はてなキーワード: 誤訳とは
https://www.twitter.com/kumacooking/status/1278202037675503616
ちなみに私は反射的に「気持ち悪い」と思ってしまったけれども、この広告も含めて、こうした表象はこの人自身の個人的な自己表現であって、「一般の女性性」を勝手に見出すべきではないんですよね。反射的に「気持ち悪い」と思ってしまうことそれ自体には共感するけれども、この前提を理解したら後は矛を収めなければならないでしょと思う。また、まだこの前提を理解していないなら、可能な限り早く理解しなければならないでしょ。
※私は「気持ち悪い」という感情に共感するという話をしているのであって、性的消費だとかの話はしてないです。ちなみに「性的モノ化」は"objectification"の誤訳で、正しくは「性的客体化」です。敢えてそういう話がしたいなら、純粋にビジュアルだけを見れば性的客体化のニュアンスを多分に感じるのは間違いないでしょう。「なんで?」を無限に続ければいずれ有耶無耶になるという戦法が有効だと勘違いしているのは流石に社会性がなさすぎる。問題は、「純粋にビジュアルだけを見る」という判断基準が既に間違っているという点でしょう。件の被写体となっている女性が「それを売りにしている個人」であることを失念している。ビジュアルという一般論で語ろうとした時、踏み荒らされるマイノリティの聖域が存在することに配慮がなさすぎたのが、本件の批判側の問題点でしょう。余談ですが、例えば宇崎ちゃんのポスターなどは、「ある漫画の個のキャラクター」であることも一目瞭然だし、そもそも「純粋にビジュアルだけを見た」としても性的客体化だと直ちに判断できるレベルではないと思います。
のだけど、どうだろうか。
この歌は”find me somebody to love”という歌詞が繰り返し出てくるわけだけど、大抵の場合ここの対訳は「誰か僕に、愛すべき人を見つけてくれ」という風になっている。でも、どうにも俺には違和感がある。
この曲の主人公(僕)は、報われない日々を送ってきている。
I have spent all my years in believing you. But I just can't get no relief, Lord!
(神よ、僕はこれまでずっとあなたを信じ続けてきたのに、何の救いもない!)
I work hard every day of my life. I work till I ache in my bones.
(僕は毎日一生懸命働いている。骨の髄まで痛むほどに。)
Everyday - I try and I try and I try. But everybody wants to put me down.
(毎日毎日、僕はトライし続けているのに、それでも奴らは僕を抑えつけようとしてくる。)
そんな人間が、「ああ、僕には人を愛するということが足りないんだ」なんて思うだろうか。「誰か僕に、愛すべき人を見つけてくれ」なんて叫ぶだろうか。
俺は思わなかった。俺が求めたのは他者から愛される(=承認される)ことによる救済だった。
もうひとつ、気になることがある。
主人公が愛すべき人を求めているのであれば、歌詞としては”I need somebody to love”のように、主人公が主語となるような一節があって然るべきだと思うが、それに類するようなものはどこにも現れない。
その代わりに繰り返されるのは、”Can anybody find me somebody to love”という、特定の人物ですらない「誰か」への投げかけだ。
つまり、”find me somebody to love”は「誰か僕に、愛すべき人を見つけてくれ」ではなく、「誰か、僕のことを愛すべき人だと気づいてくれ」なのだと思う。
さらに言い換えると、「誰か僕を、愛するに値する人間だと認めてくれ」なんだと思う。
と、ここまで長々と思い入れたっぷりに語ってきたけど、俺は残念ながら英語を使いこなせるわけではない。
「そんなわけねーだろ」といいことがあれば、ご指摘頂けると有難い。
自分の知識ベースで書く。この辺日本だと混同されてるというかそんな感じがするので。あと、間違いは結構あると思う。
マオリはNZの原住民だ。当初ニュージーランドはオランダ人が見つけた。オランダにジーランドという場所がある。そこにちなんでつけられた。
ただ、上陸するなりマオリの襲撃を受けて犠牲者を出しつつにげ帰った。
その後に来たのはイギリス人入植者。今のウェリントンのあたりから上陸したらしい。
マオリとイギリス人入植者の間でいざこざがあり、マオリ戦争という全面戦争的なことをしてイギリス人入植者の勝利、ワイタンギ条約を締結して、イギリスの支配下に入った。
当時南島は寒すぎてマオリがいなかったので、イギリスは南島はかんたんに占領できたらしい。
ワイタンギ条約では、英語とマオリ語の翻訳がきちんとできてなくて、確か統治と管理の誤訳からかマオリは、統治権はマオリに残されたと思って条約に納得したこと、マオリの部族が多すぎて全部族との合意が取れる前に条約が締結されてしまったという問題があり、未だに解決していない。というかNZがこの辺の問題に対応し始めたのが割と最近のことだ。
おかげで一部部族は今もニュージーランドはマオリの国であって外国人は出ていくべき、車、家、財産はお前らが勝手に持ち込んだんだから我らが黙ってもらってもモンクは言えない、と言う人らもいるとかいないとか。
ニュージーランドではマオリ語は公用語であり、ニュースでは必ずキアオラ、というし、公的な記者会見ではマオリ語でなにかいう。学校の入学式のようなイベントではその土地のマオリの族長が来て歓迎の儀式をする、ということもやる。国歌の一番はマオリ語、2番は英語だ。
オーストラリアのアボリジニは黒人の風貌でありながら金髪という特徴がある不思議な民族だ。中部オーストラリアに行くと今も血の濃いアボリジニがいる。
大陸北西部には彼らの聖域のような領域があり、地図には立ち入らないようにとか、相当偉い族長の許可がないと入れないとかそんなような警告が書かれている。多分なんの装備もなくそのへんに行ったら途中で遭難してしまうと思う。
オーストラリアはもとはイギリスの流刑地であり、アボリジニは、イギリス人入植者たちの奴隷やハンティングの対象にされてしまった。タスマニア島にアボリジニがいないのは、入植者たちがひとり残らず殺してしまったからだそうだ。
都市部のアボリジニたちは混血が進んでおり、どうやら純血のアボリジニはもういないらしい。中部オーストラリアで薮の向こうからひょこっとアボリジニ一家が出てくるのを見たことがある。
アボリジニたちはひたすら迫害を受けたあと、今度は同化政策の対象になった。生まれたばかりのアボリジニを両親から取り上げて白人家庭に育てさせる、ということをした。
白人家庭で育てて白人の価値観を身に着けさせて名誉白人にしてあげよう、ナイスアイデア!ということかな。余計なお世話だったのは言うまでもないが、政府がそれをやってしまった。
確か2010年くらいの当時のオーストラリア首相がこのことについて謝罪をしたが、マスコミからは非難轟々だった。あの腰抜けふざけんな、頭下げるとかねーよ、という論調だった。
オーストラリアではアボリジニに対する生活保護がかなり手厚いらしく、学校にいかなくても、仕事しなくても食うに困らないそうだ。
その結果、酒とドラッグに溺れるアボリジニも多いらしく、治安を悪くしている、という皮肉な状態にもなっている。
アボリジニ語という言い方かは知らないが、カンガルーというのがアボリジニの言葉で「お前の言ってることの意味がわからない」というのは有名な話だ。
オーストラリアがアボリジニの伝統や文化に敬意を示し始めたのが2000年以降くらいで、エアーズロックをウルルと呼ぶようになったのもその一つだ。最近やっとウルルに登るのが完全に禁止された。
オーストラリアは今でも白豪主義があるので、一部白人は白人以外いなくなれと思っているが、良識的な大多数の人たちからは厄介で困ったやつだなあと言う目で見られている。
10年くらい前のエディトリアルかなんかで、こっちの大学にいる某国の女性たちは、永住権のためにオーストラリア人との間で妊娠狙いのどうしようもない奴ら、とかひどい書かれ方してたのをみたし、そういう記事が発行されてるので、まぁ、そういう人はそこかしこにいると思っていいかもしれない。
景気がいいときと悪いときに特に白豪主義が強く出る印象がある。
アボリジニとマオリに共通しているのは彼らの言葉の発音がなんだか日本語によく似ていることだと感じている。
両国に行くと、アボリジニ語の地名、マオリ語の地名がそこかしこにある。
ニュージーランド最北端にあるケープ・レインガは、マオリ族の死者の魂が旅立つ場所などと言われているし、ウルルには女性が出産するための洞窟があったりする。
これらの民族のことを意識しながら両国を見てみても面白いかもしれない。
両国の国旗は恐ろしく似ていて、オーストラリアに気を使ったニュージーランドが国旗を変えようとして候補をいくつか選定、国民投票の直前でキャンセルするというおちゃめなことをしたが、国旗の成立は実はニュージーランドが先ということはあまり語られなかった。
目からビームを出すキウイと言う国旗案がなにげに支持を集めていたので、そういうのりの国でもある。
オーストラリアとニュージーランドの間では結構緊密な仲になっており、軍隊はANZACというオーストラリアニュージーランド連合軍という形をとっていて、第一次世界大戦でのガリポリの戦いで活躍した。おかげでトルコ人からはすこぶる評判が悪い。
オーストラリアはたまにだけどニュージーランドをオーストラリアの州にしてはどうかという人が現れる。
ニューサウスウェールズ、ビクトリア、クイーンズランド、南オーストラリア、西オーストラリア、ノーザンテリトリー、タスマニアにつぐ第8の州にしたいらしいがいつもいうだけで終わる。
あと、ごく最近、ニュージーランドが定義上大陸ということがわかった。大陸棚が凄まじく広く、その面積がグリーンランドを超えるらしい。これによって大陸というのは、グリーンランドより大きな島、という定義を学んだ人は多いと思う。でも大陸棚を含んでいい、というのはなんかインチキ臭いなと思っている。
「ソーシャルディスタンス」の訳語として「社会的距離」なんて言葉が当たっていたりするが、全然適切ではないと思う。
日本語における社会は、全体やシステムを表すものである。ソーシャルは「人と人とのつながり」の意味合いの方が強い。
そもそも辞書の定義に問題がある、いやしかし文化背景が異なるが故に異なる言語を翻訳することに無理がある、という話をさておいたとしても、今回矯正できない日本において、何を意味する単語なのかを言葉から推測できるかは重要な意味を持つ。
「社会」よりも「社交」の方が、「人と人」の意味を強く表す。社交自体がエスタブリッシュメント層の文化という気もするが、意図するところとしては近いだろう。ダンスするだけが社交じゃないのは納得が行くだろうが、人と触れ合うことだけが社会ではないというのは想像がつきにくい(今後社会の意味する範囲も変わっていくだろうが)。
「距離」というのもニュートラルすぎる。離れるという意味合いは含んでいない。一方でディスタンスはある程度含んでいる。それは「匂い」と「臭い」の違いが英語(インド・ヨーロッパ語族)には無いという話にも親しい。ディスタンスというときには離れることを意味するが、距離はそうではない。
あるとしたら「間隔」だろう。まず、離れることを前提とした単語である。その上でどの位かという話ができる言葉だ。
テクニカルタームの翻訳というのは、新しく単語を定義する重要な仕事である。それなのに、今回は輸入した言葉そのものを普及させる時間も無いままにメディアが直訳した日本語を専門家さえ(伝わりやすさを重視して)使用している場面さえある。だが政府がのんびりやっているのでその辺りの議論をする余地だってあったはずなのだ。
翻訳は、特に単語は、直訳では意味を表さない。伝わらない言葉を用いるのは大変危険である。一般に知られることの危険の他に、タームが曖昧なために議論がブレる。
私は「ソーシャルディスタンス」の訳語(新定義単語)として「社交間隔」を提唱する。正しい言葉は正しい理解の道筋になりうる。ここで喚いてどうにかならないほどに誤訳が広まってしまったが、まずは発声してみる。
「Social media(ソーシャルメディア)」という言葉は、日本に導入される際になぜか「SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)」と誤訳され、「メディア」という言葉がすっぽりと抜け落ちてしまった。
この誤訳のせいで、Twitter上で「これからだからメディアは~」「メディアの報道が~」などとメディアへの批判が注がれるとき、Twitter上の人々の中に「自分たちもメディアであるという意識」が完全に抜け落ちている。
Twitter上の人間は「既存メディアこそがメディアであり、自分たちはメディアではない」と本気で主張している。自分に都合の良い線引きを行い、自分たちを「メディア」の枠から除外している。
TwitterはSNSではなく「ソーシャルメディア」であって、そこにはメディアとして各方面に多大な影響力があることを忘れている。
なにか自分に都合が悪いこと、直面するのがとても恐ろしいことが起こった時。私たちはそれに対峙するか、逃げるという選択肢を採ることができる。
たとえば自分が不祥事の当事者になった時に、周囲からの追及を逃れようとして、雲隠れしてしまうことも逃避の一種だ。
だが、どこにも逃げ場がなくなった時にはどうすればよいか。
自分自身を消せばいい。
自分自身の力で世界を変えることができないのなら、怖れの苦しみを逃れる手っ取り早い方法は、それを感じる意識を消すことだ。
どこにも逃げ場がなくなって、服毒自殺を図ったり、睡眠薬等のオーバードーズを起こすということは、自分自身の情動をやりくりするための戦略だ。それは魔術じみた子供だましに周囲からは見えるかもしれないが、本人にしてみれば、立派な戦略なのだ。
そんなことを言ってた哲学者がいなかったけか。サルトルだったと思うんだが。
La multiplicité des conduites émotionnelles
Suivant les formes prises par l'émotion, la transformation revêt des formes différentes : l’anéantissement des objets (et parfois de la conscience) pour la peur, l’uniformisation de la structure du monde pour la tristesse passive. Le moteur de l’évasion est l’impossibilité de confronter un objet dans le premier cas ou d’adapter les moyens face à la disparition d’une des conditions de l’action dans le second.
情動が採る形態によって、変容は異なる形態をおびる。怖れにたいして、対象の無化(時には意識の無化である)、受動的な悲観にたいして、世界の構造の画一化といったように。逃避を動機づけているのは、まず、対象に対峙できないこと。さらには、行動するための条件が無くなってしまった状況に適応する術を失ってしまうこと。
http://www.cnam.fr/servlet/com.univ.collaboratif.utils.LectureFichiergw?ID_FICHIER=1295877018192
そんなことはまずないと思いたいですが…
武漢から発生した新型肺炎。12月末に公表されてから、湖北省全体にとんでもないスピードで広がり、1月20日に武漢が都市封鎖されました。
この時、自分はどこからともなく中国が発表しているサイトを知りました。ここの情報が一番速かったので、今でもずっとここを見ています。
https://ncov.dxy.cn/ncovh5/view/pneumonia
これを見ても分かる通り、中国は「確診」という数字を発表し続けています。
漢字の読める日本人ならこれが「診断確定」と意味がわかるはずです。
でも、世界中のマスコミはこの数字を「感染者数」と言い換えて報道しました。意味がわかるはずの日本のマスコミですらです。
当初、中国ではPCR検査が陽性なら新型肺炎患者と診断されていたようなので、「確診数」=「感染者数」と言えます。
この段階では誤訳とまでは言えません。
みなさんご存知の通り、この病気は大半の人が無症状、軽症のまま終わります。しかし感染力は強いです。無症状感染者が大量発生します。
ある程度感染が広がると、無症状の人は医療機関へ行かず、症状が出てきた人に絞って検査、治療したほうが、最終的に重症者、死者を少なくできることがわかってきました。
中国は2月中旬に「今後、新型肺炎の診断基準に症状の有無を含めます」と発表しました。日本を始め多くの国が基本的に同じ運用です。
この日から、「確診数」と「感染者数」は一致しません。それでも、ずっとこの数字は「感染者数」として報道されてきました。
3月になって新規確診数がゼロになった時も「新規感染者数がゼロ」と報道されました。
後日、あたかも新情報かのように「無症状は除外」と報道され、「やっぱり隠蔽だ」と言われていました。ちょっと気の毒w
今になってもなお、世界中が「感染者数」にばかり注目しています。
おかげで「国ごとの感染者数の比較」があちこちで繰り返され、「検査しないのは隠蔽だ。無症状の人も検査しろ。」という声も一向に病みません。
先行する中国が発表していない数字についてみんなわーわー言ってます。滑稽ですよね。
もし、最初から「医師に新型肺炎と診断された患者の数」と忠実に訳されて報道されていたら、こんなことにならなかったのではという思いが日に日に強くなっています…
を読んだ。しかし、ありーちぇ氏(@ALC_V)の英文法の解釈には疑問を感じる。
ありーちぇ氏は次のように述べる。
WHO recommends testing contacts of confirmed cases only if they show symptoms of COVID-19を普通に翻訳すると「WHOは感染確定例との接触者について、COVID-19の兆候を示している場合には、検査を推奨する」
和訳自体は問題ないとは思うが、英文法の解釈は誤っていると思われる。
異なるのは、〈句〉はその内部に〈S+V〉(主語+述語動詞)を持たないのに対し、〈節〉はその内部に〈S+V〉を持つという点です
そして一般的には副詞節は、主節の動詞または主節全体を修飾する働きを持つ。
このように動詞を説明〔修飾〕したり,文全体を修飾したりするものを「副詞」といいますが,When…childは語がいくつか集まってできた「副詞のカタマリ」と言えます。このカタマリの中に<主語+動詞>を含む「節」が含まれているので「副詞節」と言います。つまり,この従属節は副詞の働きをする副詞節というわけです。
従って、
WHO recommends testing contacts of confirmed cases only if they show symptoms of COVID-19
の only if 副詞節は主節のrecommendsを修飾していると解釈すべきであろう(主節全体を修飾しているとも考えられるが、この文章の場合はどちらと解釈しても意味はほとんど変わらないだろう)。
以上を踏まえて、件のバズフィードの和訳は考える。
only if 副詞節はrecommendsを修飾しているので、
どっちでもいいじゃんって思うけど誤訳なの?
VizMedia、漫画アニメ規制派として知られている人を雇う。海外オタク大激怒。
https://togetter.com/li/1478911
コメを見ていると正義マンっぽい人は都合良く無視している人多いよね。
短絡的に割れと言う単語にだけ反応して拒絶反応を必死で起こしているのが湧いていて草。
棘主も指摘しているけど、これローカライズに問題があって、それで外国人が割れや「日本から買え」(←ここ重要)と言っているにも関わらず、お綺麗ごとを言っている人達は割れの部分だけに過剰反応をして、その「日本から買え」の部分を都合良く無視している。
そりゃ初めから外国人を犯罪者扱いしていたらそりゃ売り言葉に買い言葉にもなるでしょう。
こう言うのを見てもこの手のお綺麗ごとを言いたい人達はどう状況を改善していくのではなく、それこそマウントを取りたいだけなのかもね。
しかしオタクも正義マン多いよねとこう言うのを見ていると本当に思うよ。
消費者を取り締まる事に世界一厳しい事が誇らしいと言っているのも何だかなと思うし、棘主の棍棒や言論封鎖の道具に使われていると言うのには納得せざる得ない。
現に著作権の枠を拡大解釈しすぎて、ダウンロード違法化と言う明らかに関係ないネットユーザーを巻き込む政策や今は沈静化しているけど、ブロッキングと言う日本版金盾みたいな事を漫画家や出版、角川が言い出しているのは事実だからね。
余りにも権利者を優遇しすぎて、他所に弊害が出過ぎているのは事実。
そのうちこの手の正義マンみたいな人が先鋭化しまくって、それこそこいつらの敵対しているフェミニストみたいに何故か世間に対して規制ばかり言い出しそうになりそうで怖い。
どの人達も自身に関係ない他者の自由は大嫌いで自分自身は表現の自由や言論の自由を盾にするけど、他人に対しては都合の権利を盾にして、詭弁や屁理屈を言い出し、その他者の自由を規制によって束縛したがる人達ばかりだからね。
人を呪わば穴二つ。
またこれに関して言えば、日本ですら海賊版を盾にして関係ないネットユーザー規制を推し進めているを批判されているからね。
何せ推進側が都合良く無視したパブコメの結果を見りゃ判るし、世間的にも多くの批判意見が噴出しまくっている事やそれこそ規制に反対していた人達も今だ懸念していたり、当事者の山田太郎議員の焦り方や少し前の赤松健氏の必死さを見れば良く判るからね。
これに関してはあのマナーの良い日本人すら切れる代物でただDLするだけで犯罪者にされかねないものだからな。
そして案の定山田太郎議員はマスコミの誤報とか言い出しているけど、あれにしてもその予想されて指摘されていた弊害が出ていると言った所。
しかも余計に海賊版サイトが喜ぶような愚かな政策だからなぁ、あれ。
だからこの場合、配信側としてはあくまでリアルタイム配信を海外でもしていきそれらを充実していく事や原作改変をする様な変なローカライズをする所や人間に頼まない辺りをまず意識すべきだろうに初めから買い手に喧嘩を売っていたらそりゃこういう反応もされますって。
日本人と違ってこの辺ははっきり言うだろうしね。
こう言うのを見ても今後海外でジャパニメーションや漫画とやらも衰退していき、漫画家や出版はこっちでも嫌われていく事だろうなと思ったりする。
国内外両方の購買層に喧嘩を売っていて面白い事になりそうだなぁ。
このままクールジャパンが冷え込む日本と言う意味になりえそうだよね。
アニメ『To LOVEる -とらぶる-』海外版吹替が政治色強すぎる”誤訳”をしでかし炎上https://t.co/3Qnwrl2zxS— ユルクヤル、外国人から見た世界 (@Yurukuyaru) 2020年3月10日