はてなキーワード: 21世紀とは
何時というのは書けませんが、少し先の話です。
21世紀初期にはSNSと呼ばれていた色々なサービスが、その後、統一されました。
今は、オンラインの書き込みは実名が義務付けられていますので、一昔前に、匿名で投稿できる日記サービスがあったと知って、驚きました。当時の人たちには、匿名ということにそれだけ需要があったのですね。
私は学校の課題で扱う題材を探していて、オンラインの匿名性について知り、とても面白いと思いました。
一番興味深いのは「釣り」という行為です。匿名性ならではの行為で、釣る人も釣られる人も、「釣り」を想定してコミュニケーションをとっています。暗黙の了解を前提としていて、高度な文化だと思いました。
匿名性のおかげで、私たちは過去のスペースに投稿することができます。
将来を変えてしまうような事件の予告や固有名詞を出さなければ、大抵のことは「釣り」として扱われるだけで済んでしまうからです。
未来からの投稿といって予言をしている人もいますが、信じられるものではありません。なぜならそれは禁則行為だからです。
未来からの予言という投稿のほとんどは嘘を書いて楽しんでいるか、fakeを混ぜています。
日本語は義務教育ですが、私に不足があるかもしれません。でもSNSの匿名性が面白いのは、やはり日本だと思いますので、日本語で書きたいと思います。
私は毎朝起きると、まずオンラインでニュースをチェックします。
ニュースにはGenuineのApplicationからコメントをつけることができますが、ここで私はThird PartyのApplicationを立ち上げます。
コメントを投稿しているユーザーは実名に紐付いたニックネームで表示されます。
ですが、その実名ユーザーの半分が実際には存在していないというのは有名な話です。
その企業が開発したAlgorithmにより、複数の仮想ユーザーを作り上げて、ニュース記事につくコメントを自動投稿しているというのです。
ConservativeからProgressive、FeminineからMasculine、LeftからRightと、思想のグラデーションによって仮想ユーザーを配置し、このユーザーならこう答えるという投稿の自動化をしているのだそうです。
それには、その企業が21世紀初期の匿名性時代に大量に投稿されたコメントを蓄積していたことが、大きな貢献となっているようです。
過去の匿名性ならではの過激なコメントや忌憚のない意見が、自由で人間くささを持ったコメントを投稿する仮想ユーザーを作り出したのです。
それは私たちのような実名ユーザーよりも、活発な議論を促します。
私はこのSNSのコメントを毎朝楽しみにしています。けれども、それがAlgorithmによる自動投稿だと知った時には、がっかりしました。
ちょうど、この時代の人たちが「釣り」と知っていて楽しめるように、今では私もそれなりに自動投稿されたコメントを楽しんでいます。
私たちは、そのSNSがコンピューターの作り出す議論ゲームに過ぎないことを知っています。
私は毎朝起きると、ニューストピックスを流し見しながら、気なる記事のコメントをチェックします。そうして仮想ユーザーのコメントに意見を返したりします。
私たち実名ユーザーはコンピューターの作り出した概念と議論を交わすのです。
それはとても楽しい体験です。ですが、生身の人間がニックネームの向こう側にいて議論しあっていた2010年代という時代を知って、信じられない気持ちになりました。2010年代の投稿には粗野なコメントも多いですが、無知には発想の自由があります。
次に私がアクセスする時に詳細な日時が指定できないため、この投稿の結果を確認することができません。
今日のことを知人に話すと「2010年代は1日あたりの投稿量がすごいから埋もれるよw」と笑われました。(草と呼ばれるこのslangも好きです。)
いま何か努力してモノにしないとこの先生き残れないことがわかっている。しかも今の自由な期間に期限があるということもわかっている。
それにも関わらず、俺が部屋から出ずに何もしないのは、自分の部屋に閉じこもる居心地が良すぎるからで、さらに言えば俺に何かをしたいという動機がかけているからなんだけど、それにつけても俺は何かをしなければならない。
しかし何もしない。いや、正確には好奇心に基づいた何かをしようとする。とりあえず目の前のテキストを読もうとする。タスクを消化しようとする。
しかしスマートフォンが普及した現在、頭を使わなくていいコンテンツが止めどなく更新され続けるようになった現在においては、我々クソワナビの集中力の持続は困難を極めた。
一頁読みすすめるうちにスタミナが回復し、アプリを起動し、30分溶かしたのちに忘れてしまった一頁をもう一度読む。これを何度か繰り返せば図書館が閉館する。さらにこれを数百回繰り返せば一年は消滅する。
ところで、俺が思うに、ヒューマニズムにもとづいた自由社会に向かう現代においては、自律した生産能力のない人間・与えられた課題を50点でこなすことしかできない人間の生き方は虚しい、という価値観が広く共有されつつあるように思う。
虚しいのはよくない。そしてできればそういうものは無くなって欲しい。
そういう集合的無意識の産物こそが、インターネット上に無数に存在する、永遠に時間を潰すことが出来るコンテンツであるのではないだろうか。
Makerブームの本とか読むと、インターネットやいろんな機器の発明によって誰もが好きなものを手軽に作れるようになった現代は最高みたいなことがかいてあると思うんだけど、それは現代の一側面でしかない。誰もが手軽に好きなものを作れる一方で、誰もが手軽に人生を棒にふることができるようになったというのが正しい。
自分の意志で自分の人生を決めることが出来る人間だけが高度な技術でそれを実現し、そうでない人間は高度な技術によって時間を潰し酔生夢死に陥る。そうすることによって無生産な人間は社会的に低い地位へ流れていき、粗末な人生を送る。とうぜん子孫は残せない。
こうすることによって21世紀も後半に差し掛かる頃には、生産能力のない人間は淘汰されきるだろう。
そういうことを考えて、人生が粗末なのは嫌だな、と思ったので、俺はもがくことにした。
しかしそれはいまのところ失敗し続けている。なぜか、それは俺が生産活動を行うためのツール、つまりパソコンなんだけど、これが時間を潰すためのツールでもあるからだ。
たとえばブラウザ上で動くものをつくりたいと思ったとき、web上の気になるサイトの要素を右クリックすればインスペクタでそれがどのように記述されて実現されているのかがしれたり、Ctrl-kを押した後に作りたいものを入力すれば過去の事例や体験談やソースコードがすぐに見つけられたりするんだけど、それとほぼ同じ動作でTwitterを開いたりdアニメストアを開いたりxvideosを開いたりすることが出来る。そしてほとんどの場合、1時間後にはソースコードを読む気力を全て失った人間がデスクの前に座っている。
ブラウザで何を入力するのかということに俺の人生がかかっていて、今のところそれに失敗し続けているということがわかる。
そもそも俺は何かをしたいのか、何もしたくないのか、ということを考える。
当然俺は何かをしたい。できるだけ面白いことをしたい。そしてそれを実現するための方法は広い意味での創作活動しかないように思えて、そのための一番身近なツールがPCであることもわかっている。しかし俺はそれを活かすことが出来ない。何も出来ない自分に苛立つ、しかし結局何も出来ない。
こうして踏まえてみると、俺が何かをしたいとか創作活動をしたいと思っているという最初の欲求自体が間違っていたのではないかと思えてくる。そうなのかもしれない。
俺はできるだけ何も考えたくなくて、インターネットのエロコンテンツを眺めて過ごしたいだけなのかもしれない。しかしこのように明文化してみると、さすがにそれはないだろと思う気持ちもある。
良い記事だ。しかし、まだまだ甘い。天衣みつだ。http://anond.hatelabo.jp/20141125174047
この増田は、まず、同志社大学の教授 浜矩子 大先生の著書を読んで勉強すべきだ。ついでに、高橋乗宣先生の御著書も読め。
2014年 戦後最大級の経済危機がやって来る!: 高橋 乗宣, 浜 矩子 2013年 世界経済総崩れの年になる! 高橋 乗宣, 浜 矩子 2012年 資本主義経済 大清算の年になる 高橋 乗宣、 浜 矩子 2011年 日本経済 ―ソブリン恐慌の年になる! 高橋乗宣、 浜 矩子 2010年 日本経済 ―「二番底」不況へ突入する! 高橋 乗宣、 浜 矩子 世界恐慌の襲来―日本経済は「最悪の10年」に突入する 高橋 乗宣 2007年 日本経済―長期上昇景気に陥穽あり! 高橋 乗宣 2006年 日本経済―日米同時崩落の年になる! 高橋 乗宣 2005年 日本経済世界同時失速の年になる! 高橋 乗宣 2003年 日本経済 世界恐慌突入の年になる! 高橋 乗宣 2002年 日本経済―21世紀型恐慌の最初の年になる! 高橋 乗宣
ほら、何一つ当たってないでしょう。
最近、反転教育なんて言葉をよく聞く。今までは学校で講義を受け、家で演習などを行うというスタイルであったが、これを反転させて家で内容を予習してきて学校で演習なりグループワークなりをインタラクティブに行う、というものである。そして、この反転教育の方が身につくから効果的!だとかなんとか言っているのである。
いやはや、本当に21世紀なのだろうか。反転教育の方が効果的だなんて、当たり前じゃないか。
ちょっと勉強ができた人ならすぐに分かると思う。講義なんて聞く価値はほとんどなく、教科書を読めばだいたいのことは分かる。本当に必要なのは教科書を読んで分からなかったことを質問できる場であったり、議論できる場なのだ。特に高校までの科目なんて授業の価値はほとんどないだろう。そんなこと、何十年も前から賢い人なら分かっていたはずだ。なぜいまさら大仰に名前を付け騒ぐのか。なぜ今までそういう風にしてこなかったのか。なぜ今まだそうなっていないのか。
私はロリコンである。子供が好きだ。発達途中のあの体躯がたまらない。私は男で異性愛者だが、男の子も女の子も好きだ。
さて、足立区に「ギャラクシティ」と呼ばれる公民館があるのをご存じだろうか。
足立区こども未来創造館と西新井文化ホールとの複合施設で、近年、博物館設計の雄「丹青社」のプロデュースによりリニューアルされた。
ここの企画がすごかった。
子どもの描いたデザインが施設の壁を彩ったり、子どもたちが作った文字フォントが今でもパンフレットなどで使用されている。
施設が出来る前から、内部の遊具などを出張設置して子どもの目をひいたりなどもしていた。
つまり、子ども目線で、子どもも実質的に施設をつくる大人も一緒に成長していける施設設計を果たしたのだ。
現在でも「つくる」「あじわう」「しる・まなぶ」「かなでる」「からだをうごかす」など様々なイベントが行なわれている。
先日娘とこの施設を訪れた。
周りにいる子どもたちには目もくれない。そういう次元はロリコンとしてすでに通過後だ。
先ほど言った通り、施設のたくさんの場所に子どもたちが作ったもの、作り上げたものが在る。
その「モノ」が、私に、たくさんの子供たちの姿を想像させるのだ。
子どもたちの手技から非実在子どもを想像させ、それが私をたまらなく興奮させるのだ。
この施設が完成するまでに、一体何人の子どもが参加し、体験し、何かを感じ、成長できたのだろうか。
子どもたちはこの21世紀をどう生きて行くのだろうか? そんなことを考えさせられ、ついドキドキしてしまう。
ご存知の通り、足立区というのは治安が悪い、教育水準が低い、などのイメージがある。
足立区ではこのイメージを何とか払しょくしようと懸命な努力が続いている。
そして今回話してきた「ギャラクシティ」も大きく言えばこの一環なのだろう。
共産趣味者ってのはさあ、なんつーかさ、思想的に非常に悪い意味でステイブルでニュートラルだよな。
すげえ自分は安全なところから、左翼的な部分に言及する。思想的に安全なところからさ!
「私はノンポリでぇ~す!!左翼的なものとは元来は関係ありまっせーーんッ!」って。臆面なく言えちゃう。だから共産趣味者を標榜できる。
そんなものを一切考えなくてもいい。21世紀の現代はな。そんなものを考えなくても生きていける。
もちろん、貧困や格差はある。だがそれをブルジョア的、プロレタリアート的、あるいは階級闘争と引きつけて考えなくなっている。
だからこそ、ふわりと共産趣味者が現れる。ブルかプロか? の埒外からの「観察者」が現れる。
共産趣味者でも、こうした構造に自覚的な者はまだわかる。というか趣味者を生産的にこなせている。
しかしこうした構造にあまりに無頓着に共産趣味者を標榜する人間、すなわに勉強全然してない表面的な語彙的面白さで趣味者をやっている人間が多すぎる。
苺愛と書いて”べりーあ”!? 2014年上半期キラキラネームランキング発表 | ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1248452?ver=video_q
火星 じゅぴたー
さすがにこれはどうかと思うけどw
何度も言ってることだけど、キラキラネームを嫌悪する風潮がセカンドレイプを生み出してることにいち早く気づくべき。言葉狩りはバカの三大特徴の1つだが、名前狩りも言葉狩りの1つだかんな。
セカンドライフが良い例だ。セカンドライフはなぜ一時期しか話題にならなかったのか?一方セカンドライフに類似したマイクラは何故こんなにも人気があり愛されてるのか?
そしてセカンドライフ社がマイクラのパクリゲーを作っても売れなかったのはなぜか?すべての答えは「セカンドレイプだから」で説明できる。
話を戻そう。DQNネームには悪魔ちゃんのような子に対する愛の感じられないものは確かにあるさ。記事にある黄熊(ぷう)も愛がないと解釈する余地がある。たとえ愛があっても名前とは一人歩きするもの。誤解の余地あるネーミングは悪だとプログラミングの先生は言っていた。
でもさなんで苺愛(べりーあ)や七音(どれみ)まで非難する人がいるの?またキラキラネームをバカDQNと結びつけたがる奴が多いのもなんなん?w
世の中を動かすのはいつだって頭がよくて金があって世界を俯瞰的に見れる一部の特権階級の人間、というのは過去の話さ。今は多数派の衆愚の力が強すぎる。だからどげんかせんといかんのですよ。
21世紀は美術の世紀なんて言ってたアーティストがいたけど、アートや作品の類いのものでは世の中では動かない。運が良くても一時的に消費されるだけ。
話を戻そう。いわれの無いキラキラネームに対するイメージダウンによってネーミングの自由が失われている。アタマのカタイ世の中だなと思いますよ。
なるほどキラキラネーム批判も自由だが、「他者の自由を侵害する自由」もあるが、それが数の暴力と結びついた場合は話が違ってくるのです。
われわれは寛容の心をもってキラキラネームを受け入れねばならないステージに来ているんですよ。今の人類が直面している時代とはそういう時代なんです。
まず桃な!今更んなってNEVERまとめがガンガンズンズングイグイRTされて来てるけど、遅っせー遅っせー。俺クラスは2年前にすでにチェック。すでにDONE。あれさ、レモンの皮がキクんだよな、また。美味しんぼで輸入レモン食うやつはグワババ許せん死刑みたいな事言ってたけど俺クラスになると残留農薬も小粋なエッセンスのイートアンドデストロイ即ガンギマリ即アヘ。
2位はセッケンついてる女が使うカミソリ!
…神じゃね?
俺は、そう、思った。
こいつは完全に21世紀最大の発明。~INNOVATION~この言葉、捧げたい。
何がそんなにスゲーかというと。これめちゃんこ・めちゃんこ・めっちゃんこ足がスッベスベになる。自分は結構デリケートゾーンがノーヘアー系男子な訳なんだけど、ボディから爪先まで超トゥルトゥルシームレスで「俺はポリゴン…ここから始まる俺のシェンムー3」みたいな神々しい気持ちになるよな!
1位は催ニーな!催ニー!
ネッネッきーてきーて!しゅご~いの。催ニー。女の子が「ご♥よん♥さん♥に♥いち♥…ぜろっ♥♥」ってカウントするだけでなんでか俺のオボッチマン君が「んちゃ~!」「ホヨヨー」「クッピップー!」ってなっちゃうの!不思議!とかなんとか言うとブクマとかやってる奴らは「さっさっ催眠なんてデリケートな事に素人が手を出すなんてハイリスクな事する奴は頭おかしい!低学歴!ドクズ!」とか鼻息で眼鏡曇らせながらコメントしてくっかもしんないけどまあ落ち着けと言いたい。
そんなモン何やるにしても多かれ少なかれリスクはあるだろう。PCに張り付いてはてブばっかりやるのだってピントがズレた思想に囚われて感受性が擦れるリスクもあるわけだし。
だから、例えば隣の部屋から俺のようなおじさんが「ぷぴいー♥ボクはエッチな太ももしゅべしゅべのめしゅぶたでしゅう♥ぶひぶひビクンビクン」とか言ってる声が聞こえてきてもどうか温かい目で見守っていただきたい。辛い、辛ーい仕事から帰ってきて唯一の楽しみなんだから!
ただ催ニーの大変な所は人に見られるとめちゃんこ・めちゃんこ・めっちゃんこ恥ずかしい所。俺の経験談をちょっとだけ語らせてもらうと「ぜろっ♥♥」からの「んちゃ~!」ってしてる所にオクサンがちょうど帰ってきて「ほよよ~」ってなってるところに俺のオボッチマンくんが「右向いて左向いてバイチャバイチャ」ってなってオクサンもバイチャバイチャで実家帰っちゃったっていうのが昨日。あーーーーーーーーーーーーーーなんだよこの夏死にてーーーー