はてなキーワード: テレビゲームとは
ウェイトリフティングやランニングで記録が伸びなやんだらイライラすることもあるけど、単に海外ドラマを先月は何本見れたかなんてのは気合の入ったレビュワー気取り以外は気にも留めないだろう。
テレビゲームが難しいなら難易度を下げればいいし、スマホゲームでイベントがクリア出来ないなら動画を見ればいい。
ラーメンの味の善し悪しが分かるかよりも、食ってて幸せな気持ちになれたらそれでいいし、そこに優勝だのなんだのを持ち込むのもバズりたがりのインフルエンサー気取りぐらいのもんだ。
消費活動は最高だ。
自分の能力を証明する必要性から開放され、ただその瞬間瞬間を楽しめば良い。
消費活動はソレができる。
ガンや借金苦で今にも死にそうだろうが、一度それらを忘れてお笑いのライブでも見てれば取り敢えず楽しく時間は過ぎ去っていく。
前向きな集中ってのは結局のところ、過去や未来を置き去りにするってことだ。
消費活動はそれが出来る。
間違いだ。
どっちが上か下かなんてない。
最高の肉を用意しても誰もステーキを焼かないし食べないならそれは無意味だって話でもない。
たとえば面接を控えた学生が近くにいる人なんかはこの辺の勘違いが凄い。
趣味は自分の凄さをアピールするためのチャンスに出来なきゃ駄目だとホンキで思ってる。
今どき内申点を重視するような学校のお受験を控えたママなんかは、自分の子供がやってる趣味がユーイギかが滅茶苦茶気になるらしい。
正直こういう怪物になってしまった人たちは雑談相手としてもしんどいので早く治って欲しい。
まずお金をかけすぎないことだ。
見返りを求めると焦りが産まれ、気持ちのいい集中状態からは離れていく。
消費活動を最高に楽しんでますよと声高に叫びながらお金を使いまくる人がいるが、あれは消費を利用した自己プロデュースでありもはや創作活動に片足を突っ込んでいる。
それが創作活動だと自覚があるなら別に悪いことだとは思わないが、消費活動だと思っているのに創作活動をしていると方向性がブレてしまう。
昨日までの自分の努力が実ったり、将来に向けて腕を磨くといった概念がいつも付き纏ってくる。
その付き纏ってくるということが、ときに消費活動にとってノイズにもなるが、上手くやれば両方一度に楽しめる自分に自信があるなら消費しつつの創作はアリだと思う。
消費も創作も両立できる自信がないなら、消費活動にはあまり金をかけすぎない方がいい。
他人に消費してる姿を見せるのも控えていくべきだ。
自分以外の人間が介在してくると人間はどうしてもそこに他者の目を感じるものだ。
それはよくない。
人の目が気になると「いい年こいて幼稚なストーリーのドラマを見てるね」「デブがケーキ食うとか医療費経由での反社会活動じゃん」みたいな声がどこからか聞こえてくるものだ。
ありもしないどこかの未来図として「如何に格好いい趣味を持っているか」を他人に見られているのを空想している状態では、目の前の遊びに集中なんて出来はしない。
他人の目は考えない。
誰かに見せつけるために格好つけようとしているなと思ったら一度距離を取るべきだ。
最後に大事なのが、余裕のある時間の中で、急がなくていい範囲の量でだけ向き合うことだ。
平日の深夜に明日の寝不足を気にしながらでは消費活動も上手く楽しめない。
たとえそれが休日だからといってそれが分刻みのスケジュールとなれば、何をやるにもある種アスリートじみてくる。
消費活動は楽しい気持ちに集中するためのものであって、消費することそのものは目的ではなく手段だ。
映画を毎月50本見なければいけないと自分にノルマを課したらその瞬間に消費活動としての側面が大きく薄れる。
消費活動を純粋に消費活動として最初から最後まで楽しみたいなら、丸一日自由に使えるとしてもそのうち12時間程度で済ませた方がいい。
同じことでもずっとやっていれば飽きてくる。
その飽きが自分苛めとして楽しいというのも分かるが、そういった見せかけのストイックさは何だかんだで人生をあまり豊かにしないものだ。
見せかけの時間的豊かさの方がずっとずっといい。
とにかく何もしてないと退屈だからと好きなことをして時間を潰そうとして、それでいて気づけば集中し、疲れてきたので昼寝でもする。
消費との付き合い方はそれぐらいの距離感でいい。
そして、そういったやり方で消費に向き合う時、人は生まれ持った才能や積み上げた能力の影響をあまり受けることなく、目の前の遊びに集中する快感に浸れるのだ。
消費は最高だぞ。
先日、友人が倒れて入院する事になり、頼れる親族がいないということで男の子をうちで預かる事になりました。
在宅勤務で実家に戻って来てる兄が、主に遊び相手になってくれてました。
結婚こそしてないけれど子供好きな兄は嫌な顔しないで、マリオカートをしたり外でキャッチボールしたりと構ってあげるし、
で、実際のレーシングカートに乗せてやるという話になって、ただし「お母さんが行っていいって言ったらな」って事で聞くと
退院したら自分も一緒に行くのを条件にという話で纏まりました。
兄は子供の相手はいいけど、友人の相手は慣れないし難しいというので「お前も来い」と私も引っ張り出されました。
その日はレーシングカートに一日乗って、帰りに温泉によって4人でお風呂に入り、食事をとって帰宅しました。
その日1日の代金は全て兄持ち。かなり使ってくれたんじゃないかと思います。
レーシングカートに乗って一緒にキャッキャしてる兄を、友人が見る目が恋する女になってたので嫌な予感はしたんですよね。
その後は、お礼だと言って作ったケーキを持ってきたりで、兄と一緒に遊びたいという子供と一緒に遊びに来てたので、もう確実だなと確信しました。
「分かってると思うんだけど、増田のお兄ちゃんの事好きだって言ったらどう思う?」
でも、正直言って困るんですよね、友人を義姉と呼ぶのは抵抗があるし、
友人家族はドロドロで凄く仲悪いし人間的にも好きになれないので、うちをそれに巻き込ませたくない。
友人の親は既に他界してるんだけど、兄妹が性質のいい人ではなくて、それが原因で離婚をしています。
頻繁に金をたかりに来たり、居座ったりされて困ってるのを見て来たので、あれが家族になる事だけは嫌だと思ってます。
友人自身も兄妹とは距離を取りたいと思ってるから普段は疎遠ですけど、兄と結婚でもしたらまた同じ事が繰り返されそうで怖いんですよね。
「兄ちゃん次第だと思うんだけど、A子の兄妹が怖いかな・・・」というと、「だよね。。。ごめんね」と悲しそうな顔をされて、それも悲しいです。
兄に話をして、全部ひっくるめて解決できる(友人の兄妹に毅然と対処できる)なら、良いかもしれないけれど
でも、兄と友人の相性は良さそうだし、子供も凄くなついてて喜ぶんじゃないかと思うと良い面もありそうなんですよね。
妹がいないとよく知らない女性の相手は出来ないと嫌がる兄が、誰かと結婚できるのかと思うと・・・ってのもあります笑
わたしが嫌がってて応援しない間は友人も兄に気持ちを伝える事はないだろうし、自然に消えていく話だと思う。でも、それでいいのかとも思う。
どうしたもんかなぁ・・・
ネットでは「いいね」が可視化され、現実では声のトーンや目つきから相手の評価が流れ込んでくる。
鬱陶しい。
人の一挙手一投足をいちいち値踏みしようとするな。
していたとしてもそれを本人にぶつけてくるな。
そうじゃない場所がもうどこにもないんだ。
テレビゲームの世界だってもうすっかり正解が選べたかどうかをスコアで見せるのが主流になった。
見える化は成長には便利だが、見えることに疲れた人間の行き先は失われた。
本を読もうが映画を見ようが「君はこの引用元を知っているかな?君は前の項目でやった内容を覚えているかな?」と責め立てられる。
聖書や歴史を暗記しきれてないやつ、キャラクターの名前を覚えられないやつ、毎日努力ができないやつ、そんな奴らはうちのコンテンツには向かないよと遠ざける。
タバコは喉を試し、酒は臓器機能を求め、よりハードなドラッグは脳の耐久力を要求する。
気持ちよく寝るためには気持ちよく運動をしてストレスなく暮らさなきゃいけないし、舌バカは高い金払っても違いがよく分からない。
同時にコッチも「寿命までの残り時間を無駄にしたくない」という焦りから多くのものを値踏みしてしまう。
疲れた……
たまたま見かけたレジャー白書(7,700円税込)を読んだんだけど、かなり衝撃的だった。
■何が衝撃的だったか?
それも特定の分野に限らず、ほぼ全てで。
■例えば何が激減してるの?
※単位:すべて「万人」
・屋内の趣味
囲碁:400→150
お茶:300→150
・スポーツ
ジョギング:2450→1820
卓球:830→540
バスケ:390→290
他にもたくさん書かれているんだけど、ほぼ全てで人口が減っている。
■なぜ減少しているのか?
詳しく書かれていないけど、推測としてスマホだろうと。
スマホに関してはなぜかほぼ書かれていない。
唯一「動画鑑賞:3420→3690」がおそらくスマホだろう。
■コロナの影響は?
けど、それでも2012年の水準には戻っていないものがほとんど。
■コロナで減ったのは?
カラオケ:2980→1520
飲み屋:1790→900
ソフトボール:320→130
水泳:920→520
ボーリング:930→450
他にも山ほどコロナで激減している。
■その他気になったもの
ブームかと思っていたが減っている。コロナ後も減り続けている。増えてると思った。けっこう意外
・将棋:850→500
今はスマホなんだろうね
こちらも意外と頑張っているなと思った。
・中央競馬:960→790
ギャンブル系ではパチンコを抑えてNo1に。人口増加している年もありスマホゲームの影響だろうか?
ブームと言われているがそれでも減っている。
コロナ後も減り続けている。
■最後に
これは美味しいもの食べたらうれしくなる、とかと同レベルの話。
美味しいものを食べたことない奴には判らないし、筋肉をしっかり動かしたことのない増田にはわからない。
第二に、駅伝とかを観戦するとき、観客は自分の体験を思い出して共感による感動を得ている。
何か駅伝的なことをして、辛いけどめちゃめちゃ頑張っている~~という状態の感動を追体験している。
マラソン、駅伝ファンは、どうも女性が多い。共感力の高さと無関係ではあるまい。
そして、これも辛いけど頑張っている~~という体験がないと判らないことが多いだろう。
いずれにせよ、テレビゲームが好きな増田の考えとは違って、それらは必ずしもゲームのゲーム性を楽しんでいるのではないということだ。
ここ何日か表題のことをしばらく考えていて、自分なりに納得できた気がしたので残しておきます。
……というのは建前で、本音は何も知ろうとしていなかったのに食わず嫌いをしていた自分の愚かさへの悔恨と懺悔でもあります。あらかじめご了承ください。
学生時代からカーストの最下層に位置して、テレビゲームに視線をずらして現実から逃げて、流行りのテレビ番組を忌避していた系統の人間です。
学生時代に抱いていた『ジャニーズ』に対する印象はと言うと……あろうことか敵愾心でした。
何も知らない、ましてやファンですらない部外者の人間が思い込みだけで抱く印象が敵愾心と聞くと、いかに幼稚か分かる人には分かると思います。
学生時代の『私』が恐ろしく幼稚で狭量だったのは全く否定の余地がありません。
強いて言い訳をするなら、当時の『私』はカースト上位の男女問わずそれなりに過度ないじりをされていた、ということです。
坊主憎けりゃ……のあれです。
キャラソンを聞いて妄想して1人でニコニコしていた過去の『私』と、ジャニーズのかっこいいアイドルを見てときめいていた人達に優劣などありはしないのに。
こんな簡単なことも気づかず、気づくチャンスもなくアイドルとは無縁の世界で生きた『私』は順調に年齢だけを重ねていきました。
『私』は突如としてアイドル、しかもよりにもよってかつて嫌悪に近い感情を抱いていたジャニーズの沼に全身突っ込むことになります。
友人がいつもカラオケで歌ってるから歌詞はどんなものか見てみよう——
どうあれ『私』は生まれて初めて彼ら、ジャニーズに興味を持ち、自発的に近づいたのです。
こちらから距離を縮めようと努力し始めたら、あとは簡単に転がり落ちていくだけです。
熾烈な競争の中で、彼らは1人でも多くの人の目に留まろうと努力していると知りました。そしてより強く光り輝こうと、勝ち抜いてやるという強い生命力のようなものを感じられたのです。
歌に目を向けても、聞いてる人間が容易に感情移入出来るように計算され尽くしたキャッチーかつ明瞭なものばかり。
ありがちで陳腐だと感じるときもあるかもしれないけれど、『私』は三十路の、社会の荒波で心がすり減ったちっぽけなオタク。
ありがちでも、それを嗤う反骨心はどこにも無く、むしろその陳腐さに有難みすら感じてしまいました。
だって社会は、同僚は、誰もすり減った『私』をよく頑張ったとは労わってくれないのだから。
家族は、友人は、画面の向こうのあなたも、『私』の息苦しさの全容は分かりっこないのだから。
理想の『私』と、現実で苦しむ『私』を比較して萎えて、それでも頑張ることが出来ずに不完全燃焼だった『私』にとって、高みを目指す彼はとてもかっこいいと思いました。
ジャニーズの歌は、頑張る姿は、こんなちっぽけで狭量な『私』すらも、許してくれているような……そんな気すらしました。
テレビのソースはないけど新聞の例やテレビゲーム悪影響論の波は下記の論文にわりといい感じにまとまってたよ。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasag/13/1/13_56/_article/-char/ja/
「テレビゲームと暴力」問題の過去,現在,未来―社会心理学における研究の動向―
坂元 章
フリーでPDFを見れるから見るとよいよ。この著者の坂元章さんはいまお茶の水大学の教授になってるんだ。
あとは下記の東北大学の(たぶん卒業論文かなにかだと思う)PDFもデータ量が多くてちょっと面白かったよ。
http://www.law.tohoku.ac.jp/~inuzuka/lec/kumada.pdf
新聞や雑誌などのメディアの中では、テレビゲームが社会的適応性に対して悪影響を及ぼすことが定説であるかのように扱われてきている。木村が挙げた例によると、1993 年 2月 14 日号の週刊読売では、「テレビゲームはこんなに怖い!! あなたの子供は大丈夫か」との特集が組まれ、人づきあいが苦手になる、といった主張を軸に、様々な身体的・心理的悪影響を受けるとの記事が掲載された。同年 1 月 30 日号の週刊現代でも「子どもの心と体を蝕む『テレビゲーム症候群』」と題した記事の中で、テレビゲームの使用が他人とコミュニケーションをとるときに悪影響を及ぼす、といった旨の医師によるコメントが掲載された。また、新聞では、いじめから不登校になった中学生の自殺事件を報じる記事に、「テレビゲームでの遊びによって、対人関係能力が低下している。自分を保護してくれる人以外の人間とはつきあえなくなるなど、傷つきやすい人間になってしまう。」というコメントが寄せられることもあった(木村, 2003)。
ソースになるか分からんけど、『ゲーム キレる』で国会図書館を検索してみた。
テレビゲームのやりすぎで子どもが若年性痴呆になる!(2)「ゲーム」でキレる子どもをつくらぬために掲載誌 週刊文春 / 文芸春秋 [編] 44(38) (通号 2196) 2002.10.3 p.54~57
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I6285548-00
テレビ画面の幻想と弊害 : むかつく・キレル・不登校の彼方にあるもの
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000004151241-00
現代青少年の「キレる」ということに関する心理学的研究(2)ゲームセンターおよびコンビニエンスストアの利用状況とキレ行動の関連
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I5821251-00
2000年頃にそれっぽいのが3件。それ以前だと『キレる』という言葉が違うのかもしれない。
内容が分からないので、バッシング的な内容かどうかの判定は出来ないけど、少なくともメディアや研究の一つとして選ばれる程度には『ゲーム=子供がキレる』論は認識されてそう。
共感覚? って思って調べてみたら、なんか思ってたのと違った。
親がそういうのに厳しかったというのもあったが、
多趣味なので、テレビゲームばかりに時間やお小遣いを費やすことができなかった。
だからというわけではないが、ゲームは少ないタイトルを一人で進めることが多かった。
同年代の人らは、友達の家に集まってワイワイ言いながらゲームすることもあったかと思うけど、
自分は妹が横で見ているを淡々と進めるみたいなプレイしかしたことがなかった。
例えばFF5なんだけど。
ビッグブリッヂの死闘、っていう有名な曲あるよね。
もちろんキャラ立ちしてるギルガメッシュの影響もあるんだろうけど、
あの印象的なアルペジオは忘れられない。
当時はインターネットなんてなかったので、
友達とゲームプレイについて会話するってことがなかった自分は、
「ビッグブリッヂの死闘」って、超有名曲だったんだ、って知った。
多分、友達とプレイしてたら「この曲、めっちゃカッコイイ!」みたいに盛り上がるのだろうか。
でも、自分の中で「かっこいい曲だな、コレ」って思ってたら
他の人も「かっこいい曲だな、コレ」って思ってるって現象。
なんで「良いモノに触れて良いと感じる」のかなあ、
そしてそれがなぜ他人と共有できるのかなあ?
ってすごく不思議。