はてなキーワード: 殺人犯とは
率直に言ってクズだ。
詳細は省くがあらすじは以下の通り。
自らに好意を抱いてきた本田千鶴という女子生徒と交際を始め、性的な関係を持つ。
その後ホテルを予約してあるからと誘い出し、友人に本田千鶴を売った。
彼女は性的暴行を受けただけでなく、その様子を撮影したビデオでの脅迫をされ、性的暴行を繰り返し受けることになる。
畑飼は彼女を売った後、別の女子生徒に手を出している。恐らく同様のことをするために。
本田千鶴は畑飼の殺害を決意するが突然の嘔吐感に襲われ、妊娠が発覚する。
当の畑飼は妊娠を報告されると
「出産ムービーが撮れるな。知り合いに産婦人科が居るんだ。子供は死んだことにしといてやるよ」
と言い放つ。
その後彼女はある力を持ち、畑飼の殺害を再度決意するのだが……。
(詳しくはぼくらの三、四巻を参照)
『ぼくらの』という作品はそのストーリーから人を選ぶ鬱漫画と言われるが、作中で最も胸糞悪くなるのはこの畑飼に関する展開だと断言する。
作中でこの男、断罪されることなく生き続ける。何故かというと友人で性的暴行に加わった共犯者に、医者、警察、弁護士、政治家がいたからである。
どこまでもふざけた男だが、本題とそれるので割愛。
ちなみに『ぼくらの』はアニメ化されており(賛否あるが)、アニメ版の畑飼は女子更衣室の盗撮に勤しむ小物に変更されている。
第六巻では、本田千鶴の友人である切江洋介が主人公を務める話がある。
切江洋介は小柄で太めな体型で、内向的であるからいじめを受けていたが、やさしい心の持ち主で優れた洞察力と思考力を持つ男子中学生だ。
そんな彼が、件の畑飼と話をしに行く。
「親からの愛情不足やトラウマからああいうことをしたということで納得したいのか? 俺はそれができるからやっただけだ」
「悪いのは本田自身だ。本田は自らの選択でああなった。俺に迫ってきたのはあいつの選択で、他の男子中学生と付き合う選択肢もあった」
確かに本田千鶴は同級生の男子をバカっぽいと思い、大人の畑飼に自ら接近している。
「大体中学生に教師が手を出すなんて普通の考えでするわけないだろ? その時点で裏があると考えないあいつが悪い。俺は常日頃から『俺はうそを教えるかもしれない』と言っていたぞ」
「それはそうだ。個人一人一人にとって他人は目的のための道具だ。だから俺にあんな風に扱われる選択を取った本田が浅はかだったってことだ」
「まず、本田が考えるべきことは、自分が何か誤ったことをしたか考えて、自分を変ることだろ? それから俺のところに来るなら今度は俺が反省点を考える」
この後も似たような話が続き、畑飼は切江にナイフで刺され、終了する。
しかし前述の通り生きている。
未成年淫行は近年厳しく処罰されている。16歳以上で両親公認、結婚を前提にしたお付き合いのような特殊な事例でもない限り。
作中の日本の設定が現実の世界とは違うが、そこは大きく変わらないはずだ。
犯罪者が何を言ってるんだこいつ、で一蹴してしまえばいいだけの話ではある。
ただ畑飼の行動が色眼鏡になっているだけで、主張自体は間違ってないのではないか。
畑飼の言いたいことは要するに「自己責任」だということだと思う。
某ジャーナリストが国の指定する危険地域に警告を無視して乗り込み、拘束されたことは記憶に新しい。
正直、自分も彼に関しては自己責任で、助けを求めるのは如何なものかと思うところはある。
彼は自らの選択で警告を無視して出国したのであって、政府に命令されたわけでも身内に騙されたわけでもない。
畑飼の主張で行くならば、当人は自らの選択に間違いがないか考えるべきである。
この畑飼の主張を人種差別に置き換えて考えてみる。
しかし当然ながら生まれもっての特性で差別される理由も誤った選択もあるわけがない。
であれば当然変わる必要もなく、迫害・差別を行う人間が自らの過ちを考え反省し変わるべきである。
こうして考えると至極全うに感じる。
だとしても、この考え方は受け入れたくない。
人種差別に当てはめればまっとうな考えだというのもおそらく間違っている。
しかし、はっきりと否定するだけの頭を自分は持ち合わせていない。
繰り返しになるが、この記事は畑飼を肯定するものでは一切無い。
フィクションに何を本気になっているんだと言われれば、それまでだが。
※追記
反応ありがとうございます。
皆さんのご意見で納得できそうです。
特に未成年に責任を問うのはどうかという指摘から、保護者という子の行いに責任を持つ存在を完全に失念していたことに気が付きました。
そのことを含めて今一度考えてみたいと思います。
作品を読んでからだとどうしても畑飼に対する特定の感情があり、正常に考えられないため、第三者の視点で意見を頂けるのはとても貴重で、嬉しく思います。
朝日新聞デジタル http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASL9J61VWL9JUCVL00M.html
18日発売の10月号では、8月号に掲載された杉田氏の寄稿「『LGBT』支援の度が過ぎる」について、「見当外れの大バッシングに見舞われた」と説明。「特別企画」とうたった1ページ目に、「主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に」染まったと書き、「LGBT当事者の声も含め、真っ当な議論のきっかけとなる論考」を届けるとしている。
新潮45 2018年10月号 http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/
8月号の特集「日本を不幸にする『朝日新聞』」の中の一本、杉田水脈氏の「『LGBT』支援の度が過ぎる」が、見当外れの大バッシングに見舞われた。主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に染まり、そこには冷静さのカケラもなかった。あの記事をどう読むべきなのか。LGBT当事者の声も含め、真っ当な議論のきっかけとなる論考をお届けする。
凶悪事件が話題になるたびに思うのだが、私は死刑制度には反対だ。データを見る限り犯罪の抑止力になっているとは言い難いし、再審請求が多くなされている中では冤罪を防ぎきれているとは言えないと思う。慣例のようなものが多く、制度自体の透明性も十分ではないと思っている。
そういう意見には、「被害者や遺族の気持ちを想像してみろ!」という反論がある。実際に言われたことも何度かある。
けれど、私はそういうことを言われるたびに、〝私が実は被害者家族かもしれない" という可能性にも気づかないような貴方のお粗末な想像力に価値はあるのかなぁ、と思う。
私には「自分に不利益を与えた相手に罰を与えたい」という気持ちになったことがない。「私はあいつのせいでひどいめにあった、あいつもひどいめにあえばいい」という理屈がよくわからない。ひどいめにあって自分が悲しい、悔しい、怒ったぞ!というのはわかる。私にとってそれらの感情と「罰」は別物で、そのために相手が悲しんだり悔やんだりしても、私には特にメリットがないように思うし、悔しさが埋められるわけでもない。
小さい話で言えばめちゃくちゃに私に仕事を振ってくる上司に「足の指を机にぶつけちゃえ」と思うとか、そういうことが一切ないということだ。もしその上司が足の指を机にぶつけて痛がっていても、別にそれで私が楽しくなるとか、そういうこともない。仕事は減らないし。
毎週のように人権侵害レベルのめちゃくちゃなクレームを浴びせてくるおばさまにも、私の弟をひどいシフトと給料で働かせていたバイト先の店長にも、幼少期に私に暴力を振るった変質者にも、特にその報いを受けてほしいと思ったことはない。新聞やテレビで見る殺人犯などはなおのことで、仕事の関係でそういった事件の現場に幾度か足を運んでも、さほどその感情が変わることはなかった。ひどいなぁとは思う。こんなことが二度と起きないと良いとは思う。犯人をとても許せないと思う。でも許せないってなんだろう。それは完全に私の中身だけの問題で、行動とか、外に出ているものとはあんまり関係がない気がする。私はたぶん、小学校の頃に私を無視した同級生を許していないけれど、彼女が現在進行形で私を無視していないのなら彼女と夕飯を食べることができる。
ただ、これは私にとって理解ができないというだけの話で、それだけでは私がそれに反対する理由にはならない。それは例えば、私が目が見えるから街中の点字ブロックは全部剥がせと言うとか、私がトンボが嫌いだからトンボをいくら殺してもいいとか、そういうのは間違っているのと同じだ。それに、その事件1つ1つに関して言えば私は完全に部外者で、当の本人たちが極刑を望むのならそれは無視されるべきではないと思う。あと、「二度とこういう事件が起きない」ためにはその犯人を世の中に出さないほうがいいと判断されることがあるというのは理解できる。
私が死刑に対して、それでも「反対」の方に傾くのは単純な理由で、「私が人殺しをしたくないし、誰かに人を殺してほしくない」からだ。それは部外者が持ち得る曖昧な想像力よりも私にとってずっと実感がある。
この国に生きてきて、私は何人もの犯罪者を殺している。刑場を準備すること、片付け、それに関わる人の諸経費、お金は私が出している。執行のためにハンコを押す大臣、あの人も私が選んだ。事実としてそう。そういうシステムになっている。
そして私は同時に、誰かに人を殺すことを強いた。誰かがボタンを押したから、死刑囚は死んだ。そのボタンを押させたのは私だ。
高校の頃、死刑制度について考える授業で、反対サイドの私が「死刑を執行する人の負担を考えると賛成できない」と言ったら、賛成サイドに「刑場にはボタンがいくつかあって、一斉に押すから誰が装置を動かしたのかはわからないようになっているから」と言い返されたことがあるが、私はやっぱり、それが反論になると思っている、自分が殺したかどうかわからなければ大丈夫だと思う人が想像する「被害者の気持ち」はどれだけ信頼がおけるものなんだろうと思った。
賛成する人の意見はいろいろある。システム的な部分で理解できるものもある。でもそれを「人の気持ちの代弁者」のような顔をして主張することにはどうも不信感がある。だから知りえない人の気持ちより、私は自分の気持ちの方を重視する。私は人を殺したくない。私は誰かに人を殺させたくはない。だから私は死刑を望まない。おしまい。そっちも代弁者のような顔をしていないで、貴方の言葉で話してくれよ、と思う。
ひとつ、妥協の提案がある。裁判員裁判のように、死刑を執行する刑務官の役も毎回抽選で選ぶのだ。選ばれた人が、一斉にボタンを押す。
裁判員裁判は可能なのだから、それより頻度の低い死刑執行ならシステムや経費の問題もそこまで重大なものにはならないだろう。被害者にさせるのはその後の世間や死刑囚家族との関わりの危険性がありそうだから、匿名の無作為に選ばれた誰かが良い。執行がより透明性が高くクリーンなものにも成り得る。ついでに死刑に賛成する人が主張する「犯罪抑止」の効果も強くなるのではないか。
もしこれが実現しても、私は今の状況も同じだと思っているので、別に気持ちの面で変化はない。人に押させるのはいいが自分が押すのは嫌だ、というのはけっこうわがままなんじゃないかなぁ、と私は思う。死刑制度存続に賛成する人は、この案にも賛成してくれるに違いないと思うのですが、いかがですか?
警察に被害届を出そうとしたとき、私は北海道にいたので、北海道警苫小牧署に行った。
そこでは、事件が起こった場所で被害届を出すのがよいから、横浜に行く機会があったらそのときに警察に行くのがよいと言われた。
その旨を、現場の管轄である神奈川県警戸部署に相談してみると、やはりこちらに来る機会に来署してくださいとのことだったので、
戸部署で話をすると、それでは被害届を受けるので明後日また来てくださいとなった。
なので2日後にまた行くと、女性警察官から、被害届は受けられない、ただ話を聞きたいだけだと聞いている、被害届を出したら加害者が怒ってあなたに何かするかもしれない、同じ女性としてあなたを危険な目に遭う可能性にさらすことは出来ない、という話をされた。さらには、どうして時間が経ってから来るのだと言われた。(そのことについては事前に戸部署に相談しており、こうなっているのに。)
北海道に戻った私は、再び苫小牧署に行き、こういう被害届を出したいと言われたら苫小牧署ならどういう対応をしますか?ということを質問した。
そういった場合にはこういう捜査をするだろう、という説明を苫小牧署の警察官から受けた。
父から、警察に不満があれば監察に申し立てるとよいと聞いたので、
戸部署ではじめに対応してくれた警察官と2日後に会った女性警察官とでは話が違ったこと、
苫小牧署ではこういう相談があればどういう捜査をするという話をしているのに戸部署では被害届を受けつけてくれなかったこと、事件に遭った場所によって捜査に格差があってよいのか、
手紙が届いたであろう頃に、戸部署に電話をしてみると、電話を取った人からして、ああはいはい、と話をわかっている感じであった。
そして、私の事件を刑事課の(企業でいうと)部長クラスと思われる人が担当することとなった。
監察の力ってすごい!
ところで、私は、例えば「医師は全員女性なので安心」のような、女性の相談を受けるスタッフが女性なので安心だという世の中の謳い文句に安心を感じたことがない。
戸部署の女性警察官のように、「同じ女性として」という文句が「私も我慢しているのだからあんたも我慢しろ」という風に使われることがあるからだ。
たいていの事件には加害者の復讐の可能性というのは伴うのではないか。そうした場合、被害者は泣き寝入るしかないと警察はいうのか。
被害届を出すかどうかは私が決めることではないのか。同じ女性だからといってそれをさせてもらえないのであれば、私とあなたは別の人間であるということの尊重のうえで相手の状況を慮ってくれる男性警察官が担当となってくれた方がいい。
事件を捜査してもらえることとなって、2か月に1回くらいの頻度で戸部署に呼ばれた。
その頃には北海道から埼玉に引っ越していたのだが、平日の昼間に片道2時間近くかけて警察まで行かなくてはいけないのはなかなか大変であった。
その個室に入るときは、携帯電話をドアのポケットに入れなくてはならなかった。”いつもは悪い人を取り調べる部屋だから、外に連絡して打ち合わせることができないように”という説明を聞いた。
たいてい冷たいお茶を出してくれた。個室の壁のペンキはひび割れていた。警察の建物ってたいてい老朽化している。お金がないからあまり捜査をしたくないのかもしれない。でもだからといって私が人権侵害行為を受けたことを泣き寝入ることはしたくない。
車で被害の現場まで行き、ここですと指さしているポーズで写真を撮られることもあった。「おお、それっぽいことをしてる」と思った。
被害届は刑事が作成してくれるのだが、被害者の喋り口調で作るものになっているようだ。加害者と被害者にニックネームがあれば、その名前が使われる。例えば、「みちょぱ」と「らぶりん」がニックネームであればそれが被害届のなかで使われる。こういった種類の事件のテンプレートなのだろうか、「ときには優しいこともあって、そういうところが好きでした」なんていう文言も入る。つまり「みちょぱはらぶりんの、ときには優しいところが好きでした」という文面が出来上がる。それを刑事に読み上げられて、恥ずかしくってしかたがなかったのだが、こういうものなのかと思い「はい、それでいいです…」と言っておいた。
加害者の人権は守られている。例え立件されても、起訴されたとしても、特殊な権限のある人がそれを調べない限り、そうなったことは知られない。
そう考えると、道を歩いている人も、実は殺人犯なのかもしれない。あの男の人は親切に道を教えてくれたけれど、家では妻や恋人を殴っているのかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。
現場に関するものが少しトラウマとなっていた。「横浜」の文字を見ると嫌な感じが湧き上がってきた。加害者がよく着ていたような白いTシャツを着た男の人を見ると、恐怖感が湧いてきた。
私が警察に被害を届けることを知人に話したら、その知人が加害者にそのことを告げるということが起こり、ショックを受けた。
加害者が「女性は1人の人間としてではコンテンツとしてみていて、必要がなくなったら他のコンテンツに乗り換える」と語っていたことがあり、その話をまた別の知人男性にすると、その知人男性も「男はみんなそうしたいと思っているところがある」と言って、そのことにショックを受けた。
ネットなんかで「女性はちょっとしたことでもすぐDVと騒ぐから」と書かれているのも見かけると、私の言っていることもそう思われるのだろうか、信じてもらえないのだろうか、と思った。
そんなことがあり、警察にも通っていたりで、精神的負荷がすごかったのだが、それで精神的に不安定になったら、”メンタルが不安定な人”ということで、私の言うことの信憑性が低くなるのではないか、と思い、周りに支えの無さを感じていた。
そんなときに、10年ぶりに会った後輩に、これまでにあったことを打ち明けると、
「僕はあなたの言うことを信じますよ。だってあなた、苦しんでいるじゃないですか。」と言ってくれて、こころが救われた。
私が警察に被害を届けようとしていることを知人が加害者に告げたことも、女性をコンテンツ扱いする発言も、「ひどい」と言ってくれた。ようやく、私がおかしいと思っていたことを「おかしい」と言ってくれる人が現れて、私はほんとうに救われた。
警察の捜査の進みはほんとうに緩慢で、1年くらいかかったと思う。
ようやっと書類送検ということになった。
警察で立件された時点で、前歴となり、その記録は警察や自治体に永久に残るらしい。
この時点で時効が迫っていたので、内容証明郵便を加害者宛てに送った。こうすることで時効が半年延びる。
その間に弁護士を探した。
親切にしてくれる弁護士もいたけれど、証拠が少ないということで引き受けてもらえなかったりした。
嫌な思いもした。被害に遭ったことについて私が馬鹿だと言う弁護士もいた。
私はDV被害者の当事者会に出たりして勉強したが、DV被害者というのはみんな自分が馬鹿だと思っているんです。そう思っているから、なかなか外に打ち明けられなかったするんです。それなのにそんなことを言う弁護士がいるなんて。
そもそも、人を疑って警戒しながら生きているのが賢くて、人を信じると馬鹿と言われる社会なんて。
実は、警察では証拠不十分で立件できなかった加害事実について(数種類の加害行為があり、証拠が揃っているものだけが立件された)、加害者が検察での供述の中で加害事実を認める発言をしていることを、私は検察官から聞いていたのだ。
裁判となれば、その供述調書の開示を求めることができるかもしれない、と弁護士は言った。開示されたら、それが重要な証拠となる。
そして裁判が始まった。
東京地方裁判所は大きなビルの中に部屋(法廷)がたくさんあって、廊下の壁は明るい色に塗られ、大きな病院や学校みたいだった。
地階に食堂があるので、ここは「裁判に勝つ」ということでカツ丼を食べようとしたのが、カツ丼はメニューに無かったのでざるそばを食べた。
裁判官は頭に黒い帽子をのせてポンチョのような黒い服を着ており、「あれは昔はシルクだったけど今は合成繊維になった」と弁護士が教えてくれた。
ハンカチくらいは持ち込んでもよいと聞いたので、すごく緊張したからハンドタオルをぎゅっと握りしめて法廷に立った。
述べる前には、ドラマとかであるように、嘘はつきませんってことを宣言しなくてはならなかった。その文言は、プリントされたものが前に置かれていたので、それを読んだ。
ここでも結局、私が馬鹿だということを匂わせることを言われる。
いくら、DV被害者には特殊な心理状態があるという研究があっても、DV被害者の当事者団体が訴えても、それはなんにもならない。
私は「はい」か「いいえ」しか答えられない。私を侮辱するようなことを言われても、反論しようとすると裁判官から制される。
この後しばらく、私は加害者側の弁護士の喋り口調がフラッシュバックすることがあり、精神的な危機を感じた。
弁護士の喋った内容ではなく、息遣いのようなもののフラッシュバックがあった。
これまで警察や検察に行ったり裁判を起こしたりして、かなり精神的に負荷を感じることがあったけれど、これが一番ひどかった。なるほどこれがセカンドレイプってやつかと思った。数週間したらおさまったのでよかったのだが。
私の弁護士が裁判の中で、検察庁に加害者の供述調書の開示を求めてくれたのだが、
和解ってやつになった。
警察に被害を届けたり裁判を起こすときに、どうして警察に行くの?どうして裁判をするの?と言う人たちがいた。どうしてそういう質問がなされるのか私にはわからなかった。
泥棒に入られたら警察に行くのと同じことだと思った。カバオくんを泣かせたバイキンマンは、アンパンマンにやっつけられる。幼稚なのかもしれないが、世界はそういうものだと思っているので、私には泣き寝入るという選択肢は無かった。けれど、泥棒に入られても警察に行かない人もいるのかもしれない。
「得られるものに対して自身へのダメージが大き過ぎる」と忠告してくれた人もいた。
(確かに、負荷は大きくて、円形脱毛症になりかなり派手にハゲをこさえた。裁判が終わって1年近く経つ現在もまだ完治していない。)
そう考えて泣き寝入る人たちはたくさんいるのだろう。けれど私はそんな例を増やしたくはなかったし、このままあったことを無かったことにされたくなかった。
暴力的に自分の意にそぐわない状況に置かれるという体験は、私の自己効力感とか自信を失わせるものであった。
むかしの私は将来に希望を持っていて活動的であったが、被害に遭った後は、何かをしようと思っても、自信がが持てずに力が入らないのだ。
警察に行ったり裁判をすることは、暴力的に意にそぐわない状況を受動させられたことを、自分で動くという能動に変えることであった。
だから私は、やれるだけのことをやってよかったと思っている。