はてなキーワード: スノーとは
「理解」をどう考えているか、これについての私の根幹(基礎)はオートポイエーシスに準じている。
オートポイエーシスの詳しい説明は省くが、神経細胞が情報伝達を行う際、シナプスは行為を理解しない。ひとつの作業を行うのみであり、結果のための行為を連想しない。シナプスにとっては、「物質を伝達する」という行為が目的であり結果となり、それらが組み合わさって何が起こるかを理解しない。
つまり、最終的に現れるもの(たとえば人体の中で起こりうる結果反応など)はすべて、「行為の副産物」としてしか存在し得ないということ。これは非常に重要な事実である。
本来「理解」というものもそのように行われるべきである。一番重要なことは「わからない」ことである。わからない、を通過しない限り、「理解(と呼びたくなるようなもの、それに準ずる、付随する周辺のものもの)」を得ることはできない。
これについては同授業を受け持っていた河本英雄の「飽きる力」なんかを読めば少しわかると思う。
この文を書き始めた当初は、この前提を元に本文を整理していこうと最初は考えていたのだが、結局本文に「哲学は哲学をしている瞬間にしか浮上しない」とはっきり銘打たれていた。だからもはや、一文を取り上げて「ここの箇所は〜」などと言語化することは意味を持たない。それ(ここでは〈哲学〉とする)が"それ"たらしめるやり方でのみ、発見できることであるならば、そう(そのやり方で)やる他ないと思うので、それに倣おう。
あとあちこちに書くのも煩わしいので、一度に留めるが、わたしが書いている内容について読み違えや相当しない批判(等)があれば、気づいた場合指摘してほしい。(それこそがきっと哲学なのだろうし。)
はじめに(5p)、から問いの合間に(125p)までを読んで
本文にあるようなやり方の〈哲学〉については実感がある。実感はあるが、しかしそれは子どもの時からすでに最初から「青年の」〈哲学〉であったように思う。少なくとも、目の前に与えられた課題は年端のいかない子どもには大きすぎたし、それについて、しかし取り組む以外の選択肢を(子どもながらの純粋性ゆえに)持つことができなかった。だから最初から、なぜ〈他者〉がいるのか、という疑問は生じずに、〈他者〉と対峙するにはどうすべきか、をひたすら〈哲学〉し続ける時間が幼少期〜思春期であった。
だからなるほど、やはり「疑念」が問いを生むのであり、疑念を持たないものは問いに遭遇しない。よく感じる違和感は、「問いを持たない人間」と(「問いを持つもの」と)の世界の断絶である。世界には大きな断絶があるということを改めて実感したのだった。(断絶の是非はここでは問わない)
・〈ぼく〉という特別さの有無について
さて、書いたようにわたしは「なぜ〈ぼく〉が存在するのか」という疑念を持たなかったのでその問いに衝突していないし、そして付随する「〈ぼく〉という存在の特別さとはいかなるものか」という問いにも当たっていない。しかし読み進めていくと、「特別さ」を論じれば論じるほどそれは「一般性」に落とし込められていくという矛盾が現れ、結局「言語での言い換えを繰り返すよりほかない」という結論(?)に達している。とりあえず本文の結論についてはさておき、わたしの感想を書いておく。結果から述べると永井均の認識論的傾向(95p)とは真逆であり、非存在論的(本文に即して使う)立場にいると言わざるを得ない。
まず78pに自分が二人に分裂した際に、もう片方をどう「認識」するかという問題。少なくとも、それが「〈ぼく〉であるか、でないかは、ワカラナイ」というのがわたしの意見である。つまり、意識としての〈ぼく〉が2地点に存在して、それぞれの思考でそれぞれを〈ぼく〉としない、という前提にどうしても立つことができない。
「特別さの証明」からは少し離れるが、「攻殻機動隊」という作品はこの独我論的観点なしには見ることができない。登場人物たちは車を買い換えるようにボディ(身体)を換えることができ、脳(アニメ内では脳核と呼ぶ)に宿った意識(アニメ内ではゴースト)はそのままで、新しい肉体を得る。しかしそれは本当に連続性を伴った自己なのか?確認するすべはない。
まあ結局、「確認(認識)できるとしたら」という前提で論じている内容において、反駁することはない(できない)。なので、真逆の認識論にたった時に、どのようにしてその「特別さ」を得るかというのを考えてみるとこうである。他者を認識できている限り、その「特別さ」を論じることはできない。理由はなんでもいいのだが、例えば「論理は他者に向かって開かれている」ことは明白である。少なくとも、本書のように、本は他者が読むことを前提として書かれている。おそらく永井均としては「普遍化できない偶然性の問題」を「論理」立てることこそが〈哲学〉である、ということを言いたいのではないか、と思う。しかし、わたしの知る範囲ではそれは矛盾する。であればやはり(今の所は)前提を変えてみるしかないのである。
ないことの確認はできない。つまりそれを鑑賞する他者がいないことを確認できない位置に移動して、ようやく「特別さ」が浮上するのではないか。そしてそれはすなわち、99pで引用されているウィトゲンシュタインの一節に他ならない。結局は「理解されない」ということを目指さなければ、少なくとも「特別さ」を論じることにはならない、ということだろう。
(余談だが99p9lの永井の解説についてはまだ理解が追いついていない。いずれ何度か読み直してみよう)
ウィトゲンシュタインの本を読んだことはないが、ウィトゲンシュタインが友達をつくらず、本当に人里を離れてたった一人で暮らしていたという逸話を知っていて、勝手に親近感を寄せているのであるが、それはともかく彼の主題(命題)に「言語」があったというのは興味深い。
わたしは〈哲学〉についての興味をある時点である程度(完全にではないが)喪失した。それはそもそも、わたしが最初に向き合った命題が「他者」であり、自己ではなかったことなんかも関係していると思う。そして、「他者」を自分なりに〈哲学〉して18年くらいたったころに、自分なりの「納得」(102p)に到達してしまった。本来、〈哲学〉のみならず、人生だとか生きるだとかいうことは「満足」を永遠に避けることだと考えている。「得て」しまったらそこはゴールなのだ。ゴールっていうのは何にもない場所だ。しかし、「他者」に限っては、(とにかくわたしがそれを生きる上で最も苦手としているがゆえになおさら)結論を得てしまった。そしてわたしは〈哲学〉する目的(あるいは理由)を喪失したのだ。
しかし言語に関する関心が残った(に関する関心は重言だろうか)。本文でも「読み換えが無限になされる場所(98p)」について書かれているが、この点に関してわたしは非常に興味がある。物事の表現が、「言語分野」に大きく偏っている人間社会(面白いことに動物社会とは全く異なるらしい)において、その役割は異常なほどである。言語をどのように理解し、駆使するか(論理的思考など)、これを〈哲学〉とどう関連づけるか、というのも面白い命題である。例えば思考についていうと言語以外の役割が大きい。つまり「頭の中で考えたことを文章にする」というのは、その時点で「考えたこと」から抽出が起きているのである。おそらく永井のいう〈哲学〉は「考えたことまで全部」を含むはずであるから、抽出された、アウトプットされた結果のみを受け入れる(ざるを得ない)という現状には実は即していなかったりするのではないか。わたしは今の本業は言語(ちょっとだけ"学")なのであるが、こういった観点を与えられるのは、やはり読書(時には他者を自分の内側に入れてみること)もいいなあと思った。
なんにしても、とにかく、「無駄」が必要である(115~116p)という、それこそが本質であるという点にはその通りなのでその通りとしか言いようがないし、やはりそうであった、という安心を再び得る。結局資本主義的な世界にいると、いつ何時も、寝ても覚めても視界に入ったものから、耳に入ったものから、全てにおいてから常に四六時中見張られ、「資本主義的な価値観に即して生きているか」を刷り込みをされ続ける(そしてこれはきっと死ぬまで終わらない)。おそらく、これは想像でしかないが、哲学をやろうとアカデミーのなかに駆け込んで、その中で安息を得たとしても、その「刷り込み」から逃れることはできないのではないか。(数学者の望月先生のように「数学を生きる」ことができるレベルまで達せられていればもしかしたら、刷り込みから逃れられているのかもしれないが、これもまた憶測の域を出ない)
〈ぼく〉という特別さの有無を求めるより圧倒的に明快で単純で本質的なこと(無駄を生きるということは)なのに、たまたま、悲しいことに、全くもって信じられないほどの不運な状況であるがゆえに、それが通用しない(しづらい)世界にいるのだ。それを嘆くことは10年くらいやって飽きたが、時折(残念なことに恒常的な機会を得ていない)こうして「本質」に触れることで「正気」を取り戻すというのは大事な作業である。
さて本文の(前半部分の)感想は異常であるが、2点反駁したい箇所があるのでそれも書いておく。
1箇所目(17p,9l)
あっさりと「哲学し続ける内的必然性をなくした」などと書いてあるから吃驚仰天である。内的必然性と引き換えに得ることができるものほど「瑣末な」ものはない。これでは魂を売ったのと同義ではないか。何度か他の場所でも書いているが、「価値観を他者に阿るのは心臓を他者に預けているのと同じことだ」とわたしは思う。他者は自己の存在理由にはなり得ない。少し引用を用いるが「心の哲学まとめWiki」より、一文。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と考える(『〈魂〉に対する態度』p.123,p.187) 。
その原点である自己をなぜ切り売りできるのだろう?「欠陥を売り物にする方法で得た救い」なんていうチンケなものはさっさと捨てるべきである。世界とつながる唯一の原点=〈私〉をもっと大事にしなさい。
2箇所目(111p,11l)
この人は政治と政治的議論をなんだと考えているのだろう。そもそも、少なくとも望むと望まざると関わらずに(生まれた時からすでに資本主義社会に生きているように)、法治国家に生まれてしまったのだから、その国家の参画者である限り「政治を避けて」は生きれない。自ら国籍を捨て(例えばスノーデンのような)、亡命を図るなどの意図画策があれば別であるが、生きていれば必ず住民税がかかり、ものを買えば必ず消費税を払っているのと同様に、政治をせずに生きることはできない。酸素をなくして呼吸ができないのと同義だ。なのにこの人はまるで自分が政治、または政治的議論をしたことがないかのように宣う。しかし指摘したいのはそのアティテュードではなく、政治的議論の方法についてである。
「自分と同じ主張を別の論拠から擁護してくれる人は、最もたのもしい協力者だろう」とは一体、どうしたらこんな思想にたどり着けるのだろうか。圧倒的に間違っている。(これだから日本の左派は無様なんだ)
はっきり言っておくが、政治的議論はその主張の是非ではなく、その論拠にある。だから全く異なる人間(政治家)を支持していても、その論拠次第によっては戦友となりうるし、同様に全く同じ政治家を支持していても論拠によっては一線を画する必要があるのだ。当たり前の話である。タイムリーに話題にしたことだが、「マスクをつけないということは、マスクをつけたくないという人間を擁護する態度を含意しない」。これは明白で、結果(マスクをつけない)が同じだからと言って論拠が異なる場合、それは全くもって「たのもしい協力者」なんかではあり得ない。
5000字も書いてしまった。後半は気が向いたらかく。
コナンのスノードームはすべての安室フィギュアで眉毛の色を塗り間違えて眉無しヤンキーみたいになってる、台座下部のロゴの位置がずれているという明確なミスがある上に
どのキャラも見本と違って全体的に雑で(不細工・指がくっついて鍋掴みみたいになってる・タバコ太すぎ・ビル群がイモムシ・ベージュ系のはずのズボンがやたら黄色い・メガネのフレーム太すぎ・肌がボコボコ・寄り目など)
ほとんどの商品でドーム部分が傷まみれ、人によってはラメが少ないor舞わない、中にはフィギュアが台座から取れて遊泳してるものもあったけど
ヘタリアの方のフィギュアはおおむね見本通りでキャラクターの顔や衣装、周りの小物も塗りや造形が歪んでいる様子はない
イタリアのくるんは溶けたりしてないしイギリスの隣の妖精さんの小さな顔だってちゃんと描かれている
こっちでもドームはかなり傷ついてる物が多いみたいだけど全品対応しますってほどではない
もし増田が気になるならメーカーと相談して返品してもらえばいいけど
たぶん当事者ではないんだろうな……(違ったらごめんね)
当事者は自分で問い合わせてメーカーとのやりとりを済ませ商品を返品して
迅速に対応してもらえてよかった、今回は残念だったね、ショックだったけど今後は頑張って欲しいね、で終わってる
そういう手続きを踏んで区切りをつけることができない未購入者、下手するとコナンもヘタリアも知らないような人たちこそモヤモヤや怒りを募らせてるような気がする
はてな匿名ダイアリーは初めてなので変なところがあったらすみません。「このサイトは本当に投稿しただけで匿名にしてくれるだかいねえ……」という疑り深い老人のような意見を持ちつつ投稿することをお許しください。
隙あらば自語りをしてしまうタイプの人間が書いた記事なので記述がうっとおしいかもしれませんが御容赦を。あと文章が下手です。
私は、ファッションが苦手です。
というのも、ただオシャレなことが分からないというのではなく、オシャレなものを着ている自分、というものを想像するだけで吐き気がするタイプの苦手です。
私はオタクで、服装も典型的なクソダサオタクのような服です。チェックの服がいっぱいあります。でも、私は今着てる服で自分が選んだものはありません。全て祖母の選んだ服です。嘘です、1着だけ自分で買った推しキャラのTシャツがあります。私の持っている服の中で1番高い6000円のTシャツです。
祖母のセンスdisみたいになりましたが実際に祖母のセンスはダサいです。それでも何も言わないで従うのは、自分の服装を自分で考えると吐き気がするためです。
つい先日、32歳のオタクの服装に関する記事をTwitterで見かけたので読みました。
服装のところでよくわからない呪文を唱えられていたのはさておき、内容は「皆年相応のオシャレをしているのに私は今まで気にしていなかった。どうしよう」と私は読み取りました。
年齢こそ違えど、私も似たような経験があるので耳が痛かったです。
相手はネットの友人ではなくリア友ですが、小学校の時と比べてどんどんオシャレになっているんです。それに比べて私は、未だに小学校と変わらない服で、小学校からずっと使い回している服さえあります。今は大学生なのでおよそ10年使っていることになります。
ならんでいると正直申し訳ないです。友人は小学校の時と変わらずずっと仲良くし続けてくれているし、私がいくらダサかろうが疎んだりはしません。でもこっちが申し訳ない。そういった流れで、先程の記事のように「どうしよう」となることは多々ありましたが、どうしようか想像したところで自分のファッションを考えてしまい気分が悪くなって終わってしまう。とりあえずファッションを学ぼうとしてもその先にある自分への応用を少しでも想像してしまうと吐き気がする。ほとんどどうしようもないです。なので申し訳なさに関してはもはや諦めました。
そもそもなんでオシャレを全ての人に強要するのか。確かにオシャレじゃない人よりオシャレじゃない人の方が見た目的には快適かもしれません。でも、私の場合オシャレに着飾ろうとしても吐き気を催し、その時点で諦めるのでオシャレをしたことも無いけれどしたところでおそらくずっと死にそうな顔です。どっちにしろ見苦しいんです。それだったら自分が辛くない方を選ぶということでダサいままでいる。そのような選択をしてきました。
特にスカートを履く自分が地雷すぎて1番無理。制服は「制服だから」と割りきれたけどそれ以外だと吐き気どころか実際に吐けます。
長ったらしくて申し訳ありませんが、ついでに化粧の話もします。
化粧については、アトピー性皮膚炎なので顔が傷だらけのため何かを塗りたくるのが怖くてやったことがありません。どの人もよく傷口に化粧品塗ってるけどよくできるなと思います。化粧をしたら顔がマシになってオシャレへの地雷が無くなるのではないかとも思ったのですが無理です。ストレスか知らないけど全然傷口が治らないしそれ故に何かを塗るのが怖い。就活ももうすぐなのにこんなままじゃいられないのはわかってるんですけど怖いものは怖い。ブスが、いや全人類がノーメイクでも許される時代が来てほしい。好きでブスになったわけでも好きでアトピーになった訳でもないのに傷口に化粧品を塗るのが怖いという感情だけで異端扱い。傷口に塗っても大丈夫なやつを使ったところで恐怖心はどうしようもないんです。
こうして誕生したクソブスノーメイククソダサ腐女子を許して欲しいです。なんて無理ですよねすみません。
ついでに言うと素の笑い方が汚いし声でかいので人間としては最悪の部類です。大声で腐向け話をしないことだけが唯一の普通の人間ポイント。最低限すぎる。
化粧品や服装といった恐ろしいものに手を出すくらいならば、とグッズや課金に少ないバイト代をはたいています。
将来、アトピーの治療を終え化粧が心置き無くできるようになってお洒落への地雷も薄れたら32歳の方の記事と同じようなものを書くことになるんでしょうか。
そもそもこの記事とは関係ないけど高校まで化粧もお洒落も校則通りしてこなかったので、アトピーやお洒落の地雷がなくともこうなっていた可能性はありますが。化粧も服装も独学でしろなんて難しすぎますよね。
うじうじ言ってきましたが、結局はただ不満を述べているだけです。所詮オシャレをしない言い訳に過ぎないです。こんな記事を読んでしまった人はすみません。でも実際恐怖心や地雷はどうしようもなく避けたいものなんです。
タイのプーケットに行って島周回ツアーみたいのなのに申し込んだ
朝、集合するとうちら日本人夫婦と、フランス語を喋るうるさい西洋人家族っぽい5、6人のグループ、中東の人のグループ4人くらいだった
2、3、島をめぐりスノーケリングなどした。スノーケルなどの道具は店の人が用意したものだ。すべて同じ見た目をしている。
ある島で昼食をとり、船にもどった。ここで中東の人たちはスケジュールが別らしく島に残った。
借りたスノーケルは船の上で乱雑に置かれ、どれを誰が使ったのかわからなくなっていた(と俺は思った)。
店のタイ人が「よし、もう終わりだから貸したもの戻してくれ」といって、自分が使ったと思われるスノーケルを適当に戻そうとした。
するとフランス語を喋るグループの一人のお姉さんが、スノーケルにマジックで書いてあった管理番号らしきものをひとつづつ読み始めた。
(そんなもんが書いてあるのに俺は少しも気付かなかった)
「はい、番号A154は?」「あ、おれのだ」みたいな会話をしてスノーケルを使った人に戻していく。
えぇ~?そんな番号あったの?!と思いつつおれは自分の使ったのがどれだかわからなくて焦る。
掃けたスノーケルはもうなくなってた。俺が使ったのはどこかいってしまったのだ。
店の人は「オーケーオーケー、島に残ったアラブ人が持ってったんだろ」 といって全く気にしてない様子だった。
ああやって一見乱雑に貸し出されてた、同じ見た目をした物のIDを確認して覚えておくという習慣が俺にはなかった。
内心、ペチャクチャうるさくて、うぜえなと思っていた、あの西洋人たちがしっかりとそういう習慣を身に着けてたことに驚いた。
すいませんでした。
日本の専門家はマスク不要だし子どもにはうつらないし4月には収束だし検査は不要だし二種感染症で死亡した人に近づけて良いと言ってます
国際学会で主張してほしいしどのツラ下げて今後参加するつもりなんだろ?そもそもしてないの?
[CNN] 米衛生当局、国民のマスク着用勧告を検討 従来の立場から一転
https://www.cnn.co.jp/amp/article/35151701.html?ref=app&__twitter_impression=true
ファウチ所長はCNNの番組の中で、「今までそうしてこなかったのは、これを必要とする医療従事者からマスクが奪われないようにするためだった」と述べ、「十分なマスクを確保できる状況になれば、マスク着用勧告の対象拡大について真剣に検討することになるだろう」とした。
※なお、最初から有用だけど医療関係者を優先してねって報道しているし、
SARS、MERSなどに対応し、今回も武漢に招かれて早々に現地入りした
コロンビア大学感染症免疫センター所長でジョン・スノー疫学教授で神経学と病理学の教授のWalter Ian Lipkinも最初から有用って言ってる
SARS、MERSなどに対応し、今回も武漢に招かれて早々に現地入りした
コロンビア大学感染症免疫センター所長でジョン・スノー疫学教授で神経学と病理学の教授のW・イアン・リプキン(Walter Ian Lipkin)は
中国も海外に輸出した方が今の時期はイイに決まっているのにフツーに有用だって国内でするよう指示してるし、
https://news.goo.ne.jp/article/natgeo/world/natgeo-00009taf.html?page=1
https://www.afpbb.com/articles/-/3009301?cx_amp=all&act=all
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9272/?ST=m_news
手袋は有用ではある anond:20200401132421
マスクを着用することにより、机、ドアノブ、スイッチなどに付着したウイルスが手を介して口や鼻に直接触れることを防ぐことから、ある程度は接触感 染を減らすことが期待される。
また、環境中のウイルスを含んだ飛沫は不織布製マスクのフィルターにある 程度は捕捉される。しかしながら、感染していない健康な人が、不織布製マス クを着用することで飛沫を完全に吸い込まないようにすることは出来ない。
よって、咳や発熱等の症状のある人に近寄らない(2メートル以内に近づか ない)、流行時には人混みの多い場所に行かない、手指を清潔に保つ、といった 感染予防策を優先して実施することが推奨される。
やむを得ず、新型インフルエンザ流行時に外出をして人混みに入る可能性が ある場合には、ある程度の飛沫等は捕捉されるため、不織布製マスクを着用す ることは一つの防御策と考えられる。ただし、人混みに入る時間は極力短時間 にする。
2)ガーゼマスク ガーゼマスクは、綿織物を重ね合わせたマスクである。
市販されている家庭用マスクの約 3%がガーゼマスクである。 様々な改良が行われているが、
ガーゼマスクのフィルター の性能は、環境中の飛沫を捕捉するには十分な効果が得られない。
咳エチケットとして使用することは可能であるが、 フィルターの性能を考えると、
[厚生労働省] 事業者・職場における新型インフルエンザ対策 ガイドライン
https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou04/pdf/09-11.pdf
1)主な個人防護具について
○ 一般的な企業において、新型インフルエンザの感染防止策として使用を検討する、
マスク、手袋、ゴーグル、フェイスマスクの考え方を以下に示す。
ア マスク
・ 症状のある人がマスクを着用することによって、咳やくしゃみによる飛沫
(略)
やむを得ず、外出を して人混みに入る可能性がある場合には、マスクを着用することが一つの感 染防止策と考えられる。
・ 一般的な企業の従事者においては、家庭用の不織布製のマスクを使用する ことが望まれる。マスクの装着に当たっては説明書をよく読み、正しく着用 する。特に、顔の形に合っているかについて注意する。
・ マスクは表面に病原体が付着する可能性があるため、原則使い捨てとし(1 日1枚程度)、捨てる場所や捨て方にも注意して、他の人が触れないようにする。
[人民網] いつになったらマスクを外せる?マスクに関する最新の豆知識
http://j.people.com.cn/n3/2020/0303/c95952-9664177.html
○ 「あと1-2ヶ月は今の状態が続くだろう。その時に新規患者がいなければ、マスクは着用しなくてよくなる」
警戒レベルの低い地域と言っても、リスクが無いわけではない。住民は引き続き防護策を講じ、不急不要の集まりなどを控えなければならない。また、人が多く集まる場所へ行く時はマスクを着用したほうがよく、自身の健康チェックも心がけなければならない。
[産経新聞] フランス政府「マスク不要」論に高まる異論 「アジアを見習え」の声
https://www.sankei.com/world/amp/200323/wor2003230012-a.html
警察労組は「マスク不足の中、われわれが犠牲にされた」として任務拒否の呼びかけを開始。郵便局も職場ボイコットで、21日は全国休業を迫られた。ベラン保健相は21日、2億5000万枚のマスク発注を発表し、「配布の方法を検討する」と表明した。
フランスでは一般に「マスクは病人がつけるもの」とされてきた。だが、新型コロナはアジアに比べて欧州での感染拡大の勢いが激しいことから、医療界でもマスクの効用に注目が集まった。
仏紙パリジャンでは医師らが連名で「東南アジアはマスク着用を一般に広げ、外出禁止令なしに感染拡大を押さえた」として、政府の方針見直しを訴える公開書簡を発表。ルモンド紙は、日中韓などアジア各国でマスク着用が奨励されている現状を紹介し、欧州とアジアの格差を報じた。
[CNN] 米衛生当局、国民のマスク着用勧告を検討 従来の立場から一転
https://www.cnn.co.jp/amp/article/35151701.html?ref=app&__twitter_impression=true
ファウチ所長はCNNの番組の中で、「今までそうしてこなかったのは、これを必要とする医療従事者からマスクが奪われないようにするためだった」と述べ、「十分なマスクを確保できる状況になれば、マスク着用勧告の対象拡大について真剣に検討することになるだろう」とした。
※なお、最初から有用だけど医療関係者を優先してねって報道しているし、
SARS、MERSなどに対応し、今回も武漢に招かれて早々に現地入りした
コロンビア大学感染症免疫センター所長でジョン・スノー疫学教授で神経学と病理学の教授のWalter Ian Lipkinも最初から有用って言ってる
anond:20200323174756 anond:20200327163836 anond:20200328013107 anond:20200328015251 anond:20200402134407