はてなキーワード: 教育学とは
チェーンの学習塾。
人が足りないのでF欄から東大までピンキリ。原則として生徒は先生を選ぶことができず、教室長が日程と相性を見て決めていく。
イケメンの元気がいい男子大学生はカーストが上の方の女子が多く、オタクぽい男子大学生は女子生徒をなるべく担当させない印象。
学力が低い生徒が多いこともあり、塾のマニュアルがあれば一応は教えることはできるらしいけど、中学生の古文や国語の文法、英語の関係代名詞なんかだと、きちんと理解してない学生バイトも多い。それでも、自信満々に国語や英語を受け持つ。
下手すると生徒のほうが頭いいかもしれない。「サインコサインタンジェント」を「シンコスタン」、「アイランド」を「アイスランド」と読む学生もいた。
それなのに、生徒の成績がのびると、名講師扱い。(勉強の習慣がない低学歴層の生徒が多いので少しやれば伸びる)
保護者が可哀想だなって思い、詐欺に協力してるようで苦しくて、1年くらい勤めてバイトを辞めた。当時、自分は教育大学で教育学を学んでいる立場だったけど、親になった時に塾選びは気をつけようと思った。
加藤秀俊(社会学者):社会学はインチキで大学では不要ではないか。
ttps://twitter.com/hikaru_sth/status/645132749817319424
最近、某(自称)社会学者がテレビで差別発言をしたとか話題になっているが、あれは社会学者とはいえない。
少なくとも私は、デュルケームとウェーバー以外の「社会学者」から学問的に重要なことを学んだ記憶がない。
http://agora-web.jp/archives/1665734.html
「社会学者」が奨学金や学費について不満を述べるほど、奨学金を拡充したり学費を下げたりすることへの
支持が下がっていくとしか思えないので、黙ってた方がいいよね。
学生がああいう人たちの講義を受けたり、彼らに給与を払うために税金を投入したいと思う人いないでしょ。
ttps://twitter.com/rionaoki/status/698348305382658048
学生支援機構の奨学金に対する批判の相当部分は、同機構のウエブサイトすら見ていないレベルのものなのだが、
まともな同業者がそのレベルの議論を相手にするインセンティブは小さいかもしれん。
ttps://twitter.com/mana613/status/697763623633035265
日本の社会学者は3600人、世界の10パーセントと推測されるが、
研究の重要性の指標とされる引用率(ほかの論文で研究が引用される率)は1%をはるかに割っているという。
http://japan-indepth.jp/?p=30462
1. 社会学 2. 芸術系 3. 教育学 4. 神学 5. 観光 6. 栄養学 7. 心理学 8. コミュニケーション
http://www.professorshouse.com/the-most-useless-college-degrees/
ボランティアでゲイカップルの子供を産んでる女性なら、子供と良好な関係を築けているでしょ。
少なくとも子供に「幸せに育ってほしい」という気持ちがあって生命をかけて子供を生むわけだから。
どうも同性カップルに子供をもたせたくない論者は「生まれても社会的不適合になるから不幸になる」説をどうしても押し通したいようだけど、
世の偉人のほとんどは幼少期に何らかの社会的否定は経験してるんで。
それより大切なのは両親からの肯定感であるなんてちょっと教育学を学んだ人なら誰でも知ってるのに、なんで「ゲイカップルはヘテロカップルのような愛情は注げない」という前提を担ぎ出すのかね。
The Most Useless College Degrees – Sociology, Psychology and the Arts
http://www.professorshouse.com/the-most-useless-college-degrees/
The Top 8, most worthless college degrees based on earnable lifetime income are as follows:
1 社会学
Sociology.Based on a poor return of investment, and with the market flooded with so many people seeking sociology degrees to do a white variety of jobs, this degree can make you virtually un-hirable. And the average income rests around $32,000 per year.
2 芸術
Fine arts. No matter how much the arts are revered, unless you can put your art to work for you – chances are it won’t pay off in the end.
3 教育学
Education. Nearly 2 out of every 3 degrees earned in 2010, according to Fox news was an education-based degree. This means the market if flooded with people hoping to engage in the world’s noblest profession. Worse, teachers pay is not that great. On the flip side, if family in the future is important to you – then teaching can be a great job where you can still remain with your family.
以下 リンク先にて
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https://twitter.com/noiehoie/status/835788749896232960
塚本幼稚園の運動会や音楽会は、保護者による撮影は厳禁。だから保護者は持ってない。その代わり、園が作成したDVDを3万円ぐらいで売りつける。普通の幼稚園と違うんやて。
保護者は撮影禁止じゃないし、行事のDVDが3,500円だったって反論してるツィートみて気になった。
塚本幼稚園自体は真っ黒なんだろうけど、「行事のDVD3万円」のソースって、ノイホイがハーバービジネスオンラインに上げてる文章しかない。
んで、その記事も
とか書かれてて「それ卒業アルバムか?」と。
いやもちろん、3万円の卒業アルバムは高額だよ。
ちょっと幼稚園の卒業アルバムのググると、6,000円ぐらいで高いって書き込み、1万超えの書き込み。3万はもれなく法外。
なんか真偽不明感あるなあ。
運動会のみ撮影禁止でその動画の入った卒アルのみ強制購入・3万円っていうのと、色んな行事が撮影禁止かつ強制購入でDVD3万円って話は微妙な違いではあるが、どうも反応を集まるために盛った感があって嫌なんだよな。
noiehoie on tumblr • サヨクって本当にダメだなぁと思った件。
この件、是々非々を許さないカルト的怖さがあるんだが、分からん人には分からん。
教育勅語の件、「園児が教育勅語」ってバカにしてるが、この事件ってほっといたら 幼稚園→小学校→中学校〜と進む話だったんだぞ。
そうすると、カルトお墨付きの進学コースで人の上に立つ人材には、教育勅語を教義としてたたき込んでおかなければならないという意図が読み取れる。
【戦前教育を幼児に強制する塚本幼稚園】教育勅語の犯罪性について考える。 – お役立ち情報の杜(もり)
ちなみに御真影は、戦前の宗教弾圧では神道と毛ほども関係ないキリスト教会・仏寺に御真影が祀られ礼拝されていたわけだが、これは上の件と合わせると
それはそれとして、塚本幼稚園が
1. 紀元節(現在の建国記念の日)、天長節(同、天皇誕生日)などの祝祭日に、校長、教員、児童は学校に集まり、儀式を行わなければならない(以下、式次第)。
2. 式場中央に奉掲した天皇皇后のお写真の覆いを撤する。その際、一同上体を前に傾け、敬粛の意を表する。お写真を拝戴していない学校では、宮城遥拝を行う。
3. 国歌を歌う。
4. 校長が「教育勅語」を奉読する。参列者は奉読開始とともに上体を前に傾けて拝聴し、奉読終了後に敬礼してもとの姿勢に復する。
5. 校長が訓話を行う。
のような扱いをしていないから、たんなる戦後二次創作と嗤っていいものだろうか?ちょっと軽すぎない?
「皇室グラビア」と「御真影」 : 戦前期新聞雑誌における皇室写真の通時的分析 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/192611/1/kjs_009_093.pdf
に目を通せば、そんな単純な物ではないと思うよ。
イギリスのタイムズより取材を受けました。|新着情報|塚本幼稚園幼児教育学園
笑顔で丁寧な先生、2~5歳の制服を来た子供達は、他の幼稚園と同様愛らしい。しばらくした後、園児たちの“おじぎ”をする光景に気付く。それはお互いにするのではなく、壁の写真に対してである。
子供の頃、”男の子が泣くなんて女々しい””女の子なんだからもう少しお淑やかにしなさい”簡単に言うとこういうことが問題らしい
同じ人間なのに性別で色々分けるのはジェンダー問題だと言っていた。
学校で男を君、女をちゃんで呼ぶのも問題らしく一律さんじゃないとダメらしい。
ソースはわからないけど、日本人は小学校中学校の生徒会長は男にやって欲しい人が多いらしいそして副会長は女にやって欲しい人が多いらしい
これもジェンダー問題で学校教育が男はこうあるべきで女はこうあるべきという思想を教育しているらしい。だから問題だと。
日本の国会議員の女性の数は世界の190ある国の中で161位と言われた、これも問題らしい
大学の教授の数も70%が男らしい、これも問題らしく大学はジェンダーに非常に過敏になってるから女性の教授を増やしてる最中だとか
そして同じ能力なのに女性だからといって管理職に無理矢理挙げられたりするのもジェンダーの問題らしい
欧米諸国はジェンダーが凄い進んでいて女性の社会進出もめまぐるしいらしい。特にスウェーデンについて語ってた。
そして講師も、旦那と結婚したかったが名字が変わるのが嫌だ、変わったら今までの私は何だったの?と思いずっと籍をいれてなかったらしい。
しかし両親、義両親からのお願いで数年前に籍を入れたらしい。そして大学は旧姓を名乗ることを認めてくれたらしい。
夫婦別姓ってのは別にいいと思うけど名字が変わったくらいでそんな今までの人生否定されるような事ではないと思うんだけどな。
価値観は人それぞれだから難しい問題ではあるね、いずれは別性認められるだろうし。
覚えてるのはこれぐらいだった。
女性の社会進出については、女性だし結婚してやめて行ったり子供産んだりとかあるだろうから
それを考えて採用しない現状はジェンダー問題だと思うけど、男だから、女だからって言うのは何が問題なんだろうか
社会進出についてのジェンダー問題に関してはそうなればいいねとは思うけど
O大学の哲学出身には結構ぴったり当てはまる(増田も?)。大学自体の校風(真面目で従順で偏差値はある程度あるけど社会であまり評価されていない)にプラスして、社会との接点に欠けているカリキュラム。社会全体がどういう風に動いているのかを考える発想がないということだと思う。個人的には進学者を減らして教員も減らしていいと思う。実際就職に困っているようだし。(哲学自体を否定はしていない、文系のいろいろな分野に間接的に貢献しているから。)ただ文系でも政治学、経済学、法学はもっと社会全体のことを考えているし、学際系やフィールドワークをするところも社会でもまれる。教育学も実践を重視するところが多いから、ある程度社会性のある人が多い。理系もひたすら研究室にこもって先生の推薦で就職するような所だと、社会の変化を理解していなくて、ひたすら先生に従順なだけで個人としての社会性も?な学生、教員がたくさんいるところもある。
小学校の円の面積の計算の問題でバズっているのを見かけたので便乗してみる。
初増田なのでなんかおかしなことがあったらごめんと先に誤っておく。
そして、わたしは計算が嫌いで物理と数学から逃げ続けた生物系研究者で、特に円周率に対して深い知識があるわけではないことも付け加えておく。
簡単に経緯を説明する。
「半径11センチの円の面積を円周率を3.14として計算した時の答えは、11*11*3.14=379.94は厳密には誤りで、
有効数字3桁で380の方が正しいのではないか?」
(ちなみに、半径11の円の面積を5桁の有効数字で表すと、正確には380.13である。)
円周率3.14は、実際には3.141592…という割り切れない値を3桁で表した概数である。
有効数字3桁で算出された計算結果は、やはり有効数字3桁であるから、正しくは小数点以下一桁目の9を四捨五入して380が正しい。
なお、379.94と回答した場合は、実際の円の面積とは異なる値となる。これをあたかも真の円の面積のように誤解してしまう可能性があるので、
小学生に有効数字の概念を教えるのは難しいので、設問に「上から三桁の概数で答えなさい」と入れれば万事解決
設問に「円周率は3.14とする」と書いてあるので、「円周率は3.1400000…」を仮定して解けば良いのではないか
あるいは、もう円じゃなくて円周率3.14000のなんかの局面を仮定すれば良いのではないか。
そもそも3.14だろうが3.141592(以下略)だろうが大して結果は変わらない(0.19なんて誤差)。これくらいの誤差は無視していい。
なんで理系はこういう細かいことを指摘してドヤ顔しているのか。こういうことをするから小学生は算数を嫌いになる。
私自身は「379.94は誤り」派です。おそらく理系の人の多くはそうだと思いますが。
「379.94でいいじゃん」派の意見もざっとまとめてみましたが、もし足りない点等ありましたら後で追記するので
教えて下さい。
以下に、「379.94は誤り」という意見を支持する理由を書きます。
円周率はπです。いつの時代も、どの世界線でも、関孝和が計算しようがアルキメデスが計算しようがライプニッツが計算しようがオイラーが計算しようが
そろばんで計算しようがスパコンで計算しようが円周率は割り切れません。
アルキメデスは古代ギリシア時代にあって、おそらく円に内接、外接する正96角形の周の長さを求める式から既に円周率が3.14の概数で表せることを導いていました。
しかし、古代から円周率の計算に取り組んできた誰もが、円周率を割り切れる数として扱った人はいないのです。
人類が何百年もの時間をかけて漸く得ることに成功したこの円周率を、「あ。3.140000でいいっすね」とか、たかだか小学校教諭の分際で勝手に変えることはできないのです。
ぶっちゃけ、言語は変わっても、数字の意味は不変です。これは自然界の法則だからです。
仮定はあくまで仮定です。それを元にした結果が解になることはありえません。
例えば、私は生物学者なのですが、「STAP細胞があると仮定して」実験を行って得られた結論は、信用に足るものになるでしょうか?
答えはわかりきっていますよね。
ちなみに、「円周率を3.14として」というのは「円周率を3.14と(近似)して」という意味です。
あと、比較として用いられていた「摩擦係数を0として」というのは仮定ではなくて想定です。地球上では作るのが困難ではありますが、
摩擦係数を0.00に近似できるくらいの環境なら作れるでしょ?その環境を想定してるんです。
それをあろうことかそのまま解にするなど、あってはならないことです。
結論から言うと、私は、小学生が「どれくらいの精度で円の面積を求められるか?」を、
誤解してしまうという点が、「円周率を3.14として有効桁数5桁まで求めてしまう」ことの
最大の欠点だと思うのです。
「んー、円周率3.14。半径11の円なら面積は121×3で363。
これよりちょっと大きいくらいだからまぁ、370くらいかなー?(正確には380です。)」
これくらいの精度で良い人間にとって、0.19(380.13と379.92の差)の違いなんて
もう誤差でしょ。そこに異論は無いのです。
しかし、小学生にとって、小数点以下二桁ってそりゃもうすごい精度ですよ。
半径の長さ11.0 cmと!魔法の数字円周率3.14さえ用いれば!
なんとなんと、数十平方マイクロメートル単位で円の面積が求まってしまう!
→実際には世の中そんなに甘くないわけですよ。
では次に、半径1111 cmの円の面積を円周率3.14で求めてみよう。
すごいですね~、どれだけ桁が増えても小数点以下二桁まで求まります。
ってんなわけあるか!!!!
1111*1111*3.141592654=3877733.79
これが正解。 ね?だいぶ違うでしょ?
でも、有効数字3けたなら、3880000。これならまぁだいたいこんくらいかーってのがわかる。
④−3で、「うわぁ、こいつめっちゃ細かいコト言ってるよ、これだから理系は。。。」
緑色の背景に、なんか動物っぽい白いものが写り込んでいますが、何の動物だかよくわかりません。
円周率3.14を使って半径11の円の面積を379.92と主張することは、この白い物体を「絶対馬だ!」って言っているようなものなんです。
有りもしないもの、本当にそうなのかよくわからないものを「絶対そうなんだから!私見たんだから!」と言っているどこかのOさんのようなものなのです。
私は最初、このツイート見た時、「まぁそんな細かいコト言わなくても。。。」
って思っていました。「379.94でいいじゃん」派的な考えだったわけですね。
その一番の理由は、
「3.14の次の値が1である」ということを知っているからです。
通常の概数だと、「概数で3.14」と言うのは、「3.135から3.144」までを想定してるんだけど、
まぁ大体3.14ってのはあってるんですよね。
でも、読んでいるうちに考えが変わりました。何故かと言うと、
「結構多くの人間が、円周率、有効数字の概念とその問題点を全く理解していない」
ことに気づいたからなんです。
挙句の果てには円周率を「3.140000」と「仮定」すればいいじゃん。
という人まで出てくる始末。
それでこの問題についてよくよく考えてみた結果、
「これはやっぱり、小学校であっても379.94を正解とするのはよくないな。。。」
と思ったんです。
このエントリーを読んでよくわからなかった人も、これだけは覚えていってください。
I. 数学とは、科学とは、世の中の真理を追求する学問であり、
人間に都合よく結果や値を変えることはできない。
πは3にも3.14にもならない。
II. 仮説は検証とセット。検証できない仮説を設定しては行けない。
仮説に基づいた結果を解にしてはいけない。
逆に役に立てるかと思い、書かせていただきました。
オモシロイと思って読んでいただければ幸いです。
こういう議論ができるのって、素敵ですよね。
たくさん反応があって驚きました。読んでくださった方々、ありがとうございます。
いろいろご指摘があり、自分自身勉強不足を痛感した点もありますが、
反論できるところは反論しようと思います。スター多めなブコメ中心に記していきます。
『ちなみに、「円周率を3.14として」というのは「円周率を3.14と(近似)して」という意味です』ここが違う。勝手に行間を埋めるのは科学者たる態度ではない。
違わないです。なぜなら「円周率」と書いてあるからです。そして、小学生は、「円周率」が割り切れない数であることを知っているからです。
もし、「円周率を3.14として」というのが「円周率を3.14と(近似)して」という意味ではなかった場合、
勝手に人間様が円周率を3.14ぴったりであると定義しなおしていることになり、それこそ数学への冒涜です。
そうですね。この表記をさせるのは流石に難しいです。
私は、「4桁目を四捨五入して3桁の整数で答えなさい」と、問題文に入れるのが良いと思います。
円の面積を求める問題ではなく、「11*11*3.14を計算せよ」というなら答えは379.94です。
でも、円の面積の求め方は、残念ながら小学校の先生が定義を勝手に変えられるものではありません。
真実は、この場合はたったひとつで、小学校の先生のほうが間違っています。
一辺の長さ3.14 cmの長方形を想定することはできますが、円周率3.14ぴったりの円を想定することはできません。
なぜならそれは円では無いからです。
じゃぁ円じゃなくて周率3.14ぴったりの変な局面を求めよといえばいい、と思うかもですが、
なんで小学生がそんなわけわからんものの面積を求めなければいけないのでしょうか?
私は、小学校で扱う整数は純数学的には整数だと考えていたので、11.00000…を想定していました。
もちろん11が有効桁数二桁の概数なら、380の3桁目を四捨五入することになります。
九九で扱う数は整数ですので、純数学で表すと、2.0000*6.0000…=12.0000…です。
「仮定」の結果得られたものが「解」になることはありえない→僕の好きな背理法を否定しないで。 理系といいつつ知識不足。中学生から勉強し直すべき。
私も背理法大好き。もちろん背理法も考慮に入れたうえでこの文章を書いた。
背理法では、仮定の結果得られたものが矛盾する→だからこの仮定は間違っているというプロセスをたどる。
仮定の結果をそのまま解としていないことに注意してほしい。
ルート2が既約分数p/qだと仮定して、結果的にはpとqが共通の約数を持つことで矛盾を証明する。
私は、例えば、
このまま「(2n+1)*(2n+1)=4n^2+4n+1 なので、奇数の二乗は必ず奇数。つまり4^2=16は奇数である」
この場合、間違った仮定から間違った結果が導かれているのがわかると思う。4も16も2で割り切れる偶数だ。
スターは少なかったがこれについてはぐうの音も出ない。
公理と仮定について理解が足りなかった。正直すまん。でも、やっぱりπを3.1400000と仮定するのはダメだと思う。
なぜなら観測的にもありえない上に、後から検証もされないから。
ただ、有効桁数3桁で算出される結果に5桁を求めるのは無意味だし間違っているという主張です。
「3.14と仮定して」とあるんだから、「3.14」の次の桁など問題文中の世界には存在しない。「3.14000」なんてどこから出てきた?
「a=3.14と仮定して11*11*aの解を求めよ。」だったらこんな議論にならないのよ。
円周率だから、3.14ぴったりじゃだめなの。ちなみに、3.14の次の桁は、あなたの頭のなかには存在しなくても、この世界には存在するのだ。残念ながら。
半径11の円の面積は12100だと主張するのか? 私は、あまり自身が無いけど、間違っているのはあなたなんじゃないかと思うな。
でも、円周率が100の世界を仮定して検証するとしたら、それはそれで数学への扉を開いているのかも。
もちろんそう。問で聞かれているのは公式を覚えているかどうか?
だけど、3桁目までしか信頼できなくて、残りの桁は全部意味がないことを、おとなになっても理解できない人がたくさんいることが分かったので、
問題だなと思ったわけ。
実際求められるよりも遥かに細かい精度で円の面積が求まると誤解するのが恐ろしい。
実際、多くの人が半径11の円の面積は?って聞いたら379.94と答えると思う。間違ってるのに。
おわりー!
結論としては、「3桁の概数で表わせ」と問題文に付け加えるのが一番しっくり来る。
これを小学生のうちに叩き込んでおけば、
中1の有効数字の概念もすんなり受け入れられるのではないかな?
以下おまけ
半径2、または1をピッタリ2.000、または1.000と答えるなら、
半径2の面積は12.56の6を四捨五入して12.6。半径1なら3.14と記すべき。
1とか2を一桁の概数として表すなら、
半径2の円の面積は10。半径1の円の面積は3と記すべきだとおもう。
知りませんでした。もっと知りたいのに検索かけても出てこなかったので、
ソースいただけると嬉しいです。
「事後報告は嫌、何をしているか逐一報告して」「平日は必ず電話して」「朝は私よりも早く起きておはようって言って」「仕事に行く時間にはいってらっしゃいって言って」「おはようといってらっしゃい言うまで二度寝しないで」「休日は必ず一緒に過ごして」「仕事以外の時間は私のことにあてて」「他の女性と連絡を取らないで」「外に出る時は指輪つけて」「私だけを見て」「私を一番に考えて」
彼女の要求は、世間でよく聞くようなものばかりだ。要求を満たさなかった場合には、嵐がやってくる。
僕が体調を崩したため「ごめん、今日は休ませてもらうね」と会えなかった休日の夜には「つまらない1日だった。こんな日過ごすなら死んだ方がまし」といったメッセージが来たり、平日の夜に僕が疲れて早くに寝てしまった時には「あなたは私の声が聞きたくないんだ、そっかそっか。疲れてるのか知らないけど、私は疲れてても起きてられるのに。私の事どうでもいいから寝れるんだろうね。一生寝てろよ」といったメッセージが来たりする。これらはほんの一例で、まだやさしい。言葉だけを見ると本当にキツいものを浴びていると感じている。
多くの人が身を引くだろう状況にあってもなお僕が彼女と交際を続けるのは、僕が彼女のことを愛しているからというのはもちろんのこと、彼女がそうしたくて数々の要求や嵐をもたらしているのではないと気付いているからだ。人の考え方や発言・行動は全て幼い頃(少なくとも自分で感情を処理できない頃)の養育環境に由来しており、意識的に過去の事実や感情と折り合いをつけない限り、人は過去の養育環境に縛られる生き物である、というのが僕の考え方である。彼女の言動や行動も、彼女の過去がそうさせているのだと感じている。現に、彼女は機能不全家庭で育っていて、彼女の感情の表し方はこれまでに彼女から聞いた彼女の母親のそれと非常に似ている。
彼女と交際を始めてから、僕は気付かれないようにたくさんの心理学や社会学・教育学に関する書籍を読み進めた。これまでの背景を知るために、遠回りに質問するなどもした。さまざまな点で確信を得た。それから、今後どのように僕は接していくべきか、彼女にとっての課題は何かということを考えた。
しかし、ここにきて葛藤が生じた。振り返ると、僕は僕との関係について彼女がどう思っているかということを訊いたことがなかった。もし、彼女が自分自身の言動に疑問を感じていなかったら、現状のままで良いと感じているのなら、彼女が彼女自身の課題に気付くように僕が行動することは、結局のところ僕のエゴでしかない。僕は迷惑を被らないために彼女を都合良くコントロールしようとしているのではないか。単なる僕の主観で、彼女の今の状況が良くないと判断しているではないか。彼女が変化を望まない限り、それらは全て押し付けでしかなく、エゴなのだ。いつか彼女が疑問を抱き、今の関係を改善したいと言ってきたときには、全面的にサポートしたい。だけどそうでない限りは、僕は今のまま勉強を続け、今のまま彼女との関係に身を委ねようと思う。
彼女は、今後も急降下または急上昇する僕への評価を強い言葉に換えて僕に浴びせるだろう。だけど、今となっては僕は僕が彼女にどう扱われたっていいと思ってる。全てを受け止めたい。言葉に秘められた感情に気付きたい。どんな行動も言動も全て愛情との葛藤として抱きしめてやる。最終的にわかってくれれば、とか能天気なことは思わない。変わってくれとも思わない。ただ、彼女に幸せになってほしい。それが僕の手によってでなくてもいい。彼女が満ちた気持ちで日々を過ごせること、それが僕の望むことだ。受け止められなくなったら、それは単に僕の力不足だったんだと思って潔く身を引こう。ただ今は、僕の手で大きな愛で彼女を包みたい。痛々しいほどに、僕は彼女の事を愛してるんだよ。
私は、子ども向けの演劇の役者を志望していたり、大学で教育学を学んでいた。
家が、学歴偏重だったし、親も高学歴だったので、やはり偏差値が取れないと生きている意味がない、
結局、こんな生き方をしてしまったので、自分は一体なんのために生きているのか、
大学にいきたい人はどうやら、そういったことは深く考えないらしい。
ただ、生き残るために進学し、就職活動をしていくのだ、ということに疑問を持たず、
目の前のことをただこなすだけの人間、社会の一員としてその機能を果たしていきたい、と、
無意識に思っているのだろうか。
私は、勉強ができないと、家族という社会には認めてもらえなかったが、
だからすごく救われていたと思う。
しかし、家族という社会にだけ認めてもらおう、と努力したことは、
学校という社会でどうしたらいいのかを、理解していくのが人より遅かったと思う。
***
勉強は、理性を鍛えるもの、していない人はその分、感性が非常に発達していることがある。
演劇の研究所で、周りの人間が、初めて出会う高卒や中卒、フリーターの人だらけで、
ああ、みんな学歴がなくても普通に生きるだけならできるじゃないか、と思った。
高卒は高卒のコミュニティ、中卒はそれに見合ったコミュニティで、生き残るしかないのである。
でも、その社会の中で普通にお金が稼げて、仕事をしていればいいのではないだろうか。
別にだれしもが、広くてきれいなワンルームに住まなきゃいけないわけじゃない。
本人がかまわないなら、何も問題がないじゃないかと。
仕事だって、やるからには社会のどこかで役になっているのだろう。
私が、すごい思うのは、「社会的に認められる」という言葉の曖昧さである。
社会ってなんだ?と。
人が2人以上いればそれは社会だという。
Aさんに認められてれば、Bさんに嫌われたってかまわないのと同じように、
何事も、主観の方がいいのではないだろうか。
そりゃ、学校のクラスだとか、会社の部署、とか、そういうのも社会である。
でも、この学校のクラスと会社の部署はそれぞれなんの関係もない。
その所属している場での、ふるまいとかを考えればいいだけなのに、
何故か、「社会人として世の中、世界全体共通で自分は認められるようにしなければならない」
という錯覚に陥ってはないだろうか。
挨拶をする、時間を守る、マナーを守る、というのは、単に無用な争いを避けるための
形式なのであって、
その人とコミュニケーションをしていくというのは、
お互いに外面だけよくしてれば、そりゃお互いにそれくらいの興味なんだから、
距離感は取れてるだろう。
しかし、上司と部下、友達関係、といった、長く続けていかなければならないもので、
外面だけで耐えられる人は、本当にすごいのだろうか。
そういうのは、休みの日に自分自身を出して認めてもらえているから、なんとかなるのだろうか。
でも、心をないがしろにし続けている人は、どこかで不具合や病気を起こしている。
ある意味、この増田みたいなネットの付き合いというのは、外面気にしなくてよいから、
外面だけで、付き合いを続けている人よりは、ケンカをしたり意見を言い合う方が、関係性としては仲が良いような雰囲気があるw
***
とかいうのは、つまり人間は、外面も内面も多層的な存在であるということの表れだと思う。
だから、みんな同じiPhoneを持っていたって、ケースのデザインは違うし、入れてるアプリが全て一緒なんてことはない。
共有できるものは共有し、自分の好きな物、オリジナルにしたいものだってあるのだ。
「あんた、そんなんじゃ社会的に認められる人にならないよ!!」
「人に好かれる人になれ!!」
という、人で、私は周りの人に嫌われてない人を見たことがない。
皆、あいつって、我がままで自分のことしか見えてないよね、って言っている。
見て分からない人間に言って分からせるのは難しい。こんな言葉がある。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ。」。五十六ちゃんの名言だ。
見ても分からない人間に教えるのはかくも難しい。「見て分かるでしょ?」で済む「見て分かる人材」がいかに貴重なことか。
「1を聞いて10を知る」なんてまだまだ有能じゃない。「聞かなくても知る」のが真に有能だ。
人生には無数のシチュエーションがある。本で読んだ知識が通用しない時、頭で考えていた通りにいかない時も沢山ある。「言われなくても知る」には知識や思考だけではダメなんだ。
「見て分かる力」が大事なんだ。そんな「見て分かる力」を持った人こそ「地頭がよい」とみるべきだ。
ところで、程度の差はあれ見て知るのは誰でもやっていることである。私たち人間は頭で考えなくても見てある程度学習できる。
いちいち全てを頭で考えていたら頭がパンクする。時間もかかる。忙しい世の中にもついていけない。だから多くの知識は見て学ばねばならぬ。見て分かる力は超重要。
重要な力だが個人差は激しい。見ても中々覚えられない人から一発で覚えられる人までいる。見て一発で多くのことが分かる人は極めて少ない。そんな人材を我が国は育てるべきだ。
知識だけで役に立たない人間はいくらでもいる。そこで「生きた知識」って言葉が叫ばれる。臨機応変に使える知識。
そんな知識をつけるにはどうすればいいか?とにかく実践?そうじゃない。沢山実践しても要領をつかめないと意味がない。その要領をつかむために見て分かる力が重要なのだ。
「身体で覚える」という言葉は窓から投げ捨てよう。馬車馬のように働くのは御免だ。無駄な努力大好きなドMでもない限り。
日本は美徳の勤労を「無駄のない勤労」にアップデートすべき。国際競争に勝つためにも、そうすべき時代に来ている。今すぐにも見て分かる力を養成せねば。
見て分かる力は従来の学校教育では育たない。知識偏重は駄目ってことで思考を育てる教育が推進されてる。でも、思考偏重もダメなんだよ。
確かに論理的思考力は情報の真偽や矛盾を判断するのに重要だ。また、思考力があれば知識の少なさをかなりカバーできる。だから、思考力は育てたほうがよい。
だけど、思考力だけでは臨機応変にはほど遠い。いくら論理を構築しても現実に即していないと意味がない。論理性と実用性の間には解決しがたい隔たりがあるのだ。
なのに思考力ばかりが重視されてしまっている。それも本の知識をもとにした思考が想定されており、現場の知識はほとんど想定されない。
そんなことだから、それに反発して「とにかく実践」を連呼する実践至上主義が出てくる。結果、頭でっかちな人間と体育会系人間を育てているだけで、本当に必要な人材を育てていないのである。
そもそもの原因は思考への誤解である。思考など人間の情報処理の氷山の一角なのである。それがよく分かってないから思考偏重になる。
人間はいちいち考えずとも見て沢山の情報を処理している。思考はその一部をピックアップして制限された処理をしてるだけ。
具体的には、使用言語、論理性、興味、好み、道徳性、常識、先入観といった制限を受けるということだ。
そうした制限とは引き替えに良質な情報が得られるかはともかく、とにかくかなり制限される。仮に良質でも微量では役に立たない恐れがある。
そんな思考ばかりを推進せず、まず現場の実物や実態をよく見たほうが良い。そのほうが現実に即した情報が大量に入る。
この手段を世間では「観察」や「直観」と呼ぶ。「観察」だと得られるのは生データであり規則性を認識するニュアンスが弱い。よって、ここでは「直観」という言葉を用いる。
教育学において直観は古くから重視されてきた。しかし、教育制度や教育現場ではあまり重視されてこなかった。
思考への過剰な信頼が原因である。今こそ我が国はデカルトに象徴される西洋近代合理主義を振り払う時なのだ。
スローガンは「見りゃ分かる」だ。この言葉をどんどん使っていこう。「ググレカス」(調べれば分かる)や「頭使え」(考えれば分かる)は抑え目にしていこう。
俗に言われる「空気読め」という言葉や、世の会社で言われる「周り見ろ」という言葉もこの亜種だ。じつに妥当な言葉である。
ただ、「見ようとしないこと」を非難してはいけない。部下が言うことを聞かないのはあなたが部下を「見ていない」からである。
また、「見ても分からないこと」も非難してはいけない。誰でもステップバイステップで成長していくのであり例外はない。適切なステップを与えるのは教育者の役目である。
規制しても家庭教師とかどうやっても潰せないし余計に金次第になると思うから難しいだろうな。
私学高校とかのメリットを潰すには、東大とかが「公立枠」みたいな受験者に色を付けることだけど、これはこれでまた別の差別になるし。
社会としてヤルべきなのはやっぱり公立学校と言うシステムの中で十分な教育を受けられる様にすること。
公立学校の教師のレベルを引き上げて(つまりは給料を上げて)塾講師なんかより断然優秀なのを連れてくれば良い。
全ての高校でやったら確実に財政破綻するけど、各県で数校くらいなら余裕で出来ると思う。
持ちろん、それらのシステムで教師として出来る人間のために資格を作って、そのへんの国家公務員並みの扱いにするとか。
大学院レベルの教育受けて、その上で教育学的なこともきっちりと教わり、さらに受験に強くなるよう、そのような受験対策の技術も学ぶ。
それで十分給与が高ければ優秀な人間は集まるし受験にも強い教育が出来るだろう。
全ての高校でそれをヤルことには色々弊害が在ると思うが、一部のトップ校に限ってやる分には益しか無いと思う。
そういうの出来ないかね?
はてなブックマーク - 内定辞退、修羅場でむき出しになる人事の本性 :日本経済新聞
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nikkei.com/article/DGXNASFK2802Y_Y4A420C1000000/
https://esf.nikkei.co.jp/form_tantei20140430/
もぐらさん、60歳代男性
最近の企業は、就活生にやたらに余分なことばかり押し付ける。リクルート企業の金儲けに同調しているだけで、大学生の教育や勉強などを考えていない。人事にふざけるなと言いたい。企業経営者のレベルの低下だろう。
どちらかと言えば、恫喝する企業サイドこそ品がないと言わざるを得ません。就職は相互の合意に基づくものであって、職場を選ぶ権利も学生を選ぶ権利も双方に平等にあるはず。誓約書に法的拘束力が無い以上、常に辞退者がでることを想定していないとするとリスク管理がなっていない証拠です。学生諸君には、まず真摯にお詫びをしていただき、もしそれでぶち切れるような会社があれば、そんな会社には行かなくて良かった、将来転職するような機会にも陰湿な引き留めや嫌がらせに遭遇するような会社だったな、とポジティブに考えて欲しいです。
現状の就活では「御社が第一志望です。」と言うのが「お約束」になっている。正直に「第二志望です。」と言っては先に進めない。この「お約束」が誠実さとは無縁であることは採用側も知っている筈ではないか。
60歳代男性
採用人事課に見る目がないだけ
複数の内定をもらっている学生がいる以上、内定辞退が出てくるのはいたしかたないでしょう。要は、内定辞退が出てくる前に、学生との良好な関係が築いておくのが大切なことでは?
怒るような度量の小さい会社は辞退して当然。寧ろ辞退を撤回させ無理やり入社させた揚句に早期に退社するほうが双方にとって損失。そんな企業は、将来その人が自社の取引先、顧客になる可能性を全く考えていない。
辞退されるということは、自分の会社の魅力を学生に伝えられなかっただけのこと。採用担当者は自社という製品を扱いそれを学生に売り込む営業マンであるという意識を持つべきだと思います。
企業側の担当者がそんな発言をしているとは信じ難い。普通にきちんと謝っている学生にはしないはず。本当にそんな採用担当がいるなら、内定辞退したことが正解だし、苦情電話を入れてもいいレベルですね。今の時代、インターネット等でそういう企業名がブラックリスト化されてもおかしくない。学生相手にそのような対応しかできない企業は底が知れている。
「企業が怒るのも無理はない。就活生は誠意を持った対応を」などという結論は、傲慢というより他ない。面接の段階でふるいにかけておいて、いざ自分たちがふるい落とされると腹を立てるのは論外である。就活生はむしろ「ざまあみろ」と馬鹿にする気概を持つべし。
就活生としては、選考で学生を落としまくる企業が、内定を辞退されたところで文句をいう筋合いはない。それこそ、貴社のご発展をお祈りしますと嫌味を込めて言ってやりたい。
50歳代男性(その他)
雇用契約を結ぶ前であり、そもそも“内定”という曖昧な表現を使っている企業サイドに狡さがある。フラれた恋人に仕返しをする情けない人間と同じ。
辛辣な言葉を吐くのは、人事担当者が相手を学生と思い舐めているから。より良い条件を提示し、学生を説得するのが筋。その価値が無いなら、去ってもらえばいい。通常仕事で相手に罵声を浴びせる事なんてありますか?
怒る企業は、辞退した学生が将来「Customer」になることをわかっていない。。「辞退した理由」を調査して今後に生かすべき。
50歳代男性
人事が無能すぎるのがここにきて露になっているだけ!。どれだけ理不尽な内定取り消しや、採用停止をしてきたことか!!「人事」(「ひとのこと」と書く)もそろそろ本当のプロになれ!
誠意のない辞退には、社会人の先輩として喝を入れるべきだが、恐喝紛いの対応をする人事やリクルーターは、その人の仕事の程度や為人が知れる。ブチ切れている人は、当然内定を蹴ったことがないんですよね?
企業担当者は不採用だった学生に対して「礼」を尽くしていますか?彼らに「非礼の数々」の対応を行なっていれば、内定辞退者に怒る権利は無い筈です。自ら襟を正すことが先決です。
採用側の理由で恫喝紛いの事を行うのはもっての他。まっとうな社会人のやることか?そのような恫喝紛いの事が横行しているならば、断りを入れる際に、全て録音しておいた方が良い。
辞退の連絡があった際、内定をとるまでの言動との乖離が大きいほど担当者の怒りは大きくなると思う。例えば、「御社が第一志望です」と明言しているケース。学生とはいえ、自らの発言には責任を持ってもらいたい。
50歳代男性
10年後20年後も考えて募集人員を決めている企業も多いのです。他社の動向を見据えつつ、欲しい人材を確保する人事も大変な思いをしている。記事の例のように3社を一ヶ月以上ホールドするなんて言語道断です。
60歳代男性(その他)
内定を受諾した後に辞退するという倫理の退廃が若者に蔓延したことを看過すべきではない。日本のリーディングペーパーとして、貴紙がキャンペーンを張って大いに警鐘を鳴らしてほしい。
推薦書や誓約書を提出したのであれば,怒るのは当然だと思う。
日本では何事にも弱者救済の概念が公平性を越えてしまう。また、精神論が経済原理を越えてしまう。ここも典型的な例。学生と企業が対等になっていないし、経済原理を無視した採用ルールになっている。学生の内定辞退は自由、でも企業側の内定切りは自由ではない。片方だけに制限を課せば、片方だけに経済的ダメージが発生し、問題になるのは必然。企業側も学生と同様、自由に内定切りをしていい、ということになれば、内定辞退者を見越して、多めの内定も出せる。内定辞退を言われてもお互い様だから、罵声にもならない。何事にも経済原理を踏まえた公平性が肝要だと思う。
50歳代男性(その他)
●その他
就活は企業と学生の戦い、お互いに腹の読みあいでしょう。学生にとっては一生の問題。人事は人を見る目を試されるまさにプロかどうか問われるところ。まあ、腹がたっても、内定辞退されたら負けを認めなはれ。
どのような事情があるにせよ学生側が「約束を破る」ことには変わらない。絶対に認めない会社もおかしい。でも一番おかしいのは内定を出す時期が早すぎること。例えば「就職日の半年前から」などにするべき。
70歳代以上男性
70歳代以上男性
気持ちは分かるが内定の辞退は許されているはず。ただちゃんとしたけじめは大切だよ!とアドバイスをしたい。真っ当な人生を送るためにも……。
これはビジネス。企業はもっとえげつない事をやってます。学生は何も気にすることは無く、誠意をもって事実を伝えれば良いと思う。企業は学生から選んでもらえなかった事に対し真摯に対応し次に繋げるべき。
一般論として、求人側・求職側何れも未成熟であり、無責任ではないでしょうか。記事内にもあるように「文句を言う」のは自己の評価の保全であり、要は自己中心的な発想が伺えます。「辞退」というと聞こえはいいが、ある意味労働契約の不履行であり、何らかの法的制裁等も覚悟して臨むべきだと思います。ただ、辞退を簡単に考えている学生を採用しても、恐らく、自己アピールほどの能力は有していないでしょうし、企業側から見れば、金銭的損失はあるものの、最小限ですんだと考えるべきではないでしょうか。
学生が一生懸命記入したESを出しても音沙汰なし、また面接の結果も音沙汰なしの企業があり。こういう企業がある以上学生側が内定を無断で蹴ってもお互い様の状況になっていると思います。
内定の時まだ就活を続けたい、認められないなら内定取消で構わないと正直に言ったら内定状態で就活を続けさせてくれた。最終的に辞退時に謝りに行ったら就職祝い食事会までしていただいた。必ず将来恩返しをしたい。
戦後中学が義務教育過程に加わったが、これは親にも地方自治体にも大きな負担だったらしい。
あまり知られてないが、当時は「ウチの倅に中学教育なんざ、ちゃんちゃらおかしい」として、学校の説得にかかわらず、子供を中学に通わせない親が続出してたらしい。
一方、戦後の資材不足の状況下で中学校校舎建設を強いられた地方自治体の負担も相当なもので、中学校舎を財源不足で建てられなかった村の村長が、引責自殺した、というニュースもあったそうだ。
このように親も自治体も貧しい時代に義務教育拡大を強引に導入したGHQは、やはり巨大権力者だった、ということだろう。
裏を返すと、日本が敗戦を迎えず、大日本帝国が存続し続けていたら、義務教育の3年拡大というのはなし得なかったのではないか?
大日本帝国の崩壊は「1945革命」とも言われるが、教育制度の抜本改革というのは、革命的な社会変動がないと、なかなか導入しずらいんじゃないか、とも思う。
日本でも「高校でも義務教育を」と主張する向きもあるが、「平時」において、義務教育制度をいじくるのは、非常に難しい。
親のみならず、地方自治体にまで重たい財政出費を強いる義務教育の拡充は、明治政府やGHQ政府のような強権政府でないと、なかなか導入はできないんじゃないか、と思う。
ところで、旧制中学は兎も角、新制中学は、設立後70年を経てない学校ばかり、ということになる。
一方で、大都市圏は兎も角、地方とかでは「創立100周年、120周年を迎えた小学校」というのは、珍しくない。
この数十年の歴史の差、というのは、小学校と新制中学との間に「地域コミュニティーの核になりえるか否か」に影響を与えていると思う。
或いは、「OBの層の厚さ」という点でも、小学校の方が有利だ。
小学校の方が戦前から運営されているため、年配の人、有名な人とかを、(新制中学よりも)より多く輩出している。
だから、OB会とか、母校への寄付金集めとか、同窓会とか、小学校の方が「有利」だ。
あと、「児童の発達過程からすれば、6•3制は望ましくない」とする教育関係者もいる。
自分は教育学は詳しくないのでなんともいえないが、今の6•3制は、「GHQがムリやり3年をくっ付けたので、木に竹を継いだ状態」なんだと思う。
先回のエントリー( http://anond.hatelabo.jp/20130830202223 )は好評だったみたい。
ブラウザの履歴消して、Google垢からログアウトしてから「専門学校 ラノベ」で検索したら、くだんのエントリーがトップに表示された(2013/09/01 午前現在)。
夏休み最終日、ラノベ専門学校への進学を検討している高3が見たら卒倒するね。虚淵玄の脚本より残酷。Google先生、大学に行きたいです。
以下、前回書き漏らしたことについて補足。
で、参加者は各校2, 3, 1人。私を入れてね。最後はマンツーマン。
イベントは各校のHPに、巨大なバナーで告知されてるのに、たったこれだけしか来ない。
とある学校のパンフに「在校生の約半数が体験入学に参加しています。ぜひ皆様もご参加を」って書いてあって吹いた。たった半分かよ。っていうかそんなこと書くなよ。
数だけじゃなくて、質も低い。
プログラムに「体験授業~プロットを書いてみよう~」ってあったから、ノーパソ持って行ったんだけど、PC持参してきたの私だけ。
他の学生は筆記用具さえ持ってきてない。あと、結局プロット書かなかった。
高校5年生を名乗る子がいて、「高専の方ですか?」って私が尋ねたら、「人には色々事情があるんです!」って講師が間に割って入ってきた。社会マジ闇深いわ。
2. 雇用の創出
体験授業の合間、メモ取るフリして講師の経歴調べてた。中身が無い授業だから所在なかったの。
作家・著述家・文筆家。普段何で飯を食ってるか分からない人たちばかり。確かなことは、その学校で教鞭を取って禄を食んでいることだけ。
「○○大学大学院人文科学科博士課程修了」なんてプロフ見た時は、「博士が100人いる村」を思い出した。村人の16人は無職、8人が死亡・行方不明だから、専門で教員やれる奴は勝ち組。やったね たえちゃん!
余剰博士の幸せを祈った分、学費を納めずにはいられない。私たち専門学校生って、そういう仕組みだったんだね(CV: 喜多村英梨)。
3. 体系的な知識
講師の中には曲がりなりにも高等教育を受けた人がいるわけ。先述の博士出身者みたいな人たちが。
例えば自然科学で言えば、20世紀初頭くらいまでの知識は整理されている。
仮説に留まっているものもあるけど、理論化がある程度進んでいる。
もちろん、学習者と指導者が相応の能力を備えている必要はある。
ただ別の言い方をすれば、両者にそこそこの力があれば、誰もが一定水準まで学問を修めることができる。
でも、文章を書く営みって、そんな秩序立ったものではないですよね?
もっと柔らかくて、鵺のように捉えどころがない。そんなものを『教える』ことなんてできるんですか?
それで「いや、文章作法というものは手順があってだね……」と講釈を垂れるのだけど、顔が半分笑ってる。