はてなキーワード: 10年代とは
Twitterで楽しそうにニワカ競馬トークしてる人見つけて嬉々としてROMってると、大抵は大学生とか20代前半リーマンとかで中には中高生すら結構いるからビビる。
もちろんアラフォーアラフィフでも、平野耕太を筆頭にプロ・セミプロのオタク業界人は新規に競馬にハマってたりするんだけど、一般のオタが全然いない。
5、6年前はけもフレにはハマってたようなオタでも、競馬どころかウマ娘すら完全スルーがザラ。
理由というか原因はこんなところだろうか。
俺もう四半世紀前ぐらいからずっと競馬に興味はあったけど手を出せずにいたのが、ウマ娘ブームの熱に当てられてようやく始めたら、いや奥が深くて楽しいわ。
収支はマイナス1000円だけど、何なら全く馬券買わなくても推し馬・推し騎手・推し馬主・推し血統追ってるだけで十二分に楽しめそう。
2005年頃から2015年頃までの間に、西成にバックパッカーとして何回か泊まった俺が補足してみる
だいたい本当
00年代は千円代前半が、10年代は千円代後半が、低所得者向けドヤと旅行客向けドヤの境界線になっていた
テレビを観る時はイヤホン必須。風呂とトイレは共用で、安宿ほど悲惨な状態になる。黄色っぽくて異臭のする湯舟は、この土地以外で見たことが無い
安宿には、ダニだけでなく人の血を吸うトコジラミもいる。夜行性で生存・繁殖能力がやたらと強い
ある宿で泊まった時は、ひっくり返したマットレスにびっしりとシラミが付いていて、虫に食われないよう一晩中電灯を点けて床で仮眠を取った
シラミは荷物に忍び込みもするとその時知ったので、旅行から帰宅した時は携行品を煮沸消毒したり廃棄処分したりした
権力勾配というのは、理論と社会運動が精緻化して正しくなればなるほど、間違いしか生まなくなる。
黒人のほうが弱者だと思ってた連中は、白人弱者労働者を見捨ててるし
そもそも、権力がない白人とか男性とかに「あなたは潜在的に権力者ですから、弱者にやさしくする義務がある」というのが、その手の権力論だった。それはマクロとしては正しかったが。
でも、潜在的に権力者とされた人間は、ミクロ=個々の現実において、権力とか持ってない。
マクロで考えるってことは、取りこぼしを許容するということであって、それを福祉だとか寛容だとか個人の幸福を考えるリベラリズムと組み合わせるのは最悪だった。完全に発想から矛盾している。
別にシバく必要はない(というかシバくのはやはり悪い。脳の発育に。)のだが、過去にお前が受けてきたような教育手法が広まり、それがいまではよくないとされているのはそう。
なんつーか、自己肯定感みたいなものを育てるには、ママからの愛が重要ですみたいな話をしてたんだよな。昔は。
結果として、愛しか受けなかったガキは、ストレスで偏屈にはならなかったものの、甘やかされて育った、現実のヒドさに耐性のなく、努力が苦手な大人になった。俺らのような。
いまの教育は、頑張る力とか、チャレンジする積極性とか、そういうのを育てる方針だ。
自己肯定感を育てるためには、なんだかんだいっても、失敗したり叱られたり、𠮟られることもある前提で褒められたりする必要がある。そういう認識が10年代ぐらいから広まってきたかな。
いくよ〜
・美少女アニメアイコン(90年代以前)→クソサブカル大学生かジジイ
・美少女アニメアイコン(10年代)→独身、関東(もしくは工場しかないクソ僻地)、一人暮らし、料理できない、理系院卒、もうアニメ見てない、一生同じ主題歌しか聞いてない、流行りのことはサブカルもメインカルチャーもわからない
・自分の幼少期(男)→ブス
・後ろ姿(サッカー)→おもんないけど、おもろいと勘違いしてる
・証明写真→斜に構えてる
・パートナー→きしょ
・子ども→まともだと思われたい
みんなはどうだったかな〜?
ほかにはある?
乗り物がおかしいとのご指摘ありがとうございます
撮り鉄やバイクなどが念頭にあるかと思われますが、やっかいなそれらのオタクはアニメアイコンかつ乗り物オタクである(bioに書いてあることが多い)ことが多いです。つまり、乗り物そのものをアイコンにしている方は大多数がまともと判断しこのような偏見になっていることを申し添えておきます
でも、やっぱバイクとトラックは年中アイドルのリプでセクハラしてるし、マナ悪の撮り鉄擁護してる電車アイコンもめちゃくちゃあったからダメだわ
原始ネトウヨ誕生 ネット普及期~02年日韓ワールドカップ共催あたり
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ネトウヨ的言論を主張する連中は大雑把に上のように変遷したけど、嫌韓ネトウヨが誕生したからと言って、原始ネトウヨがいなくなったわけではない
同様にネトサポが作られたからと言って、嫌韓ネトウヨがいなくなったわけではない
ミンス党政権時代は、政権奪還を目指す自民党周辺だけじゃなく、原始ネトウヨや嫌韓ネトウヨも、その媚韓・媚中外交を批判してた
ところが12年に自民党が政権奪還に成功して第二次安倍政権が誕生すると、安倍自民にも同様に批判を向け続ける原始ネトウヨや嫌韓ネトウヨに対しては、ネトサポ・壺ウヨらがミンス支持者のレッテル貼りを行って批判封じをした
00年代にネトウヨ的と評された主張をしても、安倍自民を批判する奴はみなパヨクと片付けられてしまうようになった
かつて安倍壺三ネタやってた連中は第二次安倍政権以降も同じこと言い続けてたけど、野党支持者のネガキャン扱いされてしまうようになった
10年代以降政治コミュに首を突っ込むようになった若い世代は、ネトサポ(まとめサイト)や壺ウヨがこのように誘導した見方をしてるだけ
ここに宮台真司(1995)『終わりなき日常を生きろ――オウム完全克服マニュアル』がある。社会学的観点からオウムがなぜのさばり、オウム的なものに立ち向かうにはどうすればよいかを記した本で、少なくとも10年ほど前は哲学・批評・(現代)社会学近辺では必読文献だった気がする。
そんなわけで本棚にたまたまぶっ刺さっていたので「終わりなき日常を生きなきゃならないんだよなあ」ぐらいしか覚えてない状態で再読した。以下では、この本の要約ではなく、気になったポイントを断片的に取り上げていく。ちなみに私自身は特に宮台のファンではなく、ほかに宮台の本は『権力の予期理論』『サブカルチャー神話解体』しか読んでないと思う。宮台が今回何を言ってるのかもほとんど把握していない。
まず読み始めて思ったのは、知識人の対応がどうやらオウムと今回ではだいぶ異なるのだなあということだ。冒頭で宮台は、オウム事件がそれまでの歴史における過去から理解する、言ってしまえばそれまでの歴史の延長線上におけるものとして理解することを激しく拒絶することにまるまる一章を割いている。オウム事件を(それまでの文学等々より悪しき・劣った)オタク文化の影響とか、連合赤軍の二の舞であるとか、そのように理解する知識人を批判する。
この辺りは論壇における立ち位置を示すパフォーマンスが結構含まれている気もするが、そもそもオウムについて語りたいわけではないので内容には深入りしない。ここで問題にしたいのは歴史と出来事の間の関係である。
今回の事件について、いまのところ過去の歴史と連続的に語る言説は私の見る限り絶無といってよいのではないかと思う。右派にせよ左派にせよ、「これまでの日本では起きたことがないたぐいの出来事」として捕らえているようにみえる。流れた川の水が戻ることはないので、むろんそれはある程度正しい。しかし完全に歴史から切り離された出来事が可能なものか、という点に関しては議論があるだろうし、宮台自身かれの歴史の中で取り組んできたことだろうから、とにかく歴史との連続性を強調する言説がないこと、それがオウムのときとは逆であるらしいことだけを指摘しておく。
宮台は「普通の若者が普通にオウムに入ってサリンを蒔いた」という見立てを行う。そのため、「マインドコントロール」(宮台は使っていないようだが「洗脳」もここでは同義語としていいと思う)について、何か特殊な技術であったり、明確な必要十分条件を定義できるものではないことを強調する(自分の講義だってある種のマインドコントロールだと言いながら)。これは社会学・社会心理学近辺ではわりと常識的な考え方であると思う。なので被害弁護団が「洗脳」をかぎかっこ抜きで自明な用語として使っているのには、少なくとも私は少し抵抗を覚えないでもない(「洗脳」と言いたくなるような事実があることを否定しているのではなく、あくまで用語法の問題)。
本全体の骨子となる主張として、宮台はオウムに関わった若者が抱える問題は「『終わらない日常』に耐えかねて『輝かしきハルマゲドン』を夢想し、キツさに耐えかねて『夢想を現実化』しようと」した点にあると主張する。その処方箋として「終わらない日常を生きる知恵」が必要とされるが、その知恵を持っているのがブルセラ女子高生なのだそうだ。なぜならブルセラ女子高生は決してオウムに入ってサリンを蒔いたりしないから、とのこと。まあ妥当性については何も言うまい。
すでに見たようにこの本は世代論の本でもある。宮台は江藤淳やその後の加藤典洋、あるいは宮台と同世代の大塚英志も含め、年長世代が新しい世代を「何かが欠けた存在」とみなすことを強く批判する。「あんたがただって年長世代におんなじこと言われてただろう」というわけであるばかりか、そうした言説は不要なきらきらしさを持った「幻想」を下の世代に押しつける有害なものである、というのが宮台の主張だ。そして大塚に対して「われわれ新人類世代はまだ何かを諦めたが、ブルセラ=ポスト団塊ジュニア世代はようやく諦めるべきものを最初から持たず、そのため何も諦めていない。なのにまた旧世代の幻想に彼女たちを縛り付ける気か」的な批判を行っている。どうでもいいが大塚英志が軽く30年以上同じスタンスを取り続けているのを見ると本当に安心する(20冊かそこらは読んでる程度にはファン)。大塚のツイッター(ていつから本人がつぶやくようになったの? 俺の知ってる大塚はタイピングができなかった気がするが)を見ると、メディアなり知識人なりが統一教会と自民党―安倍との関係を追求しないことにブチ切れてて、やはり信用できるなと思った。政教分離の観点から国葬にも激しく反対していて、こっちは大塚が立憲主義の観点からそう言うのは分かるが、私が政教分離についてよく分かっていないので(天と地の分離ってけっこうキリスト教特有の考えだったりしない?というレベル)、問題意識は共有できていない。こういう場合は経験上5~10年くらい経ってから共感できるようになることが多いが、今回はどうだろうか。
話が逸れた。宮台は可能かもしれない処方箋として(異性を念頭に置いた)コミュニケーションを検討する。「全面的包括欲求」に対して応えることが可能なのは宗教と恋愛だけだからだそうだ。そして恋愛は社会の再生産を行う家族システムへの動機でもあるため、社会は宗教より恋愛をプッシュする。にもかかわらず恋愛からはじき出されて宗教に飲み込まれる若者が多いのだから、恋愛は処方箋ではあるが「やれるなら最初からやってる」程度のものでしかないと宮台は言う。
だから現実的な処方箋としては、旧世代が押しつけてくる「輝かしさ」など忘れて「まったり終わりなき日常を生きろ」ということになる。
「処方箋」の妥当性はさておくとしても、少なくとも統一教会は「若者問題」ではない(原理研については詳しく知らないが)という一点においてすでにそのまま転用はできないなあというのが第一の感想であるし、さておいた妥当性をほじくりたくなるなあというのが第二の感想である。
もう少し有意義なことを言うのであれば、この「まったりしたコミュニケーション」こそが統一教会の本質なのではないか、という気が脱会者や現信者のブログやツイッターなどを見てるとするのだ。10年代に流行った「居場所」の問題はいまだ解決していない。
1.80年代から統一教会の霊感商法が社会問題になってワイドショーの統一教会報道のピークは92年の桜田淳子の合同結婚式。完全にアレなヤバい宗教と定着したが、オウムのテロ事件で影に隠れてしまった。90年代後半からは登校時間にゲリラ的に学校前で「純血キャンディー」とか配ったりして政治で「過激な性教育」とか問題にするのと歩調を合わせ二度と叩かれないようにロビー活動により熱心になってった。どっかの東スポが「現在はコンプライアンスが強化されてる」とか書いてるけど霊感商法トラブルは10年代でも頻発している(例:https://anond.hatelabo.jp/20220710213029)
2.韓国では統一教会はプロテスタントでもカトリックでも異端。韓国wikiで韓国での統一教会の温度が少しはわかるだろhttps://namu.wiki/w/%EC%84%B8%EA%B3%84%ED%8F%89%ED%99%94%ED%86%B5%EC%9D%BC%EA%B0%80%EC%A0%95%EC%97%B0%ED%95%A9#s-15