はてなキーワード: ゆとりとは
現代の経営は「強制された自発性」を社員から引き出す工夫を加えました。典型は、ノルマや目標の設定の際、社員自身にも責任を負わせる仕組みです。面接で上司が「君はもっと能力があるよ」「もっとできるはずだ」とうまく励まして、社員が最初に申告した目標を、より高い水準に誘導する。その揚げ句、社員は「やります」「やらせてください」と言ってしまう。こうして「約束された」目標の目標の達成度は社員のランキングになり、昇給や賃金や賞与に大いに影響することになります。「従業員も合意した目標設定」や査定の「納得性」などが、民主的な風を装って労働者を追い詰めてきたと言えます。
個人査定がなく、職種が同じなら仲間と同じ賃金を受けとる欧米の普通の労働者は、何よりも自分たちの生活のニーズを大切にして、企業の要請からクールに身を遠ざけます。賃金額などに不満があれば、組合運動で抵抗する。日本の会社員とは対照的な、そんなノンエリートの開き直りみたいな生きざまも、参考までに考えてみていいでしょう。
能力主義の浸透した企業社会では、「ランキングはやむをえない」という感覚が身についてしまい、不満をのべると「それはあんたの自己責任」と言われてしまうかもしれません。でも実は働く人々も心の中では、人事考課によって奪われてきた、仕事のゆとりと一定の裁量権、そして仲間同士での助け合いの復権を求めているのではないでしょうか。そう気づくことから、「人事考課の緩和を!」という声を上げることのできる、仲間の連帯が芽生えるかもしれません。(聞き手・田中聡子)
同世代の中ではそれなりの裕福度になると思うが、
今後の日本の景気や今後発生するであろう家・子供・介護等の出費を考えると全然豊かな気がしない。
10万円程度する iphone はもちろん Google Pixel なども気が引けて買えない。
金額が大きくなる家電だと顕著になっていかに性能がいいかではなくて、
いかにコスパがいいかだけで判断してしまうので必要最低限って感じのアイテムになり、
全然オシャレじゃないし全然ゆとりのある生活ではないと感じる。
都会に住んでいるのも影響しているかとは思うが車なんて高すぎて全然買いたいと思わないし、
いつになったら何かを買う時に一番コスパがいいものではなくて、
ある程度欲しいと思うものを値段あんまり気にせずに購入できるようになるのか。
小さい頃からインターネットをやってて2chを見ていたので、流行のアニメや漫画を叩きまくる老害オタクをたくさん見てきた
ガンダムSEEDを叩きまくる1stガンダムおじさん、ワンピースを叩きまくるドラゴンボールおじさん、黒子のバスケを叩きまくるスラムダンクおじさん
「俺たちは元ネタを知ってるんだ!お前らゆとりより偉いんだ!」とマウントをとりたいのか、流行の作品を批判しまくるオタク、たくさん居ましたよね
ああいう人たちを見るたびに「自分は歳をとっても若者に人気のコンテンツを叩く老害オタクには絶対にならないぞ」と心に固い誓いを立てて今まで生きてきた
でも、今その誓いを守れるか自信がなくなってきました
それは「なろう系」と「Vtuber」
なろう系は主人公=作者の投影だなと気付いた瞬間、これ無理だと思うようになった
現実でうまく行かないから異世界に行きたい、乙女ゲームの世界に行きたい
現実で才能がないからチート能力が欲しい、現実で恋人がいないから異世界でハーレムを作りたい、、、
そういう作者の欲望が作品に入り込みすぎててどうも気持ち悪く感じる
顔と名前を伏せてアニメキャラのお面を被った配信者とそれにブヒブヒするオタクたち
配信のチャット欄は判を押したように同じコメントがずらずら並ぶ、テンプレコメントすると一体感を感じれて楽しいのか?傍から見てるとまるで宗教のようだ
お前ら本当にそれでいいのか、考え直せよ、中身がどんなゲテモノか分からないんだぞ?よく盲信できるな・・・と思ってしまう
これに金投げるなんて自分には考えられない・・・どういうキッカケでハマるのかも謎だ。なんで人気なのか本当にわからない。
なろう系は自分が見なければ触れずに済む、だから特に叩くことなくスルーしてる
アイマスとラブライブの合同イベントに参加したり、プリキュアフェスにも出てきたり、グラブルフェスではグラブルのキャラとVtuberのコラボライブという地獄があったそうだ
幸い、自分の好きなコンテンツとVtuberはまだコラボしてない、しかし時間の問題だろう
近い将来、自分が愛してやまないコンテンツとVtuberがコラボした場合、自分は「若者に人気のVtuberを叩かないオタク」でいられる自信がない
きっと運営とVtuberを叩きまくるだろう、最悪そのコンテンツから引退すると思う
誰か助けてくれ
最新の情報をお伝えするわね。
私の今の鍋のベーナーの中身なんだけど、
鶏の水炊きです。
なかなか良いルーシーが育って来ているの。
そんで、
このお鍋の色々なベーナーの中の美味しい出汁が出たルーシーでこれおでんできんじゃね?って思ったのよね。
昨年末の手回し微塵切りきで必殺ワサを修得してタマネギスープにドハマり暮らしていたんだけど、
作るのは良いけれど
大量に出来てしまって食べるのに逆に辛い日々、
結経鍋のベーナーの季節のシーズンになっても
なかなか鍋もできなくそれに伴っておでんももっての他なのよね。
でようやく空いて鍋が空になったところに最後今シーズンラスト鍋のベーナー鶏の水炊きキメようと思っていま実行中であるの。
まだ牛筋買ってないので、
良い牛筋があれば適当に煮る下ごしらえするんだけど何せ手間よね。
まだやってない実行には移せてないのよね。
でさ、
思うんだけど
最近の牛筋って柔らかすぎない?
圧力鍋で下茹でするんだけど、
そして煮るんだけど
そして焼いてさ食ってさ!って
ちょいと木の葉では隠さないけれど
最近の牛筋って煮込めば煮込むほど無くならない?
牛筋の存在感がなくなの!
昔の牛筋はとにかく固くて固くて、
よく祖父とかは牛筋で出来た玄翁で釘打っていたのを覚えているんだけど、
そのぐらい昔の牛筋はそれはそれは牛筋たる所以!
いくら煮ても固くていや逆に充分な食べ応えをかましていたのに、
今の牛筋はゆとりなのかさとりなのか煮すぎなのか、
とにかく柔らかいのよね。
柔らかく仕上がって良いけれどある程度の限度の限界の煮るポイントを超えてしまうと儚く消えていくの。
私がいつも言っている、
バブを握りしめながら湯船に浸かって、
世界を救いきれなかった悔しさで、
儚く消えていく残された無念のその少女のその思いの如く
握りしめたそれは湯船の中で溶けて無くなっていくバブにその少女の思いを重ねて見つめる感じと同様に
鍋の中でベーナーの牛筋は煮過ぎると儚く消えていくのよ。
牛筋みが救いきれなかった穴あきお玉でも影も形も現さない感じで掬うことができないのよ。
煮るということを覚えてから煮れば煮るほどそう言う煮物は美味しくなる
てーてっててー!て
あのねるねるねるねのお婆さんが伝承の煮る術を私に教えてくれたならば、
その煮る煮る煮るね!の煮すぎれば煮すぎるほど食材は無限に旨くなると思っていた時代があったの。
でもある程度の臨界点を超えると
出汁の利いたルーシーのスープの中で溶けて無くなってしまうのよ。
これは衝撃よね。
無限に煮れば煮るほど煮物は美味く美味しくなると思っていたから。
だからある程度の限度を境目にして
つまり
そうよコスモがあるの!
おでんに取り組まなくては!って思ったのよね。
牛筋は煮込みすぎ禁止ステッカーをちゃんとおでこに貼ってから充分に注意して下処理するわ。
でも次マーケット行った際に
良い牛筋がありますように!
そうお星様に願うわ。
うふふ。
みかんの花咲く丘公園前駅の前の商店街の喫茶店だけど和食モーニングもありー
いつもだいたい鮭か鯖かの2つで
その鯖が焼きたては焼きたてでじゅうじゅう皮目が焼き弾けていて
うわ!美味しそうな焼き具合ションテンが爆上がり朝の焼き鯖定食!っていただいてきたところよ!
魚の脂がじゅうじゅう鳴っているのはションテンが上がる美味しい合図よね!
ごちそうさまでした!
御湯沸かして置いたままだったので、
朝の見頃の60℃!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
4月から新社会人で寮に入る23歳。寮費は光熱費込みで2万くらい。トイレ洗面台は共用で風呂も大浴場なんだけど、個人的にはあまり気にしていない。洗面台が共用なのは渋いが、大浴場は自分で風呂掃除しなくていいのでむしろウェルカム。部屋はワンルームだけど、雨風しのげて寝るスペースがあれば十分だ。
問題なのは趣味道具を置く場所である。親から譲ってもらう車1台と愛車の大型バイク、スキーとスキーに行くためのスタッドレスタイヤをどこかに納めなければならない。車は寮に置けばいいが、バイクとタイヤとその他道具を保管するにはレンタルコンテナを借りなければならない。寮周辺のコンテナの相場は、月あたり約2万だった。
となると、(住まい関係の)月の固定費は4~5万程度になる。多目に見ても6万くらいだ。
さて、ここからが本題。職場は某地方にあり、近くに別荘地がある。ネットで軽く調べてみると、1000万以下の中古物件がゴロゴロあるじゃないか。
90年代に建てられた2LDK650万の物件を、頭金なしボーナス払い無し15年で払うとすると、月の支払いは約3万7000円で済んでしまう。リフォームすることを考慮して800万借りるとしても、月の支払いは約4万6000円だ。もちろん、これに加えて固定資産税、光熱費、管理費(別荘地なので)の支払いがあるので、月の支払いは6~7万程度になるだろうか。
寮で暮らす費用+1,2万で、緑に囲まれ閑静な土地にあるマイホームが手に入ってしまう。風呂は自分で沸かさねばならないけど、敷地に余裕があるのでプレハブ小屋を建ててもいいし、車は3台くらいであれば余裕で停められる。隣の家とはゆとりがあるので、友達呼んでBBQやっても迷惑はかからない(たぶん)。融通が効かない寮(賃貸)+レンタルコンテナと同じくらいのコストでこの環境が手に入ってしまう。
転勤や結婚(今のところ可能性はゼロ)により住めなくなる可能性は十分あるものの、売却、貸別荘にする、自分で使う別荘としてキープ、などなどその後の展開も融通が利く。
生きていれば自然と色々なことを感じるし、それら全てをいちいち丁寧に言語化するほどのゆとりがないってことかと。
あと言語化が上手い人には想像もつかないんだろうけど、自分が感じたことをうまく文章に落とし込むのは、ある程度の能力がいる。
子どもとか、大人でも語彙力がない人とかは、自分の感じていることをうまく言葉で表現できないから、そのフラストレーションを行動で表現してしまったりする。
自分は昔から文章を書くのが苦手で、自分の感じていることや思っていることをうまく言語で表現することができなかったので、そのモヤモヤを絵を描くことで解消してきた。
そのおかげか、絵を描くことで何かを表現することは人並以上にはできる。
俺は周りの先輩への発言や態度が尊大過ぎて配属1週間かからずに「大嫌いな新卒のあれ」として会社中で有名になった(よくわからんけど自分が会社で一番のキレ者なんだろうなと思ってた。支社に電話かけて相手が出て名乗るなりよく怒鳴ったりしてた)。
これで優秀だったら若かりし頃の英雄譚にもなろうが、ガチで無能だったから恥ずかしい。
結果、1年目が満了した時点で左遷されてそこから15年経った現在に至るまで一度も浮上できていない。
年収はようやく500万に到達。
さすがに年の功で仕事は覚えているので若い後輩や同僚から憎まれたりはしていないが、思いっきりバカにされているのは伝わる。
ぶっちゃけそこに怒りは感じない。本当に自尊心を破壊されて丸くなったと思う。
一人がとにかく寂しくて無理で、休日を一人自宅で過ごすというのが考えられないという外向きタイプだったので、28歳あたりで婚活を始めてさっさと結婚。
人見知り全くしない性格と明るくハキハキした態度が功を奏した。
自分の人生には立身出世ルートが存在しないので家庭にエネルギーを全振りするのは自然な帰結だろう。
早速子供を2人作り、子育てに命をかけている。SNSは子供の写真と育児ネタと家事ネタの投稿で100%だ。
世帯年収は700~800万で今後大幅に上がることはないので都会で子二人育てるには正直心もとない。
だが、持ち家を諦め実家で親と二世帯で暮らしているのでかなりゆとりがある。父親の遺産もあるので家計の危機は訪れそうもない。
仕事も干されているので同じくらいの年齢の社員と比べて残業が異様に少なく本当に家庭に100%目を向けられる。
まあ親のレガシーのおかげでまるでエリートかのような充実した家族生活をできているわけだけど、俺みたいな奴は結構多いと思う。
でも俺は子にそういうものは残せん。
こんなこと言ったら今の時代炎上してしまいそうだけど言わせてほしい。しんどすぎる。
私は現在20代で性別は女(なんかこの性別がっていうのも叩かれそうだな、まぁいいか)、散々多様性のことを言ってるくせにどちらかと言うと多様性よりの職業に就いている。
最近テレビでも新聞でも携帯でも、ついには先日読み始めた小説にも「今は多様性の時代」という言葉が出てくるようになった。
あまりにも多様性多様性言われるので正直うんざりしているのだけれどそんなこと言ったら炎上してしまうから言えないが、ここでは書くことを許してほしい。
「今時の若いもんは」「俺たちの若い頃は」、いわゆる昭和の人間と言われる人たちがそう言うと私たちの世代は途端に眉を顰める。「また始まったか」「もう時代遅れなんだよその理論」そんな感情だろう。
私は自分がどちらかと言えば今時の若いもん、に当てはまることを知っているしそれを自覚してもいる、典型的なゆとり世代的思考だと思う。
結婚はしたくないし子どもも欲しくない、人と関わることが苦手すぎてお茶出しさえまともにできず、社会に馴染めないことを自覚して今はフリーランスで仕事をしている。
そんな自分がこんなことを言うと矛盾してると言われてると思うが言わせてほしい、とにかく多様性の押し売りがしんどいのだ。
もちろんいい時代だな、と思うことはたくさんある。私は幼稚園から高校まで通ったが、その間一度も学校を楽しいと思ったことはないのにその自分の感情を押さえ込んだ結果ストレスが原因の難病にかかった。
その時の私は「学校に行かなくなったら終わりだ」「世間ではまともに生きていけなくなる」そう思っていたからだ。だから身体を壊してまでも学校に行っていた。
でも今の時代は必ずしも学校に行かなければいけないという雰囲気ではない。私の親戚の子が学校に行くのをやめて数年、高卒認定だけは取り、今はネイリストとして海外で元気に毎日楽しそうに活動してるのを見ると素晴らしいなとも思う。
周りにも学校に行かなくていい、という言葉を聞いてホッとしたような顔をして自分の好きなことに没頭して夢を見つけて、今はその夢に向かってる人も大勢いる。それを経て確かに思う、いい考え方だなと。
ただそれはちょっと?と思う考え方もある。
典型的なのがLGBTQ(以下のカテゴリはここでは一旦省かせていただく)の問題。
少し前に聞いた話だが、心と身体の性別が一致しない方達の主張。私が聞いたのはトイレや温泉の話だったと思う。
少数派の意見も聞こう、というのは大変素晴らしいことだと思う。この場所のように少ない考え方の人間の話を聞いてくれる場所は必要だとも思う。
では世の中の法律や規定をその少数派に合わせるのか、そうなると話は変わってくる。
学校でも議会でも会社でもなんでも基本的に何か困ったら多数決を取ることがある。それはなぜか、通常意見が多い方が優先されるからだ。
たとえば会社でAという案とBという案があるとして多数決では今回はAに決まった。ただBがダメだというわけでは全くない、だが何かしらの理由があって大多数の人がAがいいと思った、ではAを弊社の意見にしよう。
ここまでが今までの流れだ。ただ最近は「じゃあ少数派の案からこちらにも使えるものを少し取り入れよう」とこうなる、正直これはものすごくいいことだと思う。
人間はどうしても白黒つけたがる、これがよくてこれが悪いと考えがちだがそんな中いいところを見つけてよりよくしていく、素晴らしいことだと思う。
正直最初に多様性の話が出て来た時、私はすごくワクワクしていたのだ。いい方向に変わりそうだぞ、このままいけば、そう思っていた。
ただ、このままではいかなかった。
そのうち出て来た意見は「私はAの案は好きではない、少数派ではあるがB案を好きだと言ってる人はいる、だからB案を採用しろ」これである。
先ほど出したトイレや温泉の話はこれに近いものがあると思う。少数派の意見に合わせろと。その結果何が起きたか、それを逆手に取った犯罪だ。
もちろんLGBTQを全ての人がそうだとは全く思わない、人々の必死の主張を逆手に取る奴らが悪い。それはわかっている。ただこういったことがあるため、感情だけではどうにもならない問題なんだと言うことをわかってほしい。
心には形がない、定義もない、だから何にでもなれるし逆に何にもならない事もある。それはとても素晴らしいことだと思うし、大事にするべきことだと思う。
ただそう言った考え方が恐らく少数派であり、明確な定義ができないということを考えると、それを世論としてしまうにはあまりに危ういと思う。
これは逆の立場でも言えることだ。
どちらか一つの意見を世論にするのは非常に危険だと思う、だからいろんな意見を聞いてそれらをまとめる必要がある。
ただその際に少数派の意見を世論にしてしまうと上記に書いたことが起こったりしてしまうのだ。
ここから少し話は変わるが私はいわゆるバイセクシャルと呼ばれるものに該当して、恋愛対象が一つの性別には限られない。ただ別にその話を誰かにしようとは思わないし、知ってほしいとも思わない。
性別とか恋愛とかそう言ったことに対して隠さないといけない人がいるのはおかしい、という意見も聞くがはっきり言わせてもらう、私はどちらかというと隠させてくれと思うタイプの人間である。
一度飲みの席で「バイなんですよね」という話をしたら、いわゆるそう言った偏見がないとされているバーの店長から「そのこともっとアピールしていこうよ!」と言われた。
なぜ、なぜわざわざそんなことを言わなければならないのだろう。カミングアウトしたい人はしたらいい。同性婚と言われるものも全然いいと思う、ただ全ての人が自分に当てはまるように権利を主張したいとは思わないでほしい。
最初に言った昭和の人のお決まりのセリフ、これは今の時代にも当てはまると思う。
「今はもうそういう時代じゃない、多様性の時代だから」「もう古いんですよその話」私がもし令和よりももっと後に生まれた人間ならばきっとその言葉を聞いて思うだろう、出たまた始まったよ多様性の話、と。
昭和の人間には自分たちの考えを押し付けるなと言うくせに、結局昭和の人に自分たちの意見を押し付けているではないか。
正直、昭和時代を見ていれば同性同士が恋愛をしたり結婚をしたり、何か干渉すれば○○ハラスメントと囃し立てられたり、お笑い番組で体を張ったことをすれば暴力だと言われたり、
そんな時代が受け入れられないことは普通だと思う。だってそれが所謂普通だったんだから。
今の時代にそぐわない考えが理解できないのはわかる、ただだからと言ってその人たちを馬鹿にしたり揶揄したり、それは結局私たちがゆとりだと言われて来たのと同じことをしてるのではないだろうか。
普通という言葉が嫌いなのに自分も普通という言葉を使ってしまっている、こうして私も今嫌ってる人間みたくなっていくんだろうな。
そして結局何が言いたいかわからなくなるまでダラダラ話してしまった、これを見た人は言うだろう「これだから今時の若いもんは」と。