はてなキーワード: 人を動かすとは
橋下もそうだし、乙武もそうだし、上杉もそうだし、ノビーも、きっこも、
ブラックじゃないと言い張るワタミ会長も、クソみたいなまとめブログも、正確な情報を流さないマスメディアも煽動者だ。
知恵袋とか小町で活動してる釣り師も、煽動者と言えるだろう。無害なほうだが。
Twitterが普及して、誰でもほいほい情報発信・情報共有ができるようになったことが大きい。
当時は新たな時代の幕開けとかなんとか言われてた気がする。
でも、あんなのは、サイト管理者ーサイト利用者間か、サイト利用者ーサイト利用者間のツールでしかなく、
大量の人々を煽動するためには、そこに興味がほとんどない人にも目に入らないといけない。
『煽動』のためには、ツールの力が足りてなかった。
煽動は数だ。
メトカーフの法則では、ネットワークの価値はその利用者数の二乗に比例すると言われる。
煽動者の価値は、煽動者が持つ人的ネットワークに含まれる二乗に比例する。たぶん。
ブログならPV数かURLツイート数、Twitterでいうならフォロワー数だろうか。
フォロワー数が多ければ多いほど、はたから見れば酔狂ともバカとも言える信者を、ファンネルのように動かせる。
敵への攻撃でも、自らの金儲けでも、『俺に一票入れてくれ』でも、布教活動でも、信者を動かしてなんでもできるようになる。
煽動者は行動し、Twitterでつぶやけばいい。信者は勝手に解釈してやってくれる。
煽動者にとって必要なのは、人々に自らの無謬性を信じさせることだ。
それが正しかろうが間違っていようが、善であろうが悪であろうが、どうだっていい。
正しさが金を産むとは限らないし、むしろ正しい情報よりも間違った情報が人を動かす。
人の気持ちを煽り、自らの利益となる行動を取らせることこそが煽動者の目的だ。
怒りは人を動かす。
善と悪は人の怒りを呼ぶ。
煽動者は絶対的であればあるほどよく、少しでも多くの人に、「私は正しい」ということを洗脳させられば、煽動者の勝ちだ。
アンチの数は問題じゃない。むしろアンチは多ければ多いほどいい。うまくやれば無謬性への洗脳を強められる。
批判者に対して、「あいつらは間違っている。我々が正しい」と攻撃し、それを信じさせればいい。
そういうのはTwitterでやればいい。フォロワーが勝手に広めてくれる。
『あの人なら信頼出来る』『あの人なら一票入れる』『あの人が言ってたから〜』
ということを無自覚に考えている人が多くなってきている気がする。
煽動する者が勝つ。
静観せざるを得ず、煽動者たち、煽動された者たちはより、急進的になっていく。
それが害をもたらさなければいいと思う。
忘れ去られ、消え去れればいいと思う。
ただし、煽動者とその信者たちに、いつ巻き込まれるかはわからない。
声高な煽動者が正しいのかどうかを自らが問わなければいけない。
騙されてほいほい付いて行ったら負け。
文章書くの苦手なので、読みづらいと思います。
というよりも上司が求めてくる仕事・能力を満たすことができないのがつらい。
納期に間に合いそうにない。
「楽しくない」と答えられるわけがない。
こういうのずるいと思う。
以前も「この仕事したい?」って尋ねられたけど、入社して間もない私に断る権利なんてあったんだろうか。
私にYESって言わせたいんだろうなぁと思いつつも、私はYESと頷いたわけだが。
みんなってなんで働いているんだろう。
・やりたいことのため
・お金のため
・家族のため
・暇つぶし
・何となく
・惰性で
いろいろあると思う。
この中でもやりたいことがあって、そのために働いている人は羨ましいと思うし尊敬する。
ただ、今の会社・職種にこだわっていない人もそこそこいると思う。
私がそれに入るから、そう思いたいだけなんだが。
「今まで○○っていう専攻を学んできたから、その専攻を活かせそうな分野の会社に入っちゃいました。てへぺろ」みたいな人ね。
そもそもやりたいからその専攻を学んだわけでなく、惰性で進んできたわけなんだが。
上司はその考えがないんだろうな。
いや、もちろんないわけではないんだが、そういう人間を部下に求めていない。
そういう考えを表に出してはいけない。
当たり前なんだけどね。自分が上司だとしたらそんな人間いらないもんな。
素晴らしい人間(上司という役割)なんだろうけど、底辺側(私)からしたらクソみたいな人間に感じる。
”人を動かす”のような本を読んで、管理職としての教育を受けて、それを実践できてるオレカッコイイみたいに見えてくるんだよね。
(私もそういう本に興味があって読み漁ったのが間違いだったかもしれない。上司から何か言われると”ああ、このテクニックか…”と思う)
こんなことを書いてストレス発散。
他に発散する先がないから。
生きる意味が見いだせていない。
真面目な話、なんで生きているのかわからない。
早く死んで楽になりたいっていう気持ちもあります。
死にたいって思うけど、死ぬことや自傷することを想像すると怖いからできない。
だから”早く親が死なないかな”って考える人間は極少数だよね?
んで、両腕骨折するの。
そしたら仕事できないじゃん?
毎日のようにこういうこと考えるわ。
他にやりたいこともないんで。
いざとなったら、ホームセンターで包丁買って、そのまま交番行って「逮捕してください」って言えば衣食住が保障されているから良いよね。
クソみたいな発想ですみません。
その後、自分の席に戻ったら涙出てきた。
いや、だから弁解とか要りませんってば。
現代において紅一点とは、多数の中で異彩を放つもの、また、男性たちの中に混じる唯一の女性のことを指す。
万緑叢中紅一点 (ばんりょくそうちゅうこういってん)
「人を動かす春色」に自らを喩えておいて「自慢じゃなかった」ってアホじゃないですか。
しかも辞書を四冊も引いたとか当て付けがましく書いておいてこれ。あなたの大学は調べ物の仕方も教えてくれなかったんですね。
それに、あなたが知人ABを憎んでいたとしても、知人ABの悪口を言うことは全く正当化されません。
わざわざ具体的な非常識エピソードに言及するのも嫌悪感の共有・共感を狙っているのがありありで気持ち悪いです。
というか本筋に微塵も関係無いでしょその話。何で突然延々と笑えない他人の恥を開陳してんですか?
自らの言い訳のためなら他人を平気で利用して、それを聞かされる側がどんな気分になるかは全く気にかけない。
ほとんどの人は、自由になどなりたくないし、サラリーマンでいることに安住している。
自由には自分自身への責任が伴うし、サラリーマンでいることで責任が分散される。
多くの人が望んでいるのは、単に緊張のない状況なんだ。
で、たなぼた式に自分が欲しいものがやってくることを期待している。
宝くじみたいに。
今は生きること自体は楽になったので、なにもしないで単に遊びたい人が増えた。
資本主義は競争を人々にさせることで欲求を高めているが、それも成熟して、もうお金を稼いででも欲しいものがなくなってきている。
だったらどうしたら、人を動かすことができるのか?
あこがれ、誇り、充実、怒り、危険、いろいろあるが、
目標設定を小さな頃にさせることだと、僕は思っている。
この世界でなにを成し遂げたいのか?
最初に盛大に察してちゃんかましておいて、冷たくあしらわれるとぐちぐち弁明するのも女の悪い癖だよね。
「内容はそれなりに込めたつもり」ってアホか。どんだけ表現サボって甘ったれるつもりだよ。
厚労省の衛生行政報告例は年齢別人工妊娠中絶実施件数と実施率は示してるけど理由まで踏み込んで調査してるわけじゃないので大規模でまとまった実数的な調査結果は存在しません。労働力調査をみると貧困率トップが母子世帯で次が単身女性(高齢)、単身女性(就業年齢)の順なので、現場での「経済的原因が圧倒的に多い」という声を裏付けてもいるなーという程度かな。中絶理由のソースとしてwikipediaのアレを引いてくる例が多いようだが日本のデータかどうかも疑わしいので個人的には採りたくない。
これ↓を「アラン」で検索したあたりなんかも実情の一端ってことでいいと思うが。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/180/0097/18003210097006c.html
>他人を動かす、って相当なことだから「すべき」って言葉にはかなりの責任がともなう。その責任の中に一つとして、できるだけ客観的につとめ、統計や仮説等を使い、結果的にみんなの利益になるような方向として「すべき」は提示される方が良い訳で。
自分だって「感情的な部分の意見表明っていうのは『自分はこんな感情がわいてきた』『こんな気分になった』でとどめて置くべき」というのを統計的事実をもって示したわけじゃないくせに他人にはデータで裏付けを求めるとかどんなダブスタ?
それも反論があるとか主張内容が疑わしいからじゃなくて、単に他人が書いた増田記事を自分が納得して安全に鵜呑みにしたいが故だろ?
そういう捨て台詞系で溜飲を下げてスッキリする系やめようよ。女性にありがちな悪い癖だよ。
やっぱり何か発するときに、印象とか感情だけではよくないっていうのは基本としてあるんだよ。
どうしても人間の感覚とかって、意地になっちゃうこともあるし、一時の環境とか気分とかに振り回されることもあるし。
だから、何か世の中をこうしよう、こうあるべきだとか言うときは、発想のきっかけが感情的なものであったとしても、
客観的になるように努めて、社会的な状況は何々の統計によるとこうなっていて、だからしてこういう方向になるような方策を考えなければならないんじゃないか?とか、そういう方向で考えをまとめたりしていかないと。
やっぱり人間は自分に甘くなりがちで、だから自分に都合のいいもの、自分が好きなものを社会的に好ましいものと同一視したがったりする。だけど実際はそうじゃないことは往々にしてあるわけだし。
だから、感情的な部分の意見表明っていうのは「自分はこんな感情がわいてきた」「こんな気分になった」でとどめて置くべきで、「だから世の中はこうすべきだ」っていうのはやっぱりちょっと飛躍が過ぎる部分があるよ。
他人を動かす、って相当なことだから「すべき」って言葉にはかなりの責任がともなう。その責任の中に一つとして、できるだけ客観的につとめ、統計や仮説等を使い、結果的にみんなの利益になるような方向として「すべき」は提示される方が良い訳で。
と、長々書いたのもやっぱり「気持ち悪い」の一言で却下されてしまうのかもしれないが、一応自分なりに誠意を持って書いてみた。
最近読んだ記事で「プロマネは教科書の内容を鵜呑みにするタイプには向かない」と書いてあったのだが、その理由を自分なりに考えてみた。
これって結局、プロマネが「人を見て法を説く」仕事の最たるものだからだと思う。
つまり、どこまで行っても本に書いてあることより、目の前の人間のほうが遥かに大事。
人が主で書が従というか、書は人のための方便に過ぎないというか。
目の前の人を動かすのに適切なノウハウがパッと浮かぶ程度には勉強していないと困るけど、目の前の人を蔑ろにして教科書の内容を金科玉条のごとくというのでは本末転倒。
確かにそう考えると、学校の勉強しかできないようなタイプには務まらないと感じる。
意訳できてないよ、元増田だけど
ただ、本質の一部を欠落させ色づけ・脚色された真実は時として人を動かすことがある
たとえば、「名誉だ!世界のためだ!」という言葉は承認欲求や生物の生存欲求が本質であるかもしれない
だから、承認欲求や生存欲求という本質を色づけしたものにすぎず、適用範囲や正確性には問題があるだろう
けど、「生存欲求のために頑張ろう」と激励するよりは「お国のために頑張ろう」と言った方が効果はあるだろう
いくら尊い精神論を振りかざしても自己犠牲で自殺することが難しいように
そこには限界があり、そういう場合には本質を踏まえた具体的な対応(医学や物理学、俺で言うなら行動分析学)が必要になる
http://anond.hatelabo.jp/20120717012523
この間のクロ現でも首相官邸前の金曜日のデモについてやってた。
大飯原発再稼働の時のデモはUstreamで多少見てたが、ネットではやっぱりいまいちわからない。
何が行われているのか、何が主張されているのか、どのような人が参加しているのか、どのように終わるのか。
この全国で行われている「再稼働反対」デモはいつまで続くのか。
わたし、気になりました。
東京、大飯前でやってるなら、原発動いてる関西でもやってるだろうと思ってTwitter検索。
デモははじめてだ。
ただフジテレビ抗議デモはネットで見た。これはおかしいと感じていた。
それとは違うだろうと思って見に行った。
はじめ持った感想は、怖いだった。
何か、言い表せないが、何かが渦巻いているような感じがした。
参加者はいろんな人がいた。中年のおじさん、おばさん、母親のグループ、若い父親。会社帰りのサラリーマンは少し離れて見ていた。
自分と同じ世代の人もいた。配信しているふうの人が何人かいた。
いろんな人のチラシや新聞を貰った。
オスプレイ配備反対、反核、反原発、We are the 99%。平和活動系、労組系、共産党系、宗教系・・・
「再稼働反対」とは便利な言葉だなと思った。人を集めてまとめる魔法の言葉。
人が集まる場所は、2箇所にわかれていて、片方は「再稼働反対」と叫ぶところ、もう片方はスピーチやアクションをするところだった。
「再稼働反対」というシュプレヒコールは耳につく。「再稼働反対(どんちゃんどんちゃん)」今でも頭に残っている。
ずっと聴き続けていたいとはあまり思わなかったので、できるだけ移動しながら見ていた。
ダイ・インという言葉と行動を初めて知った。
やっている人にとっては意味を持つのかもしれないけど、あの行為が何をもたらすかは自分にはあまり良くわからなかった。
がれき受け入れを行う予定の橋下をデスラー総統に見立てて人類を滅ぼす気かと書かれたポスターがあった。
正直何書いてるのかよくわからなかった。
終了予定時刻の7:30になって終わり。多くの人は帰っていた。
グループで帰った人々のうち、いくつかはこれから飲みにでもいくのでしょう。
ただ、まだ残っている人がいた。
Twitterで行われている話とだいたい同じ。政府は隠しているとか、放射能は危険であるとか。
切羽詰まったその声を聞いて、その不安はあまり体に良くないと思うよ、と心のなかで呟いた。
それが終わったら、あとは反原発ソングのカラオケ大会。スピーカーで大音量。(どんちゃんどんちゃん)
どうやって終わるのかが気になってたんだけど、全く終わりそうもないので帰宅。
行ってみての感想は、やはり自分とは相容れない、ということだ。
あまりうまくまとめられない。デモだけの話ではなくなっているし、散文になってしまうが許してほしい。
・なにか違った立場に立っている。
時々話に出されたストロンチウム。検出されたストロンチウムは健康に影響のないレベル、60年代の何分の一なのに、(参照朝日新聞デジタル:福島原発事故由来のストロンチウム、10都県で初確認 - 東日本大震災、東京新聞:ストロンチウム 本当に影響ない? 監視・実測の継続必要:社会(TOKYO Web))「健康に影響のない」とは決して言わない。
60年代の何分の一とも言わない。
・「再稼働反対」という言葉には、がれき受け入れ反対も結構な割合で含まれているように感じる。
そこには、「放射能は安全です」に対する反感、「放射能は危険である」という不安が大きい。
もう、不安ではなく「すでに私たちは被害を受けている」という感覚を持っているようにも感じた。
がれき来ても0.00000何マイクロシーベルトも浴びないと思うよ。
そもそも原発以前から自然放射線を浴びてたんだよ、と言っても意味は無いのだろう。言えないけど。
放射能の拡散を防ぐって、すでに拡散されちゃってるんだけど・・・
「放射能をなくしたい」とかいう言葉も聞こえた気がする。わりと医療とかで使われてると思うんだけど・・・とも言えない。
・なんかあんまりいい感じではない気がする集会だ。
不安が解消されるものではない。デモに行けばいくほど、恐怖が高まるのではないだろうか。
Twitter見て、放射能への恐怖が高まって、デモに参加して・・・
これが解消される日は、来るのだろうか。
その恐怖、和らげてくれるものは、どこにもない。
・デモでは「これから私に起こる怖いこと」についての話をしている。
このデモが今後も続くためには「私」が「私達」にならないといけない。
東京では、福島に近い、飲み水への不安、食べ物への不安などの理由から、これからも再稼働反対デモは当分、同規模かさらに多いくらいで続くんだろうと思う。まあ再稼働は大阪なんだけどな。
大阪では、続かないかもしれない。新たな原発が動くのであれば別だけど。やはりどこか「私達」の問題にはなっていない。がれき受け入れでは弱い。東京ほど多くの人を動かす力にならない。
原発動かず電力不足のほうが心配だし(デモでは「電力足りてる」らしいけど)。
距離が感情の隔たりを生んでいる。
福一の事故では確かに何人かの命は奪われた。
だけど、わからない。
「生活を奪う」というほうがしっくりくるのになぜそうしないんだろう。
かならずいのちがうばわれる。
というわけで感想まとめ。
・「再稼働反対」はみんなをまとめる便利な言葉。
・恐怖、煽られる気がする。
・Smiling Sun - Wikipedia, the free encyclopediaのバッチはなかなかいいね。
1.Politician
2.Expert
4.Entreprenuer
5.Missionary
1は(社内)政治家。新卒で入った会社の中で政治力を持って可能な限り権力に近づく。
根っからのエリート思考の人に向いていると思う。ただ、社長になれるかは100%運だろうし、たとえ運よく社長に成れたとしても経済的には普通のサラリーマンとそれほど変わらない。ま、住宅ローンとか子供の教育費には困らないだろうが。最も気持ちいいのは人を支配し、世の中に影響を及ぼす快感だろう。上り詰めれば財界の実力者として、政治家と対等に話すことも夢ではない。
2は職人的専門家。財務とかプログラミングとか法務とかアラビア語とか何でもいいから独り立ちできるような専門知識、難関資格を身につける。
人脈を築いて好条件でヘッドハンティングされるもよし、独立して事務所を持つもよし。会社のだるい柵(しがらみ)が嫌いな自由人タイプの人に向いていると思う。好きなことだけ出来る。ただ、自営業者になったり、会社のレールからは外れるからサラリーマン的な安定度は低くなる。経済面では税金とか報酬の面で有利です、少なくとも普通のリーマンよりかは。
3は国際人。何かしらの武器をぶら下げて海外に打って出る。2の亜種とも見れる。
絶対海外に行きたい、むしろ住みたいって人のタイプ。日本の将来に危機感を持っていたり、嫌悪感を抱いてる人、より広い世界を知りたい人、金髪が好きな人・・・など理由はどうあれ海外にあこがれている人が進むべき道。リスクもリターンも無限大!簡単に国を捨てることが出来る人なんていない。専門知識だけじゃなくて、文化適応能力や対人能力も試される。最悪の場合は寿司職人としてへいらっしゃい!ってやってるかもしれないけど、外人の配偶者と別荘と大型犬をゲット、たまに日本に帰ってかつての友人に死ぬほど妬まれる幸せをつかむかもしれない。
月給なんてくそ食らえ!自分でやって大金持ちって人。あるいは、より大きく社会に貢献する、という庶民からすれば胡散臭いセリフを真顔で言う人がなる。これも無限大のリスクとリターンと背中合わせ。松涛に家を建てることも可能です。専門家と違う部分は実務家ではなくなる、つまり、自分はプレーヤーとしてではなく仕組みを作ったり、資金を供給したりする役にまわるということ。そうなると自分の好きなことばかりやってられない。厭な役回りも柵もサラリーマン以上に多い。人を動かす力ほど難しいスキルはないのではないでしょうか。あ、IPOに掛かる税金は安いです。
5は伝道師。会社で得たことや経験から学んだことを講演、出版などで社会に提供する。
純粋に教えるのが好きで、その行為によって優越感に浸りたい人に向いている。もっと言えば、自己顕示欲が強くて、公共心が強い、名誉欲が強い、金は別にそこまでって人。資本は体のみのゼロ円ビジネスなので、リスクは非常に低い、別に会社をやめなくてもいいし。うまくいけばテレビや雑誌に連載をもったり、バラエティ番組でさんまさんと競演することも。
たらたらと書いたが、これらはお互いに重複する部分が多々ある。
なぜなら現代人が根本的に求める欲<権力欲、自由欲、変化欲、金銭欲、伝道欲>を無限大のベクトルで突き詰めた役割を書いただけだから。
つまり、欲は欲で型にはまってどれかを取捨選択する必要などまったくないのである。
俺だって自分の確固たる専門分野を持って好きなことだけしたい、海外にも住んでヨットを乗り回したい、会社も興して大金を稼ぎたい、大企業の社長として議員をあごで使いたい、ドラッカーも驚くような本も書きたい。
最近人と話したりしてて人のプライドの高いかどうかっていうところで接し方を調節するのが処世としては重要なのだろうというのを強く感じるようになった。つーか対人コミュニケーションの金言集的な扱いをされるカーネギー氏の「人を動かす」においても、一貫したメッセージは「相手の自尊心を傷つけるな(つーかむしろくすぐれ)」だったはずだ(うろ覚え)。なので自尊心を傷つけないように相手を立てることは非常に重要、これは当然に同意する。
だがかねてからこのコミュニケーションスタイルを貫くことの絶対性には強く疑問を持っていた。常に相手を立てて、反論せず...追従を重ねるまでは行かなくとも、随分単なる太鼓持ち、ないしはただの存在感の無いやつになってしまうおそれがあると思った。で、一方で割りと尊敬を集めてみたりとか、わりといわゆる威圧をうまく使うことでそのコミュニケーションが上手くいく場合もあったりすることを感じる(例えば女性なんか一般的に引っ張っていって欲しいという意見が多勢だし、男でもドMというか末子気質のやつがいる。)なので自分の立ち位置もそういったものに応じて変えるのはわりと有効そうだと思い至った。
で、少し話が飛ぶ感じになるが自分が検討したいのは、①相手のプライドの高低、②さらにその人の実力の高低(頭の良さ、仕事での成績、見た目の良さなどなど、その人の自尊心の源泉になっている事柄があるはず、それの程度をここでは指すことにする。)でそれぞれ分けて、4類型の人々との接しかたを少し整理したい。
1.プライド高×実力高
普通に実績があって自分に自身があるタイプ。仕事とかも良くできて実際に回りからの尊敬もある。適度な自尊心ならいいけど、自分に自信がありすぎるとちょっと過剰気味になって評価落としたりはする。このタイプは自尊心が高い一方で仕事もできてるわけだから実際にその実績を褒めればいいと思う。別に嘘を付かなきゃいけないわけじゃないからそこではあんまりしんどくない。
2.プライド低×実力高
謙虚だけど優れたタレントを持つ人。要するに一番人格ができているタイプで、本当に実力がある人は1を経てか経ずかここの類型でいることが多い。(自分の実績を鼻にかけなくなる)ただ、一方で圧倒的実力でなく、ただ相対的に少し能力があって、でもプライドが低い場合もある。こういった場合はその人の能力が見えづらくなったり埋もれてたりするので、仕事なりのときはその人を立てるよう周りが配慮すると吉。このタイプはあんまりいたずらに褒めても本当に嬉しくない対応をすることが少なからずあるので、その他の性格を見極めることが必要かなあと思う。
3.プライド高×実力低
よくいる嫌な奴の類型。基本的には人からは嫌われてたりすることが当然多いわけだが、例えば機械的な組織、会社とかにおいては機械的に昇進した上で実権を握っていたりする(無駄に)ことがあり、その場合は断交などもってのほかでむしろ良好な関係を保持することに努める必要が出てくるわけだ。
さて、この場合が一番この人のプライドを傷つけずにすることに腐心することが肝要。なぜならこの種の人は能力が無いのでボロが出ることが少なくないわけだ、しかしそこでそれを付くようなことはせず、むしろ上手くフォローしながらその人の功績とするように見せる必要がある。いわゆる無能上司、で困るパターンはこれに当たるわけだが、ちょっと類型が多すぎるか。ただ、たとえばブスなのにプライドが高い、とか馬鹿なのに自分大好き、みたいな連中もここであり、一番の問題児ということになる。
4。プライド低×実力低
単に無気力系なことが多いこのタイプ。特に自己評価も高くなるはずもなく、どの集団においてもカーストを上げることはあまり無いので、損得考えて積極的に付き合うことは少なくなるはず。ただ自己評価が高いわけじゃないので基本的にプライド高い系のやつに見られるあの過大な自意識の垂れ流しが感じられず、付き合っていて落ち着くことが多い。ふと疲れた時に話するような相手に一人いたりすると驚くほど自分の気疲れから解放されたりすることがあるのは特筆に値するかも。自己評価低めなことが多いので、自分自身に尊敬させてフォローしてもらうようなコミュニケーションを心がけるのも一つかも。もしくは乏しい承認供給を求めている場合もありそうでそのあたりは見極めが必要かも。
すいません、考えながらだらだら書いたので支離滅裂っぷりがひどいのは自覚済みなので是非補記なりいろいろ頂ければ。こっち側の実力プライドの高低とか男女で結構話が変わってくるのかもとかは思った。
点数を貰うのや馴れ合いが大事って意味じゃない、そこを勘違いするからおかしなことになる
ちょっと長文になるが
絵にかかわらずなんでも他者がいてはじめて力がわかる
文章読んでもらう、料理食ってもらう、プログラムを使ってもらう、格闘で相手と戦う
それで自分のできる事が素晴らしいんだ!って客観的に思えるようになる
一人でも理論的には上達できるが、哲学者や仙人にでもならないと精神的にもたない!普通は無理ッ!
人にみてもらう事で精神的な燃料は補充できるし、自分の表現で他者に燃料を補充することもできる
これを馴れ合いだ自己愛だといって否定するやつは表現むいてない
上手い下手の問題じゃねえ
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/cg/1323767312/742
「上手くなりたいだけなら (ニコニコ|Youtube|pixiv|tinami|Twitter|その他なんちゃらいろいろ) にうpったり張ったりしなくていいよね。点数欲しいだけだよね。ちやほやされたいだけだよね。」
ネットという舞台でだれもが気軽に表現できるようになって、こういう批判をしたがる人が本当に増えたと思う。誰にも見せてないけど満足してるよって人は、自分が第一の観客なことに気づいていないだけじゃないか。
人にいくらパワーを与えてもオリジナルが磨り減る事はないのが表現。一つのオリジナルから、受け取り手それぞれの中で様々な形でパワーになるのが表現のすごい所だし、面白い所だ。
自分の表現で他人が心を動かすのは、ものすごくエクスタシーを感じる。これほど気持ちのいいことはないよ。本能的なものを満たしてくれる。他人を動かすのが他人に与えるのが気持ちいいからしている。俺はモチベーションを維持するのにこれほど質の良いドラッグを他に知らない。馴れ合いだと頭から否定する人は仙人にでもなれってんだ。
オープンソースってなんで成り立ってるの?無償でなんでわざわざ参加するの?と知人が言ってたがこれも似たようなもんじゃないのか?自分の仕事で他人が何かを与えられるのは、エクスタシーを感じることだからじゃないのか。もっと言えば、自分がやったことが文化に還元されるのはエクスタシーを感じることだからじゃないのか。この気持ち良さは金で買えることじゃない。
この気持ち良さを一切理解しようとしない、消費するだけの人とは分かち合うのが難しい気がする。
問題であることを問題ではないと考えている人に気づかせるためだと思ってた。
とりあえずだめなんだぜーって言う。
↓
そうか!だめなのか!でも、だめなんだったら、どうしたらいいの?
↓
知識がないからわかんない!頭いい人、だれか答えてよー!
でもこの考えがたった一人じゃ頭いい人を動かすことは出来ないと思うんだ。。
この考えをもった人が沢山いることで頭いい人を動かすことが出来る。
だってそれが悪いかどうか分からないし、特定的に批判することでそれ以外の悪い点が曇ることがある。
その後何が出来るかはみんなで考えようよ。
頭いい人も、悪い人も、君だって考えられるでしょ。
結局、だらだらと長文を書いたところで、人の心に引っかかるのはたったの一言だったりする。その一言がひっかかって、人を動かしたり、唸らせたり、止めたりする。だからこそコピーライターなんて職業が成り立つわけで。
なぜこんなことになるかといえば、概して人は自分の認めたいものしか認めないためだ。仕事や学業以外の、いわゆる第三者的な視点が入り込まない趣味の空間では、誰しもが自分の見たいもの、聞きたいものにしか関心を向けない。デイリーミーなんていったのは誰だったか忘れてしまったが、インターネットなんてメディアではその傾向がことさら強くなる。だから、文章の中にはたった一言のスイッチがあればいい。それがいかにキャッチーか、あるいはセンセーショナルか、はたまた誰かの願望を適切に表現しているか、それだけだ。その一言さえあれば、人々はそこに列をなしてコメントするし、ブックマークだってする。
思いつきで長文を書こうとする前に、人を動かす一言を考えよう。それさえあれば、結構な確率で人は興味を示す。それがあなたの書きたいこととは関係なくてもね。
一言で言えば気持ち悪い、と同時にまあそれも部分的には必要だなとも思った
1人目は部屋を魔界と呼び その部屋のものを捨て去ることで心がすっきりしましたとか どんな宗教だよ
2人目は親の遺品を捨てていくが最後に親の遺品のすずり箱に最終的に残すことにした遺品だけをいれてこれから新しい人生を始めますってとこで終わる
そこに他者のないナルシシズムとエゴが見えてこの上なく気持ち悪い
結局のところ今までの整頓術に邪術的ライフハックで精神的なインセンティブを与えたものに見える
自分探しするようなB級市民には神罰覿麺なんだろうけどこんなものを持ち出す時点で他者に対する悪意が見える
赤松健のいう感情を持って人を動かすって奴だろうけど 邪術世界そのものだ
その方法もありふれたもので
規範などにより負い目または承認を与え(片付けられないのはだらしない、情けない)
それを元に闘争の形にする
闘う者は自分の問題と向きあっている戦士であり
負けたならそいつが弱いのがいけない
こうすればどちらにせよ やっていることの正当性は保たれる
その枠組自体が正しいかは問われない 内部に対しては無敵の論法だ
こんなのが流行っている事自体頭の弱い人が溢れているってこと、そしてそんな奴らを騙して使うのがオ・ト・ナとか思っているろくでなしが正しい社会人とされている証拠だ
これ自体がありだと思ったのは、捨てる必要性自体は存在するからだ
物は捨てなきゃ溜まり続けるし、物をいくら残しても自分はいなくなる。自分が存在した影響もなくなる
何処かでそれは受け入れなきゃいけない
親自身半ばどうでもいいと思ってもいたのではないだろうか
もしくは死後まで自分の跡がどうなるかを考えるのは辛かったためかもしれない
これは取捨選択したところで最終的には変わらんのだけど
自分を否定しているように見えるのだろう
ただ気持ち悪さと感じる理由については違うと思う
結論としては、命は投げ捨てるもの