はてなキーワード: 前近代的とは
オレが日本の法律関係者に訴えたいことは、民法の「連帯保証」に関する条項の一日も早い削除。銃よりも多くの人の命を奪い、鎖よりも多くの人の自由をうばっている。こんな前近代的な制度を放置しているのは、国際的な恥である。
銀行等が同内容の合意を求めることは止められないだろー。
その合意がただちに無効になるわけでもない。
茂木サンの主張に従うなら、求めるべきは「条項の削除」ではなく「規制条項の追加」じゃないか?
銀行や不動産貸主の多くが、契約時に連帯保証人をつけることを求める慣習が存在する、という意味での「制度」は
別個のものだ。
とりあげられている問題のうち、「連帯」のつかない保証なら回避できる問題が、どの程度あるんだろう。
連帯保証と単純保証も混同して扱われてて、無駄にツッコミどころを増やしている。
茂木サンは「連帯保証人制度は~」という重々しげな論じかたをしてるけども、
言いたいことは「貸し手は(連帯だろうが単純だろうが)保証人を求めるな」ってだけなんじゃないか?
この点について思うのは、
「保証人を求める貸し手」よりも「保証人になってくれと頼む借り手」の方が悪質だということだ。
・・・という書き出しで、
貸し手批判ロジックを
と単純化して、
①と②はつながらないんだよー、ってことを書こうと思ったけど、
自分の直感とあまりにあわないので、続ける気力がわかないや。
男らしさ女らしさみたいなのは失礼な意識
自ら求めたりするのも遅れていると
それで大人になった現在、
メディアの記事で「女の子として扱って欲しい」みたいな女の声を聞くと
本当にガッカリするしイライラと謎の怒りが湧いてくる
実際に接する女も
なんかそういう「女として」とか、
求められることが事実あるわけですよ
親しくなってくるほどそういう面を出してくる気がする
そのたび「お前の本性もそれか!」みたいな、
なんなの?それ?
っていう
今日テレビ見てたら上戸彩が「ガツガツした野獣のような、守ってくれそうなタイプがいい」と言ってました
公共の電波で!
こうも前近代的な!
反動的思想を垂れ流してて、誰も咎めてないんです
なにそれ?男に守ってもらうとか
21世紀にありなのそんな幼児的な願望
でまたイライラする
わかってますよ
フェミニストとそういうこと言ってる女が違う集団だという言い分は
はいはい
そこでさあ
たまーにでいい、アリバイ作り程度でいいから
そうすれば自分が子供の頃から刷り込まれてきたフェミニズム価値観を信じ続けられるし
遅れたアホ女を見たときのイライラが減ずる気がするんだ
台湾併合を宣言してから平定までに数年かかっている。
一方でいろんな「明治の偉人」達が高い理想で善政を布いてみようとしたり、インフラ整備をやり遂げたりする。
そんな人たちも現地人に暗殺されてみたり、反動暴動で「殉職」してみたりする。
でも、心打たれた台湾人の人が記念碑や祠をつくって奉ったりもしている。
日本はサトウキビも欲しかったし、台湾を日本の一部として近代化して、重工業化したかった。
「台湾の土人がぁ!」といいつつも結果的に台湾を近代化する方向へ導いている。
で、日本の敗戦後は中国大陸から国民党の敗残兵がなだれ込んで前近代的な蛮行を行って一時はどん底におちるが
植民地化や蛮行自体は褒められたことではないかもしれないが、道徳的正しさと歴史的正しさは必ずしも一致しないという見本かもしれない。
なかなか就職出来ない学生を取り上げたり、エントリーシートの書き方や面接の訓練をしてくれる塾の存在を紹介したりしていたが、基本的なテンションは「就職難の時代である」と言うもの。
ゲストの一人である大宅映子は、就職出来ない学生についてその理由を「職を選ぶからだ」「自分に合う仕事を、と甘えているからだ」などと評していた。「食うための切実感が足りない」なども言っていた。
あまりに前近代的な考えかたである。いくら老人といえども、そのひどさに笑った。
大宅映子は評論家を称しているわりには、評論すべき対象のことをあまりよく知らないようだ。
この時期に就職が決まっていない人間は、すでに「選ぶ余地のない」人間がほとんどである。
大手に落ち、中小に落ち、ブラックに落ち、それでも職を欲しがって求職活動をしている人間が、この時期に就職が決まっていない学生なのだ。
彼らが就職出来ない理由はただ一つで、求人の総数が少ないというそれだけである。
少ないパイを大勢の人間で分け合っているのだから、そりゃあ分け前がいかない人間だっている。
「甘えるな、取りに行け」と言ったところで、ないものを拾えはしないのだ。
もし評論家を称する大宅映子に存在価値があるとしたら、それは新しいパイの創造に他ならないのだろうけれど、彼女の老人的な頭ではそれはままならないだろう。
そうすると、単純かつ皮肉なことに大宅映子がそのすでに必要とされていない存在を消し、席を一つ譲るということが最善策に思えてくる。
若くて食えない評論家なんて一杯いるし、そういう人間に可能性を与えたら良い。
第一、テキトーな精神論しか言えない評論家に何らかの価値があるのか??
同じ論理で、企業にいる老人臭の酷い、古い価値観しか持たない人間も、さっさと辞めるべきだ。
「食えなくなるから」「他に何も出来ないから」という理由で企業にしがみついている人間ほど、大宅映子の云うところの「甘え」だろうに。
若者に席を譲ってもなお自分が食っていけるシステムを創造し、あっさりを身を引くような老人は、しかし、残念ながら多くはいない。
システムを作れないのなら、システムを作る側に依頼したら良い。もうちょっと真面目に選挙で投票しろ、と言いたくなる。(まぁそれは選挙に行かない若い人間にも同じことが言えるのだけれど)
個人も組織も、市民も政治家も、言いたいことばかり言うけれど切実感が出ていませんねぇ。
甘えてんじゃねえぞ、大宅映子!!(と、同じような人間たち)
「個人の偉さが集団の偉さを支えている」と見るか(私はこちらだけど)、「個人は偉くないが集団になったら偉い」と見るか(そういう人が少ないとは私は思っていない)、の違いだと思う。後者の人に対して人権を常識として通じさせるのは常に何らかの難しさをはらむだろうな、と。個人の尊厳は普通は国家と個人の関係だけど、さっき言った後者の人が国家の主な層だったら、個人の尊厳は保護されるかどうか危うい。
私の表現で言い換えれば「個人の尊厳という考え自体を全く受け入れないような人種」が(少なくともこの国には)少なくないというのがあなたの認識だというのはわかった。
だが、それで本題のはてなサヨクにどうしろと言いたいのかがよくわからない。
個人の尊厳を互いに認めることが前提になるのが近代市民社会というものだとすると、この国はまだ充分に近代化していないのだから、サヨクは近代化を前提としてモノをいうのをやめて、まず残存する前近代的なものを解体していくところから始めるべきというなら、(古典的な二段階革命論だけど)理解できる。
「長いものに巻かれろ」的な処世訓から、はては「万世一系の皇室」や「とてつもない日本」への同一化にいたるまで、「個人は偉くないが集団になったら偉い」と人々に感じさせている何かを解体していき、薄めていくことは必要な作業だろう。
それは実際、サヨクのやっていることでもある。
それらを抜きに例えば所得や資産の再配分や生存権の保障だけを求めても、どこかで壁にぶつかるだろうとも自分も思っている。
それはまた、あなたのいう「教育や異文化交流の構え」にも合致するかもしれない。
ただ、あなたは末尾で
と書いて、結局のところ宿命論に陥っているように見える。
要するに、あなたの思考は
「個人の尊厳が保護されるかどうかはその国の主な層の信念(個人の尊厳重視か、ヒュ-リスティクス重視か)による」
「自分は個人の尊厳を信じるが、その信念は万人に通用するようなものではない」
「他人の信念は変えられないので、もしこの国の多くの人が個人の尊厳を信じないなら、自分は観念してそのような社会に住むことを受け入れるしかない」
ということになっているのではないかと思うのだが、違ったら指摘してもらいたい。
子供手当てと高等教育無償化って、別に中年以上を対象とした政策ではないと思うのだけど。中年以上の人間は子供の養育・教育なんか半ば以上終わってると思うし、そもそもこれらの政策の主眼は、そういう親世代に対する負担の軽減というよりも、その子供達が持つ潜在的な人的資源の価値を高めるための投資じゃないのかしら。(まあ、親世代に対する効果を狙っていない、ということはないだろうけどね)
それと「施し」「開発」なんて言葉で括って現代政治を捉えるのはちょっとどうなの。国民の福利厚生・教育水準を高く保つことは、同時に将来の先端産業の発展可能性を高め、その消費者を生み出すことでもあると思うのだけど。何でそんな二項対立の構図で政治を捉えているのかが皆目見当が付かない。元増田が考える「開発」って一体ナニ?申し訳ないんだけど言ってることが凄く前近代的な印象を受けるよ。
今更国家主導の産業・経済政策を称揚するが如き言説をするところもそうなのだけど、元増田は政治に対する意識が非常に保守的というか、アナクロな部分があるように思う。正直、あんまり同意できないなー。例えば、かつてのシグマ計画みたいなことをやられても「開発(笑)」みたいにしかならんし、その手のミクロな経済・産業振興は民間に任せろよ、と。市場がまともに機能してないような国じゃないんだから。
あとこの辺、
民主主義における選挙では、頭が悪い人間をたくさん集めることすなわち勝利なのだ。(頭の良い
人間は、機会がある度に判断して誰を支持するか考えなおすので信頼がおけないが、無知な人間は
一度支持と決めたら「支持すること」が目的にすり代わってしまうことが多々ある、あるいはそう
導きやすいのも都合が良い)
定量的にこの主張を裏付けるような研究・文献があるようなら教えて欲しい。
正直、そんな単純な動きで政治を測ることができるなら、自民党はあんな大敗を喫することはなかったと思うのだけど。
政治を理解する上では、そういう俗っぽい政治観は捨て去った方が賢明なのではないかしら…。
増田の主張には全く同意なんだが、自分自身がそういうゲス男と大差なく思えるので、凄く辛い気持ちになることがあるなあ。
自分は、非処女を「中古」と言って憚らないような下品な男はどうかしていると思うし、そういう無神経な男によって傷付けられる人間がいなくなることを心から祈っているんだが、それでも理性以前の生理的感覚で「処女厨」っぽい部分が自分に残っていることに絶望してる。正直、自分の欲望と発想が理性的にはおぞましくて仕方がないし、そういう前近代的な発想を理性で乗り越えられない自分には、人を好きになる資格は全くないなー、って思う。それでも他人に好意を持ってしまうこと、他人から好意を持たれたいと思ってしまうことからは中々逃れられなくて、時々頭がおかしくなりそうになることがあるんだ。
何でこんな感覚が刷り込まれてしまったんだろうね。他人を傷付けて、自分を一層不自由にするだけなのになあ。
まあ、幸か不幸か、恋人を作ろうとしても誰も寄りつかないレベルの魅力しかないから、せいぜい一人でのた打ち回る程度で済むのが救い。
無論、「だから処女厨をあまり悪く言わないで欲しい」などと言うつもりは毛頭無いのだけど、「処女厨」の中にさえも、こういう発想の人間がいることは知ってもらいたいなと思う。そういう価値観を刷り込まれ、かつ、そうした価値観を持つ自分に否定的な人間にとって、処女厨の起こす騒動は二重の意味で苦痛でしかない。
そういう立場からしても、処女・非処女に拘る価値観が、一刻も早く撲滅されることを願うよ。
自分はもう付ける薬がないから仕方が無いが、そんなことで傷ついたり苦しんだりする男女が出るなんて、実にばかばかしいことだよな。
非モテがアイデンティティになっている人は、本質的に「自分は社会的抑圧の被害者」というポジショニングをしている。
別に恋人ができたからって、それは変わらない。深く根を張った、被抑圧者としての彼は、いつも噛み付く相手を探している。
その強い意志はどこから来るのだろう。
そうした人間が数多く現れる昨今、これは何を意味しているのか。
もしかすると、かなり深刻で普遍的な社会的搾取/抑圧構造のしわ寄せが、生物としての人間が存続していく上での繁殖行動に対してきているのかもしれない。
個人単体では生きることは許され、ある程度以上保証されているが、子孫を残していくことが社会的に難しくなる社会。
個人が子孫を残すことが社会の仕組みから分割され、自己責任の範囲で行われる「嗜好」に分類される。経済的な成功こそが遺伝子が受け継がれる最大のポイントとなる、生物学とは無関係な気もするけど、とりあえず「そういう遺伝子」が煮詰められ、濃くなっていく世界。
弱肉強食。そんな世界へ、非モテは警鐘を鳴らしているのかもしれない。
これは彼らの個人的な僻み嫉み、復讐などではない。前近代的、非人間的な競争社会の到来を憂えているのではないか。
なんてことを昨日居酒屋でゲラゲラ笑いながら友達と話していた。
床が回っているような気がする。どうして地球は丸いのだ。
今たまたま子を持っている夫婦とて、子供がもし昔作れなかったとしたら「じゃあ養子で」なんて考える奴はどれほどいるのか。
横から失礼。
この点に関しては戦前から戦後すぐの方が偏見が少なかったと思うよ。前近代的な理由に基づいて、だけどね。
貧乏で子沢山の家は養子に出して当たり前、裕福だけれど子が出来ない夫婦は養子を貰って当たり前だった。
もちろん後々問題が出て来る事は頻繁にあったらしいけど。
余談だが追記:実の母親(60代半ば)がその実例だから、私にとっては何十年前でも他人事じゃないんだよー。
よって私の兄弟は祖父母が3人ずついるのでした。
日本は中世か、というタイトルにしたのは、またもやあちこちで「魔女狩り」が始まりかけているからである。契機となったのは宮崎某による幼女殺人事件である。まずここで「おたく族」がやりだまにあげられた。「おたく族」とは少女マンガやアニメの総称である。年に何度か開かれるコミックマーケットのようなものに行って、先鋭化したマニア向けの同人誌などを買いあさる。情報交換などするときに「おたくの場合さあ・・・」といった口調でしゃべるので「おたく族」と呼ばれる。宮崎はこの「おたく族」だったのか、部屋の中に多数のアニメビデオや専門誌を置いていた。こうしたアニメやコミックの中ではロリコンものやパロディポルノに需要が多い。人気番組のキャラクターを使ってエッチなことをさせる。同人誌の多くははっきりと性器を描いた、完全なポルノである。ロリコンものにしても、現実の少女を使うとたいへんな事になるが、アニメやコミックですれば問題はさしあたって起こらない。そういう世界では、たとえば8歳の少女とセックスメカノイドとの激しいセックスが描かれていたりする。僕もそうしたコミック誌やアニメを見たが、これは確かに立つ。おたく族の青年が、もはや現実の女性にセクシュアリティを感じなくなる、というのも分かる気がする。ところで、おたく族を現実逃避だの男性性の欠如だの気味悪いだの小太り色白だのと陰口をたたくのは勝手である。そうした陰口は吐いた本人の品性の貧しさをあらわすだけで、実際に論陣を張れば、シャープで理知的なおたく族の前ではひとたまりも無いだろう。おたく族というのは実際、一本のアニメをより理解する為にフィリップ・k・ディックから南方熊楠までまで読んでしまうような、そういう人種だからである。ところがここに至って、宮崎某がおたく族であったという事実が、世のおたく族嫌いを有頂天にさせているようだ。「宮崎=おたく族」であっても、この場合逆もまた真なりとはならない。正しくは「宮崎=おたく族のうち一人」である。しかし、魔女狩りをする群集には理も否もありはしない。現実にあるロリコンアニメをつきつけては、どうだどうだと迫る。「おまえも、こんなことしてみたいといっつも思ってるんだろうが、えっ!?」
もちろん彼らはそう思っている。思って思って自分と戦った結果、道義的責任のないアニメの世界に安住場所を見つけたのである。
二次元の世界しか欲望の対象を持たない彼らは、およそこの現実の世界では一番犯罪を起こしにくい人種なのだ。嘘だと思うなら、この世の中からロリコンアニメをすべて撤収してしまうといい。その場合、幼女姦が増えるかを統計的に見れば分かるはずだ。その場合、幼女姦が増えたとして、その責任は誰がどうとるのか。同じことがホラーに対しても言える。宮崎の事件を契機にしてスプラッター・ホラーへの抑圧が始まっている。これはやはり宮崎の部屋に「ギニー・ピッグ」のシリーズが置いてあったことに端を発している。「ギニー・ピッグ」は僕自身は最初の一本目と、シリーズ中の「ピーターの悪魔の女医さん」というのを見た。ピーターの方は大笑いのブラックコメディ集である。一本目の方は監禁した女の子をなぶり殺しにする過程をビデオに収めた、という設定で、アメリカに実際ある「殺人ビデオ」の雰囲気を出そうと苦労している。スタッフは苦労しただろうが、見ているこっちはうそ寒くて鼻で笑うしかないような作品だ。
しかし、世の中で事件が起きると必ずこの手の反動が起きる。「ギニーピッグ」をかばうわけでも何でもないが、犯罪が起きるとマスコミはその犯罪の尻をどこかに持っていってつじつまを合わせたくなるようだ。知能犯罪が起きれば犯人の本棚からその手口のもととなった推理小説を探す。その結果、著者がコメントを求められて、「私の小説が動機となったのなら、残念なことだ」と述べたりする。
この場合「動機」は小説ではない。「金ほしさ」である。僕がもしこの作家の立場に立たされたらはっきりとこう反論する。
「犯人の反抗に対して私の作品が与えた因果関係を、誘導尋問によらず自白させてほしい。その上でそれが犯人の自分の犯行に対する他への責任転嫁ではという、なんらかの証明をしてほしい。加えて、犯人がもし私の作品に接していなければ犯行に至らなかったどうか。なぜ私の作品に接した多数の人間の中で、”犯人以外の”大多数は犯行に至らなかったのか。それを説明してほしい」
ロリコンものの場合も、一般のポルノの場合も、スプラッタホラーの場合も同じことである。何らかの表現行為に起因して犯罪が起こるというのは空論だ。すべての表現、たとえそれが芸術的に無価値な、便所の落書きのようなものであったとしても許容されなければならない。ただし、見たくない人は見ずにすむという「自由」の上においてだが。そういう意味ではスイッチを押せばどんな画像が出てくるか分からないテレビなどのメディアは、この条件を満たせない。しかし、映画やビデオや出版物はそうではない。パブリックなメディアとパーソナルなメディアを混同されては困る。その上に、異常者の犯罪と表現メディアを対にして考えては困る。そして、もっともっと困るのは、犯罪者とその家族をいっしょくたにして考えられることだろう。それこそ中世の「一連托生」の考え方なのだが、マスコミはそうした前近代的なことを平気でやってのける。今回の宮崎の事件にしても、僕は某誌の「誰も書かなかった真実」なるレポートをみて驚いた。
そこには宮崎のおじいさんの代にわたって家庭内のことが掘り起こしてあったのだ。おじいさんに愛人がいて夫婦仲が悪かっただの、お父さんの性格が「お調子物」だの、etc。そうした家庭環境が犯行の遠因になっていたかのような書き方だが、それはレポーターの大義名分に過ぎない。本質的にはこうした家人のことというのは「ご近所のヒソヒソ話」であって、オフィシャルに出されるものではない。犯罪者の家人だからこそさわってはいけない。殺された子供の親同様、この人たちもいやされようの犠牲者であるからだ。それをじいさんの女関係までさかのぼって掘り返すとはどういう神経なのかと思う。こんな事件のせいで、おたく族もホラーファンも犯人の親族も大迷惑をこうむってるわけだが、少なくともこうしたことだけは宮崎一人のせいではない。人間の中の魔女狩りの古い記憶、「はらい」や「みそぎ」の感覚、ならびに窃視願望がこうした見当違いの弾圧を起こさせるのだ。「時の勢い」というのは恐ろしいものだから一度はずみのついたこうした力は加速度持っていくことも考えられる。ホラーもアニメも誰かさんの総チェックを受けるようなことにになるかもしれない。
人間とはどうしてこう干渉や規制が好きな動物なのだろう。人の楽しみはほうっておけばいい。禁止しても放置しても、犯罪は起こるのだ。
きょうの朝日の天声なんとかに魚をみんなくわねー、命をいただくことのありがたみを云々みたいな記事
魚の「命をいただく」。おいしい。ふーん。
そのとき思った。ああ、そうか。戦場で人の命だっていただかれるわな。
そしてそこではその撃った人が評価されたりするわけで、国としては国民が死んで減ると痛いわけで、
人の場合、命というのは価値が、別な意味で(直接的じゃなくて間接的な部分で)出てくるものなのだ。
魚が値づけされて市場に出てくるように、人の命も関係性のあるものがくっついてきたときには価値がある。
関係性を一切断ち切ってのたれてたら、あんまり価値ないけど。
で、思うのはだ。
そろそろ戦争みたいな前近代的な人命殺傷システムなんかやるなら
そういう国家間の陣取りみたいなのも経済システムのほうに組み込んでしまえばいいのに。
そうして、飢えている国も、紛争をかかえている国も、北のあの国も、国力が弱ってる国は売買されてしまえばいいのだ。
どこから出ているかさえよくわからない資金でM&Aされてしまえば、人民はとりあえず貧困からは解放されるし、
売買されたくない国はがんばるだろうし、合法的に領地を広げることもできる。
ただ、気がつくと組系やマフィアの資金が入っている国というのも出来てくるが(実際、それに近い国は現存してるけどね)。
お金で買い占められて引き換えに命をいただかないで済む、そんな社会なら、誰もそんな戦争のために死ななくてもいいんじゃないのかな。
「お父さんが金持ってたら息子が障害者でも十分に養えるから社会福祉はすべからく親兄弟を頼るべき」だなんて普通結論しないわな。
生活保護を受ける前に「頼れる親兄弟親戚はいないか?」って尋ねられるでしょ。
あと住民票で記載される扶養者・被扶養者ってどういうこと?
親兄弟がなることを前提としている不動産・借金等々の保証人制度は?
介護も介護保険制度が変ってから施設から在宅への流れが進んでいる。
それだけ、日本の福祉や制度は今まで(今でも)イエを前提にして作られた前近代的なもの。
そんな今でも国家に近代へ進もうという意志を読み取れるのか?