はてなキーワード: 猟奇とは
かなり前の話なのでうろ覚えだ。
埜川さんを含め、いつものメンツ数人で飲んでいた。昔テレビ放映された、猟奇犯罪洋画の話になった。
そこに至る最初のきっかけは思い出せない。さかのぼれるところまでさかのぼると、牛タンの話だったと思う。ただ、埜川さんと焼肉屋に行ったことはないので、どこからその話になったかは分からない。
食材として置かれたスライスされる前の牛タンのかたまりをみて、その映画みたいだと話しかけたら「グロい画を思い出させやがって、食えなくなるところじゃないかこの野郎!」と怒られたというエピソードだ。
怒られたのは埜川さんだったと思うが定かではない。何しろ、埜川さんは身近な出来事や見た映画や読んだ小説のことを面白おかしくあるいは鋭い切り口で話してくれるキャラクターだったのだ。もしかしたら怒ったのが奥さんで、怒られたのが職場の上司だったかもしれない。
流れで、その映画の話になった。
「ただ?」
「名前もないようなチョイ役として出てきたやつが、意外にも真犯人だった、と判明して・・・という筋書きなんだけど」
誰でも知ってるような大御所の名を挙げて、その声を当ててたのよ、と埜川さん。
「こいつただの通りすがりの脇役じゃない、ってバレバレ。サプライズ展開がぶち壊しなの。それがね・・・」
何年も会っていない埜川さんのことを思い出したのは、配信サービスでその映画を見つけたからだ。
どれが真犯人なのか、無意識にモブを判定していた。こいつか?こいつは違う。こいつか?・・・と。
・・・なるほど。
こいつか。
「最初に何げない様子で姿を見せて実は」という展開を知っているだけで、吹き替えの声を聴かなくてもわかってしまった。
真犯人が判明してからの方がむしろ本題ともいうべきストーリーだったので、広い意味ではネタバレだったが、スポイルされることもなく満足だった。
名作と呼ばれるだけのことはあった。
エロ表現規制の話になると、それが犯罪を助長するかどうかっていうのが争点になりやすいけど、十一歳ぐらいからネットに触れ始めた元少女の私としては、エロ表現自体に傷つくんですよということを言いたい。
エロに慣れてる人は(今の私もそうだけど)気づきにくいよね。あれ、無垢な子への衝撃としては猟奇グロと同じだよ。
グロがなぜ一般的に受け入れられないかというと、なんか残酷で痛そうで怖い、っていうのがだいたいの人の感覚だと思うのね。
もちろんグロ愛好家はいるしそれは全く悪いことではない。何故なら彼らは基本的にはそれを誰でも見られるところにばら撒かないから。
ツイッターとかで突然グロ絵にいきあたってビクッとする、って経験はしたことがない。
でもエロは何故か大手を振ってあちこちに進出するし「むしろ性欲をこれで解消できるんだから犯罪を抑止してる!」とか言い出すんだよな。
「このエロ絵に描かれてるのはあくまで絵の美少女でお前じゃないのにどこがセクハラなの?」とか言う人は、「この四肢切断されてるのはあくまで架空の人なのになんでお前が怖がるの?」って言うんですか?
ホラー映画猟奇映画で怖がってる人に「ナイフで切られてるのはお前じゃないのに『痛そう』ってww」って言う? だいぶ無神経だな。
エロ絵の場合、エロいめにあってる属性が女の子で自分は安全圏にいるって確信できるから嫌じゃないだけだと思う。
私が小さい頃にネットでエロ絵を見てしまったときは、とにかく凄い衝撃を受けて、強い悪意を感じた。
今思えば別に描いた人に悪意はなかったと思うけど、なんだろう、なんか、人間をモノとして見れるんだな、っていう気づきを得たというか。体の部位に対する執着が可視化されてるのが怖かったのかも。「鶏のモモ肉はぷりっとして美味いよね」みたいな。「女の胸はぷりっとしてエロいよね」。
あと女の子の感情が見て取れる場合羞恥とか絶望が多いのも大分キツかった。総じて人格を無視して『肉の塊』にされてる感じ。
露出そのものというよりは意図が嫌なんだな。裸のマネキンには何も思わないし。
成長してからは自分の中で区切りがついて、エロ絵を自分から見に行くこともあるけど、でもやっぱり『エロ見たいとき』『エロ見たくないとき』というのがあって、見たくないときにエロ絵が出てくるのはめちゃくちゃ嫌。
情緒発達中の子どもに見せるものではないし、大人だって見たくないときはある。
ゾーニングはしてください。
子どもやケモノやグロや猟奇にエロを見出す勢がいる以上、「これはエロじゃない」ものは存在し得ないような気はする。
以前盗撮写真のみで構成された写真展の絡みで話題になったんだが、検診で取られた内視鏡写真がエロ画像として羅列されていたサイトがあった。
ガチの医療用検査結果写真なので女体どころか内臓を写したものでしかなくて、被写体の情報はごくわずか(何月何日に取られたもので患者は何歳の女性、みたいな小さい添書き)しかない。膣の検査写真ですらなかったような気がする(大腸内視鏡の写真だったような…)。
でもそれも、あのサイトのターゲットにとっては「エロ画像」だったわけだ。
でもそれも「エロ」なんだ。そんなんも内包してしまうもの、それがエロだ。
ただ、大抵のものは、「エロ」に変換する前に一手間挟む必要があるものとないものに分けられるような気はする。
というより、致している直球の画像とか以外は、妄想の連想によって「致しているまたは致すまでの過程」に結びつけられるわけで、その連想を必要とするものは本来エロくはない(=自動的にエロ目線で見てしまう奴は認知が歪んでいる)と考えることは可能なように思う。
自閉症がスペクトラムであるのと同じように、エロスペクトラムみたいな分布図的なのが作れるような気がするというか。
その理屈でいくと、ミニスカ・ロンスカは(めくれていない状態では)スラックスと同程度にしかエロくはなく、単体の女(体)は単体の男(体)と同程度にしかエロくはない。
「スカートをめくりたい」「女とヤリたい」、そういう欲望がそれらをエロくするのであり、自分にそういう欲望があるということを「スカートが/女がそういう欲望を自分に起こさせる」という風に責任転嫁すると、自分が連想と欲望によってそれらをエロに結びつけているというプロセスが意識されなくなっていく。
で、結果として万物がエロく見えやすくなり、何でもないスカートにエロを感じたり、女にセクハラしたり痴漢したりするようになるわけだ。認知の歪みというやつだな。
俺はウサミちゃん現象ってのが分からずにぐぐったんだがそれでもよく分からなかった。
ただ200ブクマ超のtogetter記事がひっかかって、その記事によって広められた概念のような気がするんだが、肝心の元ツイートはもう消えているからどういう現象のことなのかは分からずじまい。
ウサミちゃんっていうとやっぱりギャグ漫画日和のウサミちゃんしか俺は思いつかないんだが、あれに何か問題ある要素があったとは思えん。
ちなみに中華ソシャゲというのは中国のゲーム会社が日本向けにリリースしているソーシャルゲーム(というが実質はスマホゲームのことだろう)のことだ。増田が伏せている実際の具体的なタイトルは俺にも分からん。
幸子腹パンは、まず幸子というのはアイドルマスターシンデレラガールズという二次元アイドル作品に登場する輿水幸子という14歳の自称カワイイ系アイドルキャラクターのことだ。
腹パンというのは、美少女キャラが二次創作イラストや同人誌などの中で筋骨逞しい男の容赦ないパンチを腹に思いっきり食らう図という、いわゆる「わからせ」的なフェティシズム表現の一種だ。躾け的な意味あいや暴力で屈服させる意味あいがある。場合によってはR-18やグロのような陵辱・猟奇展開につながることもあるし、食らった瞬間の歪んだ顔に痛ましい打撲跡のような一枚絵だけで完結する場合も多い。先述の幸子のようなちょっと調子に乗った自信家キャラがそのような創作の標的になりやすく、面白がる人もいれば不快に感じる人も結構いる、物議を醸す表現だ。ちなみに腹パン系表現といえばで挙がる同人絵師では朝凪という人が飛び抜けて有名だ。
ガイナックス、つまり庵野秀明とかのオタクが宇宙戦艦ヤマト世代だったはず
コミケで女性が森雪とかうる星やつらのラムのコスプレをするようになったのもあの世代の気がする
自分の中でもオタクというのはDAICONフィルムのようなイメージがあった
つまり、エンタープライズ号とか、宇宙の戦士とか、カニみたいな金星人とか、ゴジラやガメラ、ウルトラマン、ダースベイダー、ストームトルーパーとかだった
自分は小学校時代は周囲がジャンプを読む中、ホビージャパンや朝日ソノラマの宇宙船、ファンゴリアを読むのが楽しみだった
そういえば、マイ・ケミカル・ロマンスの「I'm not Okay」のPVはそんな出だしだった気がする
https://www.youtube.com/watch?v=dhZTNgAs4Fc
あー、トラウマが蘇るなあw
あれをチャンスだと宅八郎が考えたのは間違いないと思う
後に暴露されているように、宮崎勤の部屋にあったポルノ雑誌は記者が部屋の奥から探し出して見える位置に置いたものだった
スナッフネタもあるギニーピッグは宮崎勤以外にも多くの人がレンタルビデオで借りるなどして観ていたはずであるが、宮崎勤事件以降同様のケースを聞かない
また、ギニーピッグには多くの比較的知名度のある芸能人や俳優が出演していた
今で言うなら、怪談新耳袋や本当にあった怖い話、世にも奇妙な物語、トリハダなどの類である
そもそも、宮崎勤はそんなにホラーやスプラッターが好きだったわけでもないようだ
テレビでは宮崎勤の部屋にあったウルトラマンの切断技のシーンだけを集めたビデオを取り上げ、ウルトラマンの切断技が猟奇趣味に繋がったと煽り立てた
当時はインターネットなど存在するはずもなく、映像マニアは郵送でVHSのビデオを交換し、ダビングし合っていた
宮崎勤はポルノやウルトラマン、猟奇趣味というより、映像の収集に執着していたようである
つまり、部屋中に敷き詰められたビデオはほとんど観ていなかったとさえ考えられる
全巻そろえることが目的であって、読むことが目的ではないようなものである
ドラマなどの全話収集を目的に執拗にダビングを要求してくるくせに、宮崎からはネタを提供しなかったからである
また、宮崎はコミケに参加していたが、それは当時はワープロもなかったため代行で文字を清書する担当があったからである
ここまで書いてみても、自分の中のオタク像と宮崎勤はあまり被らない
何をオタクと定義するかによるが、鉄道オタクとか広く考えるなら彼は映像収集オタクではあったのだろう
小林よしのりが公開討論を断っているように、宅八郎は売名行為にいつも必死だった気がする
彼はブラウン管の向こうの視聴者が観たいキモいオタクを演じることを考えた
それがマジックハンドや紙袋を持ち、森高千里のフィギュアを持ち歩いては舐め回すオタク像だった
学校では漫画やアニメが趣味というだけでDQNに後ろから蹴られるようなことが起こった
今になって自分以外にも被害者が全国に大勢いるということは、それだけメディアの影響は大きかったのだろう
宇宙戦艦ヤマトやうる星やつらがそういったブームをもたらした一因であることは否定できない
ヤマトやうる星がなければガンダムもイデオンもマクロスもない、エヴァだって今はなかっただろう
ヤマトや高橋留美子作品だって、元々は手塚治虫だったり、その元々は田河水泡ののらくろだったりする
しかし、Aは駄目、とルールを決めるとき、A#やAbはどうなのか?A'はどうなのか?
それから、Aが駄目ならBやCも駄目になるし、Cが駄目ならDもEも駄目になるんだけどいいの?ということはよくあるわけだ
その線引きや人権との兼ね合いはこれからも人類が滅びるまで永遠に議論されるべきテーマなのだろう
逆に言うなら、今すぐ答えが出るようなものでもないし、拙速に求めていいものでもない
これからもエンターテイメント作品等とそれに対する規制は永遠に議論されるべきであり、文系的には文化の研究にもなる話と思われる
マクロスのプロトカルチャーだのデカルチャーだのではないが、思想や宗教が異なる者同士の交流は異文化交流と言えるだろう
個人的に思うに、宅八郎はそういった文化の衝突を売名行為に利用し、議論の余地をぶち壊すことを扇動した人物だった
オタク評論家と称している割に、教条主義が嫌いと誤魔化して、エンターテイメント作品に対する知識も浅く、オタクにしては薄っぺらい印象があった
というか、当の本人も売名のためにオタク評論家を名乗っているだけで、オタク文化自体にはあまり興味がなかったように思える
それより、YMOは単なるインテリであり、ヒカシューやプラスチックスをテクノ歌謡と持ち上げるとかの方にご執心だったようだ
YMOのメンバーの学歴から考えればそう感じてもおかしくない気もする
しかし、宅八郎はそういったコンプレックスよりも、とにかく天邪鬼なことを言って目立ちたい、売名したいが優先している嫌いがある
公開処刑だのストーカーだのオウム擁護だのも、とにかく逆張りで目立ちたい、他人のひんしゅくを買って目立ちたい気が満々だったようにしか思えない
男オタクはシコれるかシコれないかでキャラを判断しているので、彼女にしたいかどうかということは考えない
仮に「彼女にして〜」と言っている男がいるとしても、それはセックスがしたいという意味である
(これは現実の女性の場合でも当てはまる場合が多々ある発言だが、フィクショナルな対象に向けられるほうが無反省に沢山使われやすいことは言うまでもない)
涼宮ハルヒは現実にいたらヤバい女で、かつ人気のキャラであるが、それはハルヒを彼女にしたいからではなく、ハルヒの体が射精を促すものだからである
(これは京アニがエッチな公式絵をたくさん供給してくれたということではなく、彼らはホントに「エッチな体のキャラ」としてハルヒの存在を捉えている)
(また、ハルヒにはキョンという存在がおり、その乱暴な愛が自分=読者(≠キョン)に向かないので安心してハルヒのエッチな体に射精することができるという点でもうってつけである)
最近では対象への射精を考えないタイプの消費を男オタクがすることもあり、百合豚にその典型をみることができる
この場合でもめんどくさい女=サイコレズを愛でる文化はあるが、やはり自分に愛の矛先が向かないということは重要である
かつてヤンデレという典型が流行したことがあったが、一過性におわったのは、男オタクたちが自分達や主人公少年に向けられるクソデカ感情の機微を咀嚼しきることができず、表面的な暴力性としてしかヤンデレを捉えきることなできなかったからである
(それはヤンデレの登場からすぐ猟奇と混同され取って変わられたところにみられる)
このことが示唆するのは、射精のためにキャラクターを消費する男オタクにとっては、キャラクターの感情や機微というのは手に負えないものであって、その大きな表出はネタとして消化するよりないものだったということである(ヤンデレの妹シリーズをみよ)
サイコレズを崇める百合豚は、百合の間に自分のちんぽを挟まないことで、クソデカ感情によるドライオーガズムを可能にした男オタクの姿である