はてなキーワード: 観光とは
外国で休日を過ごす人の動画を見ると、外国行ってみたいな…って気持ちになる。
途中にコンビニ行って買い物出来たし、怖い思いもしなかった。
仕事で、終電を逃して新宿から高円寺まで歩いて帰る事があったけどちょうどこんな感じだったな。
ってふと思い出した。
仕事に必要なものを買いに行きたくて、コーディネーターさんに連れてってもらった店の付近の古さと新しさが混在した感じ、
今でも忘れられないな。
もちろん、仕事で行ったから安全なで快適なホテルを用意してくれたし、
移動もお世話になった会社が用意してくれたコーディネーターさんがいたから行けたのであって、
一人なら難しいだろうな…。
ちょっと物を買う度に「高いな…」って思ってたし。
大金払ったって経費にもならんし、移動時間だって勿体無いから外に出たくないってまず思ってしまう。
行きたい場所もない。
でも、気持ちが軽くて、お財布の紐も緩くなったら行ってみたいな…
いろんな縁があって参加したとある田舎の地域おこし団体で、イラストレーターを使って簡単なチラシを作る役割をやってたんだけど、もう続けるのがキツくなってきたため、脱退することにした。
自分が地域おこしというものを考えるにあたって重要視しているのはやっぱり「産業振興」で、その中のひとつに「観光」があるという構図ならまだいいんだけど、今の団体は産業振興もなくはないものの、それよりもまず観光だ、といわんばかりに「観光」を第一に推すかたちになりつつある、というのが理由のひとつ。
ものすごく目立って金になる観光資源があるわけではないし、年間を通して観光に力を入れられるヒューマンリソースがあるわけでもない。だから当然関係者は手弁当なんだけど、年配の人からするとやっぱり「(関係者も含め)観光資源があってみんなワイワイしている」という事実があるだけでもう「地域おこし達成!」みたいな満足感が得られちゃうというのがあるんだよなーと。
最近ようやく収益も上げられるようになってきて、少ない金額ではあるものの関係者に報酬を渡すことができるようにはなっているんだけど、役員に「お祭り大好き」な人たちが居るおかげで「別に報酬いらないだろ、お祭りなんだし」みたいなところに持っていきがちで、ビジネスとして成り立たないのも一因として濃い。
観光でもなんでも、持続可能なシステムを作って、運営してこそ初めて「産業振興」だし「地域おこし」ではないかと思うんだけど、ひとたびビジネスにしようとするとものすごくケチな話が多くなってきて、チラシ作ってるだけの自分みたいな末端の人間も辟易するぐらいのものが醸し出されるようになりつつある。
年配の人たちにとってはセカンドライフなんだろうけど、自分みたいな若輩者にとってはキャリアの真っ最中というところにも認識のズレがあるんだよなあ。
今のところ「パワポでならチラシ程度作れないことはない」レベルの人は居るっぽいので、自分が抜けても「チラシのクオリティが10から1まで下がる」程度の影響力しかないだろうし、そういう意味では後腐れなく抜けられるポジションで良かったと思う反面、少なからず「地域のためになるなら・・・」という動機で、無報酬の役割にn年間従事してきて、その思い半ばで辞めようと思うに至ってしまったというのも、それはそれで悲しいものがなくはない。
無償でやることの難しさを改めて噛みしめる次第。
かれこれ十数年、東京、大阪、名古屋と、一緒にコンサートに行っている。
ご存知の通り、嵐は活動を休止する。
コンサートの第四希望の「いつでもどこで」に初めてチェックを入れたら、
「遠征」ってやつだ。
それで初めての札幌に降り立ったのだけど、
どこに行っても嵐ファンだらけ。
すごく行きたかった訳じゃないけど、
せっかくだからと、観光をした「羊ケ丘公園」「白い恋人パーク」とか嵐ファンだらけ。
私達は嵐のバッグを持ってなかったけど、
居酒屋の人に「嵐ですか?」とか聞かれて笑った。
一体どれだけの経済効果があるんだろうって思った。
平日なのに行列のラーメン屋さんとか、どう思ってるんだろう?とか思った。
嵐ファンで迷惑してるって言うSNSのカキコミは見た事あるけど、
嵐のおかげで、売り上げが立てれて、
ウハウハしてる人の話とか聞きたい。
それなりに潤うなら、
嵐休止後はどうなるんだろうなー?とか思った。
札幌ドーム周辺のお店とか。
あのイトーヨーカドーとか。
米百俵の話は大変有名な話ですよね。
私は、新潟市に4年前から住んでいる県外出身の者ですが、新潟県の県民性は温度差が大きいです。
「上越新幹線冷遇問題」を書かれた方のブログを読めばわかることです。
長岡・魚沼地域や上越・糸魚川地域の市民性…謙虚、現実的・堅実的、歴史を非常に大切にできる、浪費ではなくコスパを大切にする。
新潟市…強欲で傲慢、歴史を大切にできない。すべてが中途半端、「BRT」など新しいものや物珍しいものにすぐに飛びつき、次々とつくっては、失敗することの繰り返しで、反省するということを知らない。金銭感覚が無頓着で、あるだけ浪費する。
政令指定都市移行後、この身の丈以上のモノを求める風潮はさらに強いものとなりました。
熊本市や岡山市も後発政令市ですが、身の丈以上のことをやろうという強欲はありません。
「政令指定都市」という称号を与えてはいけなかった街、それが「新潟市」です。
私は、長岡や上越には何度でも行きたいし、応援したいし、ふるさと納税もしたいですが、新潟市だけは二度と住みたくないし応援も観光にも行きたくありません。
https://wezz-y.com/archives/70347
これを肴にちょっと思ったことをまとめようとしてぐだぐだになった。
基本的に、レズビアンに限らず、何らかのマイノリティはおおまかに以下のような流れで変遷していくと理解している。
この段階は、視聴者として言えばそもそもそのそのマイノリティの存在をそもそも知らない段階で、制作する側も(マイノリティを狙っているコンテンツならまだしも)マジョリティを狙う以上、同様に無視している状態。
例えば「オタク」を例にすれば昔の日本のドラマには全然登場しなかったし、「女性の社会進出」を例にしてもそういうネタは全然登場しない。
マジョリティ向けのコンテンツはマジョリティが理解できる範囲の世界しか描かないからこそマジョリティ向けなのである。
もちろんマジョリティに存在を無視され続けていたら流石に声を上げるようになるわけで、少しずつマジョリティの目には「新しい存在」が出てくる。
そうすると、今度はそういう「新しい存在」をバラエティ的に、面白おかしく消費する段階に突入する。
例えば「オタク」で言えば暗い部屋でニヤニヤしながらピザ食ってるようなのばっかり出てくるし、働く女性だって眼鏡かけてキツいだけの「テンプレートとしてのマイノリティ」がエンターテイメントに登場してくるようになる。
この段階では、視聴者はそのマイノリティを一つの(自分とは違う)属性として消費しているだけであって、別に理解を示したいわけでも何でもない。
ここで「オタクってのは本当はもっと多様だ」とか「働く女性の形はそんなんばっかりじゃない」とか騒いでも「いや別にドラマ見るときくらいそういう面倒くさいこと考えたくないしそもそも本筋じゃないよね?」というのが視聴者の感想だろう。
こうしてステレオタイプとして消費していくうちに、「これまで脇役としてテンプレートの形でしか登場してこなかったマイノリティの人たちを主役にした(ちょっと社会派ぶった、だけど受け入れやすい)コンテンツ」が登場してくるようになる。
オタクであれば「電車男」であったり、女性の社会進出であれば「働きマン」であったりと、スタート地点は上述のステレオタイプでありながら、そこに至った経緯やその人の半生にフォーカスをあることで、「マイノリティの人たちも頑張ってるんだね!」とマジョリティの人たちが暖かく見守ることができるコンテンツが登場するのである。
ここでようやく、視聴者は「記号化されていないマイノリティの人たち」を発見し、彼らについて一定の理解を示すようになっていく。
ただし、この段階はになっても「マジョリティがマイノリティの世界を覗く」という意味では観光やサーカスに近く、一種のファンタジーとして消費しているとも言える。
当たり前だが、マイノリティを主役にしたコンテンツはそれが希少だから面白いのであって、例えば「オタクを主人公にしたドラマが受けたから次から毎年一本はオタクを主人公にしよう」とはならない。
(なったとしても本当に一過性で終わっていく)
結果的に、視聴者の認識はファンタジーとして消費された時代からアップデートされないので、その頃のイメージのままで留まっている。
例えば、「電車男」以後しばらくの間はオタクの内面はウブでコミュ障のままだったし、「働きマン」以後長い間自らの身を粉にして働く女性が多数登場した。
かつてのように「偏見に満ちたまま適当にイロモノとして扱う」ことからは脱却したものの、描写の仕方がアップデートされないままなので、結局張られたレッテルが変わっただけに過ぎない。
そのうち、そういう「ちょっと特殊な扱い」で描写するのもだんだん飽きてきて、最終的に「普通にその辺にいる」扱いになる。
今のドラマに出てくるオタクは「何かに詳しいキャラ」をオタクと呼ぶだけに過ぎなくなり、内面の屈折したオタクだって多数登場するようになった。
ともすれば前時代のステレオタイプに戻ったように見えて、その実、かなり複雑化していると言える。
簡単に言うと、この雑に扱われる段階になってようやく「市民権を得た」状態となる。
ということで、上記の流れを踏まえて眺めてみると、レズビアンはまだまだ後進的に思える。
世界的にはアナと雪の女王に代表されるような、わかりにくい描写も増えてきて、少しずつ、多様性を獲得しているようには見えるのだが、日本に目を向けると、未だにレズビアンが主役のドラマは少ないように感じる。
(あったとしてもポルノ的な消費をされていて少し本流と違うというか)
それに対して日本ではゲイは「主役を張れる」レベルにまで一般化されつつあるのを感じる。
少し前までゲイは主人公(イケメン)のケツを狙うか、ナヨナヨしてるオカマかの二択だったのが、ようやく主役として一人の人間として描かれるようになったのだろう。
友人がおそらく強迫性障害だ。
①待ち合わせに5分〜20分絶対に遅刻してくる。理由を聞くと、確実に間に合う時間に起きているのに「あれが足りないかも、これが必要かも」と考えすぎて、いつも遅刻してしまうそう。
②潔癖症である。複数人で鍋などを食べる時は、絶対に取り箸で装わないといけない(直箸が無理)。自分は汚ないと思っているので、自分の後に風呂場を使って欲しくない(誰かの後に風呂場を使うことはできる)。
③全てのことに固執性が高い。〇〇を絶対に使わないと決めたら、どんなに意味がなくても絶対に曲げない。どんなに暑くてもエアコンを使わないとか。旅行なとで事前に決めた予定が少しでも狂うと、途端に全部投げやりになる。
以前は近所に住んでいて目的意識を持たない遊び方をしていたので、多少はイライラしたが一緒にいても平気だった。
潔癖症に関してはこちらが少し気を使えばいい程度だし、友人が遅刻してくることを見越して自分も待ち合わせに少し遅れて行くなどしていた(毎回20分も待っているとイライラするので)。
今は離れたところにいるので、友人と会う時は互いの居住地に観光込みで遊びに行くか、ともに旅行に行く時である。観光や旅行などの1日に複数の目的がある遊び方だと、予定が狂うと途端に投げやりになってしまうので本当に困るし、とても気を使うので一緒にいてしんどくなる。
とても気の合う友人で、いろんな所を一緒に巡ると楽しいので、日中は別行動で夜の食事と泊まるところだけ一緒というのは悲しいんだけど、もうそういう付き合い方をするしかないのかな…。
報道や各種メディア、個人が様々な媒体で伝えているこのイベントに対して、私個人のごく私的な見解など、どうしようもない話の一部になるのだろうけれど、今年の事を書いてみる。
この条例は報道以上に効果があったと実際に現地にいると感じる。しかしこの条例は単に仮装者が羽目を外しすぎないようにするという印象とは異なり、数年来発生していたある問題を解決できたことが大きい。それは①酒の無許可販売②警備がなくなる深夜~早朝帯の乱痴気騒ぎ問題であった。
① 酒の無許可販売は2016年頃から見られるようになる。2018年のハロウィン当日には20名ほどの人が、テキーラやウオッカなどを販売していた。個人が勝手に販売する方が多いが、飲食店に雇われた売り子も、年齢など見境なく度数の高い酒を販売するのはよろしくなく、またルールなしの状況下では、酒の品質低下はもちろん、密造酒販売の可能性も発生する恐れがあるので、2019年に歯止めがかかったのはとても良かったことだった。
しかし2019年10月30日でも数名、31日当日では確認しただけで少なくとも5名が販売していた。仕入れたビールサーバーを背負い、仮装で隠した売り子は、マスコミのカメラの前で「規制の事実は知らなかった」と笑顔でのたまうずぶとさで、このような場でどうしても鬻ぎたい山師と企業は今後も出てくるだろう。
② 警備している警察官や警備員も人間なので、夕方から翌朝まで全力で雑踏警備を行うのは不可能である。大多数の方が帰宅した終電以降は警備人員もほぼ撤収するので、その時間帯に騒ぐ人々に酒を与えないという目的があった。2018年の軽トラックを横転させる事件は、深夜2時~3時に発生し、動画をよくよく見ると、トラックの周りで騒いでいる人は、誰も仮装をしていないという事が確認できる。毎年ネット上に上がる喧嘩の動画もそうだが、現地に行ったことのある人は「その喧嘩が起きている場所は、ハロウィンが発生している時間帯は人がすし詰めで、殴り合うだけのスペースはなく、これは人が少ない深夜に発生している」と直感として把握できるのだが、ネットや報道だけで情報を得て想像を膨らませている人々にとっては、四六時中喧嘩と乱痴気騒ぎが起きていると解釈になっている。
警察は「将棋倒し」への対策に苦心している。過去何人の人が圧死しているこの現象は、起伏が少ない渋谷の底である宇田川の上に集まった人々にも起こることで、仮に発生した場合は目も当てられない大惨事になる。2016年にホコ天を設置したのも、これが理由である。今年の警備は警察官と警備員が協力して、センター街に集まった人が撮影や雑談で滞留しないように、しつこく動くように声をかけ続けたことが大きな変化であった。結果は当日の19時までの人手であればこの方法が有効に機能していた(対応する人員の疲労は目に見えて明らかだったが)。当日に渋谷に集まる人々はすさまじく、19時には路上の収容人員がパンクしてしまい、そこから全てのホコ天が開く21時までは非常に苦痛な状況であった。
実は渋谷区としては、昨年の騒ぎがなければホコ天の先や、別にサテライト会場を用意し、混雑の分散や、「共感」という目的のために来た人々の一部マインドを消費に回すことを少しながらも実行に移せていた状況であったが、上記3点の安全のためと、マスコミのネガティブ方向への報道癖がついている状況下で、前進する対応が取れなかったのは彼らにとっても残念なことであっただろう。
ゴミ問題について毎年思うことを今回書こうと思う。今回はコンビニと名指しするが、自動販売機を除き、他にめぼしい外に持ち出せる飲料や食事を販売する店舗が見当たらないのにも関わらず、自店舗で出したゴミを回収させる為のゴミ箱を設置しない上に、
店舗の目の前で飲食した客が路上に落としたゴミを、「街が汚れたのはマナーのせい」で、
後始末を行政とボランティアに全て丸投げする納得できない状況が毎年続いている。
明け方でなく、ハロウィンのコアタイムにセンター街のコンビニの前で、コンビニから出たゴミを拾う警備員と、それを眺めるコンビニ従業員の様子をネットに上げてもいいぐらいである。普段から責任を全て若者と行政のせいにしている姿勢の店が一定数あるからの行動なのだろう。新しく出店しているケバブ屋やタピオカ屋にはあり、関係ないのにわざわざゴミ箱を出す店もあるので、そういう店の姿勢に客も合わせてやっているんだなと感じる。
今年の特徴は「ダイバーシティ」である。昨年は日本のあらゆる立場の人々が集まるヤミ鍋状態と表現したが、今年はその鍋にラグビーW杯の観戦に来た欧米の観光客が大量に押し寄せた、日本文化にリスペクトしてわざわざ来日したわけでない欧米文化圏の人、更に増え続けるアジア系技能実習生と、中国の大型連休が重なり、当日でも3割~4割は外国人の様相で、欧米文化における「ハロウィン」なる文化と日本の「はろうぃん」、アジア圏の方々が更に解釈した「ハロウィンのようなもの」の3つ巴の衝突が起きた。記号に頼らない私の考えるハロウィンの仮装だらけである。
ギャラリーも酒が入っていないので、それでも人が多いが、仮装した人同士で盛り上がる場に割り込んで、観光欲を満たす行為は多少減ったように見られる。
コスプレは、衣装やメイクを作りこみ、撮影による仕上げにより、世界観を作り上げる一連の行為とした場合、仮装は世俗における一瞬のなりきり、又は社会を風刺していく行為で、その出自がかなり違う点を理解したい。
参加した人々を傍観する人々
カラーギャングの時代から街の浄化作戦を街頭で行ってきた商店街からすれば、深夜に“ボボボ”とやってくるヤンキーは「またかよ」という気持ちだろうし、当時精力的に活動していた方々の年齢問題もあるだろうから、マスコミに叫ぶ気持ちはわかる。ヤンキーも、地域社会に受け入れられず、持っている力と金を余らせている上に、承認欲求が人一倍強いので、入り込める余地があれば求められなくてもやってくる。しかしヤンキー同士のコミュニティが強固な為、仲間を差し置いて仮装している集団に入れないし、クラブに行って踊ることもできないジレンマがある。さっさとコミュニティ変えろとしか言えない。パンチラスポットでパンチラを見ているような、下半身の欲求で来ている輩と存在感がどっこいなのに気づいていない。
ネットや報道で分かったフリをしている人々も厄介である。2018年に渋谷区へ来た抗議数百件の内、ほとんどが区民でない人の抗議であったという報道が示すように、自分の知らないところで楽しそうにやっている人を嫉妬する傍観者も多くいる、ニューヨークやロンドンと同列にして問題を語っているような国際的な街と、あなたが住んでいる町が同じでないのは当たり前で、そこで起きているイレギュラーな問題を必死に解決している人と、その大小様々な果実を受け取っている人をあざ笑っても、仕方がない。芸能界の恋愛事情に一喜一憂するぐらい不毛な事柄である。
現地にいると、さも当然のように、さまざまな人種・民族が、さまざまな年齢・性別が、
さまざまな社会的背景を持つ人が、それぞれの文化背景を元に、又はそれらから開放されるための仮装をしている。
資本主義が求めるダイバーシティである、(金をより稼ぐために)優秀な様々な立場の人が活躍(生産)できる都市ではないかもしれないが、実はその概念が最も実現できている環境がいまの渋谷ハロウィンにあるのは非常に面白いことである。都市は、生き物のように変化していき、日本の首都である東京でさえ、不意に訪れた雑踏の流れ、物事の速さに追いつけず、傍観者を大量に生み出しているのはとても味わい深い。