はてなキーワード: ねじとは
ワニがビジネス目的だったとして、ワニが死んだ日に、書籍化発表、映画化発表、グッズ展開発表、ここまでは分かる。
でも、あのいきものがかりの曲って、ワニが死んだ日に出す意味なくね?
おそらく、映画の主題歌なんだろうけど、だったら映画の詳細が判明したときに出すのがタイミング的に最良じゃないか?
しかもあの動画のクレジットに電通プランナーがいたことで炎上に拍車がかかった。
作者の言い分を信じると、電通が関わってるのはこの曲だけ。このタイミングで電通の存在を匂わせる危険性に誰も思い至らなかったのか?
https://anond.hatelabo.jp/20200323025005
――ところで、わたしは昔から、最後のスタンザは少し弱いのではないかと思っていたのですが……。
( ・3・) 弱い? 「リング」と「スプリング」とで韻を踏むのはありきたりだとか?
――弱いというよりは、ピンとこないといったほうが正確かもしれません。「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」――これはどういうことなんでしょう。
( ・3・) 彼女のほうが歳上だったんじゃないか? 50歳くらい。
――それはたしかに too late な気がしますが、もし年齢が離れていることが問題なら、彼女が三月生まれであれ、七月生まれであれ、一年のうちで生まれた時期に言及する意味はないはずなんです。
( ・3・) 春に生まれようが夏に生まれようが誤差みたいなものだからな。
( ・3・) ははは、まさか。
――ここに一枚の写真があります。1975年に撮られたものです。
https://twitter.com/kedardo/status/1242030916232339458
( ・3・) ボブ・ディラン、本を読む。
――何という本ですか?
( ・3・) 『クリスタル・マジック』と書いてある。マジックのつづりが変だけど。
――目次には次のような言葉が並んでいます。「ケンタウルスが獅子を狩る」「シャンカラの理論は現実をどう捉えるか」「ハクスリーの知覚の扉」「アジュナチャクラあるいは第三の目」「カバラの諸相」
( ・3・) 神秘主義のロイヤル・ストレート・フラッシュという感じだな。
――星座が何であれば、支配星は何、エレメントは何、という表も載っています。
( ・3・) 本を読め、ただしまともな本を、と釘を刺したばかりだというのに。
――まともな本も読んでいますよ。このころディランはチェーホフやコンラッドに傾倒していたはずです。 [3] [4]
( ・3・) じゃあ『クリスタル・マジック』はたまたま手にとっただけで、内容を真に受けたとまではいえないんじゃないか?
――1974年、コンサート・ツアーを再開した理由を、ディランは次のように語っています。「わたしの惑星系 (my planetary system) において土星が障害となっていた。その状態がしばらく続いていたが、いま土星は別の場所へ移動した」 [5]
――1976年のアルバム『ディザイア』のバック・カヴァーには、タロットが描かれています。
( ・3・) タロット! イタロ・カルヴィーノの『宿命の交わる城』は何年だっけ。ちょっと待って――第一部・第二部の合本が出たのが1973年。英訳は1977年だ。
――1978年のインタヴューでは、占星術を信じているのかと単刀直入に訊かれています。
PLAYBOY: OK, back to less worldly concerns. You don't believe in astrology, do you?
DYLAN: I don't think so.
PLAYBOY: You were quoted recently as having said something about having a Gemini nature.
DYLAN: Well, maybe there are certain characteristics of people who are born under certain signs. But I don't know, I'm not sure how relevant it is.
PLAYBOY: Could it be there's an undiscovered twin or a double to Bob Dylan?
DYLAN: Someplace on the planet, there's a double of me walking around. Could very possibly be. [6]
( ・3・) 信じているかといえば、信じてはいない。星座と人間の気質とのあいだには何か関係があるかもしれないが、どの程度なのかは分からない。――うーん、言質を取られるのを避けているみたいだ。
――もともと質問に率直に答える人ではないのですが。
( ・3・) 思い出した。昔、日本の有名な批評家がイェール大学に文学を教えに行ったんだが、向こうでは占星術が流行っていて、同僚の学者の生年月日がどうのこうのと書いていたっけ。あれも70年代半ばじゃなかったかな。
――期せずして、アメリカにおける神秘主義の流行、というテーマに足を踏み入れてしまいました。
( ・3・) ……引き返そうか。
――「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」の意味をめぐって脇道にそれてしまいましたが、実は、意外なかたちで問題が消滅します。
――いえ、問題自体が消えてなくなってしまうんです。アルバム発表から一年も経たないうちに、歌詞が書き直されて、最後のスタンザは大きく変わります。1975年のライヴ録音を聴いてみましょう。
To know too much for too long a time
She should have caught me in my prime
Instead of going off to sea
And leaving me to meditate
( ・3・) ジェミニを連想させる "she was my twin" も含めて、占星術につながりそうな表現はなくなったな。詩の問題の解決を、人は問題の消滅によってうやむやにする。
――「彼女はわたしの双子だった」も、考えてみれば謎めいた表現です。「本当の恋人だった」と「双子だった」とが置き換え可能かといえば、そうではないと思います。
( ・3・) 歌詞だけじゃなくて、コード進行も旋律も変わっているぞ。
――そうなんです。これまでわれわれが検討してきたことの少なからぬ部分が、このヴァージョンには当てはまらなくなっている。ディランにしてみれば、もう「わたしはそこにはいない」んです。
( ・3・) うなぎみたいなやつだな。
――歌詞の変更は1975年以降も続きます。「彼」と「彼女」とが入れ替わったり――
( ・3・) 体が?
――立場がです。第一スタンザで「孤独を感じ」「まっすぐに歩いていればよかった」と願い、第二スタンザで「夜の熱気に打たれるのを感じ」るのは、「彼」ではなく「彼女」になります。80年代にはさらに全面的な変更があり、90年代には――
( ・3・) もはや原形を留めなくなった?
――いえ、それが――。
( ・3・) それが?
――おおむね元のかたちに戻りました。
( ・3・) ……。
――……。
( ・3・) 「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」も?
( ・3・) 抑圧された占星術の回帰……。なくなったはずの問題の再燃……。まるで人生のようだ。
――これで「運命のひとひねり」は概観できました。全体について何かありますか?
( ・3・) 英語は易しめだったな。
( ・3・) 「彼」と「彼女」との間に何があったのか、曲のなかでは詳しく語られないけど、これは、その、いわゆる一夜の関係というやつなの? [7]
――なぜそう思ったんですか?
――ただ、それだと、彼女がいなくなったときの彼の傷心ぶりや、「指輪をなくしてしまった」のくだりはうまく説明できません。
( ・3・) そうなんだよな。じゃあ、ある程度つきあった恋人たちの最後の夜だったんだろうか。
――第一スタンザに、「体の芯に火花が走るのを感じた」とありますが、これは恋に落ちるときの表現だと思います。まあ、よく知っている相手に対して改めて火花を感じる、という可能性もゼロではありませんが。
( ・3・) すでにつきあっている恋人同士なら、見知らぬホテルの前でまごまごするのも不自然だしな。うーん、こんがらがってきた。一方では、彼と彼女とは一夜の関係に見える。ある日の夕暮れに物語が始まって、翌朝には彼女は姿を消している。その一方、物語の後半では、彼は生涯の伴侶を失った男のように見える。
――常識と観測結果とが矛盾するときは、常識を捨てなければなりません。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、と考えて矛盾が生じるのであれば、そう考えるのをやめればいいんです。
( ・3・) いや、でも、ある日の夕暮れから翌朝までじゃないの? ネオンの輝く見知らぬホテルに長期滞在して、数年後の朝に彼女はいなくなりました、なんていくらなんでも無理があるだろう。
――キュビズムの絵画では、ある対象を複数の視点から捉え、平面のキャンバスに再構成して描きます。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、という枠組みのなかに、出会いから別れまでの一切が凝縮されたかたちで描かれているとしたら?
( ・3・) 時間の流れが一律ではなかったということか?
――いいですか、時計の秒針が聞こえてくるのは、彼女がいなくなった後です。それから彼にとっての永遠の現在が始まり、彼女がいた過去は、彼の記憶のなかで遠近法的な奥行きを失うんです。
( ・3・) 時計を一種の仕掛けと見立てて、内在的に解釈するわけか。理屈は通っているかもしれないが、常識を捨てさせるには、まだ十分ではないと思うぞ。
――では、時間の流れが一律であるとは限らないという外在的な傍証を。1978年のインタヴューです。
Everybody agrees that that [Blood on the Tracks] was pretty different, and what's different about it is that there's a code in the lyrics and also there's no sense of time. There's no respect for it: you've got yesterday, today and tomorrow all in the same room, and there's very little that you can't imagine not happening. [8]
( ・3・) おい、詩に暗号が隠されていると言っているぞ。
――その点は保留にしてください。
( ・3・) 時間の意識は失われている。過去、現在、未来が同じ部屋に混在して、想像しえない出来事などほとんどない。
( ・3・) 「運命のひとひねり」の解題ではないんだな?
( ・3・) そうだな、まだ腑に落ちるとまではいかないが、時間の扱いは気に留めておいたほうがよさそうだ。
――はい。実は、キュビズムの絵画や、時間の意識をもちだしたのは、次に聴く曲「タングルド・アップ・イン・ブルー」でも同じ問題がでてくるからなんです。邦題は「ブルーにこんがらがって」。ディランの重要な曲を挙げるとしたら、まず10位以内には入る。人によっては1位かもしれない。というわけで、ウォーム・アップは終了です。次は少し難しくなりますよ。
そのようにして彼らは「タングルド・アップ・イン・ブルー」を聴き、「シェルター・フロム・ザ・ストーム」を聴いた。窓のかたちをした陽だまりが床を移動し、寝ていたストラヴィンスキーの首から下が影に入ってしまった。もう次の曲に進む時間は残っていなかった。デレク・ベイリーのCDを持って帰らなければ、と彼は思った。マイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスならいつでも買い直せる。しかしベイリーは品切れのまま再発されないことだってありうるのだ。
「もう帰るのか?」と上司は言った。
「はい。それで、デレク・ベ」
「おまえの家は一戸建てだったな、たしか。陽当たりと風通しは良好か?」
「陽当たり? まあ、それなりには。それで、デ」
「窓からの眺めは?」
「眺め? まあ、壁しか見えないということはありませんが。そ」
「じゃあ、決まりだな」と上司は言い、リムスキー=コルサコフの両脇を後ろから抱えると、目の高さまで持ち上げた。
「新しいパパだよ」
かくして予言は成就し、わたしは持っていったもの以上を持ち帰ることになる。小さなモフモフと、モフモフの当面の生活に必要なモフモフ用品とを。
まずはこの子に、猫としてまっとうな名前をつけよう。このままだと、もし何かの拍子に迷子にでもなったら、「リムスキー=コルサコフ! リムスキー=コルサコフ!」と大声で呼びながら近所を捜し回らなくてはならない。獣医にかかるときだって、きっと問診票に名前を書く欄があるだろう。常軌を逸した飼い主だと警戒され、信頼関係を築くのに支障をきたすかもしれない。
しかし、猫に名前をつけるのは難しい――T・S・エリオットの Old Possum's Book of Practical Cats にもそう書いてある。クラシックの作曲家では大仰すぎる。ジャズ・ミュージシャンではどうだろう。わたしはCDとレコードの棚の前に立ち、名前の候補をピック・アウトしていく。チェット。論外である。マタタビに耽溺してばかりの猫になってしまいそうだ。ドルフィー。才能も人格も申し分ないが、早世の不安がつきまとう。ベイリー。デレク・ベイリーのCDを取り戻すまで、わたしはあとどれだけの道を歩まなくてはならないのだろう。
わたしは気づく。予言は成就していない。少なくとも完全には成就していない。人知を超えた力によって予言はねじ曲げられ、わたしは持っていったもの以上ではなく、持っていったもの以外を持ち帰ったのだ。新しい家の探検を終え、お腹を上にして眠る小さなモフモフよ、おまえのしっぽが曲がっているのも、運命のひとひねりのせいなのか?
[1] 実際にはEより少し高く聴こえる(テープの再生速度を上げているため)。
[2] これ以降、歌詞の引用は2小節ごとに改行を加えている。
[3] Bob Dylan. Chronicles: Volume One. Simon and Schuster, 2004. p. 122.
[4] Sam Shepard. Rolling Thunder Logbook. Da Capo Press, 2004. p. 78.
[5] https://maureenorth.com/1974/01/dylan-rolling-again-newsweek-cover-story/
[6] Interview with Ron Rosenbaum. Playboy, March 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 236.
[7] 草稿では、第三スタンザは以下のように書かれたあと、大きなバツ印がつけられている。"She raised her weary head / And couldn't help but hate / Cashing in on a Simple Twist of Fate." 初めは娼婦として描かれていた点を重視することもできるし、その構想が放棄された点を重視することもできる。
[8] Interview with Jonathan Cott. Rolling Stone, November 16, 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 260.
サクセスストーリーがわかりやすいのはいいのだけど、ブレイク芸人が出てくるとすぐに過去の苦労話ばかりし始めて見ていて辛くなる。
その中でも本当にやめてほしいのは、昔ワルでした系のエピソード。
いたよ。学校に。人にひどいことしておいて、それを笑いにかえてる人気者。
静かに目立たないように学校生活を送っていたいのに、わざわざちょっかい出してきて自分の人気のために消費するだけのやつ。
おいしいってなんだよ。こっちは毎日どれだけストレスになってるかわかってんのかよ。
芸人の不良時代の写真とか見るだけであのときの胃酸の苦味が喉の奥に蘇ってきて、それ以降その芸人では一切笑えなくなる。
そうじゃない芸人もいるけど、確かに苦労してるなとは思うんだけど、半分以上はただのクソ野郎だよな。
真面目に働くことを放棄しておいて、金にもならないことを何年も続けてましたとか、ずっと彼女に苦労かけてきましたとか。
アリとキリギリスでキリギリスがいきなり金持ちになって南国で越冬する話なんて誰も面白いなんて思わないだろ。
そういうエピソード系の番組なら仕方ないけど、バラエティのちょい役で出たときに急にねじ込まれる過去エピソードとか避けようがない。
頭でわかっていてもこの人はそういう人だったんだと分類されてしまえばもう二度とその芸人では笑えないし、思い出したくもない記憶が刺激されてつらい思いしかなくなってしまう。
作品で大事なのって「伝えたい事を、最大限の努力で伝える事」だろ。
かぐや様とか、銀魂とか、そういうのの実写化は分かるよ。ああいうのはカッコいい人がカッコイイ事やってるのが前提じゃん。それが面白さでもあるわけじゃん。
映像研には手を出すな!はカエルみたいな癖のあるガキ達が映像作ってくのが面白いんだろ。
可愛くて綺麗な女は必要ないんだよ。可愛くて綺麗な女を出すために演技力とかリアリティを犠牲にしてるじゃん。作品の面白さスポイルしてるじゃん。
ハリウッドみたいな、ルッキズムに気を使ってブスをねじ込んで結果的にゴミみたいな作品にしてるのとか、面白さをスポイルしているのは論外だし
「可愛い女の子である必要が無い!!」って言って作品にケチつけてるフェミには同意できないけどさ。その理由が「最終的に作品の面白さや魅力アップにつながってるか」が判断基準だけど
現代思想の千田有紀の論文を読んだ。まず第一に、千田さんのこの論文は論外で、トランス女性に対する差別を煽る内容になっていてダメダメだということを改めてはっきりはっきりと記録した上で、その上で、その上で千田さんの言いたいこととは全く違うようだが、チンコが近くにあってほしくないと表明してはいけないのか?について書く。読んだ上で皆さんの意見を聞かせてほしい(皆さんの考えを聞きたいので書いています)
この論文はトランス女性に対する差別について「それはもちろんダメだが」という前提が全く、欠けに欠け続けている。そして(本人の反論にもあったように)急いで付け加えたような「トランスは女性を名乗るなと言ってるわけじゃないよ」と一文加えているから、この文章はトランス女性差別ではない、というのだが、そんなことはなくて、散々トランス差別を正当化するような文を並べ立てていることが問題なのは明らかだ。
ttps://snartasa.hatenablog.com/entry/2020/02/22/101202
また私の要約が誤りに満ちていると主張される千田さんは、そのTwitterアカウントでぜひ私が訴えている通りに「トランス女性のペニスへの恐怖は(理由はあるにしても)不当な差別構造を保存するものであり、語るべきではない」「トランス女性のアイデンティティは自由に選択したものなどではなく否応なくあるものだ」「トランス女性は女性の一部なのであるから、女性の安全とは別にトランス女性の安全を考えようという主張はいかに一見すると当たり障りなく見えても、トランス排除的で不当である」とはっきり、いますぐ書いてください。これが私の訴えであるとともに、まさに私が論考から読み取った内容の真逆なのですから。
この言葉は全くその通りで、男性器への恐怖を語るのになぜかわざわざトランス女性のみを引き合いに出して、トランス女性に対する差別的言説とそれに対する反応とともに紹介しているのだから、うるさいほどに「この論文はトランス女性への差別には断固反対である」ことは強調しないと、本人の言う「誤読」をされかねないことは明らかです。それをしていない方に問題があります。
第2章もまるでトランスが自由に性別を変えているかのような書き方で間違っていますし、第3章はまさにネトウヨが使う「在日はこんな悪いことをしたんだ!だから日本から出ていけ!」という話法そのもので、問題です。第3章の問題はあまりにも明白で、トランスとかフェミニズムのことを全く知らない人でもわかりやすいと思います。
以上、まず千田論文はトランス女性に対する差別を煽っていて問題であり、「トランス女性のペニスへの恐怖は(理由はあるにしても)不当な差別構造を保存するものであり、語るべきではない」「トランス女性のアイデンティティは自由に選択したものなどではなく否応なくあるものだ」「トランス女性は女性の一部なのであるから、女性の安全とは別にトランス女性の安全を考えようという主張はいかに一見すると当たり障りなく見えても、トランス排除的で不当である」と私も考えていることを明示しました。その上で本論に進みます。
一般に、女性から見た性的暴行の象徴として、チンコというものはあります。それはまさに、チンコを女性に触れさせる、チンコを女性の身体にねじ込む等の行為が、シス男性による性的暴行として行われているからです。だから、チンコが自分の近くにあったら嫌だな、と思うのはおかしいことではないのではないでしょうか???
ネトウヨが「韓国人」や「在日」を嫌っている場合のほとんどは、そこには正当性がありません。なぜならネトウヨの多くは「韓国人」「在日」に何かされたわけでもなく、ネット上の一部の話(それはデマだったり、"「女」の境界線を引きなおす――「ターフ」をめぐる対立を超えて"第3章にあるような話の切り取りだったりする)を受けてそれにより嫌悪感を持っているだけなのですから。だからネトウヨにその言説のバカバカしさに気づいてもらうのは(本来ならば)簡単です。別に自分が何かされたわけでもないと、そこにふと気づけば終わる話です。
一方、女性はチンコによる被害に遭っています。様々な形でチンコを通して性的暴行を受けた人が、チンコを嫌がることもあると思います。そのチンコはあなたに暴力を振るったチンコではないと、第三者的に見ればそうなのでしょうが、でもチンコが怖い。こういう人はチンコへの嫌悪感を示してはいけないのでしょうか?これはもちろん、トランスフォビアではありません(そう書いても、これは差別ではありませんと言いながら韓国・在日差別を煽るクソネトウヨのように見えるでしょうが、それでも差別ではないとして、つまり、「トランス女性のペニスへの恐怖は(理由はあるにしても)不当な差別構造を保存するものであり、語るべきではない」「トランス女性のアイデンティティは自由に選択したものなどではなく否応なくあるものだ」「トランス女性は女性の一部なのであるから、女性の安全とは別にトランス女性の安全を考えようという主張はいかに一見すると当たり障りなく見えても、トランス排除的で不当である」と私も本当に考えているのです)チンコが怖いと書くのは問題があるのでしょうか。黙っていた方がいいでしょうか。チンコを怖いと思わないようになるために、どう考えを変えていけばいいでしょうか。