はてなキーワード: 実践とは
死のうとしてるんだぼく。っていうのは認識した。
でもがんばって生きようとしたんだよ。
その心を折る人がいた。折ることに成功した。だから、生きようとはしていない。でも死のうともしていない。
死のうとしてるんだぼく。っていうのは認識した。
だれかの心を折れる人が、うそでもじょうだんでも、折ろうとした。折ろうとした後に、事故が起きた後に折ろうとするなということが同じ文章を操るものとして許せるかどうか。
心を折るということを冗談でやろうとしたということを認めるかどうか?
むずかしいはなしだが・・・
てめー15年前からだなぁ。
さいや人ではないけど、死ぬほど心を痛めつければ、復活する力で強くなれるのという風に学説をとなえて実践したな?
つまり
プチ炎上した一回目の動画はただ単に噛み合ってないだけのお笑い動画に思えた。
しかし、二度目の朝倉と塩田のコラボはひどいというほかなかった。
朝倉はいつもの朝倉節で本気か嘘かもわかりにくい舐めプドッキリから入った。
後半の塩田の動画は大量の特典と豪華な肉を用意して朝倉を歓待する、というへりくだりようだった。
しかも、肉の前後には朝倉に合気道の秘伝技を伝授し、祖父の塩田剛三と縁を持つ刃牙の作者、板垣恵介を紹介するという接待ぶりだ。
問題は舐めプの朝倉ではなく、腰が引けまくっている塩田の方だ。
彼は朝倉に対して、敵にも愛を、という本質から外れた愛を語った。
当たり前だが実践派で路上の伝説の朝倉がそんなふやけた言説を聞くはずもない。
愛がどうのこうのはまともにやりあった矢地と朝倉が言うぶんには問題がない。
祖父の塩田剛三なら一度手合わせしてわからせてやろう、程度はかましたはずだ。
あの動画を見て少なからず直感的に意見した人がいて、見ていてギスギスヒヤヒヤすると述べていた。
自分もほぼ同意見だ。他にもこれは愛ではなく媚だと述べている人もいたが、賛同しか感じない。
朝倉は歓待に関わらず終始会話が進んでいなかったし、相手動画の撮れ高をあげていたことがむしろ印象的だった。
そして動画の内容は殆どスタッフ佐々木くんが撮る未来チーム風の動画に仕上がっていた。
もはや塩田そっちのけで、自分たちが滑ってはならないという雰囲気すらある。
実際塩田はノリがうまくつかめず、場を静かにするばかりだった。
何でも本心の朝倉からすれば塩田は最も理解から遠い人間だろう。
塩田将大は祖父の塩田剛三を何度も出して口先で勝負しようとするみっともなさ、刃牙の作者である板垣恵介という先人の縁を使おうとする情けなさなど、見どころがまるでなかったと言ってもいい。
朝倉兄弟の動画は見ているものを暴力的な不安にさらして再生数を稼いでいる部分が多少ある。
例えば煙草のポイ捨てを注意する弟、朝倉海の動画はビジュアルから怖いニーチャンが出てくるし、それにプロの海が素人を怪我させないかと不安にさせる(前田日明すらあの動画は選手生命に関わるかも、と不安だったらしい)。
未来が地元で焼肉食っているだけの動画でも、冗談めかしつつ同級生に真顔で凄んだりする。
正直面白みはなく、怖い以外のなにもんでもない。
あのトークも軽快な武井壮がかなり緊張気味で対談していたことからも、彼のプレッシャーの「嫌な感じ」がわかろうというものだ。
お笑い芸人コラボも持ち味を殺された人のほうが圧倒的に多い。なんとか乗り越えたのはいじられ芸のパンサー尾形くらいだ。
そんな朝倉未来でも瓜田純士には丁寧に接する。理由は簡単で、瓜田が愚連隊の頃、モノホンの筋者とケツモチ交流があった過去を持つからだ(ただし、朝倉は現役不良時代にヤクザ事務所に乗り込んでいる。瓜田にビビっているわけではない)。
瓜田独自の文章の才や人を見抜く才能もあり、また朝倉が不良の世界で生き抜いていたこともあってのことだろう。
ともあれ、塩田が自分から頼み込んでへりくだる意味はなかった。
それなら他の武術系の人たちとコラボしたほうが塩田にとってメリットがあったはずだ。
一時間ガッツリ見てしまっただるさもあったし、一時間ヒヤヒヤしたという心臓への悪さもあってとても印象に残ってしまった。
動画コメントもほとんど当たり障りのないものばかりだった点も気になった。
不穏な空気を率直に書いた人のほうが素直だと思う。
武漢から発したcovid-19の感染拡大によって日常生活が変わった訳だが、個人的には主にテレワーク中心の生活となりメリットが多かった。ワクチン開発が進み、新しい展開がテレワーク以前に戻りたくない私にとってどのような影響を及ぼすかを考えるため、文字に起こしてみようと思い書いている。
(なお、だいぶ長くなったので、ワクチン開発の影響までいかず、まずは現状まで書いている。そちらもすぐ書く。)
なお、私は独身であるので、子持ちだと状況はかなり違うかもしれない。ただ、そういった状況も出回ってないから情報発信してもらえればと思う。
はてなは「保育園落ちた日本死ね」のように世論形成によって社会が変えることができる場所でもあるので、積極的に行ったほうがいいと私は思っている。
さて、テレワークは4月から始まった。制度はあっても名ばかりであったテレワークを強いられたわけだが、内心非常にうれしかった。実際にメリットを具体的に挙げると、
・仕事をする環境のストレスもかなり軽減できた 好きなだけお菓子を食べ、動きやすい服装で勤務できた し、
・オフィスに行くために朝早く起きる苦痛や生産性のない時間から解放された
・(これはいまだに上手く出来ていないが)旅行先で働いたり実家にしばらく戻るといった自由な場所で働けるようになった。
もちろんデメリットもあって、すでに知られているように同僚とのコミュニケーションは減って、属人的になっているノウハウが共有されなかったり、ひらめきやアイデアは少し生じにくい環境となったように感じる。といってもしばしば否定的な文脈で語られる喫煙所や飲み会の雑談で物事が決まるというのが実は結構大事だったという程度のインパクトでしかない。
この少しばかりのデメリットしかなく、一方でかなりのメリットが私にもたらされた。そのデメリットにしても比較的簡単な工夫によって解決可能であろう。
時は進み、もう何月だったからか覚えていないが、完全テレワークから週数回出社に戻り、それが常態化している。出社するときは「はんこ出社」のような職場でしかできない業務をしている。正直、出社時はほかの出社していない人にかかってくる電話も取られなくてはならず、また、人付き合いに気を払わなくてはならないし結果、生産性は落ちる。お菓子も食べ放題とはいかず、テレワークの快適さは大きく損なわれ、帰るとどっと疲れたと感じる。
名ばかりであったテレワークの本格運用によって強いられたテレワーク対応のシステムアップデートも一巡し、その中で取り残された課題が明確になったが解決への動きもなく、放置され続けている。この中途半端な対応によって、私の生産性とQoLの向上は数か月STOPしてしまった。
経営者はこの中途半端な状況を認知しつつも、個人的な状況なのか多数派なのか状況整理ができていないように思われるし、安倍政権の指針がコロナ前の環境に戻そうとするものになっているから、お上に逆行するかもしれない完全テレワークにも舵を切れず、現状に従えばいいといってお茶を濁しているように思えてならない。
一労働者としては、完全テレワーク化すればどれだけ幸せになるだろうかと思い、今を過ごしている。
なお、個人的には安倍政権が経済を最大化したいと考えたときにすべき施策が現在は十分ではないように思える。ひたすらに、ビフォーコロナの再現を志向するのは、同時に将来の経済成長の伸びしろの芽を摘み取っていて国益を損ねていると思う。以前にも増して電子機器やオフィスインフラの需要は出てきているし、今推進しているワーケーションのインフラ整備も喫緊だと感じている。この両者は背反せず、むしろ、新たな成長戦略の一つであってもいいと私は思う。——とはいえ、詳しく知らないが自民党の従来の票田目的のバラマキ先とは異なるかもしれず、なかなか難しいかもしれない——
足元で地方ではネットが繋がらない、繋がっても遅かったりしたり、そうした不安を払拭する情報は出回っていない。実際にワーケーションは実践したが、通話やウェブ会議ができる静かな環境は探すのに苦労する。
余談だが、職場のPCはネットが切れると再起動しなくてはならないシステムかつ再起動するとデータがすべて消える仕様なので、クラウド等に保存していないと時に突然ネットが切れるとそれまでの仕事は成仏(笑)してしまう。このため、ワーケーションが在宅勤務に比べ制限が多く満足度が下がってしまうものではなかなか気が進まずに普及を阻害することになっていないか、強く懸念している。
なお、ウィズコロナとなっている現状は上記の身の回りだけでも鉄道会社やオフィス賃貸の需要が減退しネガティブな影響を与えるだろう。また、ロビイストが政権に大きく食い込んでいるようにしか見えないGO TO TRAVELが強行されたのも、航空、宿泊、観光業が危機的な状況というのも想像に難くないし、票田確保に重要なのだろうなと思っている。
票田確保はやってくれてもいいのだが、私にもそのメリットを享受させてほしい。
国会議員や内閣の皆さんは、非常事態宣言の時のように各都道府県や各企業は協力を惜しまず従ってくれたことを思い返して、今後、納得感がある政策を与野党関係なく打ち出してもらいたいと思う。私のような人もたくさんいるだろうから、その支持が欲しかったら、ワーケーションが浸透できるように働き方改革の推進をバージョンアップしてより強力に進めてもらいたい。
具体的にはそういう目的の設備投資に補助金を出すべきというのが私の考えである。そんなこんなで完全テレワークが実現したら長期でワーケーションして、きっちりお金落として日本に貢献するお。
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データを改めて取りそろえたわけでなく、個人的な経験に頼ったところも多いので、意見としては一般化しきれないが、共感してくれる人も多いと思うので、誰かがより洗練させ強力な意見として希望が実現できれば幸いです。
実は緊急事態宣言が出て在宅勤務になって以来、狭いワンルームマンションで仕事をする必要すら無い事に気づき職場に内緒で勝手に実践している。
国内のホテルも交通費もひどく安く、週単位でホテルを借りて、関西、九州、北海道、沖縄など渡り歩いて楽しんでいた。
平日17時定時に仕事をあがって、海に行ったり、レンタル自転車で近所を観光したり、地元のB級グルメを食べたり素晴らしい生活
自己肯定感が高い/低いと言いますが、そもそも自己肯定感ってなんでしょうか。
自己肯定感が低い(とされている)人は生きるのがつらい。自分が失敗してしまったとき、壁にぶつかったとき、不運に見舞われてしまったときに、必要以上に落ち込んでしまう。自分がなにか行動を起こすとき、自己肯定感の低さが足かせになり、なかなか行動に移すことができない。そんな自分が嫌になり、どんどん消極的になってしまう。ひょっとすると、予想だにしない幸福が訪れた時でさえ、自己肯定感の低さがあだになり、それを素直に受け取ることができない。あるいは、実際にはそこまで不幸でもない現実と自己肯定感の低さとのギャップを埋め合わせるために、ついつい自傷行為や自分を傷つける媒体や人に走ってしまう。周りには自己肯定感の低い人が集まり、相互に作用しあってどんどん不幸になっていく(書いていて嫌になってきました)。結果、生きるのがつらい。
逆に自己肯定感のある(とされている)人は、不幸や失敗にいちいち落ち込まずに、どんどん新しいチャレンジをすることができ、成功体験を積み上げやすい。経済的にも文化的にも幸福な友人や恋人に恵まれ、幸せな人生を送ることができる。つまり、自己肯定感を高めることができれば、今は不幸な人も幸せになれる。あらゆる問題(仕事面、恋愛、家族関係がうまくいかないなど)が、自己肯定感の問題に還元され、幸福に必要なソリューションです的な扱われ方をされるケースさえあるかもしれません。
果たして本当にそうでしょうか。例えば、自己肯定感の高い(とされている人)が、日々の暮らしで自分の自己肯定感の高さを認識することは少ないはず。呼吸をするときに空気の存在を意識することが無いように、ごく自然に存在しているものだと思います。逆に自己肯定感が低い(とされている人)にとっては、四六時中自分を縛り付けている呪縛のようなものかもしれません。そのせいで、個別になんら関連性のない事柄を自分の不幸な想像を駆使して結び付けてしまう。文字通り概念に縛られている状態といえるかもしれません。
実際には、自己に対する否定感情は、(人によりその頻度や強度は様々でしょうが)その時の環境や本人の体調に大きく作用され、瞬間的・個別的に発生するものです。単なる推測にすぎないのですが、おそらく瞬間的な自己否定の感情が習慣化してしまい、負のスパイラルに陥ってしまっている状態の人=自己肯定感の低いと認識してしまっているのだと思います。自己肯定感が低いことを内面化してしまうと、個別の事実を冷静に観察できなくなり、本来解決可能な問題に対しても自己肯定感の低さを理由に、適切な解決策を考えることができなくなってしまいます。
(私は精神科でもなんでもないのでいち素人の考えたことに過ぎないという前提のもと)もし、あなたが上記のような状態になってしまっているとしたら、取り組むべき課題は「自己肯定感を高める」という抽象的な何かではなく、自己否定の感情を覚える個別の事柄に対し、以下の順序で対処を試みることなのかもしれません。
2.その時の外的要因(人間関係とか仕事とか)と内的要因(体調とか心理状態とか)を把握する
6.日常的なセルフコントロール(体調管理や精神管理、瞑運菜眠など)を実践してみる
詳しくは知りませんが、上記は一般的に精神診療などで用いられる認知行動療法と同じようなもので、特に目新しさはありません。長々書いてきて、結局xevraさんと同じ結論かよ
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xevra 2020/07/27
運動、瞑想、睡眠、野菜を徹底してる人は自己肯定感と言う言葉そのものの意味が分からない。自分は自分、肯定も否定もない。ダメな所も良い所もあるただの人間だ。下らない概念に振り回される意味が分からない
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と言われるのも少し不満なので、一つ私の話をしようと思います。
私はもともと自分を自己肯定感の高い人だと思っていたのですが、最近自信がなくなってきました。というのも、そもそも自分と他人の人生に興味・関心が薄く、そのためか、強く共感したり、感動するとか、ましてや人を好き/嫌いになるとか、(物心ついて四半世紀が経ちますが)これまであんまりピンときていなかったんですね。それって自己肯定感が高いのではなく、単に自己/他己に対する関心を失っているだけではないかと思ったのです。
その意味では自分を好き/嫌いになれる人というのは(一切の皮肉抜きで)向上心のある人なんだなと思いますし、他人の人生に深く共感できるというのは羨ましくもあります。もしかしたら、三人兄弟の末っ子でまあまあ放置されて育ったこともあるかもしれません。自分を嫌いになることだって、裏を返せば自己愛が豊かな証拠だと思うのです。例えば、人が問題に直面した時に自己否定の感情を覚える現象は、私から見れば、(自己愛が豊か/理想が高いが故に)自分が劣った人間だということを直視できず、現実と理想のギャップを埋めるために、自己評価を下げることで帳尻を合わせるという、一種の防衛反応のように感じます。
壁にぶち当たった時に、自己に理由を求めるのは自分を大切にする心が備わっているからです。私のような自分や他人にいまいち興味の持てない人間は、環境や他者、自分の行動をシステマチックに整理して対策を考えます。ふわふわと物事が自己の問題を離れ、幽体離脱し、神の視点から考えている感じ。故にあまり落ち込んだりしないので、切り替えが早いとか仕事が早いといわれることもありますが、(反面無自覚に人を傷つける言葉を使ってしまうこともしばしば)本当に良い仕事、人の心を動かす言葉を紡ぐことはできないのではないか、と最近思います。
なのでもし、あなたが自己肯定感の低い人間だと自分を認識してしまっているとしたら、自分を嫌いになれることは素晴らしい才能で、自己愛と共感力の豊かな人間であること。自己肯定感の低いという概念を内面化せずに、目先の現象を都度観察し、一つ一つ対処を考え潰していくことができれば、とても感情豊で理想の高い人生をおくれるはず。そんなふうに私は考えています。