はてなキーワード: 社会学者とは
「1」と「2」のあいだにカードを挿入したい場合は、「1/1」「1/2」「1/3」といった具合に識別子をつけます
はてブトップに来ているこの記事のなかで紹介されてる番号付け方法。
会社で扱ってる資料でもこの方法で管理しているところがちょこちょこあって、ほとんどの場合うまくいっている。
だが、ごくまれに「1」と「2」の間に「1/1」を追加した後、「1」と「1/1」の間にさらに追加したい場合が発生する(性質上「1/1」の後ろに追加できない)。
こういう場合にどうしたらいいのかがいつも悩んでる。
https://www.moneypost.jp/230962
落合陽一、ハラリは「夢想的で危険」東浩紀が斬る“シンギュラリティ”論に潜む“選民思想”
https://bunshun.jp/articles/-/53514
主著「デジタルネイチャー」でエリートとベーシックインカム+AIで幸福を与えられた一般市民は分かれるべきと主張
落合陽一さん「社会学者という肩書きの『クソ大学院生』にディスられる事態が発生」とブチギレ
https://togetter.com/li/1649414
落合陽一といえばカレー飲んでる、風呂入ってない、寝てない、ずっと会議・研究してるアピールなどの「俺は手を動かしているアピール」で有名だが、つまるところ
彼自身が選民(エリート)たる根拠を常にSNS上で発信し続けていることに他ならない。
第九条の発案者であり時の総理大臣・幣原喜重郎のことを知らない日本人があまりにも多すぎる
彼がどのような考えで第九条を思いつくに至ったのか、それを議論せずにして憲法の議論なんかできるはずがない
なぜ政治家も、評論家も、社会学者も、そして我々国民も、九条を作った当人の言葉を話題に挙げないのか
彼の考えのどこが悪くて、どこに不満があって、現代社会に通用するのかしないのか、なぜ誰も語らない?
少しでも多くの人に、我々と同じ日本人が考案した第九条を、この埋もれてしまった歴史的憲法の成り立ちについて知ってほしい
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ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー
最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。
しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。
非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。
要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。
日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦斗的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依て再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である。
ほんこれな。
実在しない絵やVtuverには執拗に粘着して謝罪、撤回まで持って行ったりたたき続けてるのに、リアルに実害の発生している園や芸能界は燃やさない。
社会学者、弁護士からの言及は?議員のいるフェミ連盟から調査依頼は? UNwomenからの指導は? 園作品の不買は?関連企業への電凸は?マスコミやブログの記事は?#metoo のような SNS での連帯は?
係争中だから?そんなの関係なく二次は燃やしてきただろう?真実を明らかにするために圧をかければいいだろう?芸能界の闇を暴いて現実に苦しんでいる女性を助けるチャンスだぞ?
これについては誰も議論しようとしないはそりゃそうよ本当なら擁護しようないし、明らかにしなければならないものだもん。そうではなくて、ほかを燃やしてキャンセルするぐらいなら、まず最初に本来のフェミド本命のこの界隈に炎上するまで抗議してあるべき姿にする活動をちゃんとしてこいよという話。
それをせずにオタクキモイ、性的搾取がなんてとんちんかんなことばっかしてるからツイフェミは自分のお気持ちだけでしか動かずオタク叩きたいだけっていわれんだよ。
学者や議員は金持ってるとこ叩いて、コネなくなったら困るもんな。これ炎上させたら本物のヒーローなのにリスク高くて燃やせないもんな。ファンネルはエライ人が叩いてないしすっきりできないから興味もないもんな。
エフ博士は科学者だったが、社会のことに無関心というわけではなかった。やがて一台のコンピューターを作り、それを使って憎悪決定業という商売をはじめた。
高度に分断されエコーチェンバー化が進んだ現代は、憎悪する対象を持っていないと、なんとなく気がひける時代だ。なぜこうなってしまったのかはわからないが、現実にそうなっているのだから仕方ない。
そのため、だれもかれも、憎悪する対象を持たなければとあせる。なかには、別に嫌いでもないことを、性格にあわなくてもおかまいなしに憎み始める人もでてくる。
エフ博士は、それをなんとかしようと思ったのだ。機械学習を使って、その人にぴったりの憎悪を、きめてあげようという仕事だ。
そのコンピューターはかなり大きく、RTX 3090 Tiを何枚も搭載している。チューリングテストをパスする程度の会話能力がある。精細なアバターで会話するビデオ入出力I/Fも付いている。金属製の外側は銀色をしていた。愛称はエルマという。エレクトロ・メカニカルなんとかという長い語の略なのだそうだ。
お客は毎日、ひっきりなしにZOOM面談を申し込んでくる。みな不安そうな表情だ。
「あの、ぼく、憎むものがなんにもないので、困っているんです。来年就活なんですが、一次面談の時に嫌いなものを質問されたらと、心配でなりません。『憎悪を持たない人間は自我を持たないも同然だ』と言われて不合格になり、みじめな一生をすごすことになるのかもしれないと思うと……」
「まあまあ、そう深刻に悩むことは、ありませんよ。たとえ深刻な問題だったとしても、エルマに指示してもらえば、すぐにさっぱりし元気になれます」
まずエフ博士は、お客に個人情報入力フォームのURLを渡しそれに記入させる。性別、年齢、学歴、SNSアカウント。つとめている人なら、勤務先の職種、収入、家庭状況、健康などについてだ。これらは憎悪決定の要素となる。
それから、エフ博士はエルマをZOOMに呼び出す。お客の青年が聞く。
「これから、なにがはじまるのです。どうやればいいのですか」
「このエルマが各種のことを話しかけてきます。あなたは、マイクとカメラにむかって、それに答えればいいのです。簡単なことですから、気軽にどうぞ」
コンピューターのエルマは、いろいろなことを質問してくる。また、連想テストなども行われる。お客は質問に答える。答えるまでの時間も測定される。
かくして、最後に指示が一枚のPDFとなって出てくる。それには、その本人に最もふさわしい憎悪の対象が記されているのだ。また、有料noteのリストとか、オンラインサロンのURLとかいったものも付記されている。
お客は喜び、エフ博士に料金を払ってZOOM面談を終了する。性格にぴったりの憎悪なのだから、内面化も早い。これが最適との保証つきだから、途中で自分の感情に疑問を持ってくじけてしまうこともない。
また、当人の神経の強さを考慮した上での決定だから、憎悪しすぎても人の道を踏み外したりはしない。発信者情報開示請求と損害賠償請求を受けて、貯金を失う程度で済む。
時には、頭のいい社会学者がエフ博士にDMを送り、そっと頼み込む。
「いかがでしょう、先生。我々はこんど、社会がいかに不平等かを過剰に強調した論文を公開することになりました。このことを、エルマに教えておいて下さいませんか」
「いいでしょう。それにふさわしい性格の人がいたら、その論文を読み込んでおくように指示が出るでしょう」
「いえ、じつは、エルマにちょっと手を加え、この論文をバズらせていただきたいのですよ。もちろん、お礼のほうは……」
とAmazonギフト券をちらつかせるが、エフ博士は受け取らない。そんなことをし、DMのスクリーンショットが外部にもれたら、信用にかかわる。また、こんな金をもらわなくても、けっこう繁盛しているのだ。
「わたしはいままで商売ばかりにはげみ、自分の時間を持てなかった。だが、これからは生活を楽しむことにしよう。何を憎めばいいものか、エルマに教えてもらうことにするか」
博士はお客のあいまを利用し、エルマに調べてもらった。データがそろい、最後にPDFが出力された。
見ると〈暇〉とある。
「妙な憎悪対象だな。しかしエルマのきめたことだ。間違いはないはずだ」
そして、暇をつぶすものなら目の前にある。仕事に励めばいいのだ。このようにして、エフ博士の憎悪決定業はさらに忙しくなっていった。営業を拡張しなければならなくなった。
博士はコンピューターを、もう一台作った。その時、ある実験を思いついた。いったい、エルマそのものは何を憎んでいるのだろう。新しい一台を作って、それを調べてみようと考えたのだ。
やってみると、やがてPDFが出てきた。それには〈人間社会〉と記されてあった。博士はうなずいたが、ちょっと妙な気分にもなった。
そうじゃなくて
「世間一般で使われている言葉を学者がその都度定義している」のであるならば
つまり世間一般で使われている学術的ではない言葉だというのが第一義であり、社会学者が研究する時だけは限定的に定義を与えることもあるけれども、基本的には学者でない人々が学者の定義とまったく関係なしに使っている自然発生したミームにすぎないってことじゃん
はてなーのお陰で色んなジェンダー横文字用語を覚えたけど、よく考えたら学問・学術の専門用語としておかしくね?って気がしてきた。
100歩譲って「これこれこういう状況をこう呼びますよ」、ならいいんだけど、自分が目にするのは批判したら反論されて「トーンポリシングやめてください」「それはマンスプレイニングだ」「これ以上はシーライオニング」みたいな議論の逃げ口上としての使い方ばっかじゃねーか。こんな使い方される学術用語、他の学問じゃ聞いたこと無いんだけど。
議論や対話自体を非難するために学術用語使って拒否するようなのが、本当に学問なのか?それともそういう使い方をしてる社会学者や研究者が特異なだけなのか?
たわわ批判派の論点が動き続けてて訳が分からない。ので整理した。
発端は日経の当該広告ではなく、ナタリーが伝えた編集部コメントという認識。
【炎上】日本経済新聞の広告がジェンダークレーマー被害に遭ってしまう - Togetter
今回の新聞広告について、ヤングマガジン編集部は「4月4日は今年の新入社員が最初に迎える月曜日です。不安を吹き飛ばし、元気になってもらうために全面広告を出しました」と語っている。
批判の理路は各人で異なるものの、概ね「元気になってもらうため」を「現実の女子高生を見て元気になって」と解釈したフェミニスト(※)が広告を掲載した日経を批判しているものが多かったように見える。
性的消費とか性的搾取とかの用語を使いながら、この広告を掲載することは即ち日経新聞による「現実の女子高生を見て元気になって」というメッセージの是認であるという主張に収斂していく様子が(主観的には)観測された。
※ 「善良なネットユーザ」でも「ジェンダークレーマー」でも好きなように適当に読み替えてください
そんなななか、ハフポストが専門家"治部れんげ"准教授を引き連れ以下のように問題点を整理してくれた。
「月曜日のたわわ」全面広告を日経新聞が掲載。専門家が指摘する3つの問題点とは? | ハフポスト NEWS
第一に「『見たくない表現に触れない権利』をメディアが守れなかったこと」が問題だと主張したが、法学クラスタからの猛反発を受けて治部れんげ准教授は「私の主張のメインは法律ではありません。コメント引用で見たくないものに触れない「権利」と書いてあるので、法律論だと思った方もいるようですが。」と実質的に取り下げた。
法学部出身の治部れんげ准教授が第一の問題点として挙げたが、法律よりむしろマナーとかそういうものに近い話だったらしい。
”見たくない表現に触れない権利”は存在しない。すでに司法で否定されていた。平裕介弁護士の解説。 - Togetter
2つ目の問題は、広告掲載によって「異性愛者の男性が未成年の少女を性的な対象として搾取する」という「ステレオタイプ」(世間的固定概念)を肯定し、新聞社が「社会的なお墨付きを与えた」と見られること
広告そのものが問題なのか、本編の内容や編集部のコメントも併せて初めて問題になるのか、など不明点はあるものの、「新聞社である」日経が広告を掲載したことが問題という主張だ。
3つ目の問題点は、これまで「メディアと広告によってジェンダー平等を推進し有害なステレオタイプを撤廃するための世界的な取り組み」を国際機関とともに展開してきた日経新聞が、自ら「ジェンダーのステレオタイプを強化する」という矛盾に陥ってしまったこと
この記事では記載されていないが、治部れんげ准教授はUN Women 日本事務所が推進する「アンステレオタイプアライアンス」のアドバイザーである。
そのアドバイザーが「「3つのP」という[...]基準に照らすと、[...]女子高生の『人格や主体性』は考慮されていません」と指摘」している。
「3つのP」という基準を守れていないことが問題だと明確に主張している。
治部れんげ准教授がやや燃えたあと、同じくハフポストがUN Women本部が日経に抗議したことを報じた。
国連女性機関が『月曜日のたわわ』全面広告に抗議。「外の世界からの目を意識して」と日本事務所長 | ハフポスト NEWS
UN Women 日本事務所の石川雅恵所長にインタビューを行い、UN Womenの問題点の認識を聞いている。
UN Women 日本事務所の石川雅恵所長は、今回の全面広告が、「アンステレオタイプアライアンス」の加盟規約などに反すると指摘する。
「今回の広告は、男性にとっての『女子高生にこうしてほしい』という見方しか反映しておらず、女子高生には『性的な魅力で男性を応援する』という人格しか与えられていません。私たちが重視してきた『3つのP』の原則は守られていないのです」
日経新聞が違反しているとされる「加盟規約など」の具体的事項は明らかにされていないが、ここでも「『3つのP』の原則は守られていない」ことが問題とされているように読める。
その上で日経新聞に「「3つのP」に反する広告を掲載したことも問題視し、同社の新聞広告の掲載基準の見直しを」要求したという。
『月曜日のたわわ広告は「アンステレオタイプ3つのP」に反したのか』2022-04-16|ヒトシンカ ( 『シンカ論マガジン』『センサイクロペディア』 )|note
社会常識としての日経「たわわ」問題(追記済 - tikani_nemuru_M’s blog
tikani_nemuru_Mさんへの返信 - hepta-lambda’s blog
違反しているから問題だと指摘されているが、違反していないかチェックするための基準ではないのでは?という議論。
基準の内容からしても、過去のインタビューからしても「3つのP」は達成できると望ましい、達成に向けて努力しましょうという位置づけという解釈が自然と考えられる。
もしネガティブチェックとしたら他の広告とたわわとの比較となり、たわわに恣意的な適用がされていないかという別の問題があるだろう。
UN Womenが抗議した報道を受けて、複数の政治家を始め表現の自由の侵害を懸念する声が上がった。
国連女性機関による「月曜日のたわわ」全面広告への抗議表明について|赤松健|note
これに対し、日経がアンステレオタイプアライアンス設立メンバであり、設立メンバとして個別に交わしていた覚書に違反したことをUN Womenが問題にしているのだから政治家が抗議するのは筋が違うという反論がある。
フェーズ1では社会の公器たる新聞社が広告掲載したことが問題になっていたが、ここに至ってはアンステレオタイプアライアンスに加盟していない新聞社であれば問題は無いことになる。
「3つのP」とか「ステレオタイプ」とか言われるけど、そもそも、あの絵のどこがダメなのか誰も具体的に指摘しているところを見たことがない。
著名な社会学者の小宮友根 教授がまとめた「性的客体化の表現技法」のどれにも合致していないように見える。
炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか(小宮 友根,ふくろ) | 現代ビジネス | 講談社(1/9)
UN Womenは「「3つのP」に反する広告を掲載したことも問題視し、同社の新聞広告の掲載基準の見直し」を要求しているが、今回のたわわ広告を弾ける現実的な基準が全く想像できない。
主にジェンダー関連でネット社会学者が炎上しがちで、社会学そのものは割と好きで個人的に読んでいる自分には残念だけど、炎上しがちな理由も否定できない。それは、彼らの多くが文学部出身なことである。
つまり日本の社会学者は、政治、経済、法律、福祉などの社会科学の勉強をほとんどしないまま、博士号をとって大学の先生になっている。歴史学者や文学者はそれでも問題ないが、社会学者の場合はその性質上、政治、経済、法律、福祉の問題に言及しなければいけない機会が多い。社会学会の中にいる時は、素人勉強でもボロが出ずに済んだが、外に向かって情報発信すると必然的に他の専門家から雨あられのツッコミを受けることになる。
一例として、コロナ禍の給付金の時に、「給付が世帯単位になっているのは安倍自民党の家族主義的な価値観のため」という説を大真面目に語っている社会学者がいてびっくりしたことがある。時の政権のイデオロギーで一国単位の制度が左右されるほど、政治と行政は単純素朴にできていないことは、政治や行政の専門家なら常識だが、社会学の中にいるとこれが分からなくなるらしい。他にもコロナ禍で左派系の陰謀論(「検査数を意図的に抑制して感染者数を少なく見せかけている」など)にはまっている社会学者が何人も見られたが、これも政治や行政の複雑さが全く見えていないためである。自分が尊敬する社会学者はそうではないが、一般的な傾向としては確実にあると思う。
先日見田宗介が亡くなり、学問と文学を架橋したと賞賛されていた。それは否定するつもりは全くないけど、政治や法律をまともに勉強していない自覚のないまま社会評論を平然と行う社会学者を量産してしまった、という負の遺産も忘れてはならないだろう。