はてなキーワード: スラムとは
あのバスケットは…
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お前のためにチームがあるんじゃねえ チームの為にお前が
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20世紀初頭、英国の経済学者であるケインズ卿は、主著の中で「考え方ほど強力なものはない」と説いた。つまり、人の行動要因のうち、最も影響力が強いものは、外部的要因よりもその人の内部要因、すなわち考え方だというわけだ。
ひるがえって現代の英国では、中東出身者の2世、3世となる若者たちがイスラム国(という名のテロリスト集団)へと帰属すべく、混乱を極める中東へと世代を超えた里帰りをしている。こうした若者たちが常軌を逸したテロリスト集団に忠誠を誓う要因は何だろう。ある人は欧米社会における中東系への差別が原因であるとし、ある人は貧困が原因であるという。しかし、これはあまりにも皮相的な見方ではないだろうか。どの国にも貧困と差別は存在する。それにも関わらず、なぜ一部の人々、特に豊かな先進国の若者が海外の狂信集団への参加を企図するのだろうか。
ここでケインズ卿の金言を思い出してほしい。何よりも人を駆り立てるのは考え方だ。もちろん、乾燥した砂漠地帯へと向かう若者たちの中には自意識をこじらせ、過激思想に染まった狂信者もいることだろう。だが、その多くは渡航直前まで通常の市民生活を送っていた一般人である(と報道されている)。ということは、通常の市民生活に浸透するごく一般的な常識の中にこそ、彼らを破滅的な行動に追い込む何かが潜んでいるとは考えられないだろうか。
健全な若者たちを追い込んだもの、近代社会の「一般常識」とは、「人は役に立たなければ生きている価値がない」という考え方だ。このあまりに妥当に思える考え方にこそ狂気が秘められている。
中東に渡航した若者の多くは、同国の他の若者と同等の高等教育を受けており、言い換えれば社会的に役立つ(と見なされるべき)存在である。彼らは教育によって社会常識と能力を身につけ、社会への参加と貢献を望む(ごく健全な)精神性を身に付けていたはずだ。だが、彼らはその意欲と能力を十分に活かすことが出来ない環境下にある。
無論、こうした差別や貧困だけが問題ならば、例えば南米や東南アジアのスラム民のごとく、それを人生の既定路線として別の生き方に適応することも出来ただろう。だが、彼らは私たちと同じように近代的な市民としての精神性を埋め込められた「一般人」なのである。
資本主義であれ社会主義であれ、近代社会おいて市民は、「人の役に立たなければ生きている価値はない」と考えられている。言い換えれば、人の役に立つことが人生の意味・意義・目的である。それは経済活動の本質でもある。だが、英国をはじめとする欧米社会は、中東系の若者たちが近代市民としてごく一般的で健全な希望を満たすことを許さなかった。結果として「人の役に立ちたい」という健全な欲求は、全く不健全で狂気の塊とでもいうべき集団への参加・貢献へと姿を変えてしまう。なぜなら、イスラム国はそうした近代市民として望ましい欲求の全てを満たしてくれるからだ。
あなたの人生には意味がある。あなたは人の役に立つことができる。あなたは必要とされている。だからこそ、私たちに参加・貢献してほしい。
こうしたメッセージが実存的な欲求を満たせずに鬱々とした日々を過ごす若者に届き、その心の隙間に棲みついたとき、彼らを押しとどめる要因、すなわち彼らを暴走させない「考え方」を欧米社会は提供できていたのだろうか。事実、イスラム国はすぐれて近代的な精神性を持つ集団であり、表面的な暴虐性と狂信性を剥ぎ取れば、そこにあるのは英国と全く同様なもう一つの近代社会であり、宗教というフックによって近代市民を惹きつける別種の帰属集団たりえるわけだ。よって、若者たちの豊かな社会から貧しい狂信団への「宗旨替え」という一見奇妙な現象は、単純に欧米社会の失敗と敗北の証左なのである。
ところで、これは私たち日本人にも無縁の問題ではない。むしろ喫緊の問題でもある。中東系の若者には(擬制とはいえ)神への信仰が残されているようだが、私たちには一体何が残されているというのだろうか。この社会による無言の死刑宣告に抗うため、私たちにはどうふるまう余地があるだろうか。自身の社会的価値の欠如を自覚し、世間という名の集団圧力に圧迫され、閉塞し、窒息したとき、私たちは静かに(そう、「誰にも迷惑をかけない」ように!)命を棄てる道しか残されていないのだろうか。
かつての武士階級にとって自死は、名誉を守る行為だ(という共通理解があ)ったが、近代市民たる私たちにとっては疑いなく、何の疑いもなく、言葉通りの犬死でしかないだろう。それとも、これも一つの考え方に過ぎないのか?
アメリカでは、街の中心部の治安が悪化してスラム化し、富裕層は郊外の高級住宅街に逃げ、
最近ではゲーテッドコミュニティなるものを作り、住民だけで閉じこもっているらしい。
一方、東京はというと、千代田区と文京区の犯罪発生率が周りの区より低いという統計が出ている。
つまり、金持ちが自分の身を守りたいと思った場合、千代田区に住むのが合理的ということになるし、
それこそ新宿歌舞伎町みたいな例外を除けば、街中に住むほどただ単に便利だということにもなる。
こんな状態だから郊外が衰退するし、ひいては東京一極集中が加速するのではないか。
日本人というのは、たぶんおとなしすぎるのだ。
金持ちを中心部から追い出すほどのエネルギーがなければ、このまま一極集中が続いて先細りするだけだ。
あんな満員電車に詰め込まれてもなお、暴動を起こさなくなって久しい。
アメリカン・コミックスにウォッチメンってのがあって、映画にもなってる。
長く冗長で無駄に大味なセックスシーンとか暴力描写とかアメコミの再現度は高いんだが、おすすめはしない。
その中に、ロールシャッハってキャラクターが出てきて、白黒ハッキリ付けたがる。絶対に妥協しない。悪を許したりグレーな領域を認めたりしない。
杓子定規というのとはちょっと違って、Justiceという単語がぴったりな、盲目で剣を持ち天秤で判断する正義の女神のグロテスクな表現に見える。
パチンコ、という遊びがある。まあギャンブルだ。スロットもそうだな。
法の下の平等や、実態としての賭博の規制などを鑑みると、そこにあるのは不正義だな。正しくない。
射幸心を煽り、勤労意欲を削ぎ、経済に影響を及ぼすので、ギャンブルは悪いことだとされている。
ただ、公営ギャンブルという存在を見ても分かる通り、お上の管理する賭博は良しとされている。
昭和の時代までは、競輪競馬競艇オートレースは、地方自治体を潤すお財布だった。
意識している人が少なくなるようにイメージ操作してるが、宝くじもギャンブルには違いない。
刑法が取り締まるギャンブルもそのものズバリ「賭博及び富くじに関する罪」だ。富くじは宝くじと同じだな。
どうやったって一定数そういうのをしたがるヤツがいるなら、お上がコントロールしてやるのが一番効率が良い。
変に潜らず目に見えるところでやるなら、パチンコみたいに、民間委託するのも、まあコントロールの範囲内だ。
繰り返しになるが、これは不正義だ。まったくもって正しくはない。
じゃあこれが正義、つまりは法律が正しく運用されて、かつ、ある程度吸収できるような方策を考えると、手詰まりになったりする。
つまりパチンコパチスロに慣れたジャンキーを吸収できる公営ギャンブルを設立できるかという問題だ。公営カジノが一番近いがやはり違う。
あの客層をそっくり収容できる娯楽施設が、まだ世の中に存在しない。
何度もパチンコが危機を乗り越えて存続している一つの大きな要因だ。
ただ、この世界もそろそろ終わりになってる。何度も繰り返しになるが、いままでが不正義で、正しくなかった。
ドヤ街に日雇い集めてその中で完結させる、日雇い払いの賃金を酒や焼き鳥で消費させて次の日に回す、働けなくなったらホームレスになって、働けないほど体が悪いから遠からず冬を越せずに死ぬ。つまりはそういうスラムが日本にもあった。他所の国のスラムに比較すれば健全なのかもしれないが。
本来正しくは生活保護を受けて、健康で文化的な生活が送れることが保障されている人たちだ。
この国が整備しているシステムが正しく運用されていれば、乞食は存在しない。
浮浪者も、餓死者も、それを望まない人たちはそうならないように文面では既になってる。
そして正しく運用されていないという不正義が問題視される程度には、日本は先進国となり、社会的に成熟してきつつある。
苛烈な正しさは、見える範囲の綺麗さと見えない部分への皺寄せという形をとることが多いが、シワを隠せる領域が減ってきている。
見えないところに追いやってそれとなく回していた不正義が許されなくなり、破綻しないようにさらに外側にシワを寄せようとしている。
東京のイベントに向けて、都内は綺麗になっていき、そのシワを吸収するべく既に受け皿ができていくように見える。見えない人もいるだろうけど。
でもきっと、そういう外出しした不正義も、糾弾されていくんだろうな。
例えばフィリピーナをネット越しに英語教師にするのは、日本に連れてきた移民を低賃金で働かせるより問題になりにくい。
同一労働に対して低賃金払っていることには変わりないけれども。
さらに苛烈な不正義を先に糾弾すべきというのは方法論として正しいし酷い現場はまだまだある。
海外へ仕事出す先が高賃金化でどんどん移動してるというのも、不正義だとはみなされにくい。
結局何が言いたいかというと、盲目のまま正義を無条件に実行すると、そこには正義だけが残るんじゃないかってこと。
理念への純粋性は美しいけど、たいてい現場の泥臭さが勝ってきた。
ものすごく卑近な例で言えば、シリア難民を救うために、とりあえず日本人とシリア人とで子作りして、それから在留許可を求めるという手段は難民申請よりもずっと現実的だし少子化対策にもなる。もちろん足元を見た人身売買だし、偽装としない為に子供を産むことになるし、当然に非人道的だろう。
この例は極端だから、この例なら文字通り死ぬほうがマシだったりするだろう。それがほんとにマシかは本人にしか解らないけれども。
でもきっと、正しければ多少の人死はやむを得ないというのは、すぐそこだと思う。
浮浪者はテントを張れなければ死ぬが、収容施設に入らない人間が死ぬのは自業自得だと思う人間が多数派になった時、対象は浮浪者から高齢者になり無職者になり、いずれ低所得者になるんじゃないかと、今から自分は怯えている。
ネタバレあるんで注意ね。
今更ながらマッドマックスを見に行った。
序盤は今一な感じだったが、途中で主人公を車の先に括りつけて走り出した辺りから期待した通りのヒャッハーな感じになって、
ガソリン口からブーッとかの辺りでU・S・A! U・S・A!て勢いだったんだが、
その後が良くない。
観終ってから思うに、あの引き返すシーンが、明らかな「転」だったのだ。
世界観とは裏腹に、脚本がひどくお行儀が良くて狂ってないのだ。
最後の「俺を見ろォー!」のシーンとか、
ちょっと展開が綺麗すぎた。
俺がマッドマックスに期待したのは、
フロム・ダスク・ティル・ドーンみたいに脚本から狂ってて、
観終わった後「この監督頭おかしいだろwww」って消化不良を起こすような世紀の馬鹿映画だったのだ。
が、マッドマックスは案に相違して、見終わった後味は実にスッキリ爽やか。
やっぱヒーローはこうでなくっちゃな!って文科省推薦になってもおかしくない勧善懲悪ぶりだった。
その辺、ちょっと残念。
あそこは引き返さずにそのまま東に突っ走って、今度は中華っぽい世紀末スラム帝国に突っ込んで辮髪アチョーな連中相手に火を噴いたりダイナマイト投げ込んだりして何もかも吹っ飛ばして、主人公とヒロイン一人以外全員死んで、
主人公が去った後の場所を通りかかった通りすがりの連中が、死体の山を養分にして生えた草を指さして「見ろよ緑の地だぜ」とか言い出してエンドクレジットにするべきだった。
実に惜しいと思いました。
日本で公開する版はソニーピクチャーズがカットして公開するけど監督の了承はもらってますと発表→監督は聞いてない、てな揉め事あったけど、あのシーンか、あった方がいいけど無くても問題ないんじゃない?全年齢で公開できたほうがいいだろうし。怒ってる人は、監督の了承があります(発表ではそう言ってないと思うんだが)って言ったのが問題だという認識なんだろうけど。
「監督の了承を得た上で」って書き方は、「既に了承をもらってます」と同義じゃないよね。
で、そんなことはどうでもいいんだが、面白かったー。ツッコミどころは多いけどなにより展開や設定に夢があるし、メッセージも至極真っ当で、展開は最終的に好みではなかったけど、面白かった。
押し付けがましくないが、丁寧で、重厚というほどでもなく、またエンターテインメントとしての映画に必要なものはきちんと踏まえている、という感じかな。
メッセージは普遍的な「氏より育ち」的なものからSF的なテーマ、古典から新しいものまで重なってるからハーモニーが心地よい。
主役がスラムドッグミリオネアのインド系の青年、悪役がヒュージャックマン、無名の(南アフリカでは有名なラッパー?)脇役陣も素晴らしかったし、当然題名のチャッピーなるロボットくんも素晴らしかった。
展開は少し急ぎ足だったけど、町山がセッションと同レベルに面白かったって言うだけあって、ああいうの好きな人はめっちゃ好きだろうな。
今週末から公開なんでソニピクに対して不信感がある人も意地張ってないでサクッと観て、観てから内容について話した方が建設的だよ。
観てから内容について話そうと思ったら、ソニピクの対応の悪さなんてどうでも良くなるから。映画の中のほうがよほどスケールが大きい。くだらない=許していいとかそういう意味じゃなくて、面白い映画だったし内容について話した方が楽しいよってことで。
まあ、これを見て欲しい。
https://www.youtube.com/watch?v=iRhTwolRMJY
要するに、「白人の若い女の子が日本の素晴らしい風景を味わう」というCM。典型的な白人コンプレックスを惜しげもなく表現した傑作で、よく懲りもせずにこんな映像作る気になれると感心する。
普通の広告マンとかが外国人に持つ(外国人を表現する際に利用する)イメージは、こんなところか。
じゃあ、その反対の映像。
たぶんこれで観れる。昔、ビートたけしが司会をやっていた「ここが変だよ日本人」という番組で、日本にいる外国人が「日本のここの習慣が変!」という話をマジトークする番組で、今見てもなかなか興味深い。上のようなCM見ると、日本ってここ二十年で後退したんじゃないかと思う。曽野綾子先生万歳!!!
1つは、言論の自由だ。自粛であれ何であれ、言論の自由を制限すべきだったのだ
ろうか? その答えは、断固として「ノー」だ。
2つ目は、欧州におけるイスラム教だ。今回のような出来事は、西側の民主主義とイ
スラム過激派との間で交わされている文明闘争の一環なのか? 戦場はペシャワール
からラッカへ、そしてパリの中心部にまで広がってきたのだろうか? その答えは、
やはり「ノー」だ。
シャルリエブドの刊行物は、すべて正当な権利の下で発表されたものであり、フランスの
法律がそれを認めているのも正当なことだ。この点については、いかなる留保もあり得ない
。風刺画や意見が不謹慎で悪趣味であったとしても、それが直接的に暴力を扇動するもので
ない限り、発表を禁止すべきではない。
シャルリエブドは、イスラム教だけでなく、あらゆる宗教を風刺している。とはいえ、仮
に同紙がそう望んだのなら、イスラム教だけを風刺する権利もあるはずだ。それは、欧州に
住むイスラム教徒が、欧米の退廃を非難したければそうできる権利を持つのと同じことだ。
いずれにしても、怒ったり怒らせたりするのと、それを理由に人を殺すのとでは、天と地ほ
どの違いがある。その間を隔てているのは、数世紀にわたるリベラルな政治思想だ。鉛筆やキ
ーボードを使ってできる行為で、カラシニコフによる報復が正当化されるようなものなど1つ
もない。