はてなキーワード: 貴方とは
20代後半になってもティーン・エイジャーのキャラクターばかり好きになって、物語の中の思春期たちの青春を追いかけてばかりの私には、貴方が眩しくてなりません。
友人たちはみな、年をとるにつれて推しキャラの年齢は上がっていき、作品も大人びたものになりました。
私は未だに(見た目)10代の男の子、女の子ばかりを追い求めています。
どうか幸せになってください
何のRPGかは知らないけど、自分が今までプレイした最近の有名タイトルだと、
この辺りは確かにゲーム初心者には難しく、楽しさを感じる前にダレてしまうと思う
最近は目が肥えてきたゲーマーや古参ファン向けの凝ったタイトルが多く、こういう新規層を取り込めるものが少ない
なので、子ども向けのゲームをやったり、難易度を下げたりして見るといいかもしれない
ネットや攻略本に頼り切りの方法は自分もつまらないと思っている
ただ、その試行錯誤を楽しめない、ネットに頼るのもつまらないのであれば、それはもうゲームという娯楽が貴方には本当に合っていないということだと思う
あるいは、志向を変えてパズルゲームなんかをやってもいいかもしれない
テトリスやぷよぷよのようないわゆる落ちゲーは、爽快感と試行錯誤、戦略性のバランスが絶妙で、ネットで検索する間もなくゲームが進行していくので、もしかしたら貴方と相性が良いかもしれない
[追記]
『人里離れたプラント開発で隔離生活送ってる技術者とかに良くある話。』
↑正解。
家には帰らずずっと出張している。
趣味はあっても物を買うことは無い(次の出張に持って行くのが面倒、家に置いても見る機会が無い)ので買う物が豪勢な食事ぐらいしかない
出張先は宿泊代も光熱費も出るので固定費は帰らない家と車、ネットぐらいです。日課消化の心理的負担が嫌いなのでソシャゲの課金はしていない。
職場の人は出先毎に愛人作って養う人も居るが俺は恋人は居ないし出会い系もしていない。
周りの職場の人も金の使い道がなく余っているんだと思う。
「まさかとは思いますが、この「弟」とは貴方の想像上の産物に過ぎないのではないでしょうか」で有名な精神科医、林公一の回答が酷い。
http://kokoro.squares.net/psyqa1111.html
お恥ずかしい話しながら、過去に妹に対し性的な行為を行った時期があります。私は14歳~18歳の頃、妹は7歳~11歳位の間です。
無論SEXは在りませんでしたが女性への興味から「見る」から「触る」に、徐々に性器を愛撫しあう関係に発展。私が18歳になり真剣に付き合いたい女性が出来て同時に中学生になった妹が行為に嫌悪を示し終わりになりました。
これに対する回答があまりにも酷い。
幼い妹に未成年だったとはいえ性的行為をしておいて加害意識のない、妹の悪口を言いまくりの相談者に対して、林公一は味方している。妹を境界型人格障害といい、悪口に同調しているのだ。
しかも性的虐待を糾弾する父親をあろうことがお助けおじさん呼ばわりして非難している。
極め付けは、これだ。
一方は虐待であったと主張し、他方は虐待ではなかったと主張するというものです。このように双方の主張が食い違うのは、性的虐待に関しては、ごく普通のことです。
年の離れた兄が、妹に対して性的行為を行ったのであれば、それは虐待に違いないではないか。そう思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかしそれは単純すぎる考え方です。PTSDの図書室にも紹介した『近親姦に別れを』に、以下のような記述があります。
「近親姦のうちいくつかに痛みは伴っていない。ほとんどの近親姦的状況には、楽しい面がある。愛と忠誠心が含まれていることがある・・・。近親姦には相互的満足がある場合すらある。」
これは臨床的な事実です(関連として【0995】もご参照ください)。このような事実の理解なしでは、近親姦(および、家庭内のいわゆる性的虐待)の理解にはたどりつけません。被害者は気の毒であり、悪い加害者を罰しなければならない、といった、マスコミ的というか、正義の市民運動的というか、とにかくそうした一面的な考え方では何の解決にもならないのです。
ふざけんな!!
性的な知識のない、立場の弱い幼い少女に対しての性的行為が性的虐待以外のなんだというのか!!
この精神科医は性的虐待加害者の認知の歪みを肯定して助長している。
http://kokoro.squares.net/?p=4629
こちらの第三者の疑問に対しても「この兄妹に虐待があったかどうかはわからない」と答えている。
http://kokoro.squares.net/?p=10583
こちらでも、叔父の性的虐待に苦しむ人に対して「拒否しようと思えば拒否できたわけですから、合意の要素があった」「合意の要素があることは、家族内での性行為にはしばしばある」とか言っているのだ。
こんな奴が有名な精神科医やってていいのか…
関東在住で彼氏のいない30代後半ゲイ。IT企業勤務で年収700ちょいくらい。
投票には行くが各党の政策は追うというより選挙前に一通り読むというくらい。駅前で演説を聞いたり、日頃から政治ニュースをチェックするほどの関心は無い。
twitterは割とよく見るので各党の支持者の雰囲気や、政治に積極的なアカウントの物言いは目に入ってくる。
自分のような意識低いノンポリ同性愛者がどういう感じで投票するのか書いてみようと思った。
前述の通りなので、それほど時間もかけずに前日に政策をざっと読むのと、日頃からのtwitterレベルの現状認識から投票先を考えた。
・自分のセクシャリティ的にも安倍さん周辺の極右政治家を生理的に受け付けないので、自公は最初から選択肢にない。
・共産れいわN党社民は、経済外交の面で最初から政権運営を前提とした主張をしていないと思うので選択肢にない。
・残るは立民と国民で、今回正直どっちでも良かった。
んだけど、いろいろ考えて最終的には国民に入れた。
一番の理由は立民が殆ど単純化されたポピュリズムに近い政策集を作っている事だった。逆に国民は堅実だという印象があって、好感を持った。
自分は安倍さん周辺の極右がいなくなるまで自民に入れる気は無いが、だからといって反自民のポピュリズムに乗るつもりはないし、怪しんでしまう。
同様に、LGBTに対する差別心を隠さない自民政治家は退場してほしいと思うが、単純化されたLGBT認識に基づくLGBTフレンドリーな政策を前面に出す政党も信用出来ない。
一例として、当事者としてLGBTフレンドリーな言説・政策に対して思う事を書いておく。
僕のようなゲイの幸福を考えた時に、個人・共同体(社会、または営利企業でも良い)が頑張る物と、国レベルの政策的な達成による物がある。
例えば後者によって同性婚が実現すれば制度的なサポートが増える事はメリットで、単純に良い事だと思う。
が、当事者の本当の課題は前者によるものが多いのが実際ではないだろうか。
そもそも同性婚をするという事はパートナーがいるという事だろうが、どれだけのLGBTが一生連れ添うパートナーをゲット出来てるんだろうか。
長年ゲイ垢でtwitterをやっているし友人もいるが、一生寄り添うような関係強度のパートナーを持つゲイは体感で全体の1%いるかどうかという所ではないか?
元々少数派という事もあって、ゲイの世界で恋愛的な出会いの方法はアプリか掲示板かSNSである。これらは全てプロフィールと顔写真で足切りされる世界なので、恵まれたハードを持つ人間以外にチャンスは少ない。
これは日本全体のルッキズム・エイジズムの問題と言えるかも知れないが、少なくとも同性婚以前の問題。
出会いの方法のインターフェースによるものだとするなら、むしろ企業やコミュニティが工夫するべき物だと感じる。
ハード度外視で人を選ばずスポーツのようにセックスするゲイもかなりの割合存在するが、彼らの関係性は同性婚につながるような恋愛結婚の延長では全く無い。
そもそも根本的にノンケの恋愛〜結婚モデルをトレースするのがゲイの幸福なのかというとそれもまた怪しいと感じるし、逆に反発を覚える人もいるのではないかと想像出来る。
ゲイの世界の中もまたかなり多様なわけで、ノンケのような形での同性婚というissue自体が極一部の界隈の物だと感じる。
それを前面に押し出して戦うのは(抽象化ですらない)単純化であり、多様性の抑圧に繋がる。
僕たちは差別自体は常日頃は行っているが、差別が差別として問題になるのはその差別心が発露されて人を傷つけたり排除した時だ。
「ゲイ気持ち悪い」と思っている人は、そもそも目の前の相手がゲイかもという想像が出来ていないと発露を行ってしまう。
想像が出来る場合は僕たちは十分に発露を自重しているはずだ。例えば宗教の話をする時は慎重になるのと同じ。
つまり問題はLGBT全体の人数から考えて自分の目の前に当事者がいても全く不思議ではないという想像力の欠如だと思う。
これを埋められるのは、当事者との対話や友達のカミングアウトなどもあるだろうが、最終的には教育だけであると思う。
だから他人を侵害しない想像力の涵養は国レベルのissueだと思う。
こういうと道徳教育みたいになってしまうが、「人を傷つけないのは止めましょう」「色んな人がいます、このクラスにもいるし貴方の友達にもいると思います」くらいの感じで良い。
そんな風に少数派・弱者の救済を考える時に、現実が多様すぎる故に「国」というレイヤーで出来る事と、「個人・共同体(社会、または営利企業でも良い)」で出来る事は分けて考えねばならないと思う。
立民とその周辺の人たちのやりかたは両者をごっちゃにして、またそのための単純化を行った上で国レベルのissueに落とし込んでいる。だからノリ切れない。
以上
「やっぱりABよりもCBが好き!」
「AB好きだけど、結局CBに戻ってくるんだよね」
は?
である。
そこは「CBが好き!」「結局CBに戻ってくる」だけで良くないか。
どうして検索除けもせず、他と比べた好きを語れるんだ?
推しCP検索したこっちに、そのツイートを見せて何が面白いんだ?
私はひっそりと(二次)創作活動をさせてもらっている腐女子だ。
この二人には、この二人しか有り得ない。
何故、私の最推しCPが比べられ、挙句の果てに下げられなきゃならんのだ。
界隈ではABよりも圧倒的にCBの方が人気だ。
母数が倍くらい違うと思う。
描(書)き手だって多いし、壁サーもCBがよく並んでいるのを見ている。
頭弱すぎないか。
お前の頭の悪さが露呈してるだけだぞ。
どうしてROM専ほど比べたがるんだ。
ABが好きならABが好きでいい。
CBが好きでもそれでいい。
どちらも好きなら、どちらも好きでいいだろう。
だから自分のTL内でしか考えられないヤツが多くなったんだと思っている。
こちらは毎日推しCP検索をして、色々な人のネタ呟きとかを漁っているんだぞ。
比べるなとは言わない。
頼むから見えないようにしてくれ。
……これが縛っていることになるならスマン。
貴方が比べて下げたCPが一番好きな人もいるんだと、忘れないでほしい。
忘れるな。
以上、ただの愚痴。
数学レクリエーションなど科学啓蒙の執筆活動で有名なマーティン・ガードナーが、雑誌Scientific Americanに連載していた人気連載『数学ゲーム』で紹介した論理パラドクスに「執行不可能な死刑」という話がある。概ね、次のような話である。
===
ある被告人が裁判で死刑判決を言い渡された。その判決の際、裁判官は次のようにも付け加えた。
「刑の執行は何月の第何週に行われる。しかし、刑の執行が行われる日まで、それを死刑囚に事前に知られないように配慮するものとする」
裁判が終わり、今は死刑囚となった被告人と面会室で面会した弁護士は、死刑を恐れる被告人に対して「安心して下さい。あの判決による刑の執行は不可能ですよ」と語り、次のように勇気づけた。
「いいですか?仮に、死刑が土曜日に行われるとします。しかし、土曜日よりも前の金曜日まで死刑が執行されなかったとしたら、貴方は翌日の土曜日に刑が執行されると気づくことになります。これでは『事前に知られないように』という条件とは矛盾します。ですから、土曜日には刑の執行はありません。すると、次は金曜日に死刑執行ができるかどうかの話になりますが、これも実行不可能です。金曜日よりも前の木曜日まで死刑が執行されなかったとしたら、やはり貴方は金曜日に刑が執行されると気づくでしょうから、判決に矛盾します」
だんだん弁護士の説明が飲み込めてきた死刑囚は、表情も声も明るくなった。
「つまり、同じ理屈で水曜日も火曜日も月曜日も日曜日も判決と矛盾することになるのか。だから、刑の執行は不可能ということですね!何だか希望が見えてきました」
そして、いよいよ問題の1週間がやってきた。その週の水曜日の朝、刑務官たちが死刑囚の独房を訪れ、彼を刑場に連れて行くことを告げた。
「そんな馬鹿な!」と叫びながら連れて行かれる土壇場になって、死刑囚には「やはり裁判官の『事前に知られないように』という言葉は矛盾しておらず、正しかったのだ」と思えてきた。確かに彼は、まさか水曜日に死刑の執行が行われるとは夢にも思わなかったのだから。
また、相手も使っている「古来から人は...」という点も論じている。
元増田は「子供ハーネスは古来と違う風体をしててグロい」という主張をしていると考えた。そこを「お前が使ってるインターネットも古来と違うぞ」と皮肉りながら新しいモノへ目を向けさせた。
「戦前・戦時中の日本と同類の好戦的な国家から、大規模テロ攻撃を含めた軍事的な攻撃・脅威を日本に加えられた場合に、どのように対応するか?」についての政軍略プランについて。
「平和憲法に殉じて、無抵抗を貫いて大人しく殺されるべきである」や「逃げるのが可能な人間から先に逃げればよい」から「今のうちに憲法を改正してシビリアンコントロール体制を整え、即応できるように準備しておく」や「米軍無し日本単独でも戦えるだけの国軍として軍事力アップ」まで、何でもよいから忌憚のない意見を聞きたい。
一つ想定されるのは「外国が日本を武力攻撃することはありえない。だから備える必要は無い」と主張して議論を避けるというケースである。しかし、私は少なくとも一つ、場合によっては日本への武力攻撃をも辞さない国家の心当たりがあるので、これについては「『日本が他国から武力攻撃を受けることはありえない』というのはありえない」と言っておく。その日本への武力攻撃をも辞さない国家とは、アメリカ合衆国のことである。
「何を馬鹿な」と言われるかもしれないが、アメリカという国家は、それ以前は友邦であった国家や地域であっても、ひとたびアメリカ自身の理由が生じれば武力攻撃を厭わない国家である。私の言うことが嘘だ と思うならば、イラクその他の国家や地域のことを思い出せばよい。
現在の日本においては軍事・国家安全保障に関する問題を論じる場合、左右を問わずア・プリオリに「日米が再び戦争になることはありえない」と前提してから議論が行われている/行われてきたように私には見える。例えば「北朝鮮や中国やロシアが日本を攻撃するか否か」のようにである。しかし果たして、そうだろうか?北朝鮮や中国やロシアの他に、日本を武力攻撃する可能性のある国家として、アメリカ合衆国の名前は挙げられ得ないのであろうか?
少し前は「アメリカの覇権が衰えつつあるのだから、これからの日本は、もっと中国に接近するべき」というような主張も見かけた。今でも見かける。もしかしたら今後の政局次第では、日本に親中政権が樹立して、中国への接近が実現するのかもしれない。その場合に日本で起こると考えられるのが、アメリカのインテリジェンス機関によるクーデター工作を通じた親米の傀儡政権樹立作戦(このようなクーデターは昔のギリシアで実際に起きた)、親中派日本人への暗殺テロ作戦などである。こうなれば、中国も同様のことを仕掛けるであろう。その後に待つのは何かと言えば、米・中によるインテリジェンス工作を受けて駒となった日本人同士で行われるテロ合戦や軍事衝突という内戦であり、それらを一挙に『解決』するために行われる空爆などの大規模軍事攻撃である。もちろん「そうなった場合には、中国と新たな同盟を結んでアメリカと戦争しよう」「軍事的な実力差があって負ける可能性は高くても、アメリカと戦争するべき」「アメリカに対して再度のカミカゼ攻撃も辞さない」とかいう意見も、それはそれで一つの意見である。
何にしても「場合によっては、あっけなく日本が戦場になることは起こり得るのだ」という認識に基づいた上での意見や議論が聞きたい。先の選挙では立憲民主党や共産党は議席を減らしたが、彼ら野党だけでなく与党もまた、早晩このような議論を迫られる日が来る。それを有権者は注視している。「考えたくもない嫌なことだから、議論を避けて誤魔化す」という手法をとる政党や政治家は、必ず見抜かれる。仮に平和憲法に殉じて無抵抗を貫くと主張するにしても、きちんと無抵抗主義の実行に伴うと想定される死者数や損失を明示した上で「たとえ殺されても無抵抗を貫こう。国民である貴方も大人しく殺されて下さい」と政治家や知識人は主張するべきである。選挙の勝敗だけでなく、理念を提示することも政党や政治家には求められると言うのであれば、それが筋であろう。それは軍事力の増強を主張する側も同様であり、武力により応じる場合に想定される死者数や損失を明示した上で「それでも武力で戦う方が、国家全体では少ない損失になる。だから、たとえ死ぬ可能性があろうとも戦争になれば、国民である貴方も戦って下さい」と主張するべきである。繰り返しになるが、嫌な話を誤魔化さないで欲しいのである。
「戦前・戦時中の日本と同類の好戦的な国家から、大規模テロ攻撃を含めた軍事的な攻撃・脅威を日本に加えられた場合に、どのように対応するか?」についての政軍略プランについて。
「平和憲法に殉じて、無抵抗を貫いて大人しく殺されるべきである」や「逃げるのが可能な人間から先に逃げればよい」から「今のうちに憲法を改正してシビリアンコントロール体制を整え、即応できるように準備しておく」や「米軍無し日本単独でも戦えるだけの国軍として軍事力アップ」まで、何でもよいから忌憚のない意見を聞きたい。
一つ想定されるのは「外国が日本を武力攻撃することはありえない。だから備える必要は無い」と主張して議論を避けるというケースである。しかし、私は少なくとも一つ、場合によっては日本への武力攻撃をも辞さない国家の心当たりがあるので、これについては「『日本が他国から武力攻撃を受けることはありえない』というのはありえない」と言っておく。その日本への武力攻撃をも辞さない国家とは、アメリカ合衆国のことである。
「何を馬鹿な」と言われるかもしれないが、アメリカという国家は、それ以前は友邦であった国家や地域であっても、ひとたびアメリカ自身の理由が生じれば武力攻撃を厭わない国家である。私の言うことが嘘だ と思うならば、イラクその他の国家や地域のことを思い出せばよい。
現在の日本においては軍事・国家安全保障に関する問題を論じる場合、左右を問わずア・プリオリに「日米が再び戦争になることはありえない」と前提してから議論が行われている/行われてきたように私には見える。例えば「北朝鮮や中国やロシアが日本を攻撃するか否か」のようにである。しかし果たして、そうだろうか?北朝鮮や中国やロシアの他に、日本を武力攻撃する可能性のある国家として、アメリカ合衆国の名前は挙げられ得ないのであろうか?
少し前は「アメリカの覇権が衰えつつあるのだから、これからの日本は、もっと中国に接近するべき」というような主張も見かけた。今でも見かける。もしかしたら今後の政局次第では、日本に親中政権が樹立して、中国への接近が実現するのかもしれない。その場合に日本で起こると考えられるのが、アメリカのインテリジェンス機関によるクーデター工作を通じた親米の傀儡政権樹立作戦(このようなクーデターは昔のギリシアで実際に起きた)、親中派日本人への暗殺テロ作戦などである。こうなれば、中国も同様のことを仕掛けるであろう。その後に待つのは何かと言えば、米・中によるインテリジェンス工作を受けて駒となった日本人同士で行われるテロ合戦や軍事衝突という内戦であり、それらを一挙に『解決』するために行われる空爆などの大規模軍事攻撃である。もちろん「そうなった場合には、中国と新たな同盟を結んでアメリカと戦争しよう」「軍事的な実力差があって負ける可能性は高くても、アメリカと戦争するべき」「アメリカに対して再度のカミカゼ攻撃も辞さない」とかいう意見も、それはそれで一つの意見である。
何にしても「場合によっては、あっけなく日本が戦場になることは起こり得るのだ」という認識に基づいた上での意見や議論が聞きたい。先の選挙では立憲民主党や共産党は議席を減らしたが、彼ら野党だけでなく与党もまた、早晩このような議論を迫られる日が来る。それを有権者は注視している。「考えたくもない嫌なことだから、議論を避けて誤魔化す」という手法をとる政党や政治家は、必ず見抜かれる。仮に平和憲法に殉じて無抵抗を貫くと主張するにしても、きちんと無抵抗主義の実行に伴うと想定される死者数や損失を明示した上で「たとえ殺されても無抵抗を貫こう。国民である貴方も大人しく殺されて下さい」と政治家や知識人は主張するべきである。選挙の勝敗だけでなく、理念を提示することも政党や政治家には求められると言うのであれば、それが筋であろう。それは軍事力の増強を主張する側も同様であり、武力により応じる場合に想定される死者数や損失を明示した上で「それでも武力で戦う方が、国家全体では少ない損失になる。だから、たとえ死ぬ可能性があろうとも戦争になれば、国民である貴方も戦って下さい」と主張するべきである。繰り返しになるが、嫌な話を誤魔化さないで欲しいのである。