はてなキーワード: 菅野完とは
なるほどね。
最初は戦後の名前を引き合いにだしてるのか思ったが、グーグル先生で調べてみるとどうもそれとは違った「大日教」が存在したようだ。
同じbotのつぶやきには「大日教祖杉本と信者某との質疑応答」とあるので、教祖の名前が違うからだ。
あとは戦前の「天津教」皇祖皇太神宮天津教 - Wikipedia
(現 皇祖皇太神宮天津教)が戦後の一時期は「宗教法人大日教」という名称だったのでこれかと思ったが、教祖名も違う。
とにかく、一次ソースが気になる。
んで、色々とネット上の情報だけで調べてみた結果、@hukei_botは「昭和特高弾圧史」からの抜粋であることは間違いなさそうだ。
Googleブックス(書籍検索)で「昭和特高弾圧史, 第 4 巻」を引き出し、書籍内検索で「杉本」と検索すれば同じ内容が引っ掛かる。
現在のGoogleブックスは著作権のある書籍は全文表示ができないから(開始当時は見えちゃった気がする)ブツ切りのような情報しか得られないのが難点。
同じく「特高外事月報」と合わせて見ると、全日教教祖は1942年当時60歳、起訴時東京在住、滋賀県出身の大日行者、杉本金治郎というのが裁判記録らしきものから分かる。
108 ページ
... は神去り給ひてより其の誠が大日如来に包摂せられ其の如来は宇宙に瀰漫せる大
自然の誠にして人類並に一切の物を創造し且永遠に之が霊的及現実支配を為たりと
称し、大日教なる教理を創説し爾後之が宣布に努め来たりたるものなる処、該教理たる
や大 ...
「特高外事月報」
59 ページ
... 知得したりと構し、大日教なる教理を創説し衛後之が宣布に努め来たりたるものなる
慮、該教理たるや大日如来は宇宙に瀬夏せる大 ... 四月頃道了奪が大日如来なることを
CiNiiでも引っ掛かった。
CiNii 論文 - 内務省による宗教弾圧 : 創価学会の場合を事例として
CiNii 論文 - 宗教法人法の改正をめぐる問題点 : 宗教団体に対する管理の要素の導入の有無と是非(松本保三先生退職記念号)
1942年の治安維持法違反・大日教事件として記録されている。
しかしまあ、通常のGoogle検索では引っ掛かららんのだね。
戦前・戦中期日本の言論弾圧 (年表) - Wikipedia
↑これにも出てこなくって、忘れられた宗教みたいだ(前述の竹内文書教のせいもあるだろう)
疲れたのでこれまで。
(追記)
(追記2)
↑当時60歳というのが厳しいだろう。
宗教団体法とか治安維持法について知っていたけど、ちょいちょいググってみて、改めてこのあたり軽く考えてたな、と思ったりした。
追加の情報としては
28 ページ
明石博隆, 松浦総三 て、此の大日もその為に行を積んでゐるのである、その修行も半ば
「大平山大日教」ともいう様子。「大日教」が「大日経」の意味で使われる事が多いからかな。
https://www.google.com/#tbm=bks&q=%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%95%99]
バゲットとバケットの区別などどうでもよいという反知性主義的な言説が散見されるサービスがはてなであるが、この区別が重要なものであることは論をまたない。以下にその理由、混同の原因を示す。
これはひとえに、フランス語の発音を英語の発音と混同することによる。
バゲットはフランス語のbaguette(発音記号:bagɛt)
バケットは英語のbucket(「バケツ」の意 発音記号:bʌ́kət)
混同が起こるのは、当然のことながら、話者がフランス語を知らないためである。
たんに恥ずかしいというだけでなく、英語とフランス語の区別ができない人が発する言説の信ぴょう性に、深刻な疑義を生じる結果となってしまうためである。
以下に例を示す。
〔……〕4月に入ってからの、《Nuit debout》(ヌイ・デブー:起きている夜)という運動と関連のデモには特に関心をもっていた。
〔……〕《debout》の言葉からすぐに連想されるのは、「デブー!」が耳に残る《L'Internationale》(インターナショナル)の歌である
〔……〕
Debout ! les damnés de la terre !
〔……〕
(http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2016/05/nuit-debout-132.html 《Nuit debout》(ヌイ・デブー)のような運動が日本にもあってよいんじゃないかと思った. 強調は引用者による。)
Nuit debout(nɥi dəbu)の正しい発音をあえてカタカナ表記すると、「ニュイ・ドゥブー」となる。
フランス語の"u"(ɥ)は日本語にない母音で、ウの口の形をして、イといおうとしたときの音に近い。「ウ」ではない。
"e"(ə)については、
開音節(母音で終わる音節のこと)の場合、「ウ」に近い。これをけっして「エ」と読んではいけないことは、フランス語の初級クラスでアルファベットを教える回(つまり初回)に、かならず教える。
deboutを、英語のdebut(dibjúː)から連想して「デブー」と読んでしまう気持ちはわかるが、まちがいはまちがいである。
次の例。
言うまでもないことだが、「戦後レジューム」という言葉の「レジューム」とは、フランス革命の際革命勢力側が打倒の対象とした「アンシャンレジューム」という言葉の「レジューム」と同じ。つまり安倍政権は、戦後をアンシャンレジュームと捉える、革命勢力。#3分の2を取らせない— 菅野完 (@noiehoie) 2016年6月29日
戦後レジュームからの脱却を目指したら、労咳が蔓延するほどに労務環境は戦前に戻ってました。
。。。シャレにならんわ。— 菅野完 (@noiehoie) 2016年3月30日
「戦後レジューム」という謎の用語を安倍がいつ使い出したか。。。ってのは、結構重要なポイントのような気がする。— 菅野完 (@noiehoie) 2015年4月30日
「レジーム」は「和製英語」ではない。その語源はフランス語のrégime(制度、体制の意 発音記号:reʒim)である。
これを「レジューム」と発音してしまうのは、英語のresume(rizjúːm)が念頭にあるためと思われるが、当然のことながら、まったく意味の異なる単語である。
どれほど博学を披露し、先鋭的な知的営為を行おうとも、フランス語の初歩的な知識がないだけで、それは一瞬にして瓦解してしまう。
バゲットとバケットの区別ができない人間がなにか立派なことをいおうとしても、それはできないことは明白である。
中等教育段階においてのみならず、大学進学後もフランス語を必修科目とし、正確な発音の習得につとめることが必要な理由がここにある。
正しい。
用例:
Allez-vous-en. Vous n'avez pas d'aptitude pour passer un temps agréable sur Hatena.
(アレヴザン ヴナヴェパ ダプチチュード プール パッセ アン タン アグレアブル シュル ハテナ(フランス人的には「アテナ」))
https://itunes.apple.com/fr/app/dictionnaire-littre/id301211332?mt=8
http://www.lerobert.com/espace-numerique/telechargement/le-petit-robert-2016-pc.html
より精密に読む場合は、読むものの書かれた時代、調べたい分野にあった辞典を使う。
例:中世~ルネサンスの場合はAncien françaisやMoyen françaisの辞典がたくさんあるのでそれを使えばよい。
菅野完さんから性暴力被害を受けたというXさんからの依頼で、7月14日に「菅野完 noiehoie の性暴力」というエントリーを上げました。
http://c71.hatenablog.com/entry/2016/07/14/153922
これは自発的に書いたものではなく、一部の人の思惑に沿って書いた作為的なエントリーでした。善意からとはいえ係争中の案件を裏取りもせず、頼まれるまま無責任に書いてしまったことを関係者の方々、ならびに読者のみなさまにお詫びしたいと思います。
この件には私が知る限りでも週刊金曜日編集者の方、係争事件の弁護士の方、濁山ディグ太郎さん、中島岳志さん、山口智美さん、いとうせいこうさん、朝日で女性問題を多く取り上げている林美子記者始め多くの方が水面下で結束しています。私はこの繋がりが純粋に性暴力被害者を救済し、再発を防止するためものなのか、菅野完さんの日本会議批判と関係があるのか、疑問を持っています。
7月14日、Twitterフォロワーであるfさんから性暴力事件についてのエントリーを被害者を助けるために書いてほしいという連絡があり、被害者を名乗るXさんとグループチャットでお話しました。私は自分自身が性暴力被害者であるため、そこで聞いた話と発売前の週刊金曜日のキャプチャの内容に強い衝撃を受け、フラッシュバックで正常な判断力を失ってしまいました。Xさんとも菅野完さんとも面識がないにも関わらず、被害に遭ったというXさんとかつての自分が重なり、無条件で力にならなければならないと思い込んでしまったのです。
見ず知らずの方の係争中の案件に関わることは軽率なのではないか、発売前の雑誌の紙面を大きく掲載したキャプチャの使用が著作権の侵害に当たる場合、その責任は誰が取ることになるのか、そういったことについてさえ十分に話し合うことなく、とにかく発売までにエントリーをアップして拡散させなければと必死で記事を書きあげました。
パートナーは私が本業の準備、食事や持病のための休息時間も犠牲にし、フラッシュバックでふらふらになりながら、ひたすらテキストの加筆修正を繰り返す様子を見て、とても心配しました。彼は当初から先方がこれだけの依頼を出しておきながら、執筆料の申し出を一切しようとしないことにも疑問を持っていたようです。
長文のテキストであることに加え、Xさんと彼女の支援者を名乗る人たち、また弁護士や週刊金曜日編集部からの要望が後からいくつも追加され、私はその度に細かい修正に応じました。加筆修正の度、何度も何度もおぞましい性暴力のについて読み返すことで自分自身の性暴力被害が蘇り、吐き気と動悸と冷や汗でとても苦しかったです。でもそのときは「性暴力被害を許してはならない」「被害者に自責の念を持たせてはならない」ということしか考えられませんでした。
ようやくOKをもらったエントリーはXさんの支援者ではなく、紹介者のfさんを通じてリツイートしてほしいと頼まれました。私と同様事件と無関係のfさんがなぜ?と疑問思いましたが「被害者探しを避けるため」といわれ、「被害者を危険に晒す気ですか?」と脅されているように感じ、何も言えませんでした。
また「フェミのお仲間を通じてリツイートしてほしい」「互助会!互助会のノリで、お願いします!」という言葉には(フェミの仲間なんていません。一人一人が自分の考えで発言しているんです)(互助会なんてありません)と思わずにいられませんでしたが、言い返すだけの気力もなく、上手く言葉にすることができませんでした。
パートナーはXさん、濁山ディグ太郎さんらに新規はてなidを取得してブログを書いたり、増田を使って匿名エントリーを上げてみたりしてはどうかとすすめましたが、誰一人それに応じた人はいませんでした。憔悴している私を傍で見ていた彼は私一人が矢面に立たされることに強い憤りを感じており、それを見ているうちにようやく私も「これは何かおかしい」と自分の感覚の異常に気付くことが出来ました。
私は自己評価が低く、記事の作成を依頼されたときも「なぜ私が?」という思いがありました。そのことについてXさん、naeさんらから「自己評価が低いからこそ被害者によりそういい記事が書けた」といわれたとき、限界が来ました。私自身は自己評価の低さと戦うため、これまで命を削ってきたからです。個人差はあると思いますが、性暴力被害者が自分を無価値であると考えるのは謙虚さとは違います。この苦しさは「だからよかった」といえるものではありません。
記事を書いている間の緊張とエントリーの反響、そして休息や食事を後回しにしていたこと、何よりフラッシュバックで普通の状態でなかったことが重なり、私はXさんの支援者の皆さんに感情的な反応を返してしまいました。そのことはお詫びしたいと思います。
しかしようやく少しだけ判断力を取り戻したいま、パートナーをはじめ友人たちに話を聞いてもらい、この件を伏せておくことは良心的に出来ないという結論に達しました。私は知らずに政治的な駆け引きに加担し、証拠不十分な係争中の事件について、言われるままに一方的な宣伝をしてしまいました。裏で糸を引く大勢の人たちの思惑に従い、とても公正とはいえないやり方で日本会議批判を攻撃する立場に立っていました。
このような事情によってあのエントリーを書いたことを読者のみなさんに知っていただきたいと思います。このような結果になったのはひとえに私の迂闊さと甘さによるものと反省しています。今後は利用できそうな人間は誰彼かまわず利用する人の餌食として踊らされないよう健全な自尊心を持ち、自分と他人の心の境界、責任の所在を明確にしていきたいです。他人の回復の前に自分自身の安全を守ることが、私を大切に思うパートナーや友人たちへの愛情だということを忘れないでいたい。またXさん、菅野完さん、そして日本会議に対する思想や立場について、感情的な思い入れに流されない視点を持ちたい。都合よく踊らされるのはもうたくさんです。
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「私は性暴力被害者です」と豪語している人たちの醜い内ゲバを見てしまった。
あの人たちは常日頃から「私は性暴力被害者です!」「それはセカンドレイプです!」という魔法の言葉で責任を全て人に全て押し付けている。
菅野完の性暴力を非難するにあたって、そんな馬鹿野郎たちが連帯した。
全て人に責任を押し付けるような奴らが連帯して、うまくいくはずがない。
結果として、性暴力被害者たちの醜い責任のなすりつけあいが起こった。
見ていて気持ちが悪い。
彼女らは自らに突っかかってくる人に対して「それはセカンドレイプです!」と攻撃する。対話もなにもない。
彼女たちのような醜さが日の目を浴びることによって、性暴力被害者は「醜くヒステリーで近寄りがたい」という印象を与える。
正直言ってやめてほしい。
そんな人たちと一緒だと思われたくない。
護憲派で特にとんがってる菅野完さんがまたなんかおかしな記事書いてる。
「経済政策で野党がダメだから自民党に投票する」という愚劣さについて
いつもおかしなこと書いてるけど今回は特にひどいね。「啓蒙」の考え方が暴走しているうえに、ウソを言って人をだまそうとしてる。もはや「啓蒙」ですらない。ただの「洗脳」か、読者を馬鹿にしすぎてるだけのただの狂信者という趣だ。
井上達夫さんは「リベラリズムの基本的な価値である正義は、他者に対してフェアであること。正義とは他者に対する公正さ。」「リベラリズムの源泉は啓蒙と寛容の伝統。自分の他者に対する要求や行動が自分の視点からだけでなく他者の視点からも正当化されているかを自己吟味することが必要。正義は自分の要求を他者に押し付けることではない。」と語っていたけれど、上の記事にはそういう観点がないので、この人はリベラリズムとは縁がない存在と思いたい。 護憲派と一緒にされるの心底迷惑だ。
「安倍政権のやり方に危惧を覚える人々ですら、野党やリベラルはもっとひどいという不安があって、世論は、安倍政権の強引な手法に不安を抱えつつも、より害悪が少ないものとして支持している」
ほんまこれな。菅野さんだけがとがってるならいいんだけど、上で書いてるようなことを他にも主張する人がいて、完全に目がイッチャッてるのに自分は優良な人間で周りが愚かだと思ってるからもう完全に救いがない。
原理主義的護憲派と修正主義的護憲派という二種類の護憲派。専守防衛であったとしても自衛隊の存在そのものが違憲と考えるのが原理主義的護憲派。専守防衛の枠内なら自衛隊は合憲だと言ってしまうのが修正主義的護憲派。
専守防衛の自衛隊や安保を政治的に必要だからという理由で事実上容認しつつ、専守防衛の自衛隊を認める明文改憲には反対。自衛隊の違憲状態を固定化しているという意味で原理主義的護憲派は憲法を守っていない。
修正主義護憲派も、現実主義的に見えるけど、9条2項を考えるとあからさまな解釈改憲。世界第二位の自衛隊が戦力ではないということになり、米軍とともに行う自衛権の行使が交戦権の行使ではないということになる、無理な解釈改憲。原理主義的護憲派も修正主義的護憲派も憲法を守っていないので、安倍政権の集団的自衛権容認を違憲だと批判するのは欺瞞。この欺瞞ゆえに護憲派の安倍政権批判が力を持てないし、このような考えはリベラリズムとは何の関係もない。護憲派をリベラルと呼ぶこと自体がおかしい。
リベラリズムは憲法の精神や立憲主義を守るという意味では基本的に護憲の立場ではあるが、日本の護憲派は憲法を全然守っていない。リベラリズムが護憲を主張するのは「憲法に定めていいのは、特定の党派に有利にならないような公正な競争ルールと、少数者を保護するための基本的人権」だからだ。
にも拘わらず、護憲派を主張する上記人物は自分の意見に沿わない人は愚劣だと罵る。これは憲法の精神に反しているので話にならない。なんちゃってリベラルであって、主義主張として評価すべき点がない。ただの自分の意見をごり押ししたいだけのわがままちゃんだ。 この人たちは護憲派とよぶことさえも語弊があると言える。
こういう人と一緒にされるのは耐えがたい屈辱である。リベラルの立場からも、この人の今回の記事は遺憾であると述べさせていただきたい。
菅野完著「日本会議の研究」を読んだ感想、ではなく、疑問点をつらつら書いていく。ホントはまとめて読者お便りにでもしたかったのだけれど、切手代が惜しくなったので、気になった点を列挙していく。なお、これを読んで本書の内容を知った気になって恥をかいても知りません。
以上のように、筆者が単行本化に際して加筆修正すべきであった点を放置して世に出したのは、筆者と出版社の怠業である。一方で、本書を「巨大陰毛組織、日本会議の全貌」のような内容という理解で評価するのは本書を読んでいないか読解力が不足している。