誰かのために生きていたい.
無論,その「誰か」ってのは不特定多数の誰かでなくて,自分がその人のために生きたいと思える「誰か」.
というか,自分のために生きるの難しすぎひん?
三大欲求さえも結構辛くなってきている感がある今日このごろ.我慢してても困るのは自分だけだし,それを追求しても悦ぶのは自分自身.
すべての行為の結果が自分という枠を抜け出ていかないことに,飽きたとは違うけれども,なんかもうどうでも良くなってきている気がする.
誰かのためになにかしたときに,その行為によって誰かは嬉しいと思うかもしれないし,悲しいと思うかもしれない.
けどそれは,少なくともその時点においては,自分からの行為がなければなかったものだし,そういう意味で結果が自分以外の環へと出ていっていると感じる(伝わるのかこの感覚?).
いくら札束があっても,それによって満たされることはない,みたいな.自分が与えた価値が形を変えて戻ってきているだけ?(でも価値を誰かに与えているからこの喩えは少し違うのかも)
「誰かのためだったらきっと頑張れる」という宗教に浸っているのかもしれない.というか,「自分のためだと頑張れない」と思いこんでいるのかしら,とも思い始めた.
頑張れなくなりそうなとき,誰かのために!と思う支えさえあれば,なんとか頑張れそうな気がする.
「誰か」ってのは,つまり一般化すれば「困難なときの心の支え」のことであるらしい?
自分一人で頑張っている現在,心の支えがなくなっている.じゃあ私の心の支えって,何かしら.
もう少し若かった頃は「誇り」「プライド」「生まれた意味」みたいなところに帰着していた気がする.
こんなにウダウダ生きてて恥ずかしくないのか?もっとエリート意識を持って人々を~的な.
ここでも結局,私を支えてくれる「誰か」という結論になって思考が途切れてしまう.
誰か.
うんち
これはうんち
そうだ、弱者をつくろう