はてなキーワード: 前近代的とは
近所のどこかの国では、裁判の判決が世論に流されることがよくある。
国民感情が重い処罰を望む時は量刑が法定よりも重くなったり、無実の被告が有罪になったりする。
逆に国民感情が被告に同情的な時は本来の量刑より軽くなることもある。
このような法の運用を、我々日本人は前近代的だとさんざん馬鹿にし、「国民情緒法」などと呼んで揶揄してきた。
が、はてな民もたいして変わらんな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20240226/k00/00m/040/052000c
罪刑法定主義など知るか、こいつの量刑は俺がその日の気分で決める、そんな人たちばかりだ。
こういう輩は、ほかの裁判ではどんなコメントしてるんだろうな。
やっぱり殺せ殺せって連呼してんのかな。
歴史的に眺めると、人類は、被疑者・被告人に苛烈な取り調べなり拷問なりをして自白を強要してた時代もあった。その結果冤罪という悲劇を量産してしまった。
人類はそういう過去の失敗を反省して、黙秘権やら弁護人依頼権やら被疑者・被告人にたくさんの防御方法を付与した。それが近代憲法や刑事訴訟法の思想な訳で。
我々の住む近代以降の国家はそういう決断をしたんだよ。「お前悪いことしたんだろ!」的な追及をする時にもルールって必要だよねって考え直したんだよ。
その結果、これまで有罪に持ち込めたヤツも無罪放免になってしまったかもしれない。悪いやつを取り逃してしまうこともあったかもしれない。
でも、「そうなってもいい」「冤罪を出すよりはマシ」という価値判断をしたんだよ、人類は。
こういう思想は近代以降のものだから、この先数百年くらいしたら、また別の思想に基づいた捜査・裁判の方法が社会実装されるかもしれない。その可能性は否定しない。
ブクマページ https://b.hatena.ne.jp/entry/s/jfas-sky.jp/2024%E5%B9%B41%E6%9C%882%E6%97%A5%E3%81%AB%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E3%81%A7%E7%99%BA%E7%94%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%E4%BA%8B%E6%95%85/
ちょっと頓珍漢なブクマが多い。それは刑事裁判の基礎を忘れているからだ。
「ネットやマスコミの皆さんは憶測で語るのを自重してね」の部分は刺身のツマだ。勿論ネット民である我々の主体的行為としてその訴えを聞き入れるのは重要だが、その重要性は次点なのだ。
被告人が己の身を守る事が出来るのは近代刑事司法の根幹である。
被疑者、被告人は黙秘する事も出来るし、黙秘した事で「こいつは懺悔の念がなくて悪質だ」と加重処罰されたりもしない。
問われていない事実のうち、自分が不利になる事を明らかにするという動機もない。それは検事の仕事である。
己を有利にするために嘘の答弁をしても良い。勿論それが嘘とバレた際には心証は悪くなって情状の斟酌はされにくくはなる。これもその陳述が嘘であると見抜いて証拠を積み上げるのは検事の責任である。
勘違いされやすいがこれは刑事被告人のみに認められた権利で、検事や証人には認められない。証人は呼ばれて出廷しないとなれば拘引状が発せられる。拘引状を執行するのは通常は警察官で手錠腰縄が掛けられる。裁判までは警察署の留置場に入れられる。つまりは逮捕と同じ扱いだ。数日間犯罪者と同室で過ごして裁判の日は法廷に腰縄手錠警察官同伴で連行される。そこで証言を拒めばそれも犯罪となるのだ。
検事は嘘の立証の為に証拠を捏造すれば逮捕され刑務所に入れられる。
刑事被告人は身柄の拘束もある上に相手が国家権力であるから特別な権利が認められているのである。
だがこれでは事故原因の調査やフィードバックという観点では困った事になる。労災や原子力、航空、宇宙開発、その他技術では、事故原因を調査するだけでなく、それをフィードバックするという使命で動いている。フィードバックで改善し、更に事故に至らないインシデントの類型に分類する。インシデントを収集すればその結果の事故に至る道筋が見える。
またその調査結果は秘匿せずに公開する。それは知識の共有の為であり、職業人の集まりであるからニュースレターで広めたり、資格の更新研修で講習したり会社に定期的に講習を義務付けたりする。
でも刑事裁判ではこういう、緻密な調査結果がフィードバックされて安全性、特にフェイルセーフ設計に帰すというような思想と折り合いが大変悪い。特に事故の責任者は逮捕され、国家権力から身を守る為の法的な戦いに置かれている。己に不利な事、普段からの慣習や過去に似た事をしていたとか、過去には同様のケースで難なく乗り切ったとか、そういう事を言うというのはあり得ない。
また検事も判事もその分野のスペシャリストという訳でもない。だからと言って被告人に自分の権利を守る事を止めろということも出来ない。
そこでアメリカでは根本的な手段に至った。「事故責任者を訴追しない」という事にしたのだ。
勿論、飛行機事故ともなれば数百人が死ぬ事も珍しくない。それを無罪放免を約束する形にしたのだ。
身の安全と心理的安全を確保する。その代わりに親身になって己が不利になる事も話してくれ、それで技術の進歩に協力してくれ。それが未来の数百、数千人の命を救う、と説得するようにした。
このやり方を採用している国はまだアメリカなど限られている。何しろ他国では業務上過失で数百人を死なせた人間は極悪人の犯罪者であって、それの無罪放免を約束するというのはとんでもない事であってコペルニクス的転換だ。司法当局が許さないであろう。
チェルノブイリ原発事故の原因というのは未だ説がいつくか並立してある状態で、確定していない。今だその時の運転員に話を聞いても明白な答えは得られないそうである。身と心理的安全が補償されていないからである。
この点においてはソ連/ロシアとアメリカでは後者の方が格段に技術文明的に優れていると言える。
例えば池袋の飯塚幸三の起こした所謂「上等国民事故」ではこういう動画を恬としてアップする者もいる。
飯塚幸三被告が 無罪を主張しはじめた件について【池袋母子死亡事故】
https://youtu.be/etBfbKb3Jbs?si=10vKskA-QUzpNZzW
この動画では飯塚被告人が「車に異常があり事故になった」と主張した事をもって、「これはトヨタの名誉棄損であり損害賠償される」と糾弾している。
これは被告人の権利を解さない出鱈目なデマである。自分の利益(無罪や責任転嫁)の為にそういう主張をしてその責任を問われる事はない。情状が悪化するだけだ。この主張を覆す為に検察はトヨタから証人招致したりデータシートを提出する必要があるがあるが、それは圧倒的権力の国家を代理する検事の職務だ。
刑事裁判での主張の責任を問われたらそれは近代国家ではないし、近代国家では通常の弁護行為である。
因みにこの投稿者は運送会社で運管と法務をしていると言っているので、こんな事は全部判っていて言っているはずだ。ドライブレコーダー動画の視聴者はヤフコメレベルに程度が低いので鵜呑みにして視聴数が伸びる。
この動画をわざわざ選んだのは、この投稿者は俗流法的解釈で釣るような事を何度もしていて悪質であり、サムネイルもクリックベイト多用と悪質なのに、ドラレコ動画見るような層には「真面目な業界人」と捉えられている為だ。
同様の事故では逮捕されるのに飯塚は社会的身分がある為に在宅事件となり、それが上級国民と批判されたのに、「被告人の権利を使った」事で批判するという扇動である。
こういう動画が上がってそれが好意的に消費されるように刑事被告人の権利や刑事裁判の仕組みの理解が前近代的な場合、JFASが言っている事も判る筈がないのである。
「身体的、身分的、心的安全性」が確保されないと事故調査の根幹である責任者の聴取が十全、それ以前に全く出来ない、刑事裁判が最大の障害になっている、という事が判らないのである。
日本では運輸安全委員会の事故調査結果が刑事捜査や裁判証拠に利用されています。これらの行為は、明らかな犯罪の証拠がある場合を除き、調査結果を利用することを禁止する国際民間航空条約(ICAO)の規定から逸脱した行為であり容認できるものではありません。
今般の航空機事故において最も優先されるべきは事故調査であり、決して刑事捜査が優先されるものではないこと、またその調査結果が、再発防止以外に利用されるべきではないことをここに強く表明するものです
アメリカ以外の国では重過失犯は訴追され裁かれ罰せられる。だから調査に当たって身の安全を十全には保証できない。
だが事故調の究極形態はアメリカ型の訴追無しであり、それ以外の国ではそこに近づける必要がある。
それには事故調の結果を持って責任者が不利になる事は絶対にダメなのだ。だから事故調結果を刑事司法に転用するな、と言っているのだ。
「ネットやマスコミで犯人捜しするのは止めよう」と言う人も見受けられる。その態度は結構だ。
だがこの根本の目的は「犯人がはっきりしている時でも責任を問うな」である。とんでもないミスで多数を殺した野郎でも責任を問わないことを約束し、未来の事故を回避する制度設計、技術更新に資させる方を優先させろ、というのが主旨である。
日本ではアメリカのように訴追しないという制度設計はまだ無理だ。
だが調査結果を刑事裁判で証拠に使うというのではその目的の基礎の基礎の部分から間違えている。刑事裁判で使われるであれば責任者は不利になる事は言えなくなる。弁護士がそれを止める。その事故責任者の不利になる部分に事故再発防止の一番大きなヒントがあるのにだ。
だから多くのブクマカ、特にメーデー民(増田は残念ながら同番組見た事が無い)なども基礎から間違えているコメントをしているので指摘させてもらった。
女は意識が全くアップデートされず、幼稚なまま体だけ大人になった人間が多い
今じゃ同職種・同業務で性別で給料差がある仕事なんてまず見かけない
女の子には早く帰らせよう気遣おうって風潮は未だにあるし
女だから管理職になれないとかいう前近代的な会社ほど生き残れない時代だし
アファーマティブ・アクションで出世もしやすくなっている
にも関わらず、女は未だにろくに稼ぐようにならない
これに比べて男性の家庭内労働時間はなんと20年で3倍になっている
労働負担は減らされてないのに、家庭内労働時間だけ増やされた形だ
女は未だに男がアプローチして奢ってプロポーズして大黒柱になるみたいな昭和の価値観を引きずって進歩がない
前に「男女で同じスポーツをやらせないのは対戦させたら男は女に負けるからだ!」
みたいな話を見かけて、本気でそんな事主張している奴いるの?wwwって思ってたんだけど
ネットでこういうのを見かけてびっくりした事があった
https://twitter.com/mask_watermelon/status/1623267573344395265
自分は学生時代に女子サッカーやってたんだけど、同年代の男女で試合やらせたら、テクニックはともかくフィジカルでは敵わないなって分かる
体格差とか筋肉差とか、学校の部活レベルでも露骨に差が出てくる
もし男女チームで試合して男→女でタックルされたら洒落にならない怪我するだろうし、全力でシュートされたら
小柄な子なんて冗談抜きでシュートって漫画の幻の左みたいに吹っ飛びかねない
じゃあ男女混合で試合する時は男→女への接触は完全禁止する?シュートをキーパー(女)に当てたら反則?
みたいな感じで現実的に無理なルールになるから基本的にスポーツ、特にプロのそれは男女で分けていると思うんだよね
思想的な感じで「女は男に勝てる!」って敢えて主張しているのなら別に良いんだけど、本気で言ってるのなら一回スポーツやってみろよって思ってしまった
フィジカルの差って大きいし、特にプロのそれだと顕著(だから体格で劣る日本のスポーツは海外と比べると基本不利だったりするのに)
またプロ女が素人男に勝てるのは当たり前なんだろうけど、仮にもプロが素人に勝つのって当たり前だし
それってプロとして恥ずかしくないのか?とか
プロが言ってるのなら本人の恥になるだけだから勝手なんだけど、関係ない素人が勝手にプロ女をバックにイキってるのは
どんだけ男にコンプレックスがあるんだろう?
得意な分野で勝負して勝てば良いだけなのにさ
女は男より優秀だって言うのなら社会ステータスで勝てば良いし、それを男性差別ガーって言うのなら
多少の差別も跳ね除けられない程度の優秀(笑)なんだろうしそもそもそんな前近代的な会社にしかいられない時点で優秀どころか無能寄りでしょうと
まあそういう会社は今でもあるだろうし私の前職もそうだったけど身につけるスキルだけ身につけてさっさと転職して今や管理職
大したことない自分でも出来るのに自称優秀な女が出来ずに、しまいにはスポーツがどうこうとかファンタジーで男に勝つ妄想してイキってる始末
フェミの全員がこうだとは思わないけど、コンプレックスからフェミに走ったのは自分の無能を正当化する方向に走りがちに思える
良い仕事に就けないのも出世出来ないのも稼げないのもロクな男がいないのも糞みたいな男に引っかかっておいて別れる気概も無く延々とネットで愚痴ってるのも
突き詰めていけば自己責任なのに
本当に哀れだよね
自由や平等という近代的リベラリズムの規範に立脚するリベラル・フェミニズムは、既に現代人のコモンセンスに溶けて輪郭がなくなった。
元々前近代的な伝統的規範へのアンチテーゼとして出てきたものだから、何せもう幕府も大日本帝国もないんで、ハッピーエンドを迎えた話。もちろん女性差別そのものはまだ撤廃されてないが、活動家の役割はもうない。
ポストモダン・フェミニズムのほうは、既存の規範そのものに女性差別はインストールされているからどんどんぶっ壊せという一種のアナーキズムなので、同時代の生活者にとっては浮世離れした迷惑な話でしかない。
要するにまともなフェミニズムはその啓蒙的使命を既に終えており、それ以外のフェミニズムはそもそも社会の敵。つまりフェミニズムは社会に必要ない。
『賢い若者だけが気づいている「偽りの男女平等」が蔓延する前近代的な日本社会』
https://news.yahoo.co.jp/articles/634b885621935efa6cb0e16f521abb8e67cec326
大卒男性>大卒女性>高卒男性>高卒女性となっているかと思いきや
大卒男性>高卒男性>大卒女性>高卒女性となっているという記事で、
結婚相手の男性が高収入ならば当人の収入が低くても問題ないという事実を無視してるって事。
大卒女性の夫はまず間違いなく大卒男性だろうし、高卒男性の妻は高卒女性だろう。つまり女性は既婚者ならば夫の収入による恩恵を受けられる。
この記事では「女性が子どもを産むと“差別”を実感する社会」なんて言ってるけれど
本当は独身女性こそ、一見収入だけは維持しているように見えても
男に頼れず老後は子供にも頼れず自分一人で生きるしかない独身女性こそが本当は一番の弱者だっていう事実が見えていないって事だな
「ある要素を調整すると男女の格差はなくなって、大卒の女性も男性社員と同じように出世している。その要素とは、「就業時間」だ。」というが
独身で、家庭内に家事担当者がいなくて自分一人で仕事も生活もこなさなきゃならない独身女性の負担は相当なものだろう。
あと、「日本の会社は残業時間で社員の昇進を決めている」事自体は、それなりに公平じゃない?
だって残業時間は数字で表せるし。人間の能力そのものに大した差なんてない以上、残業時間で決めないならばそれこそコネや容姿といった要素で差がついてしまい、もっと不公平な事になるだろう。
より公平なのはペーパーテストくらいしかないけれど、そうなったらなったで多分文句が出るだろうな
それに子供を産んだから労働時間を減らしたいというのはあくまで家庭内の育児の分担の問題でしかなく、別に女性が夫に押し付けたって何ら問題はない
夫が高収入な方が得だと考え、打算的な理由からそうしていないというだけだろう
「日本の会社は残業時間で社員の昇進を決めている」状況を否定したいならば、マミートラック云々ではなく労働者全体の人権を根拠にして労働時間規制を主張すべきでは?
安倍晋三暗殺事件をきっかけに統一教会(世界平和統一家庭連合)に注目が集まっているが、保守系(反リベラル、反ポリコレ、反中韓)に分類できる文化人のなかで、はっきりと統一教会批判を行なっているのが旧2ちゃんねる(5ちゃんねる)関係者のひろゆきと山本一郎なのは興味深い
一説によれば、旧2ちゃんねるは一時期、統一教会に乗っ取られかけたという噂がある。この点を抜きにしても、基本的に1970年代生まれ以下の世代は、保守や愛国を唱えていても頭の中は近代合理主義者で、土着的・伝統的な家族観とか道徳観はちっとも好きではないのだ。
東浩紀(1971年生)は統一教会を「カルトかどうか判断できないだけ」と述べてひんしゅくを買った。ただ、これは統一教会の擁護というより、スターリニズムや連合赤軍のような原理主義的なドグマに陥ることを恐れるあまり、「二項対立に囚われないように判断保留する」というポストモダンの思考を原理主義的なドグマにしてしまった模様。
一方、三浦璃麗(1980年生)は、何やら統一教会と利害関係があるらしい。
https://twitter.com/333_hill/status/1300961546693083137?s=12
http://japanhascomet.cocolog-nifty.com/blog/2020/09/post-e4d640.html
東や三浦はさておいても、高度経済成長期以降に育ち、冷戦体制崩壊後に成人した団塊ジュニア以降の世代は、基本的に統一教会的なものが嫌いだろう。俺もな。
今では忘れ去られているが、2000~2006年ごろの2ちゃんねるでは、韓国、中国、民主党だけでなく、森喜朗に代表される体育会系、マッチョ価値観の自民党重鎮も不人気で、平然と皇室をコケにする書き込みだって多数あった。非合理的な宗教団体は嫌われ、前近代的な家制度の束縛とかブラック企業的な上下関係を肯定する主張は評判が悪かった。
かつて2ちゃんねるに大量にいたネトウヨことネット右翼は、なぜ韓国人や中国人を嫌悪したのか? 戦前戦中の日本に対する非難が自分個人への非難のように思えた点に加えて、韓国人や中国人の振る舞い(声が大きい、言動が粗暴、上下関係がきびしい等)に「前近代」の臭いを感じ取っていたからではないか。
ネットでは保守愛国を主張して戦前日本を賛美ながら、平然と「中国、韓国は儒教国家だからダメだ」と言う人間が少なくない。お笑い草である。戦前までの日本だって支配階級の基本思想は儒教だった。幕末に尊王攘夷運動が起きたのは江戸時代に朱子学が普及して、「幕府が天皇から権力を奪っているのは忠義に反する」という考え方が広まった結果だ。明治維新後も、明治天皇の教育係の元田永孚は西洋嫌いの儒学者で、名君の教科書として唐代の『貞観政要』を読ませたし、教育勅語は儒教的価値観の産物だ。
だが、どうやら団塊ジュニア世代以下のネトウヨの頭の中にある理想の日本は、最初から西洋的価値観の近代国家だったらしい。彼らには古代中世の日本の伝統的価値観を本気で学ぶ気などなく、和歌や能楽や歌舞伎や浄瑠璃より、漫画やアニメやゲームが好きなのが本音だろう。そういえば橋下徹も、平然と文楽の予算を削減しようとしてたな。
「保守・愛国を唱えながら近代合理主義で何が悪いの?」と言う人もいるだろう。世の中には、何も悪いことをしてない人間にも病や死や不幸が降りかかったり、不合理がいくらでもある。何でも理性で解決できると思い、現代人から見れば非合理な考え方に従っていた古代や中世の人間を愚かとしか見なさないのは、思い上がりだ。そうして過去の時代の人々という他者への想像力を持とうとせず、過去の世代が積み重ねてきた道徳観への敬意がなくなると、経済的な損得ばかりが最優先の価値観になる。「皇室の維持は国費の無駄だから天皇制反対」と言い出す者も出てくるかもしれない。
そうなれば、単に力(財力、権力、情報発信力)がある奴が勝ちだ。日本でもドナルド・トランプのような男が国家元首になるかもしれない、トランプならまだ人物的に面白味があるが、竹中平蔵やワタミが大統領になったら本当にイヤだぞ。
統一教会は2015年に世界平和統一家庭連合と改名した。団体名に「家庭」とつくのがポイントだ。自民党による憲法改正案で、第24条に加筆された「家族は、互いに助け合わなければならない」という一文は、統一教会の主張と同じだといわれる。また、「こども庁」の名称が「こども家庭庁」となったのは統一教会の影響という説もある。
https://twitter.com/izumi_akashi/status/1548537253018103808
つまり、統一教会はとにかく家族の重視を唱える。彼らの教義は、俗流キリスト教と、家父長の権威や先祖供養を重んじる東アジア的な儒教道徳の混合物で、教祖の故・文鮮明をお父様、その妻の韓鶴子をお母様と呼ぶ。このような教団組織という大きな家族への絶対服従を唱える思想が、皮肉にも結果的に山上徹也個人の家庭を破壊した。
『週刊文春』7月21日号では、橘玲が「リベラル化した社会に敗れた男の”絶望”が暴発した」と題して、安倍晋三を暗殺した山上徹也のことを論じている。現代は家制度の束縛などが機能しなくなった「自由」な社会だが、それゆえに自力で自己実現できなかった孤立した人間が増えているといった内容で、その極端な暴発例に2008年の秋葉原通り魔事件や、2019年の京アニ放火事件を挙げている。指摘自体はおおむね間違ってないだろうが、なぜそのような世の中になったかの説明が抜けている。
リベラル思想以前に、社会構造の変化がある。そもそも、伝統的な家族観、家父長の権威とか、早く結婚して何人も子供を産むのが良いことだという考え方は、近代以前の農村社会が前提だ。農家は個人経営で、家父長のもとで妻子が一緒に農作業し、働き手として子供の数は多い方が都合よいから多産が奨励された。そして、農地という生産手段を継承するために血統の存続が重視され、先祖からの連続性が意識されていた。漁村も商家も同様に家族経営が基本で、船や商材を継承するため家制度が重視された。
ところが、産業革命期以降になると、農村の余剰人口は都市に流れて工場労働者となり、先祖代々の土地と家から離れて生きるようになる。労働者はみんな家庭外で雇用され、子供は家族から切り離され、父親も母親も子供も(昔は各国で児童労働が横行していた)ばらばらに働くようになり、自宅の窯でパンを焼いたり時間をかけて食事することもできなくなった(『世界の歴史 第25巻』(中央公論社)270p)
統一教会のような反共主義者は、「左翼リベラル思想が伝統的な家族観を破壊した」と主張するが、この解釈は因果関係が逆転している。共産主義は、工業が発達して伝統的な家庭を成立させる農村社会から切り離された都市労働者が世にあふれた結果から生まれた思想だ。マルクスより先に、経済的利益のために伝統的共同体を解体して蒸気機関と工場労働者を世に広めた資本家がいたのである。
逆に、農村社会に戻れば前近代的な家父長制は復活するだろう。だったら、商工業を全否定して国民を農村に強制移住させたポル・ポトのカンボジアこそが理想かよ?
先進国では工業化社会がさらに進むと、世の中は第三次産業中心になり、庶民はみんな勤め人の都市生活者となっていった。これは産業社会の要請によるものだ。以前も書いたが、(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20170522/p1)高度経済成長期に中卒や高卒で都市の工場や商店に就職していった女性は、左翼リベラル思想に影響されて社会進出し勤め人は世襲の家業ではないから、妻子が家に従属する必要はない。リベラル思想に関係なく、前近代的な家制度の束縛が弱くなるのも当然だ。生まれた時からこういう環境に慣れきって育った世代が、家父長の強い権威やきびしい上下関係を嫌うのは必然だろう。
こう書いている自分も、会社員の家の次男坊で、実家に従属する義理はないから上京以来ろくに親元に帰らない。長男の長男だった兄まで、ついに生活のためやむなく父の墓がある土地を離れてしまった。先祖代々の土地や家業を持ってるのではないのだから仕方ない。
統一教会のような保守派は、家族が大事だと主張するけれど、口先の精神論ばかりで上記のような社会構造の問題にまったく踏み込めていない。
困ったことに、農村社会や家制度のような伝統的な中間共同体が力を失うと、その代替物として、一足飛びなナショナリズムかカルト的団体に帰属意識を求める者が増える。
エマニュエル・トッドは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書)で、宗教的伝統が衰退すると代わりに排外的ナショナリズムが台頭すると述べていた。何でも、ドイツでは19世紀末から1930年代に昔ながらの教会を中心とした農村共同体が弱体化した代わりに反ユダヤ主義が台頭し、ナチス支持につながったという。
統一教会をめぐる報道で、山上徹也の母のように財産すべて差し出す信者の気持ちが理解できないという人は多い。しかしながら、外部から見ればいかに狂信的な団体でも、内部の信者には何らかの「魅力」がある。
先に述べたように、世の中にはいくらでも非合理的なことがある。それまで合理主義者だった人間が、病や死のような自分の力に直面していきなりオカルトや宗教に走った例は少なくない。帝国海軍の名参謀だった秋山真之や、アップルのスティーブ・ジョブスのような英才も、最期は近代医学に頼らず怪しげな方法に頼って病を治そうとして、かえって早死にした。こういう極端な思考に走らないためにも、世の中は理性で解決できないこともあると頭の片隅に置いて、非合理的なものへの免疫をつけておくこと必要だ。
そこまで追い詰められなくても、「大きなものにつながりたい願望」を抱く人間は多い。人には何かに帰属することによって得られる充実感というものがある。これは左派陣営の団体も同じだ。
こう書けば左翼リベラル派は激怒するだろうが、世の中には男尊女卑や家父長制に身をゆだねることに安心感を抱く者もいる(俺自身は嫌いだが)。いかに社会制度が近代化しても、誰もが自立した個人になれるわけではないのだ。
あの気持ち悪い集団結婚式にしても、なまじ自由恋愛の時代になると結局誰も選べずに結婚相手が決まらず、いっそ超越的な立場の第三者に一方的に決めてもらう方が安心、という人間も世の中には一定数いるのかもしれない。
これも以前に述べたが、カルト宗教などが行う洗脳とは、命令に従わせることではなく、被洗脳者が自発的に洗脳する側に忖度するように”誘導”することである(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20121101/p1)。
その手段として「場の空気」の力がものを言う。場の空気を使った洗脳はじつに簡単だ。こんな話がある、皆さんはカップ入りアイスクリームを食べるとき、どこから食べるだろうか? たいてい最初はカップの縁にスプーンを入れるだろう。あるとき数人の集団で、1人を除いた全員があらかじめ示し合わせて、みんなカップの真ん中にスプーンを入れて食べ、残った一人を「端っこから食べるなんてセコいなあ」と言ってからかった。仲間外れにされた1人は本気で、自分の方が異常で、アイスクリームは真ん中から食べるのが世間の常識だと錯覚したという。
これと同じように、閉鎖的な教団内では容易に「みんな多額の献金をしてるんだから、そうしない自分の方がおかしい」と思い込むように仕向けられる。宗教団体も、ネットワークビジネスも、会員制オンラインサロン商法も同じだ。
信者は教祖や教団幹部個人の命令に従っているというより、信者集団の「場の空気」によって献金しなければならない気になっている。周囲にいる人間が競い合って同じことをしているのに、自分だけそれをやらないと自分の方が変だと思い込んでしまうのだ。そりゃ「空気を読む」ことが至上の美徳という価値観で育った日本人なら従ってしまうだろう。
2022年現在の状況では、まだまだ自民党に対する統一教会の影響力は強そうだ。しかし、このまま上記に述べたような近代の社会構造が続くのであれば、20~50年ぐらいの長期スパンで見た場合、統一教会的なるもの――家父長制バンザイのカルト宗教は徐々に人気を失っていくだろうと考えられる。
実際、100~200年ぐらいの視野で見れば、左翼リベラル陣営はずっと勝利し続けている。世の中は、近代的な商工業が発達すればするほど、上下関係は緩くなり、男女は平等に近づき、セクハラやパワハラは嫌われ、体罰や理不尽な校則は廃止される方向に進んできた。
ただし、それは必ずしも自由平等人権といったリベラルイデオロギーの魅力による勝利ではない。単に文明の発展によって、人間が図々しくなっただけだ。
近代以前はあらゆる労働が筋力中心だったから、無条件に成人男性が一番偉くて、女子供は成人男性に従うものだった。しかし、そのような価値観は、スマホやコンビニやAIやドローンの普及と引き換えに後退しつつある。あるいは、汗臭い筋肉労働を人件費の安い海外にアウトソーシングしたり国内の視野から消し去っただけだ。外国人技能実習生の世界では、依然として日本人相手なら許されないパワハラが横行している。
いかに自由平等人権といったリベラルイデオロギーの字面が美しくても、思想だけで世の中は動かない。民主主義は古代ギリシャにもあったが、あらゆる労働が人力の時代だったから、ついぞ奴隷制は廃止されなかった。19世紀に入るとイギリスもアメリカも奴隷制を廃止したが、それはリベラルな人道主義者の主張より、奴隷を使うプランテーション農場と比較して工場経営のほうが儲かると判断されるようになった影響が大きい。
統一教会による霊感商法、巨額の献金要求は許しがたい犯罪行為で、自分もこういうカルト宗教は大嫌いだ。ただ、統一教会的なものを嫌悪する自分たちは、たまたま土着的な農村社会が崩壊して家制度の束縛が機能しなくなった時代に生まれ育ったから、統一教会的な家父長制価値観への Permalink | 記事への反応(1) | 23:06
近親相姦の禁止規定は、子どもを扱う職業の倫理規定に似た意味のあるものだと思っている。つまり、まさに増田が書いているように、
大体そのリスクを考えるなら、「家族が一緒に暮らすということがリスクである」、という考えになる。つまり、年頃の未成年はすべて隔離する、ないしは家庭に監視をつけるといったことをしなければいけなくなる。もっと突き詰めれば、誰かが他の誰かと暮らすのは危険、という考えになるのではないだろうか。本当にそれが皆が望む世界なのだろうか。
という話に等しい。考えてみてほしい。よその子を預かるとき、同性の子供ならともかく年頃の異性の子である場合、親はかなり気を使い、場合によっては断るだろう。なぜか。それは潜在的にそこに恋愛や性的交渉の相手となり得るという前提が潜んでいるからであり、そのことへの配慮が社会的に要請されるからである。何も考えずに預かって「何かあった」場合、保護者としてあまりにも無責任だとの社会的批判を避けられないから「配慮」する。それは、おおむね弱者となりうる側の性の子供(つまり女子)自身においても同様で、自分の身を守る観点から、同年代の「家族以外の」異性との接触には一定の制限が社会的に要請され、それを逸脱すると社会的な批判にさらされることになる。
分かりやすく言おう。要するにな、「お兄ちゃん」が「恋愛やセックスの相手になる」ことが前提となっている社会では、女の子は家の中でも外と一緒で「安心」できないんだよ。その心理的安全性を確保するために、インセストタブーは有効に機能していると考えるのは、現状においてはじゅうぶん妥当だ。よく言われる遺伝の問題、あるいは、前近代的な族間の贈与と交換の論理といった問題とは別次元の話として、今日においてもなお近親婚に忌避があるのは、それが理由だと言えるだろう。男性側からはあまり見えてない問題なので、増田のような疑問をもつ心理は分からなくはないが、増田以外の場でこんな話を持ち出せば明らかにヤバい男性認定されるので(いちいち理由を言いはしないだろうが)気を付けた方がいい。
具体例としてゆたぼんの親が思い浮かぶが、ゆたぼんやゆたぼんの親のことは詳しく知らないので、あくまで「子供を学校に通わせたくない親の気持ち」という抽象について考えてみたい。
この話をするうえで反出生主義の中核をなす命題「人類の総苦痛量を最小化するべき」は補助線になると思う。
学校教育現場に小さなイヤなこと(掛け算の順序、前近代的なスポーツ指導)や大きいイヤなこと(いじめ、教師による淫行、死亡を含む重大事故)など、いずれにせよ苦痛が存在することは周知の事実なわけだ。
ということは子供を学校に通わせることは確実に子供を苦痛にさらすことになる。
子供を苦痛にあわせるのは悪であるから、学校に通わせるべきではない。
という具合に、反出生主義は出生以外のものごとに応用することが可能な理論なのだな。
まあ子供産んでる時点で反出生主義者ではないので、たいていの親は子を学校に通わすわけだが。それだけに、ゆたぼんの親は稀有な例といえよう。
今年自社で支給されるのかどうかは知らないが、支給されるにしても非常に憂鬱である。
なぜか自社では賞与支給があるたび、上長から「社長や経営陣に対してお礼の言葉を述べるように」との指示命令が必ず飛ぶ。
なんだそれ教祖に忠誠を強要される宗教か…単純に「気持ち悪い」。
本来、賞与にしても月例の給与にしても、労働の義務を果たした対価として受け取る権利を有するものである。
賞与は業績などの影響を受けるが、支給すると決定したなら、それはやはり労働の義務を果たしたことに対する対価として支給するものであり(現にしっかり「査定」されている)、労働者は受け取る権利を有するものである。
よって、語弊や語感の問題はあるかもしれないが、労働の義務を果たしている限り、受け取ることは「当然(の権利)」である。
同様に、経営側も「はたらく(労働の義務を果たす)のは当然」と考えており、人によってはそう口にしてしまう者もいる。
それと同じだけのことだ。
「いつも朝早くから夜遅くまでお疲れ様、ありがとう!」などと述べる経営陣は誰もいない。
給与賞与は労働者にとってはたらく意義のうちの重要な部分を占めるものであり、経営側にとってはここを確実に抑えてしまいさえすれば優位な状態で事を運ぶことができる。
労働者に対する支配コントロールを強めるための有力な道具の1つであることは間違いない。
逆に、労働者側の立場として、それなりのインセンティブを示されれば多少面倒、不服なことでも遂行することもないとは言い切れない。
ただ、ここまであからさまに平然とやってのけるその神経はやはり気持ち悪さを禁じ得ないし、賞与支給日が近づくにつれ憂鬱になる。
確かに。
過去、このお礼の言葉を狙ってかたまたまかは知らないが述べなかった同僚がいて、以後、徹底した冷遇、パワハラ、セクハラ(同僚は女性)を受け続け、退職に追い込まれた事例もあるからな。
昭和の終わりくらいに国鉄に配備されJRに引き継がれた、205系という車両がある。
多くの通勤線区で走っていたのも昔の話、投入線区の殆どで既に新しい車両に置き換わって久しい今となっては、
走行音も乗り心地も著しく見劣りというか、コイツに乗ることは「ハズレ」以外の何物でもないわけで、
それで関東では、一昨年くらいにやっと相模線以外から駆逐された。
まあ今でも相模線で使われている時点でどうかと思うし、
相模線自体も単線=路線そのものが随分と前近代的なので、早く複線化とセットで車両更新しろって感じ。
それがここ数年は、やたらこの車両を有難がる鉄オタが多くて閉口している。
自分も私鉄車両だけど西武5000系はなんとか廃車前に富山に乗りに行きたいし、
113系もたまに乗るくらいならまあ…という感じ。
歴史に学ばないバカ。そんな頭の中で妄想しなくとも、実在した例があるというのに。
1980年ごろまでの生涯未婚率5%未満ほぼ皆婚社会だった日本という身近な例が。
(5%となると、重度の身障者や、結婚したくない強い理由のある者、例えばゲイなどを除いて全員が結婚していたと見て良いだろう)
その時代の日本は明治時代レベルに前近代的な社会主義のディストピアだったのかい?
第1部 少子化対策の現状(第1章 3)_ 子ども・子育て本部 - 内閣府
https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2018/30webhonpen/html/b1_s1-1-3.html
あなたは言語的多様性についての研究をしている、権威ある学術団体に所属しています。
この度あなたは、消滅の危機に瀕しているというある少数言語の研究・記録チームの一員に選ばれました。
すなわち、アフリカのどっかのあたりにあるベラルリ島に住むリコネポ族のリコレポ語についての研究に携わることになったのです。
ところで、リコレポ語では黒っぽい色彩のことを「バジャネエサ」と呼びます。これはリコレポ語で「人の肌の色」という意味の言葉です。
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「肌の色は黒とは限らないのに、黒を肌の色と呼ぶのは不適切ではないか。前近代的で、野蛮な習慣だ。記録から削除し、リコレポ語をより正しく進歩的な言葉にしてあげよう」と。
別の一人が言いました。「記録から削除するのはやりすぎだ。だが、今後リコネポ人にはこの差別的な単語を使わせないことにしよう。愚昧で愚かで醜悪なリコネポ人を政治的に正しく我々が導いてあげよう」
もう一人が言いました。「野蛮だ愚かだと言わせておけば、傲慢な連中め。この言葉は彼らの文化、尊重され、大切に記録されるべきもの、そして今後も使われ続けるべきものだ」
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「治らない」という病気の語彙を用いることが適当かをさておき、自分の中で「女嫌い」がもはや一つのテーゼとしてあらゆる判断の場面で幅をきかせてくる。どのような言動を取るか、といった直接の状況から、なんらかの創作物に対する評価まで、全てを男性的・女性的に分類し、女性的なものへの称揚があればそれだけで正直ウッとくる。(まあこれ自体は別に珍しい話ではないはずだ。元々性二元論から出てきた価値判断だろう。全てに男性的・女性的という分類がなされるのであれば、男性の中のある性質が女性的であることもあり、逆もまた然りということになるので結構事態は複雑になる)
とりあえず上野千鶴子なんか読んで素直に啓蒙される女が理解できない。「女嫌い」の仕組みを解明されたくらいで、その論理を自分を肯定するために援用できるようなその女性らしい逞しさ。自分の中で女嫌いはもっとパブロフの犬のごとく根底に根ざす反射といって差し支えないもので、例えば最も凡庸な例を挙げれば「あっ感情的になっているぞ、女性的だ、きついきつい」というように。それが馬鹿げていますよと言われたところで矯正不可能な域にある。
そしてこの反射にある一定の信頼を自分でも置いている。結局市民未満のところから出発した性にとって最も困難となるのは、利他を身に付けることなのではないか。「泣いてはいけない」「女の子を泣かせてはいけない」「自立しろ」というように叩き込まれる機会なく甘やかされて幼少期を過ごす女。共同体が温存する性差の特権だけはシレッと享受しながら平等の為に連帯したりする近代の女。
匿名ダイアリーだからこそ自分語り(なる女性的行為)を多少せねばズルいだろう。自分の女嫌いの始まりは、ピンクのもの持ちたくない、男子とサッカーしてたい、女同士のおしゃべりができないだとかしょうもない些末な好みの問題もあったが、決定的だったのは男教師から軽めの体罰をくらった時だった。顔を引っ張られてたまたま元々皮膚が弱かった部分から出血して、女クラスメイト複数人がメチャクチャ自分を庇ってくれた。ありがたくはあったが、その無邪気な連帯に引いた。男子への体罰は問題化されないにも拘らず、私の為だけに教師がタジタジになっているのだ。なんだこの二重三重な屈辱は。勘弁してほしかった(体罰は今程でないにせよそこそこ問題化されていた時代だったが、そこに今回触れるつもりはない。私が男子から嫌がらせを受けたという発端が女子達の擁護点だったが、結局双方ふざけて追いかけっこ状態となり、配膳中だったこともあり両成敗された流れなので、当時の校風と状況から鑑みてある程度公正な処罰だったと思える)。男子とつるんでも平等に扱われることは絶対にない。仮にどんなに「リベラル」な箱庭を作って篭ろうと、文脈は平等を許さない。
アンチフェミ男性とつるんで、いかに女が劣った存在であるか聞かされ続けることにーーそして劣っていることを知っている、マシな劣った存在であるという自意識を育てることにーー抑鬱的な安寧を見出していた時期もあったが、そうやって自虐までも他者に委ねることこそ「メンヘラ」なる女性的性質だと気付きやめた。そもそも女嫌いの男や、男嫌いの女というものは、自分の身体を憎悪から遠い安全圏に置ける時点で信用ならないところがある。やるんなら己に対する加害者としての憎悪から始めるくらいの気概が要るだろう。
マジで、勘弁してくれ。本当はジェンダーの話なんかしたくない(その為に増田に来たのだが)。にも拘らず社会生活を送る上で、例えば酒席で脱げと冗談を言われたり、「女の子には難しかったかな?」と話を振られたりする度に、「女だから不当に損をした!」というなんのひねりもない想念が立ち上がって来てしまうことがある。たまたま「脱げ」という語彙が用いられただけで、下品な冗談は女以外でも全ての固有の身体を持ちうる人間が晒されるものであるし、たまたま「女の子には難しかったかな?」という語彙が用いられただけで、他者から舐められうることは女に限らない。それよりも「女だからフェミニストで当然ですよね?」とすり寄ってくるフェミニスト(男女問わない)をかわすことの方が、いまや困難にして価値があるはずなのだ。少なくとも自分にとっては。
しかしフェミニズムに逆張りした時に、そこに立ち現れてくるイメージは吐き気を催す前近代的女である。なんてことだ。「女」という要素さえあれば私は近代も前近代も全て憎むことができる。では私にとって「女」とは何なのか。おい、お前フェミニストみたいなこと言っとるぞ。やめろやめろ、やめだ。
「俺たちが考える国民のためになる政策」をやっていないと思うから
「その調子でもっとバンバンやれ」と言うのは矛盾ではなく筋が通る
「左翼リベラル派が安倍政権から10万円もらうのはおかしい」と言う右派は
憲法改正や竹島奪還、北方領土奪還を実行しても反対するのだろうか???
あるいは安倍晋三がいきなり心変わりして
平和憲法の絶対維持や尖閣諸島を中国に譲ると言い出しても支持するのか???
を重視しているのかも知れないが
左翼リベラル派が前近代的価値観より合理主義的な損得を取るのは矛盾しない
高度経済成長期までは社長や政治家に忠誠を尽くせば利得が得られた
しかし、21世紀に入って以降の自民党政権が進める新自由主義は
勤労者を差し換え自在のパーツのような非正規雇用に変えてしまった
企業が家族のように従業員の面倒を見ることを辞めてしまった状態で
かつての時代の主君に対する臣下のような忠誠を期待するのは無理な話である