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2023-11-25

そもそも弱者男性に支持されたらされたらむしろ立憲・共産は詰む

anond:20231125160654

なんかこの増田に賛成している側も反対している側もこの明らかな事実を何故か認識していないようなので確認のため書いておく。

政治は支持者に見返りとして長期的な利益短期的な利益の両方を与える必要がある。

長期的な利益は明らかで、それぞれの公約の達成だが当然、与党にならないと与えられないし与党だってうそう実行までは至らない。

とくに野党にとってはベンチャー企業ストックオプションを発行して働いてもらうようなもんであり、空手形から

それだけで政党への関心を集め、草の根レベル政治活動を維持運営していくのはよほど政権交代が目前でもない限りまず不可能である

しか現代日本においてとくに草の根レベル政治活動については政治資金など出そうものならまず腐敗とみなされるのだから

かわって短期的な利益として、政治活動に伴った精神的な満足感を与えることが必要になる。

典型的なのは敵対者を貶め、自分たち道徳的地位を高めるとともに集団攻撃する正当性を与えること」であり

これは古典的にはマックス・ヴェーバーなどの社会学者も指摘しているところだ。

そして、立憲、共産においてはその仮想敵攻撃理由本命の一つとして「自民党を支持する弱者男性と、それが悪である種々の理由」を供給しているのだから

もしその正当性根拠が崩れてしまったら、仮に将来的により政党の拡大が見込めるとしてもそれより前に短期の「資金繰り」がショートしてしまう。

新規案件を獲得しようとするのに労力を費やしすぎて大口受託案件を切られ、運転資金源が尽き給料が払えなくなったベンチャー企業のごとく「倒産」するのは目に見えている。

もちろん、この構造はべつに立憲・共産に限ったものではなく

自民党においては「日本破壊するサヨクと、それが悪である種々の理由

維新においては「日本寄生する利権集団特に公務員と、それが悪である種々の理由

などなど各政党において「運転資金」となりうる短期的な「仮想敵」が維持可能なように設計され、それにより政治運営がなされているのだから

これらの敵対構造が崩れるような「支持」を求めるわけがないし

それが不可能相手をしっかりと選定してすみ分ける程度には賢い人々だからこそ政権運営可能だと言える。

当然、立憲・共産弱者男性の支持など望むわけがない。

いやしくも世界俯瞰するインテリを自認するはてな界隈諸氏に置かれては

この程度の構造は前提としてコメントしていただきたいものである

2023-09-10

物理学ファインマン社会学ヴェーバーか?

哲学者永井均さん、M・ヴェーバーを精読したこともない人が社会学を叩くのは自分馬鹿であることを喧伝しているようなものであるとの見解を示す」

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2221010

このブコメの話。

自然科学におけるリチャード・ファインマン権威性と人文科学におけるマックス・ヴェーバー権威性を並べちゃうのは典型的ダメ議論という気がする。

文系教育には原典講読という伝統文化があるが、自然科学教育において原論文を精読することは比較的めずらしい。大学社会学科でヴェーバーを読んでいない学生モグリだろうが、物理学科でファインマンを読んだことない者はいくらでもいる(はず。「ファインマン物理学シリーズはそれほど人気のある教科書とはいえないし、一般向け作家として人気があったのは一時代前だろう)。

現代の「社会学」についてまともにコメントをしようとするならマックス・ヴェーバー著作、少なくともその教科書的(=広く合意のある基礎的な)解釈を知っている必要がある、というのはそれほど異論のないことだと思う。なぜなら社会学をはじめとする現代人文科学議論は、過去学者がつくりあげてきた概念言葉)をその文脈込みで参照し、再解釈しながら展開されているからだ。M・ヴェーバー理論現代社会学の基礎の一部、別のいい方をすればある種の共通言語的基盤となっていることは否定できない。そして人文科学における二次文献は不可避的に当該の文献の著者の解釈文脈を帯びたものになるので、そもそものM・ヴェーバー議論を知るためにはM・ヴェーバーを(できるかぎり原語で)読む以外の方法がない。

他方で物理学をはじめとする理学系の自然科学について、たとえば放射性物質一般的な性質などについてあれこれいうために特定原論文を読む必要はまったくない。たとえばアインシュタイン原論文を読解することと、相対性理論理解することはそれほど関係がない。読むのは凡百の大学教科書でもいいし、なんなら「一般読者向けに」(ただし適切に数式を用いて)書かれた解説本でもいい。

なぜなら現代物理学の最新の知見、つまり多くの者がもっと妥当であると認める理論についての解説は、基本的に誰が書いたものでも同じ前提、同じ内容、同じ結論になるからだ(基本的法則定理にもとづく数式の展開によって示される)。知見のコアは何らかの前提のもとに何らかの理路を示す数式の展開もしくはその結論であって、誰が書いたか、どう書かれているかといった文脈関係がない。

物理学はたしかにこれまでの物理学史(歴史に名を残す偉人と無数の無名研究者たちの論文の蓄積)の産物だが、その到達点を知見として理解するために科学史理解する必要基本的にはない。ファインマン特定の業績によってノーベル賞を取ったが、その業績について知ろうとする場合でも、必ずしも彼の書いたものによって理解する必要はない。

2023-07-02

宗教とは何かについて考えてみた

宗教」を定義してみる

私の現時点での定義としては、宗教とは、人生において行動の選択を迫られたときにその指針となる命令又は禁止規範となる道徳をいう。多くの場合「こうすれば死んだ後で天国極楽へ行ける」「こうすれば地獄へ堕ちる」というように、行動いかんによって死後の魂の扱いが左右されるという教えがセットになっているが、現世における救済や恵みを受けるという教えの場合もある。

この定義に従えば、儒教宗教であるマックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で分析したように、「商売で儲かることは神の教えに従った正しい行いをしていることの証である」といった信仰のあり方も宗教であることに鑑みると、「運気が向上する習慣」といった自己啓発の類も宗教である。この定義に従う限りでは、何らかの宗教を持っている日本人はわりと多い。

なお、この定義からすると「お国のために戦って死ね英霊になれる」という教えが宗教に含まれるかどうかは微妙で、私は否定的に考える。なぜならば「どう生きるか」でなく「どう死ぬか」の行動指針であるため、「善き生き方」を示す道徳になっていないから。どちらかというと政治キャンペーン一種に分類すべきように思う。ただ、この点は「道徳とは何か」の定義を決めないと結論を出せなそうなので保留にする。

死者の霊、祟り祈り

死者は霊魂となって現世の人々に影響を及ぼすとか現世の人々の祈りが死者の霊魂を癒すという観念は、死んだら死後の世界に行くという宗教観念矛盾している。この二つの観念は別々のもので、宗教が生まれる前から原始的信心として前者が存在していたと思われる。

「死んだらどうなるのか」という不安に対しては様々な「答え」が出されており、天国地獄永遠に暮らすのだとか、別の生き物に生まれ変わるのだとか、現世と交流できる状態にあって時折姿を現したり人に憑依したりするのだとか、恨みや後悔を残して死ぬと地縛霊や怪異になるとか言われている。

交流したり観測したりできる存在としての霊魂存在を信じることは、何に寄与しているんだろうか。例えばいじめられて死んだ生徒の霊が語られる際に、いじめはいけないという教訓ではなく「あのトイレには近づくな」という戒めの方が強く意識されることからすると、道徳には繋がっていない。もっとも、死者の霊を軽んじる行動を取ると祟られたり罰が当たるとされるため、死者に対する礼節という行動規範にはなっている。死んでも生者と関われるので孤独じゃないとか、死者を敬うことで自分も死んだ後で丁重に扱われるだろうとかの安心感を得られるのかもしれない。

命令禁止をせず救済を与えてくれる神様

苦しい時に頼みの綱となる「神様」は、普段はまったく信仰どころか意識すらされておらず、名前もなければどんな姿をしているのかのイメージも持たない漠然とした概念である。その「神様」に祈りを捧げることで天国に行けるわけでもないし、祈ったにもかかわらず救済が与えられなかった場合には悪態対象にすらなる。

「どちらにしようかな天の神様の言うとおり」やテーブルゲームにおける「ダイス女神」もこの一種で、普通人生の命運をかけるほどの扱いはされない。ただ、行動規範をもたず「幸運のお守り」に人生を賭ける人もおり金儲けのターゲットにされがちである

エジプト神話ギリシャ神話北欧神話ヒンドゥー教の神々

勉強不足なのでよくわからない。

「死後の世界」を司る行動規範としての神もいるかもしれないし、「戦に勝ちたい時に祈る神」「商売繁盛のために祀る神」として救済を求める神様の類かもしれないし、「こういうことするとこういう目に遭うよ」といった教訓的な寓話や超常的で不思議な御伽話の登場人物なのかもしれない。

政教分離すべきとされるのはなぜか

上記のように、私の定義では「宗教」とは行動規範を示す道徳である道徳は「どうあるべきか」「何が正しいか」を含むものであり、従って政治法制度のあり方にも関わる。法や政治道徳イコールではないにせよ、深く関連している。そのため、特定宗教の良しとする行動規範に従って法律を作り政治を行うと、他の行動規範もつ宗教を信じる人々と衝突する。「人であるがゆえの権利」を前提とする法制度や政治は誰にも平等でなければならないことからすると、特定宗教立脚した政治を行うわけにはいかない。

「こう生きるべき」みたいに国家が口出しすること自体大きなお世話と考えるのが「人権主体政治だともいえる。

人権」は宗教

やってみればわかるが、人権を行動規範にすることはできない。人権人生の様々な場面で衝突するものからこちらを立てればあちらが立たず、その折り合いをどうつけるかが求められる。したがって人権大事にしようと決めたところで行動指針が決まるわけではない。例えば表現の自由プライバシー権のように。

政治を考える際に考慮すべきものではあるが、個人人生の指針にはなり得ないので、人権宗教ではない。

おわりに

私の友人にはキリスト教仏教敬虔信者であったり聖職者であったりする人たちが少なくない。また、スピリチュアルものを信じる人もいるし、神様へのお勤めで心身をすり減らしてしまっている人もいる。信仰はとても古くから存在し、必要とする人間が多かったのに、なぜ必要なのか自分にはわからないのでずっと考えている。難しい。

2022-11-17

anond:20160822181702

キリスト教国のアメリカ拝金主義蔓延しているのは皮肉だが。

 ← そのへんはマックス・ヴェーバーあたりが論じている通りかと。人によっては「資本主義プロテスタンティズム放蕩息子」と言ったりする。けだし名言かと。

ちなみに、新約聖書には、カネを預かったのに増やさずに大事タンス預金していて主人に叱られる召使い寓話キリスト弟子たちに語る場面がある。

キリスト教者でありながらマルクスの影響を多大に受けた

 ← こちらもまた、社会主義共産主義の萌芽にはキリスト教があることを考えればさほど不思議ではないかも知れない。「キリスト教社会主義」とか「キリスト教共産主義」などという言葉もあるし、初期のキリスト教信者たちは正に共産主義コミューンを作っていたようだ。

ちなみに第46代内閣総理大臣となった社会党片山哲は熱心なクリスチャンだったし、マッカーサーも彼が総理就任したことを歓迎していた。今でも日本キリスト教界は左派的な空気が強いように思う。

なお、ガチガチ唯物論無神論共産主義については、これを「プロテスタンティズムの鬼子」などと評する向きもある。

2021-11-25

anond:20210617064202

これは神学命題プロテスタンティズム決定論に対して言及がないので不完全。

アメリカ歴史の初期においてピューリタン重要役割を果たした。彼らの思想の一部は今も残ってる。

フス戦争カルヴァン主義やその前史にまで言及すると長くなりすぎるので省くが、重要な要素が【予定説】(神学決定論)であるカンタンにいえば「全知全能の神。神は全知全能なのですべて予定済でお前の自由意志なんかねーよ!なので善行した"から" 天国に行けるとかあるわけねーじゃん。俺が "善行する" と思うことまで神は予定済なの!」

というのがあった。

こうなると、「えーじゃあ善行しようと思うこと意味なくね?」ってなって人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。

人々は「私は神によって救済される(=天国に行く)ことが予定済の人間なので、そうあるべくふるまう(=善行を行うしより良くなるため努力する)」となった。

因果が逆転してるというかなんというか。

この因果の逆転によって、ダラダラ働いてシエスタするようなカトリック圏と異なり、プロテスタンティズム圏では修道院のように禁欲的に働き、禁欲的に自己研鑽し、禁欲的に金儲けをしその利潤を禁欲的に再投資する…ことによって世の中を良くする。なぜなら私達は神に選ばれているので!それができる!

となっていった。

(※ 禁欲的に慎ましく暮らすタイププロテスタントもあります

世俗社会修道院化」によって、日常生活の全てを信仰労働に捧げる。

節制禁欲のために複式簿記を導入…。合理的精神禁欲的に社会を発展させる(なお奴隷制ry)。。

この辺の時期の代表例としては、ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父にして実業家であり学者であり外交官。そして偉大な政治家。今も100ドル札に顔がある)など。

勤勉性、探究心の強さ、合理主義社会活動への参加という18世紀における近代人間像の象徴

…というあたりで、発展しすぎた禁欲資本主義本来宗教性を失い、資本主義になり、「内なる光=神との対話」みたいなあたりが「自由意志」に変わっていく。

自己研鑽しない者たちに対する憎悪侮蔑は、従来の「つまり定説におけるアイツラは地獄行きになる怠け者」から、「侮蔑すべき怠け者」だけが残った。

・・・というあたりはマックス・ヴェーバーが"プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神"という本とかで書いてたこと。

今のアメリカ人は直接プロテスタントというわけではないが、連綿とこの思想を引きずっているのである

(なぜならそのほうが発展に有利だからね)

----

補足すると、こんだけ「プロテスタンティズムがー!」と書いておきながら、実は西海岸カリフォルニア州は全米でももっともカトリックが多い地域である。なぜならもともとあそこはメキシコであり、今でもスペイン語圏からカトリック移民が多いからです。

ただ、思想的な主流派は?というと難しい。モルモン系やユダヤ教徒(思想原理は異なるが同様に資本の蓄積が宗教的OK)もスゴイ多いし、西海岸を語るなら中華系の人々に言及を避けることが出来ない。

そして何より、【西海岸リベラリズム】と対極っぽそうな南部バイブルベルト。

この地域基本的プロテスタントだ。そしてめちゃめちゃ保守的

ただまぁ、この辺はそもそもバプテスト派なので同じプロテスタントと言ってもなというのと、更には南北戦争で負けたエリアっていうのと、そもそも南北戦争以前から移民が少なかったため思想固定化されたっていうのとかありそう。

2021-11-01

現代政治運動における嘲笑効果戦略

政治運動において敵対者への嘲笑時代地域を超えて普遍的である

SNSにおいても、特定政治家のみならず支持者や大衆への嘲りは、もはや見飽きた光景だ。

だがその効用は明らかとは言い難い。

嘲笑することは一見敵対者への攻撃にはなるが、第三者の反応はまちまちだ。

一緒になって攻撃するか、逆に攻撃者への批判を呼び起こすか、そういった争い自体忌避して場を立ち去るか。

とくに、最後効果、つまり政治自体忌避させる原因を、政治運動における嘲笑帰結する分析もある。

支持を拡大するという目的マイナスにもなりうるのにも関わらず、なぜここまで嘲笑が溢れているのだろうか。



社会学において支配関係類型化した初期の学者であるマックス・ヴェーバーは、政治運動上層部運動員に与える精神報酬ひとつだとしていた。

選挙活動などの強力な支配行動に人々を動員するには当然、従わない人間よりも多くの報酬必要である

しかし、(とくに猟官制の廃止された後の)民主主義では、大衆を動員するときに直接的な経済的見返りを与えられない。

それ故に様々な精神的見返りを与えることが必要であり、「嘲笑のための大義名分」がそれにあたるのだと。

この描像だと、嘲笑あくま精神的な見返りのひとつであり、怒りや復讐心の発散なとど同列とされ、そこまで重視はされていない。

政治家トップダウンで操る戦術オプションとして扱われている。



現代的な心理学の描像だと、嘲笑もっと政治に直結したものだとみなされる。

そもそも、「笑い」という行為や付随する情動は、自他の思考や行動の間違いを指摘するために獲得されたと考えられている。

人は、社会的に正常な状態だと思いこんでいた状態が間違っていると発見したとき、その気付きに対して笑う。

自分が間違っていたと自分で気づいた場合には行動を改めるだけだが、重要なのはこれが仲間に、かつ攻撃的に向けられたとき(すなわち嘲笑)だ。

期待されている効果は、間違っていた人間が態度を改め、仲間に従うことだ。

だが、仲間の「間違い」に気づいたとしても、実際に正しいのは自分なのか、相手なのか。それはどうやって決まる?

社会的な正常さを決めるのは、群れの政治力学だ。人間原始的社会は単純な多数決でもないし、かといってリーダー強者による完全な序列制でもない。

たとえば、強く序列が高い人間の笑いには追従の笑いをもたらす効果がある。これによって周囲から笑われた人間は態度を改める。

しかし、リーダーが明らかに間違っている場合には、群れの全員から嘲笑され、リーダー側が反省を強いられる場合もある。

場違いな場面で他人を笑った人間が、逆に間違いを笑われることもあるだろう。

このように、嘲笑とは複雑な政治行為の最も原始的な発露であり、人間特有の行動である



無論、現実、とくにSNS上の政治言論における嘲笑はこの2つの描像の中間にあるというのが実際のところだろう。

特定政党政治家言論人が嘲笑行動を種々の政治目的扇動する場合もありうる。

そういった目的を持たない、無意識の笑いが政治シーンに影響を与えることもある。

もちろん、この無意識なかに個人政治信条も含まれている。

ただ、そういった背景を無視して効果だけを見れば、ひとつほぼ明らかな事実がある。



嘲笑多数派を固めるためだけに有効であり、それ以外の場合には逆効果になる、ということだ。

集団的に行われる嘲笑は、味方には精神報酬をあたえ、仲間関係確認し、支持を固めて動員する効果がある。

また、怒って反応する敵対者あぶり出し、敵として認定することもできる。

日和見派のうち気の弱い人間には追従笑いを引き起こす。彼らはすくなくとも言論の場では逆らわないことが期待できる。

そして、何よりも重要なことに、それ以外の無関心層を遠ざける効果がある。

これによって、多数派勝利を確定させる一方、少数派にとっては確定するのは敗北となる。


さて、ここから考えると、もしあなたがすでに多数派だとわかっている場合だけ、集団嘲笑戦略をとるのが合理的である

という非常に単純な戦略しか導かれないように思われる。

だが現実には、少数派が集団的他人嘲笑し、かえって袋叩きに合い、劣勢を固めてしまうという現象はありふれている。これは何を意味するか?

まず、自分多数派か少数派かを判断するのは、大半の人間には難しい。

社会調査などの客観的指標でなく、周囲の人間意見を重視してしまバイアスは容易には逃れがたい。

次に、感情を抑えてまでマクロ合理的政治行動を行うほどのインセンティブ個人にはない。

感情進化的な意味では合理的であったとしても、それは過去環境適応したものであり、現代政治における合理性とは相容れない。

これらはそもそも戦略的に振る舞えない個人がいるという問題だ。



が、真に重大なのは、この理由により「少数派に属している時、味方が嘲笑という不合理な選択をとりうる。そしてそれに対する良い戦略がない」ということだろう。

その味方は自身多数派だと意識的あるいは無意識に考えている。

嘲笑追従しないことは、対象孤立させるシグナルとなるし、たしなめたり批判したりすれば敵対行為だとみなされるだろう。

よって追従することが局所的には合理的だが、それにより嘲笑は拡大し、多数派敵対者日和見派の目にとまり、敗北を拡大することに貢献してしまうのだ。



この問題にたいする回答は筆者の力量では思いつかない。

SNS上において政治言説をひろめたい、政治的に少数派であると考えている人々は、この現象対応する戦略を考案する必要があるだろう。

2021-06-17

anond:20210617064202

これは神学命題プロテスタンティズム決定論に対して言及がないので不完全。

アメリカ歴史の初期においてピューリタン重要役割を果たした。彼らの思想の一部は今も残ってる。

フス戦争カルヴァン主義やその前史にまで言及すると長くなりすぎるので省くが、重要な要素が【予定説】(神学決定論)であるカンタンにいえば「全知全能の神。神は全知全能なのですべて予定済でお前の自由意志なんかねーよ!なので善行した"から" 天国に行けるとかあるわけねーじゃん。俺が "善行する" と思うことまで神は予定済なの!」

というのがあった。

こうなると、「えーじゃあ善行しようと思うこと意味なくね?」ってなって人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。

人々は「私は神によって救済される(=天国に行く)ことが予定済の人間なので、そうあるべくふるまう(=善行を行うしより良くなるため努力する)」となった。

因果が逆転してるというかなんというか。

この因果の逆転によって、ダラダラ働いてシエスタするようなカトリック圏と異なり、プロテスタンティズム圏では修道院のように禁欲的に働き、禁欲的に自己研鑽し、禁欲的に金儲けをしその利潤を禁欲的に再投資する…ことによって世の中を良くする。なぜなら私達は神に選ばれているので!それができる!

となっていった。

(※ 禁欲的に慎ましく暮らすタイププロテスタントもあります

世俗社会修道院化」によって、日常生活の全てを信仰労働に捧げる。

節制禁欲のために複式簿記を導入…。合理的精神禁欲的に社会を発展させる(なお奴隷制ry)。。

この辺の時期の代表例としては、ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父にして実業家であり学者であり外交官。そして偉大な政治家。今も100ドル札に顔がある)など。

勤勉性、探究心の強さ、合理主義社会活動への参加という18世紀における近代人間像の象徴

…というあたりで、発展しすぎた禁欲資本主義本来宗教性を失い、資本主義になり、「内なる光=神との対話」みたいなあたりが「自由意志」に変わっていく。

自己研鑽しない者たちに対する憎悪侮蔑は、従来の「つまり定説におけるアイツラは地獄行きになる怠け者」から、「侮蔑すべき怠け者」だけが残った。

・・・というあたりはマックス・ヴェーバーが"プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神"という本とかで書いてたこと。

今のアメリカ人は直接プロテスタントというわけではないが、連綿とこの思想を引きずっているのである

(なぜならそのほうが発展に有利だからね)

----

補足すると、こんだけ「プロテスタンティズムがー!」と書いておきながら、実は西海岸カリフォルニア州は全米でももっともカトリックが多い地域である。なぜならもともとあそこはメキシコであり、今でもスペイン語圏からカトリック移民が多いからです。

ただ、思想的な主流派は?というと難しい。モルモン系やユダヤ教徒(思想原理は異なるが同様に資本の蓄積が宗教的OK)もスゴイ多いし、西海岸を語るなら中華系の人々に言及を避けることが出来ない。

そして何より、【西海岸リベラリズム】と対極っぽそうな南部バイブルベルト。

この地域基本的プロテスタントだ。そしてめちゃめちゃ保守的

ただまぁ、この辺はそもそもバプテスト派なので同じプロテスタントと言ってもなというのと、更には南北戦争で負けたエリアっていうのと、そもそも南北戦争以前から移民が少なかったため思想固定化されたっていうのとかありそう。

anond:20210617074844

明らかに宗教思想が発展したもの


というと、やっぱりマックス・ヴェーバー的なあれかな。元増田氏もこう言ってるし。→

米国自己研鑽努力をすることへ対して歩みを止めてはならない文化なのだ

まり努力の先がなければ努力できる先を自ら探し出し努力しろという意味であり、米国民の高い生産性はこの精神によって支えられている。

2021-04-10

anond:20210410183304

金銭ではない報酬として、「馬鹿嘲笑権利」を支持者に与えることが、近代以降の政治重要駆動である

マックス・ヴェーバー職業としての政治」に書いてあったとおり。

民衆冷笑が大好きなのだ

2021-02-12

anond:20210212225220

実はそれもマックス・ヴェーバーの影響だよ

日本アカデミアの思想潮流

をたどれば見えてくる

2021-02-01

anond:20210201001127

その対立は正直難しい。

どっちなの、というより「どうあるべきか」で対立している状況だから

そしてその違いは信念の違いなので議論は成立しづらい。

結局、棲み分けているというのが正確だろう。

たとえばみんな大好きマックス・ヴェーバーゴリゴリ価値自由科学偏重

規範的なことを教室で言うやつはみんな扇動者ぐらいのことを言ってたけど

これを読んでる社会学徒で同意するひとがどれほどいるかというと。

あと、問題はどちらかと言うと

アカデミアの外にいる人間の好みで言論市場の規模が決まるから

事実上みんなが言っているのってその外部の方だってことだな。

勢力争いも、相互批判というより、その外部の人気で決まる部分が大きい。

そして社会学性質上、それが間違ってるとも言い難い。

無理解一般人が悪い」というのもたぶん間違っている。

2020-10-12

マッチ売りの少女マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の寓話なのではないか

宗教改革以前のヨーロッパなら少女マーケティングなど考える必要もなく、「貧民救済など善行こそ天国への一里塚」の精神にもとづき、教会修道院を基盤としたカトリックネットワークのどこかが彼女に手を差し伸べたのではないか

ルター派を奉じる19世紀デンマークではそれに期待できない。英国国教会イギリスでも、修道院解体後に制定されたエリザベス救貧法は貧者を労働可能な者と不可能な者に分類し、前者には労働義務化し、強制するものであった。

近代ヨーロッパ誕生は、ヴェーバーが言うところの「経済的個人」の析出、およびマルクスで言うところの「二重の自由=疎外」とともにある。

anond:20201006181407

2020-09-13

活動家社会学者自称しないでくれ

マックス・ヴェーバーみたいな偉大な学者と同じく「社会学者」を名乗って恥ずかしくないのか

社会学者ビジネスマナー屋のポリコレ版みたいな風潮を定着させて、社会学社会学者名誉を地の底にまで落として恥ずかしくないのか

http://sociology.jugem.jp/?eid=277 を読んでくれ

2015-05-21

新しいリベラルアーツのためのブックリス

リベロ池袋本店リベロ福岡天神店で開催された「新しいリベラルアーツのためのブックリスト」フェアがとても良く、僕も何冊か読んだので、感謝気持ちを込めてリストします。

1〜2[人=分野]/[日]ぐらいのペースになりそう。

2014-11-01

馬鹿だらけの日本社会でぼくらはどうやって生き残っていったらいいのだろう

ネット本音を書くとすぐプチ炎上するようになってきた。馬鹿馬鹿って言うと怒られる。「ぼくちんは百田尚樹とか読んでるインテリなんだー」ってな具合だ。ネット暇人馬鹿のものだなんて昔から言われてたけど、ほんとにもう馬鹿ばっかりでうんざりしてしまう。

たとえばヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や『社会科学社会政策にかかわる認識の「客観性」』なんてはてな民なら基本中の基本中の基本だから当然全員読んでるわけだけど(読んでない人は今すぐはてなを退会しよう!)、そういうことを外で言うと、マックス・ヴェーバー存在すらしらないF欄の馬鹿にキレられる。存在すら知らないってネタかと思うかもしれないけど、世間って結構そんなもんだからね?

別にぼくはヴェーバー読んでるから偉いとかそういう低次元なことを言ってるんじゃなくて、ヴェーバーの基本書くらいは社会に向けて責任ある発言するならば読んでるのが当たり前であって、その上で話をしたいって言ってるだけなのに、かれらはムキーってなっちゃって、全然話聞いてくれない。

それで彼らはくだらない大衆文学読んではラノベ批判してなんかいいことした気になっちゃってる。たしかラノベも低レベルだけど、大衆文学も同じように低レベルだよ。読者を気持ちよくさせてくれる都合のいい書物という意味では精神オナニーしかないわけで。

百田尚樹とか読んでる馬鹿ネットでも偉そうにするようになってきた(なんであいつらが読書家然としてふるまっているんだか)。最近はてなブログもそうだわな。馬鹿馬鹿なこといって馬鹿に支持されてる。ぼくらがまともなことを書いても馬鹿に反発されるだけになってしまった。もう失望絶望を通り越して、笑っちゃうよ。

マーチ卒で日本人学歴上位10%に入ってしまうという現実をどう受け止めたらいいんだろう。日本人馬鹿ばかりだ。xevra先生日本大学20でいいとか言っていたと思う。20っていうと、東大京大一橋東工大東京医科歯科大、大阪大、名古屋大、神戸大、東北大、九州大北海道大、筑波大、東京外語大、お茶の水女子大横国千葉大慶応早稲田上智ICU、くらいになるのかな。たしかにこのあたりはまあまあ優秀だとは思う。でもここらへんだけ残したところで日本から馬鹿が減るわけではない。あいかわらず日本人馬鹿ばかりだ。どうしたらいいんだろう。

ぼくの体感からすると、マーチ卒でやっとぎりぎり簡単な日本語理解できるレベル。このレベル日本人10%しかいないってのはほんとにおそろしいことだ。マーチレベル日本人の70%くらいにはしなくちゃだめだろう。英語教育なんてそれからだ。日本人日本語すらできない。母国語ができないということは言語基本的論理構造理解できてないということ。そんなんで日々「コミュニケーション能力がー」とか言ってる。笑っちゃうよね。

馬鹿が喜ぶことを言ったり書いたりすれば、馬鹿に支持してもらえる。そうやってお金稼いでいる人はたくさんいる。でもほんとにそれでいいのか。

馬鹿だらけの社会にうまく適合できないぼくらはてな民は今後どうやってこの日本という地獄を生き抜いていったらいいんだろう。馬鹿を気持ちよくさせてあげるほどぼくらは人間ができちゃいない。でも馬鹿から金を巻き上げなければ生きていけない。ぼくらはただ誠実に素直に生きていきたいだけなのに。誠実であろうとすればするほど社会からはみ出してしまうこのジレンマをどうしたらいいんだろう。

ああ疲れる。

2014-09-29

エンタメ小説しか読まない人間ラノベ批判してて唖然とする

エンタメ小説を月に30冊とか50冊とか読んで「わたしは読書家です」みたいに誇られても困っちゃうな。

かれらはもちろんカントハイデガー原書で読んだりできないし、英語で詩を読んで暗記したりしてるわけじゃない。マックス・ヴェーバー翻訳ですら読んだことがない。ただたんたんとくだらないエンタメ小説の下手な日本語を読みまくってるだけ。そんなやつらがどうして自分読書家だと思ってるんだろう……。

かれらは意気揚々ラノベ批判するんだよね。もうね、笑っちゃうよ。いや、べつに個々のラノベ批判するのはいいんだよ。くだらないラノベも多いし。ただ、ぼくが思うのは、ラノベと同レベルかそれ以下でしかないエンタメ小説好きなあんたらがなんでラノベ批判ちゃうのかなあってことなのよ。

かれらはエンタメ小説はすばらしいものであり、ラノベはくだらないと思ってる。ぼくにはその区別理解できない。エンタメ小説がすばらしいのであればもちろんラノベもすばらしいし、ラノベがくだらないのであればもちろんエンタメ小説もくだらないはずなんだが。

ついでにいうと、かれらは純文学批判芥川賞批判もするw まあそれはいいか。なんかつかれる。

 
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