はてなキーワード: エッセイとは
KKOとまではいきませんが、とっくに成人しているのにいまだ交際歴ゼロの人間ですから、恋愛弱者としては上等かと思います。
自分で言うのもなんですが、顔の造形の悪さには自信があります。
性格の悪さにも同様に自信がありますが、性格が悪いゆえに仕事をする上で取り繕える程度には困っていませんし
それも自称でしかないので、実態がどうなのか、それで生活が本当に上手くいってるのかはご想像におまかせします。
弱者男性に随分と憎しみを向けられていたようですが、真摯に文章を読ませていただきました。
読んでいるうちに、以下の2点が頭に浮かびました。
・「理解のある彼くん」をあげつらって批判していたのは弱者男性だけに限った話ではない
・そもそも「理解のある彼くん」持ちは非難されても仕方のないことをしでかしている
今回は「望むところだ」ということで、後者を重視して書いてみます。
あくまで、「理解のある彼くん」持ちとハンデを持つ女性は完全に同一では無いという見解であり、
以下はハンデを持つ女性全てを批判しているものではありません。
これから記載している内容に反論がありましたら遠慮なくご指摘ください。
「理解のある彼くん」は、何も最初から障害や病気のハンデを持つ女性を攻撃するために産み出された単語では有りません。
それは障害や病気のハンデを持ちながらもそれらに向き合いながら生きている、ということを綴った女性達のエッセイから概念が発見されました。
ネットで複数の作者の漫画の「理解のある彼くん」が登場するページを1枚にした風刺画像を見たことがあるでしょうか?
まるで判を押したように展開が同じなのです。
エッセイということは実体験でしょうから、細かいところは省いたりフェイクを挟んでいる可能性があるとは言えど大筋はノンフィクションでしょう。
「なんだかみんな展開が似たりよったりだぞ??」と気づかれだしました。
この指摘については、何も弱者男性だけから発信されたわけではありません。
女性作家から、カウンター的にエッセイ漫画で指摘されているものでもあります。
この指摘で耳が痛かったならば、弱者男性だけを敵視するのは誤りであると言えるでしょう。
あなたがたが敵に回す範囲、軽蔑すべき範囲は本来もっと広いはずです。
それをすることができない、いや認知しようとしないのは何故でしょうね。
全ての女性が「理解のある彼くん」を得られるとは思っていませんし、
「理解のある彼くん」を得ることが誰であっても簡単だとも思っていません。
すぐキレる、情緒不安定になり周囲に当たり散らす、それらが病気や障害によるもので苦しんでいる――――――。
いかにハンデを抱えて生活することが大変か、という点で綴られていましたが、
「自分」が大変である、という視点のみで描かれていることが多いという感想を持ちました。
綴られているケースのうち、同情すべきものももちろんありましたが、
いくつか幼稚過ぎて理解できない行動も含め、都合よく正当化されているように見えました。
(それだけ的確な判断力を持ち合わせられないぐらいに根深い病気である、というのを私が理解できなかったのかもしれません)
しかしながら、作者は過去のことを反芻しエッセイに仕立ててるうちに、再考して思うところがなかったのかなと考えています。
ウソを書けということでなく、ぼかすなり内省の補足をするなりあるはずです。
上記は私個人の感想ではありますが、エッセイ漫画を通して「女性はハンデ持ちでもイージー」というネット上の共通見解が得られたのは、
私と同じような感想を持った人が多かったのでしょう、と勝手に推察しております。
「理解のある彼くんがいるから」ではなく、「理解のある彼くんだって出来る上に、そもそもこんな認識で生きているから」と思っているのです。
「私が弱者男性故に対象が女性というだけで色眼鏡で見ている」、そう思われるかもしれませんが、
他で消化器系を長く患われている女性作家さんのエッセイではその苦労や辛さに深く同情し、何一つ批判的な感想を抱きませんでしたし、
精神を患われている女性作家さんでも「理解のある彼くん」に疑念を持っていた方のものは
特に前後でも病気を理由にした問題行動の正当化を感じる部分もありませんでしたので、
やっぱり「理解のある彼くん」の登場があるエッセイの作家さん達だけが悪目立ちしているように見えました。
本来、努力し、助け合い、思いやりを持ちつつも懸命に生きるハンデを持った女性たちという
決して揶揄や物笑いの種にすべき存在ではないものについて、これだけマイナスイメージを持たれてしまったのは、ここにあります。
ここでは「理解のある彼くん」に絞って女性の話をしていますが、
もちろん「甘ったれた男性」がいることも否定しませんし、弱者男性の中にそういった部類の人間がいることも承知しております。
ハンデを持った女性のリアルを理解する上で、当事者の知り合いがいるという人もなかなか少ないでしょうし、
そもそも当事者はむやみやたらに打ち明けることは無いでしょう。
自分の病気のことを顔を合わせる周囲の人間にベラベラ喋ることがありますか?
そんな「リアル」で認知されることが少ない状態では、ネットの発信力が強い現代において、
エッセイの「悪い意味で最もキャッチーな部分」によって認識を悪い方向に塗り替えられてしまった、というのが今の状況かと思います。
それでも、結果的に「女性はハンデ持ちでもイージー」という結論で
十把一絡げにして非難の対象になってしまった「まともにハンデと向き合っている女性」への誤った非難があったことは否定しません。
何故止めなかったのか、何故助けてあげなかったのか。何故咎めなかったのか。
でもそれは「過去に助けてくれなかったから、同じように助けなかった」ではないです。
そもそも、「弱者男性を助けなかった理由」でなく「〇〇を助けなかった理由」というべきでしょうか。
ですから、「弱者男性は精神障害者女性をサンドバッグにしてきた」という結論で
発達障害で、メンヘラで、繊細さんで、生き辛い…と書いてきたオチが
そんな私にも今では理解のある彼くんが!なのとか
毒親に苦しめられて不遇な子供時代を過ごし大人になっても苦しんできましたのオチが
今じゃ抜け出して幸せに暮らしている女がとっくに過ぎ去った漫画をネタに描いて商売道具にするって
同じような、いやもっと大変な境遇にあって孤独なまま一人で死んでいくだろう女から見たらほんと苛つくわ
男からしか叩かれていないと思うなよ
エッセイ漫画でめっちゃある。てか、エッセイ漫画書いてる主婦ってなんで高確率で夫が発達、パニック、鬱のどれかあるいはコンボなのか気になってる。ネタが多いからかな。
先日、こんなツイートを見た
https://twitter.com/kurage313book/status/1386659944875757568?s=21
これを見た瞬間、SNSを多用する友人に感じていた違和感がわかった
その友人はその日あった出来事を必ずと言っていいほどInstagramに掲載する
もちろん、フィルターをかけた雰囲気のある写真とポエムとエッセイの合いの子のような文章と共に掲載する
その文章を見るたび、いやいや何勝手にワイをてめえの物語の一登場人物にしてんねんとツッコミを入れたくなる
そう思ったらその場でわたしに伝えればいいし、てめえのキラキラしたステキナワタシ^_−☆ストーリーの材料にしてんじゃねえよと言いたい
わたしはわたしの人生の主人公であって、決しててめえのキラキラストーリーの添え物ではない
これは自分の子どもや祖父母の写真を添えて写真をアップロードしている輩にも同様の感情を抱く
自分が輝きたい、ひいてはその輝きを他人に見せつけたいがために他人を輝きの材料として徹底的に活用する
そしてその周囲の人物は、それを素晴らしい感受性の持ち主と感じていることがほとんどである
今日まではいやまあ直接会う分には悪い人ではないし、SNSは無視してればいいか…と思っていたけど、先日見た投稿を見て、もう深く関わることは辞めようと心に決めた
その投稿は、キラキラした集合写真に、わたしが前にその人に伝えた言葉が貼り付けられていた
わたしが表現した言葉を、あたかも自分のオリジナルかのようにしていた
以前からわたしの発言を、おそらく無意識にだと思うが、己が発したことにしていることが散見された
今回の投稿もその延長だったのだと思うが、それでもわたしの中でなにかが完全に断裂された感覚がした
文章にすると己の器の小ささが露呈するようだが、所詮言葉は感情の下位互換なのだから、この投稿で少しでもモヤモヤが整理されればいいや
・そこら辺にある家族イラストとかで、ママと子供が楽しそうだけどパパは荷物持ったりして汗かいてる、みたいなの
→パパ一人だけ大変な思いをして当然、みたいな前提を感じていい気がしない
→そもそも困った行動を問題にするのじゃなく人物を揶揄して話題にするのがどうかと思うが、
「おじさん」という単語に揶揄の意味を乗せるのは「おばさん」を揶揄するのと同じくらい良くないと思う
→ダメでしょこれは
・「男のくせに」「男ならこうしろ」みたいなの
→これもダメでしょ
→論外
・女性なら貧乏旅行でもある程度ちゃんとした宿を取らなきゃいけないけど、男性は最悪野宿でもOKみたいなの
→これは男女どっちの差別かちょっと悩むけど、男だって野宿したら強盗とか遭いやすくて危ないよねきっと?
・女に手を上げる男は最低!みたいなの
→男にだって上げちゃいかんし、女が男に手を上げるのだってダメ
→これは自分で経験してないしよく分からない… でも男だから育てられないはず、女だから育てられるはず、という先入観は良くないよね
→よくないけど、こういうの出席する男性が増えてきたら自然とこれは無くなりそう
あと、外国の人が日本で色んな体験をしてみた、みたいなエッセイ漫画で、婚活の場で男性だけ年収を書かされる(女性は趣味とかを書く?)のは凄い差別的だって作者の人が言ってた。婚活はしたことないから知らないけど、それはそうだよな、と思った。ちなみにその作者も女性ね。
まあこうやって考えてはみたけど、やっぱり当事者じゃないと見えないことが多そうだなと思った。
読む前にamazonレビューである程度評価が高いことを確認したけど、全部自分には合わなかった
2巻まで読んだ
地味で展開もありがち(弓道部ないから部員集めるとか屋上で練習するとか)
キャラも魅力を感じない
男主人公だけだといまいちだから女キャラもいれとこう的な安易さも嫌い
いろいろちぐはぐな行動したりする
変身がとけない=マスクしたままだから表情、目つき、口元がまったく見えないせいで、
絵とセリフから読み取る必要があるのがやっぱネックになってるように感じる
かといって他の変身とけてる元戦隊メンバーが表情豊かかというとそうでもなく、総じてギャグ漫画としていろいろ考慮が足りてない気がする
ファンタジー世界のお役人が、各地の昔話を集める名目で困りごと解決したりするタイプのやつ
説明文字が多いのと展開もありきたりでつまらないから流し読みしておわり
人間関係がダメな天才と、才能はないけど社交力はある人間が組んでいろいろやる
絵は好きだしマンガとしても読みにくくはないと思うけど、キャラとストーリーが壊滅的
感情移入できないしひたすらストレスとフラストレーションがたまるばっかの展開が続く
美大あるあるをオリキャラでマンガにするのはいいけど、エッセイでもないのにただマンガにしてもつまらないだけ
2017年時点ではすでに成功したアニメ監督とアニメーターが1話でえがかれる
はじめに言っておくが、増田は「ポリコレが短歌を殺した」というつもりはない。
https://twitter.com/aymusk/status/1382910231223562244
若手歌人の上坂氏による短歌で、そのキャッチーさ・ショッキングさからSNSでも何度かバズっている作品である。ここで「有名」というのは歌壇での話ではなく、一般ウケの話で恐縮なのだが、見たことある人も多かろうということで「有名」と評した。
今回、その「父」が死去したことにより上坂氏が再度ツイートしたところ、以前は見かけなかった「差別的だ」との引用RT・リプライが寄せられているようで、上坂氏は謝罪に至っている。
増田は短歌の評価を書くような場所じゃないと思うのでその辺は省くが、ちょっとした短歌ファンとして今回の件はショッキングだった。
言うまでもなく、そして穂村弘による評価でも言われている通り、この作品は父に対する強い負のイメージから詠まれた短歌である。
これはフィリピンに対するネガティブイメージではなく、「あのクソ親父は女がいたからフィリピンに駆け落ちしたんだろう」というのが詠まれた状況であろう。なお、駆け落ちという言葉でわかると思うが、ここでいう「女がいたから」というのは「フィリピンに行けば女がいくらでもいる」といったものではなく、「特定のフィリピン出身の女が居て、そいつのために行ったのだろう」という意である。
上坂氏は後日談のように当時の心境を書いており( https://twitter.com/aymusk/status/1382914438290804739 )、それなりに上記の解釈が合っているとは思っている。もし上坂氏が「そうじゃない」といえばそれまでだが。
仮に上坂氏の父親が大阪に逃げたならば「大阪の女」、フランスに逃げたならば「フランスの女」、で短歌を構成することは不可能ではなかろう。
さて、今回見受けられる批判は主に人種差別、例えば「フィリピンといえば女だと決めつけているのだろう」といったものが多い。
短歌とは極限まで言葉の数を削ぎ落とし、鑑賞者に想像の余地を持たせるものであろう。たとえば「歌人はフィリピン女性に悪意を抱いていたのではないか?」という解釈を試みる事自体を間違っている行為だと断言できる気はしない(もちろん歌人の意図とは異なるのであろうが)。
昨今のTwitterにおけるポリコレにまつわる炎上は、文脈がどうであったかが論争になるケースが多いように思う。要は「これは差別的な発言・表現・コンテンツだ」という批判に対し、「切り抜きだ」「このコンテンツにはこういう意図があったのに、そこを無視して炎上させるなんておかしい」といった流れがよくある。
そういう点では短歌は炎上の題材として「最適」である。文脈が削ぎ落とされており、批判も擁護もしやすい。更に元々表現が抽象的であるため、曲解するほうが悪いと断言するのも難しかろう。
そもそも炎上する短歌なんてあるのかよと思うかもしれないが、家庭や人間関係のことを詠んだ歌は多い。
今回の「フィリピンの女の乳首」は極端な例だが、例えば家庭の光景を詠んだものに「この表現はジェンダーロールの固定を想起させる」といった批判が寄せられることは今後ありうるだろう。
歌人がこの状況に対峙するには、「この短歌はこういう意図です」と声明を発表することしかないように思われる。しかし、作者によって説明が付けられた短歌は短歌といっていいのか?それエッセイじゃない?
それとも、釈明・説明を付与することを避けるため、誤解を招くかもしれないという理由で表現の選択肢が狭まっていくのだろうか。もちろん差別的な表現なら論外としても、誤解を招くかもといった理由で表現が狭まっていくことは果たして「コレクト」なのだろうか。
省かれた文脈に対して説明が求められ、作品や表現がポリティカルにコレクトであることを示さなければならないこの時代、短歌の命は短いのかもしれないと感じてしまった。
本件を歌人の方々はどのように捉えているのだろうか。
思いつきで返してるだけなのはそっちやろw
だからさあ、この女はレストランなわけ?芸をさせて対価を払うことを生業にしてんの?
物事に真摯に向き合えず、すぐ例え話出さないと思考できない奴って本当に馬鹿だよな
で、それがガイドってわけだ
人一人を数時間こき使う対価が「タバコ一箱」で十分だと判断してるわけだな、「物乞いだからその程度で十分だろう」と
本当に同じ人間、対等な立場であるんだとしたら取材協力費として妥当な金額を払うべきだよな
お前は差別ではない差別って言った方が差別って言いたいだけのアホじゃん
この女は大阪の就労支援NPOで働いてた経験があり、明らかに無知なわけではない
いつも読んでくださってありがとうございます。あのコメントは、彼女が10年に渡って大阪の現場で就労支援や社会復帰サポートのお仕事をされてきた経験があるから書けること(そうじゃない場合は同じことを出来ない)と思って書いていたのですが、言葉足らずで単純な賞賛として拡散してしまったなと(続 pic.twitter.com/81GCdUuP3n— 塩谷 舞 mai shiotani 💭 (@ciotan) April 15, 2021
はなから西成にいる人間をそういうものだと思ってるカスなんだよ
もちろん冒頭に出てくる西成が初めてという言及もおそらく大嘘なわけ
ローカスが言ってるように、そもそもあのエッセイ自体全部作り話、所謂「嘘松」の類であるってのが濃厚な線だと思うけどな
大阪市からPR仕事を受けて新今宮に行ったら僅か2日の間にたまたま奢ったり奢られたり銭湯に2度シャンプー持たずに行き2度とも見知らぬ人が察して貸してくれたり袋の中でなぜかジュースがこぼれて困ってたらホームレスの人が助けてくれてついでに100円せびられた流れでその人とデートをしたりした話。 https://t.co/OKcupTRB4g— ystk (@lawkus) April 13, 2021
コロナ禍でイベントに行けなくなったら、サークルさんもイベントがないなら新刊出さない感じになり(もちろん出しているところもある)、いつの間にか同人誌を一年ちょい買わなくなってしまった。買ったの創作系のエッセイ漫画みたいなやつ2冊くらいだ…二次創作とかなにそれ?となってしまった。
私が知らないだけで同カプの書き手さんたち全員別ジャンルに大移動したんでしょうか?
この間あまりにも同人誌買わなさすぎてえっちな男性向けと女性向けの本をFANZAで買ってみたけど、それが原因でこの度のDMMブックスの70%オフクーポン対象外で泣きっ面に蜂である。おい!どういうことだ!FANZAとDMMブックス関係ないだろ…