はてなキーワード: 誰かのためにとは
ここでいうヘタレは、最初から逃げ腰・及び腰で物事に当たる奴って意味でひとつ。
もちろん俺のことなんだが、ようやく抜け出す糸口が見えてきたって話。
そもそも最初から逃げ腰・及び腰ってのと、一旦は腰を据えつつあまりしんどくならないよう切り上げる算段を打ち始めるのは、全然違う。
後者は抜かり無いとかちゃっかりしているという話で、まだ一定の理解を得られる目がある。
でも前者はもう分かりやすく保身丸出し・我が身可愛さ丸出し、即ち「お前自分のことしか考えてねーじゃん」というわけで確実に白眼視ないし嘲笑されるだろう。
ちなみに俺が前者みたいなスタンスになったのは大きな挫折を経験してからだけど、そんな事情は周りの知ったことではないので、信用を得るためには正すしかない。
と、年末年始に大休止しつつ自身を冷静に振り返り、このように思い至った。
で、周囲から見た人格なんて対外的な言動でしかないので、この場合「言い切る」「やり切る」に徹すればいい。
だから、あとはそんな言動を実現可能にする心構えというか考え方の話なのかな。
多分なんだけど、度胸ありそうな人の考えって、
のいずれかないし、その両方みたいな感じ?
とりあえず、こういう考えで失敗の恐怖心を追い出すことから始めようと思う。
まぁだいたい当たってるね。基本的に誰かのために何かやってあげたいという気持ちが欠如しているとは思う。
元夫がメチャメチャハードな部署にいるときぐらいは私がヤツの分まで家事をやるのがまっとうな夫婦なのかも知れないけど、私はヤツを信用していなかったので、「一度代わりにやってやると私に甘えるくせがつく」と思ってヤツの洗濯物を放置したりしていた(結婚当初の約束は洗濯は自分の分は自分でやるというルール)。
自分がきつい状況に追い込まれると周囲に甘えがちなので、勝手といわれればそれまでだけど、とにかく元夫には自分の時間を犠牲にしてまで尽くすほどの魅力を感じてなかった。たぶん私の辞書には「尽くす」という言葉は載っていないと思う。
何より、オタクにしかわからないオタクコンテンツポスターよりもっとまずいものがありますよね?
好感度高い有名人の写真で献血呼びかけてるポスターですよ。
武井咲、新垣結衣、栄倉奈々、市川由衣、深田恭子、石川遼、羽生結弦、田中将大、
若くて見目良くて能力あって好感度高い人たちが献血ポスターになって呼び掛けてるわけです。
彼等のファンはそれを見たら頭がポーッとなって献血行っちゃうかもしれませんね。
これは自発性を損なってると言わないんですか?
写真だけでなく、乃木坂46はインタビューで文字通り献血に行くよう呼び掛けています。
自発性の阻害?
与田祐希 次の握手会やイベントなどでは、「(献血に)行ったよ」なんて言ってもらえると、私の言葉が届いたんだなと、とても嬉しく思います。
堀未央奈 誰かのために役立ちたいと思っている方は、絶対この機会に献血をした方がいいと思う。
山下美月 それと、献血を呼びかけるという、とても大きな責任感が私の頭のなかにあって、いつものお仕事以上に緊張しました(笑)。
堀未央奈 ファンの方同士でも、握手会の前や後に献血に行ったりして、「(献血に)行ってきたよ」っていう報告が増えると嬉しいです。
無償協力の阻害?
堀未央奈 だからこそ、誰かのために役立ちたいと思っている方は、絶対この機会に献血をした方がいいと思う。それに献血は「誰かのため」だけではないんです。血液の検査成績を希望すると、健康状態も知れて「自分のため」にもなる。
同 血液型を調べるついでに献血へ行くのもありかなって。血圧なども事前に調べてもらえるので、自分のためにもなりますしね。
星野みなみ 私自身も少しでも献血に協力したい気持ちでいっぱいです。そのために、もっと健康になって、いい献血ができるようにしておきます。
(注 半年後の取材で献血したかと質問されて誰も答えられず、逆にプライバシー侵害が問題と取材者が批判された。その後、海外公演参加により提供者の条件を満たさなくなったので、献血はおそらく未経験)
うちの母にちょっと状況が似てる。私が小学生の頃に父方の祖父が倒れて介護の末見送った。祖父の妻である祖母は健在だったけど、仕事中心の人生を送っていたので家事とか介護の能力が低く、七割ぐらいは母が介護したといって良いのではないか。
そうでなくても一時的に別居しただけで、ほとんど姑との同居生活。父と結婚してすぐ私を産んだので、ほとんど夫婦水入らずの時期はなかったのではないだろうか。私がある程度成長してからは多少仕事もしていたけれど、家事は全て母の分担だった。
そして時が経って父が定年退職。祖母の趣味が旅行だったので、祖母が出かけていると「もう帰ってこなければ良いのに」と愚痴りつつ、くそ真面目に家事をやり、家族のおさんどんをする日々。祖母はやたらと顔が広くて外面が良かったのでやたらと電話がかかってきたり贈り物が届いたりしたのだが、それらの対応もなかなか手がかかるのだった。
元気にあちこち旅行する体力がある時期はまともに人付き合いをしていたけれど、祖母は片付けられない、捨てられない女だったので、部屋の中はとんでもない状態だった。安いもの、タダでもらえるものに目がなく、使い道がなくてもそういうものをもらってきたり買ってきたりするので部屋の惨状は悪化する一方だった。
そのうちに祖母の頭は老化により認知症の症状を呈し、しっかりしていた母方の祖母も足腰を悪くして一人暮らしが難しくなった。父方の祖母はかなり歳が行っていたので何とか特養に入り、母方の祖母は老人向けの住宅(基本的に自分で炊事や洗濯をするのだが、お金を払えば食事などを用意してもらえる)に入った。
今、母は実母と姑の面倒を同時にみている。だいたい向こうで衣食住の世話をしてくれるので週一回程度顔を出せば良いのだが、父も母も70歳を越えて、本当なら自分たちが介護を受けてもおかしくない状況だ。こうやってひたすら誰かのために尽くし、気がついたら自分の人生を楽しむ時間がなくなってしまわないかと心配だ。
芸能人・有名人に限らず、マスコミから一般人まで、権力者や何らかのトラブルに対応すべき立場(今回の台風なら東京電力)の人に対して批判するのがカッコいいみたいなスタンスがある気がする。激しい自然災害の爪痕と戦っている最中の人たちに「何で復旧にこんなに時間がかかるんだ!」みたいな。
現地の詳しい状況や復電にかかる手間なんて分かっちゃいない人に限って文句が多い。まさに被災地で復電を待ちわびている人々が文句を言うならともかく、安全地帯でテレビやネットで被災地情報を見ている人は、批判をする前に「東京電力頑張ってね」とか「自衛隊の皆さん災害対応お疲れさまです」とか言うべきではないだろうか。誰かのために必死に働いている人たちに対するリスペクトが足りないと思う。
自分は一体なんの業があってここまで辛い人生を送っているのかと思うことがある。
親の虐待
はっきりいうと、もうボロカスみたいな人間だ。自分が自分に自信を持つことを悪だと認識している。いや、自分を取り巻くあらゆる存在によってそう認識するようにされていると言ってもいいかもしれない。
周囲はもっと自分に自信を持つべき、とか、自己肯定感を高めるべき、とか言うが、0はいくら高めても0でしかないし、こういったすさまじい体験から0を1にしたら何があるかわかったものではない、と自動的に考えてしまうから、1にすることもできない。
多分、俺は自分を殺し続けてきたんだろうと思う。何回も何回も。言いたいことを言わない、やりたいことをやらない、ただただ周囲のストレスのはけ口、操り人形。
はけ口にするなといえばそれ以上の暴力が待っている。
言いたいことを言えば無理やり叩き潰されて黙殺される
やりたいことをやればそんなくだらないことをと全否定される
そのたびに俺は俺を殺した。思い切り歯向かいたい衝動を殺した。殺さないと本当に俺が殺されるから。あの世に行くよりはこの世にいよう、そう思うようになったのだろう。
そして今も俺は俺を殺している。
男というだけで攻撃されている。
自分を殺していない男たちはきちんと防御できているのだろうか、本当にすごいと思う。
俺には無理だ。もうむき出しの神経に直接刺さってくる。すごく痛い。
今日も誰かのために心にもないことを言う。もうこれ以上痛いのは嫌だ。
【追記】
あぁそうか、こうかくと「おれは男だから攻撃されている!」っていう被害妄想っぽい文章になるのか、コメントありがとう。
人生2回目の献血に行ってきた。ついでに3回目の予約もしてきた。
昨日から今日にかけて、とりあえず献血があるから生きようと思った話をする。
昨日の夜、市販薬をわーーっと飲んで今日という日をぐちゃぐちゃにするつもりだった。
けど、ふと前回の献血後に今日の日付で予約してたことを思い出して、薬を飲むのはやめたほうがいい、と思った。(服薬3日以内は献血ができない)
私は普段、人との約束を守れない人間なのに、どうしてか献血の予約だけは守らないといけないと思っていた。
それは、センターの人が優しいひとばかりだったこととか、誰かのために確かに役に立っている実感があったこととか、物理的な痛みを得られることとか……いろんな気持ちが混ざりあっていたと思う。
どんな理由であれ、人生終われという気持ちを先送りにしたし、今日私はまた3週間後に献血をする予約をして帰ってきた。
献血がなかったら、私は今頃家か病院のどちらかで延々と泣き続けていただろう。
昨日に比べて心が晴れたわけでもないし、根本的に何かが解決するわけでもないけど、たまたまの予約が、今日という日を普通の日にしてくれた。
昨日の夜あんなに苦しかったのに、もう何もかもどうでもよかったのに、普通に今日が終わろうとしているのが不思議だ。
この文章を読んで献血に行こうと思う人がいるとは思わないけど、献血にはいろんなルールがあるので、ちゃんと調べてから行ってね。センターの人も教えてはくれるけど
月に2回できるのは成分献血なので、通いたい人は間違えないように気をつけて。
勉強開始時は、プログラミング初学者。今はPandasやNumpyで遊んでいる。
この記事は自分のために書くが、今後受ける誰かのためになるなら幸いです。
https://www.pythonic-exam.com/exam
はじめにPythonチュートリアルを読みプログラミングを写経してみたものの、正直プログラミング初学者の自分にはチンプンカンプン。
(後ほどわかったけど、写経だとインデントミスがあったり、日本語誤訳や誤字が多かったりして、基礎力がない自分だと一人でカバーしきれなかった)
そこで、プログラミング初学者でも読めそうなPythonの本を読むことにした。
本をじっくり読むよりは、プログラミングって、Pythonってこんなものだよってことがわかって、Pythonチュートリアルを一人で読めたらいいかなと思い、基礎試験の範囲はカバーしていてあまり厚くない本を一読することにし、Amazon unlimited見つけたこのPython基の本を読んだ。
https://book.impress.co.jp/books/1115101060
本にあるプログラミングを写経しつつ読み、練習問題は一人でやってということを1週間ほどでやった。
この本はプログラミング初学者の自分でも一人で読み切ることはできたし、この本の練習問題くらいのコードなら一人でかけるようになった。
オブジェクト指向を意識して書かれた本らしいが、ぶっちゃけそのへんについてはわからない。
読み終わった後、Pythonチュートリアルを特に4章5章を一読。
すると、Pythonチュートリアルにはあるけど初学者向け本には載ってないことが結構あることに気づいた。
このチュートリアルを全部読んで把握するにはお上に言われている期間じゃとてもじゃないけど足りないし、
期間内試験に受かることが勉強する一番のモチベーションだしという事情と、
合格率高いし、「Python3エンジニア認定基礎試験はチョロい」みたいな記事が多いし、そんなに細かいこと聞かれないでしょという油断とで、
もう模試を受けてみた。
模擬試験は、おそらくランダムで40問選ばれていたので、サイトにある出題範囲通りでなかった。
模試を受けてわかったことは、当たり前かもしれないが本に載ってないこと結構聞かれる。
例えば、普段NumpyやPandasなどなどに甘えているせいかもしれないが、見たことないモジュールが出題されているなど。
謎訳が個人的に読みにくく、Pythonチュートリアルを英語で読んでいたが、試験はその日本語で出るので、日本語版を読むべき。
あと、主教材であるオライリー・ジャパン「Pythonチュートリアル 第3版」には載っているけれど、Pythonチュートリアルには載っていないこともあることに模試で気づいた。
模試の点数はあまり参考にせず不安だった箇所の復習に使い、再受験を3回行った。
模擬試験の問題バリエーションは多くないのか、かなりダブる問題があり、3回とも90点は超えたので本番受験してみることに。
サクッと解ける問題もあったけど、わからないなっていう問題が模試に比べると多かった。
例えば模試に比べると少し複雑な構造をしたプログラミング、など。
そして単純に覚えてない知識を問われてた部分も多々ある。
(オライリー・ジャパンの本を確認したところ、この本独自の言い回しかもしれない)
結果出た後Pythonプログラマーに聞いたら、何について聞かれているのかパッとわからないと言われた。
本番は細かいことを聞かれ、難易度1.5倍くらいになるので、Pythonチュートリアルは細かいところまで読み込むべし。
せめてメインの出題範囲である4章、5章はチュートリアルにあるプログラミングまで追うべき。
そして、どうしたらエラーが出て、どうしたらすべて実行されるのか、まで確認すべき。
正しい処理ばかりでなくて、たまにはわざとエラーを起こしてみた方がよかった。
エラーをあまり経験しておらず、どういうときにこのプログラムはつまるのかという想像力が欠けていて、そこがないと試験はつらかった。
過去問ほしいなと思うけど、試験側の問題の種類が多くないんだろうな。
(落ちた分際で偉そうに言うが、流行りの言語Pythonとはいえ、この試験逆に通って何が嬉しいのかわからない。)
https://docs.python.org/ja/3.5/tutorial/index.html
https://diver.diveintocode.jp/exam
俺は俺の人生の中でさえ、主人公になれないのだと気づいてしまった。そこそこの努力をして、そこそこの結果を得て、そこそこの満足を得る。そこそこの人生を延々と消費していくだけの人生。自分ではない誰かのために消費していくだけの人生。
自分が特別な人間出ないことは中学の時に悟った。皆もこれぐらいの時期になんとなく気づくんじゃないかな。自分は偉大なことを成し遂げるんだと、根拠もない夢や野心があったころが懐かしい。しかし、俺は凡人だ。
それでも努力すれば何かを達成することができるんじゃないかと心の隅で思っていた。努力さえすれば誰にも負けないと。実際努力はした。泣きながら頑張った。それでもできないことはできない。所謂才能がある人達に勝てない。負け犬だ。努力で才能を打ち負かすって漫画やドラマでよく見る話だけど、努力する天才にはどうすればいいの?
結局自分はここまでの人間だった。なんの価値もない無味乾燥な人間。努力しても無駄なんだと、陰で腐っているだけのつまらない人間。いてもいなくても変わらない、背景を飾るだけの村人A。つまらない人生だった。こんなはずではなかった。どこで間違えたのだ。できることなら全てをやり直したい。
感謝の心って本当にむずかしくてね。
屁とも思ってなくても「ありがとう」なんて言葉を発するのは簡単でしょう?施してくれた人に対してありがとうございますゥ!ってひざまずいてへりくだって服従するのも違ってる。心の中で深い感謝を感じていても、何とも思っていなくても、「ありがとう」という言葉にしたらおんなじなんだよね。
そして、ハッキリ言って他人から受けた恩なんて返しきれない。まあ金銭なら額面は返せるかもしれないけど、あの時あの瞬間貸してくれたっていう恩は返しきれるものじゃない。
だから、返せない恩を抱えたとき、それが有り難くて居ても立っても居られなくて、自分も誰かのために何かしたい!って思えたとき、そこには感謝の心が強く根付いてるんだと思うよ。
そしてこれって強要して抱かせることができる感情じゃないんだよね。
恩を受けてからずっと後になって根付くこともある。自分に制御できることじゃない。
だからあなたのように感謝できない奴は人間以下だ、なんて断じたくないんだ。
誰かに心から感謝したことがあるひとは、感謝の心が人間かどうかの判断基準になるとは思っていないよ。そして人間以下・人間以上といった価値観も持っていない。
人間以外の生き物に感謝することもあるし、人間以外の生き物から感謝の心を感じることもある。そこに生き物としての優劣なんてない。
きっとあなたは誰の事も頼ってこなかったんだね。
わたしにとっての「感謝」と、あなたにとっての「感謝」ってかなり違うみたい。
あなたが言う感謝は、なんだか怖いよ。一度でも「感謝」したら一生服従させられるみたい。
ところで人間以下って人間も含まれてるから、きっとあなたが言いたかった事って「人間未満」だよね。ごめんねどうしても気になっちゃって。
愛をあげたいのに、こんなにも誰も受け取ってもくれないと、そろそろ生きるのに疲れてしまう。
誰かに愛を受け取ってもらえた人間じゃないと、他人に愛を与え続けるなんて無理だよ。
愛を受け取ってもらえる人間こそが本当に豊かな人間だよ。それが自己肯定感なんじゃないか?
愛する能力云々って言うけど、能力だけじゃなくて愛には愛するためのリソースも必要だよ。フロムはなんか勘違いしてるよ。
社会ってこんなに生きづらいのかよ。
27歳にもなってやっと気付いたよ。
おかげさまで勉強と仕事だけはできたから、このご時世でこの歳だけど、金だけは自分とパートナーと子ども1人くらい幸せにして守ってあげられるくらいもらえてる。
でも、誰も僕と幸せになりたいと思う人なんていないんだなと痛感して、生きているのが嫌になる。
徹頭徹尾自分のためだけに生きろということ?そんなにストイックには生きられないよ。
人間は少なからず誰かのために生きる社会的な生き物じゃないんだっけ?社会は僕に死ねと言っているのか?
なんでいつもうまくいかないんだろうか……
こんなことしたらいけない、考えたらいけない、こんな風に言ったら●●さんが傷つくかもしれない、と溜め込んでいたことを、全部覆した。何も考えないようにした。誰かのことを考えるんじゃなく、自分のしたいことをするようにした。結果死ぬほどキモチイイ。鬱っぽかったのが徐々に改善しつつある。誰かのために我慢をするなんて馬鹿のすることなんだってよくわかった。この人どうしてこんなに横柄なんだろうって、その人の気持ちがよくわかった。キモチイイ。誰が何を思ってるかなんてわからない。もし本当に悪いことをしていたら、指摘されたら謝ればいい。当たり前のことが全然できてなかった。辛かった自分へ、元気になってよかったね。
誰かのために書くとか、評価欲しいから書くとかが間違いなのかは個人の判断に任せるけど、わたしは続けてると苦しくなる。
けど、書いたら何らか反応欲しくない?って思うんだけど。
いや別に好き!とかすごい!とかなんかそういうのじゃなくても全然いい。既読がわりのふぁぼでもいい。感想ももらえたら嬉しいけど、なんか、おっ書いたん?ええやん程度でいい。
って思うの強欲なんだろうか?
でも創作じゃなくても自分の行動に見返り求めることって多々あると思う。自分がした行動の見返りを、意識的にか無意識的に求めてるかの差異はあれど、少なからず誰しも求めてると思う。
創作者として底辺にいるわたしなんかはもう読んでもらえるだけで僥倖。
40無職増田は40になるまでどうやって食ってたんだろう。実家が金持ちだったりとかかね。
自分を振り返れば、希望通りの仕事につけたわけでもないし、時には割食ってるなぁと思うことも多いし、かといってつまらないとか底辺だとかも思ったことがない。いい仕事ができたなと思った時の充実感や仕事仲間と協力しながら大きな仕事をやりとげた後は手ごたえや充実感はある。たまには。
時間的にも体力的にも精神的にもしんどくて、あーもう働きたくねーなー、親の遺産で死ぬまで暮らせたらいいんだろうかなどとつい思わないこともないが、実際にそうなったら割と味気ないだろうなとも思う。
自分はなんだかんだ言って、自分が仕事をしたことで誰かのためになったり、それを褒められたり、認められたり、報酬を得られたりするというのは、しんどいことと同じかそれを相殺する程度には良いものだと感じるのだ。それなりに暮らしていける程度の賃金をもらっているから言えるのかもしれないが、何だったら賃金よりも誰かからの承認が欲しくて働いているような節もないこともない、いやおちんぎんはたくさんほしいんです、欲しいんですが。
働くというのは、「生きていくための手段」でしかないし、「時間つぶし」のようなもんでもあるかもしれないし、「社会との接点」かもしれないし「承認欲求を満たすもの」でもあったりするかもしれない。人によってはステータスだったり自慢だったりするのかもしれないが、そういう虚飾面ではなく、「自分が頭と体と時間を使ってなした何かが、他人に喜ばれて金が得られる」という仕事のシンプルな喜びは、やっぱりこう、大事だなと思ったよ。