はてなキーワード: 三鷹とは
周囲の男の人が助けてくれるとは限らないし、痴漢加害者に行為をやめさせたい=安全ピンですよね。善良な男性が助ける義務もメリットもないからこそ、被害者は自分で対処する必要がある=安全ピンだったのでは。
東京などの乗車率が異常な満員電車だったら誤爆の可能性は高くなるとは思いますし、三鷹とかの事実不透明な事件が増えることは当然ご存知だと思いますし恐らくそれを危惧されてのことだと思います。ならばこの議論に「未関係の善良な男性」を守るとして、解決策も何もなく嫌だ嫌だとゴネるばかりでは痴漢関係が何も解決せず、未関係で善良な男性がこれ以上巻き込まれる確率が減らないだけだと思います。
でも東大のジェンダー研究の先生ですら、上野スピーチに登場する『彼女は頭が悪いから』に不当なマンスプレイニングかましたりしている現状があるんだよね。
現実は小説より奇なり〜東大ジェンダー論教授のマンスプレイニング公開処刑現場
http://makimaki626.hatenablog.com/entry/2018/12/27/165530
瀬地山氏、発言の番になったら、この本の「ファクトチェック」を始め、「三鷹寮はあんな狭いのになぜ広いって書いたんですか」は笑いになったからまだいいとして、「女子学生が1割って書いてありますけど、実際は2割ですよ!」とか(圧倒的少数であることに変わりはないじゃんと思っちゃった)、「東大生は挫折を知らない、みたいな書き方ですけど、みんな苦労してますし、僕だって挫折してますよ!」って、まあ大変なことあったんだろうけど、あんたのことは知らんわ、これ小説だし。と思った。彼の指摘は「リアリティを感じられず、東大生はこんなんじゃない!と思った時点で東大生はこの小説に入り込めなくなってしまう、拒否感が出てしまうから彼らに届かない。挫折を味わって屈折してああいう犯行に及んだっていう話にしたほうが、東大生にもわかってもらえたはずだ」みたいなので、あたしゃ「別に東大生に共感させようと思って書かれた本じゃないでしょ」と思ったyo。
女性専用車両の必要性を一般向け記事で解説していた瀬地山先生ですらこんな反応をしてしまうのを見ると、東大の男子学生に上野先生の真意がどこまで伝わっているか少々不安が残ってしまう。
東京に住んで2年が過ぎた。これまで自分は車もバイクも自転車も持たない暮らしをしていた。東京に住んでみて電車があればどこでもいけるので、車はいらないと思っていた。自転車はあったら少し便利な気はしてきていた。
ある日実家に帰ったときクロスバイクが使われずに倉庫に入れてあるという話を聞いた。ちょうど欲しかったので東京に持っていった。
輪行袋に入れたまま最寄り駅まで持っていこうと思ったがあまりに重かったので、途中の駅で降りてそこから自宅まで乗って帰った。
グーグルマップで示されたルートは普段自分が使う中央線の南側の始めて入る土地だった。
新宿の大きな道路を抜けて、世田谷の住宅地に入り、三鷹の天文台の近くを通った。途中からは東京らしさはあまり感じられない郊外の住宅地という雰囲気だった。電車は近くを通ってないし移動手段は車か自転車という地元の感じに似ていた。
唐揚げ屋に寄ったり、住宅地のラーメン屋とか小川とか公園に寄ったりで楽しかったな。
東京にも車生活の地区があるんやな。東京では車がいらない、という言葉がこびりつき過ぎてて、自転車に乗るまであまり気づかなかった。知識として車に乗ってる人がいるのは知っていたけど、車社会があることを今回初めて感じられた。
普段は電車で行けるところしか行かないし生活スタイルや土地柄車はいらないけど、車社会って実は東京でもすぐ近くにあって自転車で行けることに気がついた。
東大に入学した春、僕は父親の年収が700万円だと知った。日本学生支援機構の奨学金に申し込むために、世帯主の収入が必要だったからだ。
当時の僕は父親の年収を見て、「こんなもんか、思ったよりは多いんだな」などと考えていた。東大生の親の世帯年収は、約半数が1000万円以上だという。
https://www.nenshuu.net/sonota/contents/toudai.php
1000万円というのが金持ちの一つの基準で、それに足りないウチはやっぱり中流階級なんだと思った記憶がある。僕は地方都市の郊外、人口5万人程度の町で生まれ育ち、小中高(駿)大と1年を除いてすべて公立で済ませてきた。父母僕弟の四人家族で車は国産の普通車、家は駅から少し離れた3LDKのマンション、外食は月に一度するかしないか、98円の卵のために朝からスーパーに出かけるような、至って普通の家庭だ。中高時代はスーパーのフードコートでマックポーク1個だけで粘り、近所の友人とオタ話に花を咲かせた。高校は街中にあったので、放課後にラーメン屋に誘われることもあったが、月5000円の小遣いがラーメンに消えるのが惜しくて断ることが多かった。
これが普通の金銭感覚だと思っていたし、今だってそう思っている。
父親の年収700万円が基準額より高かったので、結局無利子の奨学金は借りられなかった。なので、学部生時代は親からの仕送りで過ごした。ボロアパート5万5千円の家賃と、それとは別に5万円の生活費を毎月親から貰っていた。
仕送りの額について友人と話していて感じたことだが、どこまでを仕送りの額として申告するかは個人差がある。家賃込みの額を言う人もいれば、携帯代も光熱水費も全部親が払っていて、本当に自分の自由に使える金額を申告する人もいた。僕は、携帯代と交通費と光熱水費は自分持ちの5万円だ。
東大に入ってできた友人は、世間の言うほど金持ちではなかった。毎日のように高級なランチを食べるだとか、服に月に10万円使うとか、そういう人はほとんどいなかった。医者の一人娘の女子が親からクレジットカード丸ごと借りていて、自由に使っていいという話を聞いたが、流石にそれはウワサ話になるぐらいには少数派だった。
三鷹寮に住んでいた友人は、本のためにバイトに明け暮れていた。
あらかじめ言っておくと、ほとんどの東大生の親は、子供の本代を惜しまない(と観測範囲の中では思う)。僕の仕送りは5万円だと言ったが、学期初めの教科書代は別途追加で送られてきた。公立の高校でさえ周囲はそうだったから、そもそも(子供の学歴にかかわらず)本を与えてくれる親は多いのだろう。でもやっぱり、書籍部で1冊数千円する専門書がドカドカ売れていくのを見ると、東大生は本にお金を使うし、親もそれを惜しまない傾向は他の大学に比べて強いのだと思う。そんな環境の中、三鷹寮の友人は本を自分で買っていた。外部の人に説明すると、三鷹寮というのは東大直営の学生寮で、月1万円ちょっとで住むことが出来る格安の家賃が魅力だ。その代わり、三鷹にあるのでキャンパスから遠いのと、入居者には所得制限がかかっている。なので、三鷹寮に住んでいた時点でその友人はさほど裕福な方ではなかったのだろう。僕は不躾にも、彼に「本代を親に頼まないのか」と聞いてしまったことがある。彼は「授業で指定された教科書代は貰っているけど、こういう本は教科書じゃないから」と言った。理系の僕にはよくわからなかったが、彼の買う本は美術論や建築物の写真集だとか、普通の本屋にはあまり置いてなさそうな文化的なものばかりだった。普通のハードカバーの小説みたいなサイズの本が、3500円した。「これは教科書でも、研究用でもなくて、ただ自分の興味のために買ってる」と言う彼の姿は、僕には少しまぶしく見えた。
東京の私立中高一貫男子校出身の友人も、いつもお金に困っていた。サークルの活動には熱心に参加するが、その後の飲み会は断ることが多かった。そのくせ、誰かの家で二次会をやることになると「宅飲みなら安いから」という理由で必ず駆け付けた。大学進学後、彼の家のルールでは小遣いがゼロになり、遊ぶ金が欲しければバイトをしろということになったのだそうだ。実家住まいだとこういう人は何人かいたように思う。僕は仕送りを貰っていたので携帯を格安スマホに切り替え、自炊でケチれば、浮いた金がそのまま自分のものになったが、実家住まいの人間はバイトをする以外の方法でお金を得ることができない。その上、友人は郊外に家があったので、通学に1時間半ほどかかり、夜遅くのバイトができないのだと愚痴っていた。
大人になった今少しわかるのは、東大生の親は確かに金持ちだったが、教育費と都心の住居費に金を注ぎ込んでたのだということだ。だから、食事や服、旅行などのわかりやすい贅沢はしない。その代わり、海外の大学への留学費数百万円をポンと捻出するし、子供が女子だったらセキュリティのしっかりした家賃10万円のマンションを借りる。でも、遊ぶためのお金を直接子供にくれるわけではない。大学が忙しくてさほどバイトができなかったから、僕らは他の大学生に比べても飲み会なんかの遊びにお金を使わなかった。こういうわけで東大生は自分のことを貧乏だと思っているのだと思う。
大学院を修士で卒業した僕は、今は某メーカーに就職して、工場のある田舎で生活している。1年目の盆休み、帰省した僕は数か月遅れながら初任給で親を食事に連れて行った。話題は当然、僕の仕事のことばかりだ。そのうち、給料の話になった。ごくごく一般的な修士卒の初任給の額と、冬のボーナスの金額の目安を告げると、母は「お母さんの給料なんてすぐに抜かされちゃうわね」と答えた。
その瞬間、僕は重大な事実に気づいて膝から崩れ落ちそうになった。
どうしてこんな簡単なことに6年間もの間気づかなかったのだろう!
僕 の 実 家 の 世 帯 年 収 は、1000 万 円 を 超 え て い る !
共働きであったことを知らないわけはない、ないのだが、父親の年収を知った時の僕は母の給料をそれに足すという単純な足し算ができなかったのだ。弁明すると、僕の父親は700万を稼いでいた当時50代前半で、年収がピークにある時期だ。僕の家が世帯年収1000万円を超えていたのはわずかな期間だろう。そして、僕らの親世代にとって年収700万円というのは50歳前後の男性の年収の中央値で、僕の父親は周囲と比べても実際凡庸だったのだ。母は専門職のフルタイム勤務ながら、年収300万円代で、これも稼いでいるとは到底言い難い。僕の父親も母親も、普通の人で、並の年収だったので気づくのがだいぶ遅れたが、共働きのおかげで世帯年収は1000万円を超えていたのだ。
その事実に気付いてからしばらくは、ショックで呆然としていた。僕の家のしゃぶしゃぶといえば豚肉だった。一体いくら稼げば牛肉のしゃぶしゃぶを食べられるようになるのだろう?同じマンションの住人でベンツに乗っている人がいたが、あの家の人はいくら稼いでいるのだろう?あるいは何を犠牲にしているのだろう?ハワイ程度なら僕も海外旅行をしたことがあるが、ヨーロッパに出かけている人たちはどうしているのだろう?僕は1000万円を稼げるようになるだろうか?東大を出たところで、この不景気では実家以上の暮らしができないのではないだろうか?
幸いというべきか、今の僕は30歳手前にして世帯年収1000万円を実現した。といっても、僕が600万、不動産営業の妻が400万円という内訳だけど。引っ越しや結婚式、新婚旅行など、金の吹っ飛ぶイベントが一通り終わって、ようやくゆとりが出てきたとはいえ、こんなもんかという感じは拭えない。そろそろ子供を持ちたいので、妻の収入が無くなるのを覚悟しないといけないし、子育てとマイホームのために貯金を続けているといったところだ。
妻は高いものを購入したい時、必ず僕に確認する。冬物のコートとか、デパートの化粧品とか(妻が怖じ怖じと切り出した割に、化粧品は6000円と意外に安かったのでそれぐらいなら確認せずに今後も買っていいと伝えた)。僕も相談するようにしているが、この間のカメラのレンズはOKが出なかった。これが年収1000万円の暮らしなのか、と考えると今でも不思議な感じがする。まだ子供がいないから多少ゆとりがあるだけの、「普通」の家庭だと思う。
多摩東部に当たる吉祥寺、三鷹に住んでたけど田舎を馬鹿にするのは知らないカルチャーだな。
あ、吉祥寺生まれの現在40歳くらいの人は何故かみんなタチが悪いけど、それより上は穏やか、下も和やかよ。
三鷹市民(多摩東部)は三鷹市が凹型で「市民」ってまとまり意識がめっちゃ薄い。世田谷の方が近かったり杉並の方が近かったり調布の方が近かったり吉祥寺のほうが……略 でみんな拠点が違うし都会人!とも思ってないから近所づきあいとか楽でみんな親切よ。
ほかの県の印象……アパートより寮が多いんよこの辺、だから悪く行った覚えもないし聞いた覚えもない。むしろ都内の「三茶まじもうダメだな」とかのが多いな
こういうの書きたくなるね。自分が頑張ったことは思い入れがある。
・小学生
関西の田舎の町立小学校に通っていた。友達がみんな塾に行っていたのが楽しそうだった。
「僕も行きたい」と親に言ったことがあったが、なぜか断られた。
自分が子を持った今なら分かるが、3人目の私にお金をかける余裕がもはやなかったのだと思う。家にはアップライトピアノがあって姉が習っていたが、自分は習いたいと言ってもお茶を濁された。
父は会社勤め。ホームレス気質の天才タイプ。母は専業主婦。真面目な秀才タイプ。親は教育に興味が無いわけではなかった。むしろかなり意識的な独自の戦略のようなものを持っていたと思う。
小6の夏休みに入ると、「レベルの高い学校に行くとめちゃくちゃ楽しい」などと、うまいこと母に言いくるめられて中学受験を決心した。
「力の五千題」とか「自由自在」を各教科買ってきて、夏休みに二回ほど通した。なにかババのようなものを掴まされたような気もしなくもなかったが、面白かったので続けた。
秋からは応用問題集、冬になると過去問をやった。模試は受けなかった。「自信を失わせたくなかったから」とあとで母から聞いた。どういう意味だ。
私立を2つ受けてどちらも合格した。ちなみに、受験直後の自分の感触としては98%落ちたと思っていた。未だに謎である。
・中学生
強制的に勉強する時間が毎日3時間あった。小学生の頃とは比較にならないほど学校の授業を面白く感じたので、予習・復習をやった。みんながやっていたので、ラジオ英会話を毎朝聞いて、テキストを暗記した。完璧な発音でテキストの会話を一人で完全再現できるようにしていた。一年でイギリス人の先生と普通の会話ができるようになった。
中学3年生のときに、全員がZ会の模試を受けることになった。はじめての模試で超わくわくした。総合で全国100番位だった。初めて自分の立ち位置を知った。思ってたより良いという感覚。でも同じクラスに全国一桁台とかが普通にいた。
音楽室に個室のピアノ部屋が5台分あった。昼休みにほぼ毎日通ったので、結構弾けるようになった。今考えると異常な環境である。音大かっていう。親友にピアノが超すごいやつがいた。ヤマハをずっとやってきた人で、聴いたら即弾ける、ハ長調の譜面を初見で見て変ロ長調で弾ける、メロディを見ると即座にステキな伴奏を思いつく、など。理解不能である。ピアノをメインの楽器にするのはやめようと思った。
・高校生
下宿に移り、自由になった。学校以外で勉強しなくなった。暇なので、絵を描いたり生徒会をやったりピアノの人などを誘ってバンドをやったりと、生活を広げ始めた。
授業中に予習復習などすべて授業を聞きながら終わらせたので、成績は特に落ちなかった。
こういうことを書くと、舐めてるとか自慢とか思われるわけだが、違うんだ。
自分なりに一番効率が良い方法を追求していた。授業中に寝て、家で数時間独自に勉強するみたいな非効率的なことはしたくなかったのだ。
授業は120%の集中力で聞く。それでも時間が余るので、次の予習をしたり、問題の別解を考えたりしていた。家で半徹夜で何時間も勉強している人たちよりも結果的に長時間勉強していたと思う。だって毎日9時から17時まで勉強していたんだもの。毎日7時間くらい集中して勉強しているのに、「増田は勉強せずに成績が良いな」みたいなことを言われてたのは未だに納得がいかない。
高2で東大模試を受けてみると、理三以外はすべてA判定だった。理三だけが完全にE判定だったので、「は?しばくぞ」と思った。
なんかの奨学金でアメリカにただで行けた。夏休みの一月まるまるESL漬けで楽しかった。自分の英語力はあんまり大したことないと気づいた。同級生にアラブの皇太子とかトルコの首相の息子とかがいた。そういうのも自分には無い。
高3になって流石にクラスの空気も変わり、自分も放課後も勉強するようになった。小学生の時は夏休みからの半年でなんとかなったけど、さすがに東大は一年位はやらないとやばいだろという感覚があった。
一学期にあった駿台統一模試で、英数国の三教科の偏差値が80を超えていた。一方で、本来好きな理科がボロクソだった。準備不足を痛感して夏休みに強化することにした。
・高3夏休み
化学生物だった。教科書はさすがにすべて頭に入っていたので、いよいよ応用問題週に手を出すことにした。東大の過去問をちら見すると、化学の出題の半分くらいは似たような問題しか出ないことがわかったので、同じ問題を何十回も解いた。滴定とか。30分かかって6割しか正当でいなかったところから、5分で100点の回答ができるようになった。時間が余るので、初めて見る問題をゆっくり考えられて便利。生物は、問題文に答えが書いてある。
一方で、わりと大丈夫そうな主要三教科は、根本的なところをやることにした。
・数学
チャート式などは数冊終わっている状態。大学への数学をひたすら解く。新しい問題は、ひたすら考える。未知の問題に解法の方針を立てる練習。
・英語
TIME誌を定期購読していたので、毎号気になる記事を一つまるまる訳してみる。超大変。NEWSWEEKにすればよかった。のだが、一年分定期購読してしまったのでやるしかない。んで、訳したあとは要約を英語で書いてみる。ラジオ英会話はビジネス英語までランクアップしていた。正直東大受験ではこのレベルのリスニングやスピーキングは当時必要なかったので、聞き流していた。ハマっていたのはパーソナリティの訛りを真似すること。
・国語
Z会の小論文をやっていた。元来文章がそんなにうまくはなかったけれど、読むのも書くのも好きだったのでこれは半ば趣味。結果的に200字作文に多少役に立った。
・高3秋
9月に学校の最後のイベントがあり、燃え尽きた。勉強は2ヶ月ほどお休み。焦りはなくはないが、みんなそれで合格するやつは合格するっていう先輩の像を見てきている。今回は自分がそれをやるほか無いという感覚。流石にバンドは解散した。
・高3冬
英語198
数学191 まさか満点じゃないとは。世知辛い。東大理系はわりとこういう感覚だと思う。
国語167 古文漢文論説は150/150。小説でめっちゃ間違えた。こういうこともある。
化学100
倫理93 一応、山川の倫理用語集を3回くらい読んだ。手抜き教科のつもりが、哲学に興味が芽生えた。大学に入ってから、哲学系の本をたくさん読んだ。自己形成に大きな影響を与えた。人生何が大事かわからん。
合計
前記749/800
後期489/500
・センター試験後
ようやく赤本に取り掛かった。感想は、英語簡単すぎ、数学難しすぎ、国語意外とお得、理科けっこう簡単。
というわけで薄々気づいていた数学の不安定さと、国語のお得さに焦点をあてる。数学が0点でも受かる謎の計画をたてる。国語は最後の一ヶ月だけ、古文漢文を個人の先生に習った。
ちなみに東大模試は3社2回とも全部受けて、最後を除いてすべてE。でも成績は徐々に上がって最後だけはC判定だったので、本番の頃にはB判定くらいになってるんじゃない?と思っていた。
・本番
当日はなぜか20時に寝て、25時に覚醒し以後眠れないというアホなことをした。
ただ全く寝てないわけでもないし、ただ少し眠いだけなのでやるしかない。
国語 60/80 ほぼできた。
数学 40?/120 難しすぎ0完6半ワロタ。。1完だと思ってたのに、弥生門を出たところで配ってた駿台の速報を見たら計算ミス発覚。かなり暗くなったが寝たらわりと忘れた。
生物 50/60 多分まあまあできた。
化学 55/60 多分ほぼ間違えてない。
合計 325/440 数学が0点でもギリ受かるかも?と思った。
・発表当日
赤門から会場へ向かうと、のちの上クラになる姉が向こうからやってきた「あ!○○ちゃん、受かってたよ!」
弟に「ちゃん」づけはまあしょうがないとして、俺が知るより先に結果を言うなよ。未だに恨んでるぞ。
家賃が安いという理由で三鷹寮に申し込んだのだけれど、その書類を集める際に親の年収が600万であることを知った。そりゃ無理だわ、塾もピアノも。ちなみに中高は奨学金もらってた。それでも親は教育のために借金してたんじゃないかな。決定的に計算が合わない。ちなみに三鷹寮は生活費が安すぎて家庭教師のバイトだけで異常に金持ちになった。楽器を買ったり海外旅行に行ったりした。ヨーロッパまで6万円で行けた時代である。さておき、感覚としては、医者になってまともな収入がある今よりも、当時は自由に使えるお金があった。人生まじで謎である。