山中先生が新型コロナ対策に出しゃばってくるのがおかしいことは理解できないのだ。
これは、多くの人にとって医学がスポーツに比べて身近でないこと、医学をひとまとまりで認識していること、権威主義などの要素が関係している。
医学はスポーツに比べて身近ではない。スポーツ、特に野球やサッカー、相撲といった国民的なニュースは毎日報道されるし、テレビでも毎日放送される。しかし、医学のニュースは大きな発見がされたときしか報道されない。このことによって、野球とサッカーの違いは分かっても、再生医学と感染症学の違いがわからない市民が出来上がる。
多くの人は再生医学と感染症・公衆衛生の違いがわからず、一塊で「医学」と認識しているのだ。だから山中先生が何かを言えば権威主義的にそれに従ってしまう。
しかしこれは当然のことであり、仕方のないことでもある。例えば、私は建築学や文学やITの中にどんな学問があるのか知らないから、その分野の知識が必要になったらとりあえず有名な人に意見してもらおうと考えるだろう。実家から古文書が出てきたときに、古文の大学教授がいてくれたらなんと頼もしいことか。その古文書が例え漢文で書かれていたとしても。
だから医学の場合は、とりあえずノーベル賞で有名な山中先生に意見をもらおうというのは、当然であると言えなくもない。
このことは一般の方々にも言える。医学だけで細かい発見をいちいちニュースにしていたらいくら時間があっても足りないし、医学だけ特別扱いするわけにもいかないし、そもそも市民は医学の細々とした発見に興味がない。だから、市民が医学についての詳しい知識を持ち合わせていないのは当然のことなのだ。
問題点は、メディアなどが過剰に持ち上げることにある。ノーベル賞を受賞したといっても、山中先生は感染症学の専門家ではない。さらに臨床での新興感染症対策の経験もない。感染症対策については本質的には素人で、新興感染症について適切なアドバイスはできないということは本来なら理解できるはずだ。
だから感染症を専門とする先生を専門家として呼ぶのが正しいはずだ。しかしノーベル賞という看板に惹かれたか、そもそも感染症の素人であることがわからないのか、山中先生を新型コロナの専門家という立場に据える番組などが後を絶たない。終いには山中先生自身が「山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信」というサイトを立ち上げ、専門家会議(分科会になったんだっけ?)のメンバーとして祭り上げられてしまう始末である。
確かにノーベル医学賞を受賞し、有名なインフルエンサーである山中教授が新型コロナウイルスについての情報を拡散するのは理にかなっているのかもしれない。しかし短期的に見れば有効でも、長期的に見ると民衆を馬鹿にしている(ダブルミーニング)ように思えてならない。
SNSで見た主張として、「山中先生は新型コロナが出てからそれについて一生懸命勉強した。だから新型コロナ対策の知識は十分にある」というものがある。これに対して反論したい。
確かに山中先生は新型コロナについて、それが発生してから懸命に勉強したかもしれない。しかし、高々数ヶ月の話だ。日本は何年何十年と懸命に感染症について研究してきた専門家をたくさん抱えている。高々数ヶ月の勉強とは、文字通り桁違いの経験を積んできた先生方である。新型コロナに限らず、感染症対策に関する知識も、経験も、その言葉の重みも桁違いである。だから、「数ヶ月勉強したから知識は十分だ」という主張は、その分野で飯を食ってきた本物の専門家に対する侮辱にも等しいのではないかと思う。本来はそういった本物の専門家をお招きしてアドバイスをいただくのが正しい筋であるはずなのだ。だが、本物の専門家は往往にしてなかなか表舞台に出てこない。メディアが学問や専門性が高い分野を扱うときは特にそうだ。専門家は忙しいのか、恥ずかしがり屋なのか、報酬が割に合わないのか、はたまたメディアがそういった専門家を知らないのか・・・
ここまで散々ノーベル賞に乗っかる諸々をディスってきたが、私は権威主義を否定しているのではない。むしろ迎合するくらいである。
最近は「誰が」主張したかよりも「何を」主張したかについて主眼が置かれる風潮がある。確かに主張の内容は重要であるし、自身の専門分野や興味のある分野については、主張が正しいかどうかを精査するのは極めて重要である。
しかし一方で、我々のような一般大衆にとっては精査は仕事ではないのだと思う。自分の知らない分野に対してその主張が正しいかどうかを判断するのは難しいし、それに誰の主張についても考えていたらいくら時間があっても足りない。さらに、自分でどれが正しいかを考えると、自分の考えのバイアスがかかる。しかもそのバイアスがド素人のバイアスなので余計にたちが悪い。だから、自分が知らない分野については「何を」主張するのか考えるのはやめて、「誰が」主張するのかを考えた方が、幾ばくか合理的であるかもしれない。
そして私が最も強調したいのが、「その権威が正しい権威なのか」を考えることである。
権威が正しいのかを考えるのは、主張の内容が正しいのかを確かめるよりも簡単だと思う。例えば、建築の専門家が建築の指示をするのは正しいが、コップ製造の指示をするのは正しくないだろう。全ての主張についてこれと同様に考えれば、自ずとどの言い分が「正しい」のかわかる。
もちろん、この方法では間違えるかもしれない。例えばニュートンは「光は粒子である」と主張した。しかし実際は「波と粒子両方の性質を併せ持つ」ことは高校物理でも学ぶ常識であるし、高校物理をとっていなくても知っている方が多いと思う。しかしそれは現代の視点から見た話であり、1600年台後半の民衆にとっては光は粒子であることは「正し」かったのである。
科学は日々進歩するものであり、現代の「正しい」が後世にわたって永遠に「正しい」というものはない。そして、その分野特有の思考を持ち合わせない素人が、どれが正しいかを判断するのは難しいものがある。ニュートンでさえ間違えたのだから、その分野の知識がなく、興味もない素人ではなおさらだ。そんな中でひとまずの妥協点を見つけるのが科学者や専門家の仕事でもある。その仕事に乗っかるのもアリだろう。
自分の興味のない分野、わからない分野については専門家の言っていることに従う。しかし、その専門家は本当に「その分野の専門家」なのか、といったことをちょっと考えてみるのも重要だと思う。
元増田にはどこにも「基礎学問は役に立たない」などと書いていないのだが。
お前が勝手に
という文脈のつながりのない2つの文章を探してきて貼り合わせただけ。
これは、「この文書では環境学という言葉を自然環境や生態系に関する意味に限定して用いる」という文書と「環境学という言葉を人間の生活も含んだ意味に用いる」という文書を繋ぎ合わせて矛盾しているとか言ってるようなもん。
よく、「学問は役に立つことが重要なのではない」などと言う人がいるが、これは間違っている。
俄に「教養」などに目覚めた高校生・大学生などが、インテリぶってこういうことを言いたくなる気持ちは分かるが、事実に反する。時々、社会人でもこういうことを言っている人がいるが、本当に見苦しいと自覚すべきだ。
ここまで真正面に元増田が「学問の価値は役に立つものである」といってて、一貫してグダグダ言ってて、かつ基礎研究が「 特別な応用、用途を直接に考慮することなく、(略)」
となってるのに、コンテクストでどうのこうのって言えるな。鹿を馬といえば馬になるというお方?
最近「基礎研究が大事だ!」というのが叫ばれるようになったが、これは現在の「役に立たない学問は不要」への反論だよ。つまりまさに元増田みたいなやつへの反論なの。
喩えるなら、そういうものがあることは知ってるが実際は誰も見たことないような伝統工芸について、それを保護するのが進歩的だと思ってるインテリ気取りがあれこれ騒いでて、当の職人は「現状、生活できてるから何も困ってない」と思ってるようなもの
教養だの学問だのと言ってる連中は、その中身を全く知らないし、そもそも社会を良くしようとして言っているのではなく、ただの政治的トレンドに便乗して言ってるだけ
よく、「学問は役に立つことが重要なのではない」などと言う人がいるが、これは間違っている。
俄に「教養」などに目覚めた高校生・大学生などが、インテリぶってこういうことを言いたくなる気持ちは分かるが、事実に反する。時々、社会人でもこういうことを言っている人がいるが、本当に見苦しいと自覚すべきだ。
こういうことを言っている人の99.9%は、まともに学問をやったことがないし、想像力が足りてない。
まず、実際の研究活動では「役に立つ」ことは非常に重視される。実際、自身の研究が他の研究とどのような関連を持っていて、どのように応用されるのかということは、説明する責任がある。それは、対外的にはもちろんそうだし、研究者の間でもそうだ。
そして、こんなことは別にある学問を深く研究したことがない人にでも、容易に想像がつくことである。大学などの研究機関は、限られた予算の中で採用や研究を行っているのであって、ボランティアではない。したがって、ある研究が「役に立つ」かどうかは重要だし、大学等は「役に立つ」研究ができてその研究の価値をしっかり説明できる研究者を採用する。当たり前の話。
妄想の国の話をしている人には伝わらないかも知れないが、現実に学問の世界はこう動いているし、それで上手く回っている。
もし、自身の研究の内容や価値を同業の研究者にさえ説明できないのなら、それは単なる実力不足である。
よく、歴史上のパラダイムシフトを例に挙げて、「今役に立たなくても、将来重要になるかも知れない(からどんな研究でも認められるべき)」などと主張する人がいる。
しかし、先にも述べたように大学等はボランティアで研究をしているのではない。研究者を雇うのには人件費がかかるし、分野によっては、実験に数百万円かかるようなものもある。無制限に研究者を雇い、予算を出すなどということが不可能なことは、小学生でも分かることだ。
また、現代では世界中に非常に多くの研究機関があり、多くの研究者が様々な分野の研究をしている。そのような状況で、本当に価値のある研究がどこにも認められないということは考えにくい。もし、自身の研究が「既存の研究とはパラダイムが違うから、他の研究者に理解できない」のだと思っている研究者がいるとすれば、自惚れも甚だしいと言いたい。
世界中の研究者は彼らの基準で「役に立つ」ことを研究していて、それで世の中上手く回っているわけだから、門外漢がインテリぶって「学問は役に立たなくても価値がある」などと言って要らぬ世話を焼く必要はない。
たとえば、大学の勉強がものになっている人は、大学進学者の0.1%もいないだろう。
東大のある学科に1学年40人在席しているとして、大学で習う内容をちゃんと修めているのはその内の4, 5人だ。それよりレベルの低い大学ではもっと少ない。その他99.9%はただ単位を取って卒業しているだけかそれ未満である。
ところがネット上などでは、明らかにこの残り99.9%に属するだろう人たちが、すごく偉そうに教養の重要性とか勉強に対する姿勢などを他人に説いている。
曰く、「学問は役に立つことが重要なのではない」だとか、「人生を豊かにするために幅広く教養を身につけるべき」だとか。傍から見ると、本当に恥ずかしい。地方の自称進学校で平均よりちょっとできる人が勉強の仕方を説いているようなものだ。
彼らに最低限の教養があれば言えることは、「いろいろ勉強したが、よく分からなかった。しかし、大卒の肩書は就職活動などでは役立った」ということだけだろう。なぜ、自分にできないし、多くの人ができないことで、他人に説教するのだろう?。まさか、彼らは自分が何か意味のあることを修めたつもりになっているのだろうか。
彼らは「受験で結果を出した(あるいは出せなかった)」ことを30歳近くなっても主張しがちである。そこに何らかのポテンシャルがあったことは否定しないが「就活で結果を出した」も別に変わらんだろうし(受験より頑張りにくいし結果も出にくいが、問題とは本来そういったものだ)、「仕事で結果を出した」はより直接的だ。
受験とは出自による違いをある程度是正するものであるが、同時にコスパの良いハックでもある。ハックがどこでも通用するわけではない。学歴が封建時代における身分のように絶対的なものであるなら、その後の努力は不要であるが、残念ながらそんなことはない。修士どころか博士を要件とする仕事もあるが、それは自動車を運転するのに免許が取れる程度の能力は当たり前に必要というだけの話だ。人生の可能性が少し広がるが、達成が約束されることはない。