はてなキーワード: 歌手とは
にじさんじを運営するANYCOLOR株式会社(旧いちから)はにじさんじは当初は踏み台にしてくれていいってスタンスだった。
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1804/23/news076_2.html
「VTuberデビューはにじさんじで、例えばCMに出たいから次はエンタムで活動するという選択肢があってもいい。AKBグループも、卒業したら女優になったり、歌手になったりといろいろですよね。にじさんじも、たくさんの出口を用意したい」(岩永COO)2018年
退社後の発言で「ビジネルの規模が大きくなると『できないこと』が増えていくよね」といった旨の発言をしてることもあり、当初のスタンスを現在も貫けているかというと難しい部分もあるのかと思う。
アルゼンチンのTV番組「家に閉じこもっているタイプの女性」の背景にアンネ・フランクの写真登場で炎上(佐藤仁)
https://news.yahoo.co.jp/byline/satohitoshi/20210801-00250945
そして2021年7月にアルゼンチンのタレントがコンテストで歌を競う「ショーマッチ」というテレビ番組で、歌手が歌っている伝統的な女性像を破壊して、女性も外に積極的に出ていこうというテーマの楽曲で、「私は家の中に閉じこもっているタイプの女性ではない」という歌詞があり、その歌詞ともにバックに様々な女性の写真が出て来たが、その写真の中にアンネ・フランクの写真も写っていた。
このテレビ番組が放送されてから「アンネ・フランクを出すのは失礼だ。アンネ・フランクは自分の意思で閉じこもっていたのではない。自由がなく出られなかったんだ」といった声が多く、ネットではとても炎上していた。
「私は家の中に閉じこもっているタイプの女性ではない」という歌詞なのだから、
本来は極めて活発な少女であったアンネ・フランクがバックに登場しても何の不思議もない。
「アンネ・フランクは好きで閉じこもっていたのではありません」てそんなの誰でも知ってるよ!
歌手『うるせぇバーカ』
良かったもの
ブルーインパルス(自宅から見えて左翼だけど歓声を上げたクチ)
ロゴを動かす子どもたちのパフォーマンス(たくさん練習したんだね。。)
長嶋茂雄(感無量)
大阪なおみ(NYTは伊調馨と予想していた。安直な多様性アピールという批判があるが、そもそも大阪なおみより有名な日本人アスリートはいない。)
ピクトグラム(ブルーインパルスなど歴史的遺産をなぞってばかりはよくないが、これは新しい表現のアートとすべきなのか)
バッハのスピーチ(毎回IOC会長のスピーチはつまらないが仕方がない)
日本選手団ユニフォーム(動いているところはいいが記者会見など静止画では今ひとつ)
職人パフォーマンス(木の五輪はよかったですよ。だけど、手仕事へのリスペクトなんてオリンピック企画にあたって本当に持ってるわけじゃないでしょ?)
ゲーム音楽の入場行進(ゲームしないので。これが刺さった人は国内では2割、海外で5%くらいじゃないの?)
悪かったもの
聖火台(動いたところはよかったが、静止画になると安っぽい。無印的。)
森山未來・医療従事者・東日本大震災へのトリビュート等(散発的でとりあえず入れました感あり。そもそもオリンピックしてる場合かという声を無視しているわけだから。)
冒頭のソーシャルディスタンスするアスリートたち(画面映えせず)
だいたい上から下に良かったものから悪かったものに並べたのだが、
自分が中年男性だから、中年男性が企画したイベントがあっていただけかもしれないけれども。
ヤフコメやブコメを見ると、世間では聖火台あげ、海老蔵と大阪なおみ下げ、という印象だが
匿名なので率直にいえば、
海老蔵がいいと思わないのは、歌舞伎を見たことがなく文化資本がないから、
主人公のメグ(二十代の日本人女性)は韓国までコンサートを見に日本から一人でやってきた。グッズ売り場で本当はキーホルダーを2つ買いたかったけど1つしか買えなかった。コンサートでは歌手に「最後の曲です」と言われると「いやですー」と叫ぶも歌手に「愛しています」と返され、コンサートは終了する。
約8年好きだった推しへの気持ちが、コロナ禍で会えないというだけであっという間に冷めてきた。1年会えなかっただけで8年の好きが崩れて、ブログもラジオも新曲もお仕事情報も、どうでもよくなってしまった。
会えないから気持ちの維持ができなくて、それなのに、私は新しく俳優さんを好きになってしまった。俳優だってそう簡単に会えるわけじゃないのに。「会えないから気持ちが冷めた」というより、「気持ちが冷め始めたところを会えなくなったから興味がなくなった」というのが正しいのだろうか。いつから彼の優先順位が下がったのだろう。
推しはもう少しで40歳で、新しく好きになった俳優さんは20代前半。超若い。なんなら同い年。若いからか推しよりキラキラして見えるし、歌手活動もしてるけど歌詞や曲調が若者感あって好きだし、小さい頃から芸能活動をしているようでSNSの使い方を理解しており、情報発信程度にしか使っていないから炎上する心配も無い。そもそもめちゃくちゃ謙虚で余計なことは言わないしっかりした考え方の持ち主なので、炎上するとしたら彼女が出来たとかその程度だろう。馬鹿が露見したり人間的に引いちゃう部分での炎上は、たぶん無い。
推しは考え方がしっかりしてるけど、40近いからか文面からおじさんくささを感じるようになってきた。私が接客業で困った老人を相手にしてきたせいか、その文面から「推しも老いたら面倒な人になってしまうのか」とか「後輩からうざがられてないかな」とかかなり余計な心配をしてしまうようにもなった。推しが炎上したためしは無いけど、どうなるか。推しはストイックで、誰からも慕われていて、仕事仲間からの評価も高いけど、歳を取ったらどうなるか。妙な不安に襲われている。
推しはいわゆる「人気絶頂期」というものは過ぎただろうな、という印象はあって、老いて踊るのがしんどくなったらディナーショーでもすんのかな、なんて思ったりもしていた。それでも行きたいと思っていたし、だから8年もの間ファンクラブにも入り続けているのだが。新しく好きになった俳優さんはきっとまだまだこれからで、どんどん人気になって行く。応援していて楽しいのは、私の判断では俳優側だ。
けど、8年も、8年も好きだった人への気持ちが、こんな簡単にしぼんでしまうなんて。今度やるライブは配信があるけど、前回の配信ライブで気持ちを繋ぎ止めることが出来なかったのでもうお察し。コロナ禍になってからリリースされたCDやブルーレイは購入さえしていない。買い忘れることなんて無くて、リリース日は有給取ったりしてたのに。どうしてこうなっちゃったんだろう。
コロナ禍で今の私に希望を与えてくれているのは俳優さん。8年もの間私を生かしてくれたのは間違いなく推し。けど、私は両方を同じ熱量で応援することができない。熱の捧げ方が下手でごめんね。今でもきっと心の奥では大好きなのに。頭は俳優さんのことしか考えられてないよ。私の部屋には推しのCDとグッズが並んでるのに、今は全然別の人を考えちゃうよ。
そいつは一つの国語表現に固執するあまり、不特定多数に自説を吹聴して回り、
あまつさえ特定の国語学者のアンチまで務めるという壊れっぷりであった。
流石に目に余るのでそいつのプロフィールを見たところ「発達障害」という文字列が入っていた、
ああそういうことね、と冷たくレスを返してみると、案の定相手がいきり立ったものである。
ひたすら自説の正当性と大義名分を主張しヒートアップしていく一方、
私はそれを見て、かわいそうなやつだなと思った一方、
「なんのためにこいつは発達障害を自称しているのか」と思ったものである。
自分も素人なので詳しいことは知らんが、ネットでちょっと調べた限りでは、
「発達障害はどうでもいいことに固執する傾向がある」というような話があった。
(下手に曲解するといけないので、そういうふわふわした理解にとどめておく。)
その性質を自覚しているなら、そうなっていると指摘された時に、
「すまんな」「ええんやで」とならなくては意味がないのではないか。
逆に言えば、それができないのが発達障害なのかもしれんが。
いずれにしろ、彼が発達障害と診断された意味が微塵も感じられなかったのである。
そういえばもう一つ、「病気の診断」に関して思うことがあった。
一昔前に「新型うつ」という概念が流行ったころ、それを否定する風潮が強かった。
お茶の間にとって「うつ」とは「常に気分が落ち込んでいるべきもの」という偏見があった時代で、
(あるいは今もそう変わってはいないのかもしれないが、少なくともメディアの扱い方は違う気もする)
「やるべきことに直面すると落ち込む、解放されると嘘みたいに明るくなる」という新型うつを見て、
「甘え」や「仮病」の二文字が頭に浮かぶ人は少なくなかったであろうと思われる。
その様子を見ていた自分は当時まだ子供であったが、子供なりにその風潮を憂えたものであった。
いざ自身が大人になってみると、うつ病の人が周囲にちらほら出てくるようになる。
私の交友関係はだいぶ狭いほうだが、それでもあんな人やこんな人がカウンセリングを受けている。
仕事で心を破壊された気の毒な人もいれば、体育大学に通いながら精神を病んでしまった人もいる。
健全な精神は健全な肉体に宿れかし。そう思わずにはいられない。
無知の知ではないが、うつ病とはわからぬものだなという事だけがわかってくる一方、
彼らが日々己の心身と闘っている様子が切実に見えてくるものである。
しかしながら、うつ病患者だからといって100%同情されるわけでもない。
知人のとあるうつ病患者は、日々の体調管理すら苦労している様子が見て取れる一方、
もともと愚痴が多いうえに「かわいそうな自分」に酔うタイプであった。
それを日々聞かされる周囲の人はだんだんと耐えられなくなり、距離を置くようになってしまっていた。
うつ病であることそのものではなく、自分に酔うことを苦々しく見られていたのである。
子供のころから見ていた自分は「こいつ病気なんじゃね」と思っていた。
私が大人になるにつれて傾向は見えてくるようになり、
どうやら忙しいだとか面倒なことが控えると機嫌が悪くなり、
思うようにならないことがあると、それをしばらく引きずる形でまた機嫌が悪くなるようであった。
頼れるものに頼ろうとしても結局文句ばかりで一向に楽になろうとせず、
そうして忙しくなるとまた機嫌が悪くなるというマッチポンプばかりをしていた。
ネットを通して「そういう人もいる」という知見を得て、そういう人なら仕方ないなと思っていた矢先、
本人からうつ病であると打ち明けられたのである。診断書を見せられるでもなく。
そのとき私が抱いた感情は「かわいそう」とか「お気の毒」ではなく、
申し訳ないが「それ見たことか」「何を今更」「で?これからどうする?」という気持ちであり、
正直言って同情は一切わかなかったものであった。
なぜなら自らを病に落とし込んでいるようにしか見えなかったからである。
近年は様々な病気、あるいはナントカ症というものが多数生まれてきている。
先日某ラジオでも取り上げられていたが、とくに恐怖症になると枚挙にいとまがない。
「お酒恐怖症でーす!なぜなら目の前にあったら飲んじゃうから!違うかw」という投稿には個人的にムカついたが、
ほとんどは「落ち着きをなくす」「立っていられなくなる」のような割と切実な訴えであったし、
自身の友人知人からもそういう話は聞いたり、あるいは付き合ってきたものである。
そうした新たな病気やらなにやらというものの周知が試みられているのもまた現代であるが、
じゃあすべて見て聞いて覚えられるかと言えば、そんな余裕は多忙な一個人にはないし、
公の場で突然異変を起こした人を「あ!これネットで見たやつだ!」と100%適切に助けられる自信もない。
ましてや「病気」認定が差別的なものになりうることは過去も現代も同じであり、
無垢なマイノリティの方々が切実な訴えをなさっては、様々な人間が入り乱れて大騒ぎになるところである。
では「病気」という診断は何のために存在するのか?百害あって一利なしなのか?
私はそうは思わない、というか、「病気」だけが特別である必要がないと思う。
彼はかなり前に、声帯ポリープが発見されたことがあったらしい。
声を出すお仕事の人にとっては特に厄介な病気であり、切除をしてしばらくお休みをいただくのが常である。
しかし彼は「付き合っていけば味になる」と割り切り、手術をしなかったというのである。
そのせいもあってか度々喉の不調で活動休止ということもあったようなのだが、
2011年の時には「プロとして情けない」とツイートした履歴もある。
身体と心の不調では話が違う、と言われるかもしれない。
しかしながら私が言いたいのは、彼はある種の病を「個性」として受け入れたということである。
病気とまでは言われないものや、単なる性格に過ぎないものも細分化されつつあるように感じる。
「あなたはこだわり屋さんです」とか「あなたはネガティブです」とか言われても、
それは正式な病気や障碍ではないし、なんらかの公的な援助が受けられるわけでもない。
あるいは病気や障碍とまでは言い切れない「グレーゾーン」なるものも存在するようである。
そういう「個性」が明らかになったときに、自分はどうするのか?
自分がその個性とどう「付き合ってい」くか考えていくべきなのではないか?
もちろん病気や障碍には「どうにもならない」「仕方がない」部分はあるし、それに伴う人並み以上の苦労もある。
自身の身体をコントロールできない病なら、どんなに偉そうにして厚かましい要求をしてもいいのか?
自身の精神をコントロールできない病なら、コントロールを諦めて好き勝手罵詈雑言を吐いてもいいのか?
一般人にとっては、大義名分があるから批判することは難しい。でも人として嫌な思いはする。
そうして直言を受けることなく、一部の優しい人に甘やかされ続け、他の人からは疎まれ、
傍若無人にしてある種の孤独なモンスター、言い換えれば「裸の王様」が生まれる。
とくにマイノリティにおける過激派は、どいつもこいつもこうなってはいまいか?
大学の授業に通えていない現状を憂えてのことであったと思われる。
当時の自分は「怠けているだけなのに病院に行かせてくださいだなんて…」と、
今思うと「たとえ病気でなくても」医者にかかったほうがよかったのではないかと思っている。
結局二度と機会は訪れなかった私であるが、
大学生時代におけるリアルとネットの交流を通じて多くのことを学び、
時には大きなトラブルを起こして教訓を肝に銘じ、
また時には友人からの諫言も受けつつ自分を自分なりに成長させることができた。
かつては絵に描いたような「メンヘラ」だった私も、
今では精神疾患を冷静に分析し、自身を客観的に見られるようになり始めた、と思う。
そうか?と思われるかもしれないが、少なくとも昔よりはマシである。
なぜなら今思い返すと「昔の自分」が恥ずかしくて仕方ないからである。
未だに昔の自分に同情する部分もないわけではないが、
一方で人の振り見て我が振り直すことも多くなった。
それだけ人の、自身の「醜さ」というものをより理解できるようになったのである。
自身の気分の落ち込みも「これは見苦しいな」「こうすればおさまる」と自己分析し、
専門家によらないセルフコントロールを自分なりに築き上げてきた。
そんな自分から見ると、コントロールそのものを放棄している人が理解できないのである。
現代は科学と西洋医学の時代であり、「病気を治す」ことに邁進しているものと思う。
しかし一方で、「付き合っていく病気」というものは決して無くなるものではない。
今のコロナ禍においてもワクチン接種が進む一方で感染は防げない!と言われたり、
新たな生活習慣においては鳴りを潜めたことで、日々の感染対策の重要性が浮き彫りになった。
ワクチン打てばかからない!でもなければ、タミフル飲めば大丈夫!でもなく、
自分ができることをして病気と付き合っていくことこそが大事であると改めて示されたものと思っている。
以前ネット上で「自分の機嫌は自分で取る」という言い回しが話題になった時には、
それができるかどうかはさておき、やろうと思わなければ始まらないのである。
不機嫌な自分を正当化するだけでは、だだをこねる子供と変わらないのである。
自分の心をなだめてあげること。
心の不調の原因に向きあうこと。
それをやらずして「病気」に甘んじていては何の意味もないのである。
人はたいてい、何かしらのハンデを抱えている。
病気や障碍を隠して生きるよりかは、カミングアウトできる世の中であってほしいが、
カミングアウトを免罪符と誤解している人間は、その秩序を乱してしまう。
自分に対しては、病気や個性を認め、なるべくコントロールしてみよう。
他人に対しては、病気や個性を認め、なるべく受け入れてあげよう。
それらが並立して初めて、やさしい世界を体現できるのではないか。