はてなキーワード: 矯正とは
他のコメントたいがいひどいなw
まずは「高い洋服」がいくらなのか、
「高い服もダメになる」
そりゃそーだ。
しかし、世間一般でいう「高い服」とは、おおむね1着2~3万以上のものだろ。
(異論は認める)
Tシャツが8000円しても、「高い服」とは言わんと思うな。
ジーンズだって、1万以下なら安い服、日常着だろう。2万、3万もまだ日常着だよなあ……。
※日常着とは普段着じゃなくて、非日常に着る服ではないって意味。通勤用みたいな。
こういうの誤差あると思うけど(自分女だから、また男と価格感覚違うだろうが)
まずはユニクロ発なら
GAPクソ安だけどw
「現代のベートーヴェン」、佐村河内守。聾者を装い、別人に作曲をさせたものを自分が作曲したと偽って、収入を得ていた男。
彼を取り扱う記事は一様に彼に批判的である。それは尤もなことだ。なぜなら彼は詐術的手法で収入を得たのだから。彼が間違った人間であることは、自明であろう。矯正しなければならないだろう。
しかし、彼の詐術を通用させたこの社会は、間違っているのだろうか。もう二度と「現代のベートーヴェン」を生んではいけないのだろうか。私はそう考えない。
彼が聾者であるからと考えて、CDを買った人があるかもしれない。その購入者を一様に「音楽的センスがなく、コピーだけで買う偽善者」などと考えていいのだろうか。答えは、NOだろう。新垣氏の作曲した曲が素晴らしいかはさておいて、「聾者が作曲した」というコピーで買うことが、「偽善的」であるとは思えない。障害者は、このような芸術的分野であるにしろ、あるいは他の製造現場などであるにしろ、必ずしも就職が容易であるとは言えない。生活保護の受給者の内、3分の1は障害者であるといわれるほどである。その様な彼らの取り組み、あるいは発表に対して、支援の気持ちを表すのは、むしろ障害者の就労支援にとっても、国民意識の啓発にとっても、よいことなのではないかと考えられる。
彼を取り上げたメディアに対しても同じようなことが言える。障害者をまったく我々と関わりのないところに生きていると考えないで、芸術家として向きあった。そのことは決して糾弾すべきことではない。また、見破れなかったことも、彼の人格を尊重し、彼の言葉を重んじたならば、それも仕方のないこと。
この「現代のベートーヴェン」問題は、ひとえに彼、佐村河内氏と、新垣氏によってなされたことであって、彼を生み出した社会を責めるべきではないと思うのである。
「時と場合による」から経験で覚えてくださいでは、本人が間違った方法でうまくいっていない場合、独力で気付くしかなくなるけど、そういうフィードバックが働かない人は結構いる(だからコミュ障なんだけど)。ましてや「時と場合」を整理するなんて到底無理で、結果いつまで経っても「のび太のくせに生意気だ」みたくなじられる人は放置され、周囲も不快な思いをする。
これでは、誰も何も得しない。
「社会の中の少数者を救済するためにどれくらいの資源を投下すべきか?」ってだけの問題に思える。
増田のいう「フィードバックが働かない人」に対する処理として、その割合と矯正コストを考えたら、「放置するのベター」という結論になっただけでは?
もちろん彼らが自助努力でそこから抜け出すのは歓迎だ。少々の支援だけでフィードバック学習してくれるなら支援する意味はある。「周囲の不快な思い」も減少するだろうし。
正体がなくなるほど酔っ払って、どうも後輩の離婚話をさんざんくさしたらしい(記憶は無い)。
もともと性格がわるかった。
なにかあった時に裏を考えてゲス顔するとか。
それどころかゲスい想像をした相手にそのことを伝えてしまうとか。(もうかってるでしょ?とか)
そもそも非コミュで人と話すのが怖かったのに、まわりが大人だから多少の無礼は許してくれる経験を積み重ねて、のぼせ上がってしまったのが原因だと思う。
問題は、これが一時的なものではなく、おそらく自分自身の本性の発露であろうということだ。
抑えが効かなくなったことにより、素直にクソ人間ぶりが出てしまったということだ。
もう三十代も中盤で、人格の矯正もなかなか難しくて、グーグルで「性格がよくなる方法」なんかを検索して、それらしい記事がなくて絶望してる。
子供の頃、家庭環境に大きな問題はなかったとは思うんだけど、カウンセリングとか受けた方がいいのかなあ、なんて少し思っている。自分が嫌いすぎて反吐が出る。
「歳相応」という世の中の空気によってパターン化された年代のモデルが崩壊。
好きに生きられるようになった結果、若いころのママで居る人が増えて、コミュニケーション能力が必須になった。
粗雑な要約からも分かる通り、コミュニケーション能力が必要とされる機会の増大の部分がちょっと弱い印象。
世代間コミュニケーションのような、世代を自覚せよ、という結局世代という枠に納めないとイカンのかいな、という感じ。
読んで真っ先に思い出したのはキムタク。
ただ、若い趣味が続けられる、若いままでいられるというのは、別に悪いことじゃないと思う。
それが出来ない人間が脱落したり、それでいる為にコミュニケーション能力が必要とされてキツくなるっていうのは、
脚気を思い出した。江戸患い。白米の食い過ぎで発症してた病気。蕎麦食え。
昭和の頃は良かったなあ、からの、若作り・晩婚化・孤独死の三段落ちを未成熟で繋げて原因に設定する感じ。
思い出は美化されるような気がするし、増田にもあったけど、空気感で「歳相応」に矯正されてた頃の弊害は意図的にスルーしてる印象。
議論が発散するしストーリーから外れるからなんだろうけど、「歳相応」を強制されるってことは、外れた人には辛いワケで。
出戻り、行き遅れ、独身が昇進できない、夫婦は子供を作るもの、若くないんだから。
年金支給開始も遅くなるぐらいみんな元気に長生きになってるわりに、区切りは付けたいというところに違和感があった。
なんというか、ある特定の時代へのノスタルジーが透けて見えるというか。
誰も歳を取らなくなったように見えるから、若いままで居なければっていう強迫観念の一部の患者向けの為の処方箋
病気自慢を始めちゃうようなオッサンになるなら、あんまり気にしなくても良さそう。
命短し恋せよ乙女みたいな、今年の夏は今年だけみたいな、人生は後戻りの出来ない廊下を歩いてる感じを意識するのは難しいんじゃないかな。
ぶっちゃけ、乳児期とか老年期とか、人によって開始も終わりも違うわけじゃん。
富裕層と貧困層みたいな、カネの差は判りやすいけど、身体にも差があるわけじゃん。
ブスも美人も、ガリもアスリートも、ある程度は持って生まれたモノってのがあって、
絶対的な数字である年齢を基準にしなきゃ不公平だっていうそういう絶望みたいなものがなんとなーく見えなくもない。
成長期、安定期、衰退期、移譲期、みたいな年齢から切り離された言葉で自分の状況を語る必要があって、
自分は安定期を長くするために、関節に負担をかけない運動を続けようかなー、みたいな。
なんつーか贅沢だよね。
ただ、脚気にせよ成人習慣病にせよ、社会構造が変わったことで生まれた病気てのには対処しなくちゃいかんだろ、というのは判る。
話題として読むには面白いんだけど、コラムというか雑談というか、何かを期待して読むのは違うかもしれない。
正直なところ昭和な頃って、成熟してたんじゃなくて、成熟してる、ということにしてただけな気がするんだよね。
未成熟でも成熟として扱ってもらえた時代、というか。そう振る舞うことを求められて、未成熟部分は見えないことにされた、みたいな。
全体として、ちょっと本でも読もうかな、という時に気軽に読める新書。
「老い」について考えたいなら、モーニングKCの『きのう何食べた?』(よしながふみの漫画)を読んだ方がタメになる気がする。
料理美味しそうだしね。
多分あなたの母親は「息子は歯並びが悪いせいで見た目が悪い、結婚できないかもしれない」と思っているよ。
歯の矯正をしたら今度は「早く結婚しろ」「何のために歯の矯正をしたんだ」とうるさく言われるようになるだけだと思うよ。
親孝行のためという理由ならば、やらない方がいい。
えーと、あんたが「記号論」を持ち出してきたので、それに対応する言葉なんですけども。
yが子供でない場合、何も意味がないじゃないですか?Bが絶対出て来ないじゃないですか?
で、Fは何かな?
なんで、理解もしてない記号を使ってみたの?すこし知ってるからって簡単にそれで論破出来ると思った?
残念だったね、単にバカを露呈しただけになっちゃって。
もう一個のほうね。これに対してあなた、答えてないの。逃げちゃって。
法律=答えではありません。
害があればありにはしません。
そもそも、同性愛を駄目、とする時、そこには何を持って駄目とするか、そこが問題になったわけです。
生物的には同性愛は第一次行動として正しくないですし子供を作るためには障害となります。
また、大多数の人が同性を愛せ、と言われてもそれを嫌悪すらすることがあるのは事実で、それは生物的な本能から別に悪いことでもなんでもないでしょう。
ただ、これらは基本的には「気持ち」の問題であり、人間で言えば宗教的な問題に近いものです。(実際、これらが禁止されてた事実としては宗教の教えが元になってることが多いでしょう)
同性愛に関しては、それは矯正してどうにかなるものでない、1つの性質ですので、禁止した所でその人達が異性愛に走るわけではないです。
従って、「実害」に関しては禁止しても減るものではない。
一方、許可した時、害が出るか?同性愛同士で一緒になるだけなので、何も害はない。
散々、害に関する具体的な話してますが…
逆にどの文において、そのように定義してるのか説明してくださいw
こちらが散々ルールを守る事が社会には必須である、と言ってることに対する反論として、
「自由」を得られることが利点である、ということだけを散々あんたは主張してるんだけど?
つまり、ルールを超えても自由を得ることが重要だ、ということになるんだけど。
で、あんたの自由ってのは、恋愛を小児愛だろうがあんだろうが勝手にする、ってことで、それを「本能のままに生きる」って言ったんだけどね?
と言う意味で使ったんだけど。これはこれで正しいと思うけど、違うかね?
もちろん、これらは共存出来るよ?でも、ルール違反しての「自由」は「理性」を伴わない「本能」のみの行動。それは正しくないかね?
不当であれば変わっていくでしょう。
ただ、「ルール」に関して言えば、その時、ルールを決める人達にとって最も良いもの、が選ばれるのはわかりますよね?
で、今の日本の小児性愛は誰にとってメリットがある法律なんでしょうか?
まさにあなたに対しても同じことが言えるわけで、
いえ、お前はお前の勝手だけど、
こちらの主張は現在の日本の法律、倫理観に基づいた主張ですので。
法律ウンウン以前に、さんざん具体的に害について話してますが。
そこをなんとか無視しようとして、法律だけのところを責めようと、悲しくなってきますね。
両方共で完全に負けちゃって可愛そうですが。
今更だけどガッチャマンクラウズ見たので感じたことを書きたい。(ネタバレ注意)
このアニメは登場する主要なキャラクターがそれぞれに異なる正義観というかポリシーみたいなものを持っていて、それぞれがいわゆる典型的なヒーロー像を象徴していたように思う。
今回はそういった個々のキャラクターは置いておいて、大筋のストーリーから勝手にメッセージを読み取ってみる。
ガッチャマンクラウズには典型的な正義観を持った2つの陣営が登場する。それはガッチャマン陣営と爾乃美家累である。ガッチャマン陣営(はじめ除く)は各々の考え方の違いはあれど基本的には勧善懲悪的なスタンスである。一部の優秀な人間がその他多くの言ってしまえば愚かな民衆を導く必要があるという考え方を持っている。それに対して累はヒーローは社会に必要ではなく、民衆全体の働きかけによってより良い社会を実現しようと考えている。しかしこの理想は性善説的な考え方に大きく寄与している。
ここにはじめとカッツェといういわゆるジョーカー的な存在が登場する。2人はこれら2つの陣営にそれぞれの正義観に対する不備を突きつける。
はじめは何事に対しても先入観なくフラットに接し、自らの価値判断基準に則って行動することで今まで悪だと思っていた存在がそうでないこともあるということを突きつけた。一部の優秀な人間が舵取りを間違えたらあかんよねという事例である。カッツェは累に対してあえて困難な状況を作り出し、自らが与えた力を使わなくては結局民衆による正義など実現できないという矛盾を突きつける。更に後半はGALAXとNOTEを累から奪うことでクラウズを使って人間の性悪説的な側面を増幅させる。これは民衆による正義は結局易きに流れる為不可能と象徴的に示しているといえる。
はじめとカッツェによる引っ掻き回しによって2つの陣営共に自身の正義観を変容させていく。ガッチャマン陣営は清音を筆頭としてはじめを受け入れることで、一方的に先導するだけが正義ではないということを理解してく。累については人々の内発的な動機による助け合いではなく、社会の仕組みによって外発的に動機づけを行うことではじめて理想の社会が実現できると考えを改める。以前の累は多くの民衆に対して自身の正義観を押し付ける側面が少なからずあった。それはHUNDRED No.26 梅田 光一を説得する場面からも読み取ることができる。人々が内に秘める助け合いの精神を信じていた結果としてそのような正義の押し付けにつながっていたといえる。それが最終的には各個人の考えを矯正するという発想をやめ、システムとして人を誘導するという発想に至る。「立川市で何をするかはみんなの自由」という発言は、人の性善説的な側面を無批判に信じて出たものではなく、民衆を正しく先導する覚悟を決めての発言であったんだと思う。
インターネットの普及、ソーシャルネットワークの出現によって今まで以上に群衆の声、力が大きくなってきた社会は、特定のリーダーが多くの群衆を先導するには複雑すぎる。そういった状況の中で現代社会はどうあるべきか?それがこの作品を通して伝えたいテーマであると思う。
恐らくあのラストで表現したいことというのは、「荒らし」をするような人たちは規制や否定ではなくならないということ。(殺さない・殺せない)自分たちが世界の楽しみ方(ゲーミフィケーション等)をみせることでしか、変えることができないということではないでしょうか。
世界をポジティブに捉え、行動したほうが合理的と思わせるような体験を見せることでしか、変わらないということを言いたかったのではないかと思います。
http://d.hatena.ne.jp/loki16185/20130929/1380428729
この疑問に対して作中での答えはゲーミフィケーションであり、人間が本質的に易きに流れる生き物であるならそれを肯定し、社会全体としてより良くなる方向にインセンティブを与えることでボトムアップに社会を運営していこう、という発想である。ガッチャマン陣営と累がはじめとカッツェにそれぞれ自分たちの正義観の不備をつきつけられ、互いに価値観を共有し合ったことでこのような発想に至ったと考えられる。
しかし、この考え方には未だ危険も潜んでいる。インセンティブを与える基準、いわゆる「いいこと」の評価関数の決め方次第では結局正義の押し付けになってしまう。この評価関数の決め方という部分まで踏み込んではじめてこれからの社会の正義のあり方という問題の答えになるのではないか?と感想を抱いた。
わたしの彼氏は金持ちで、都内のマンションの17階の4LDKに、一人で住んでいます。わたしたちは付き合って1年になります。そろそろプロポーズされそうな雰囲気があります。
もしプロポーズされれば嬉しいのですが、イヤな気持ちもあります。
在籍時、勉強だけは真面目にしていたみたいですが(難しい本が、部屋の本棚に並んでいます)。
就職活動となるとうってかわって、やる気がなく、20社程受けたところで、いやになって投げ出してしまったようです。
希望が高すぎるんじゃないの、と言ってみたのですが、自分の時間の大半を費やすことになる会社を、妥協するなんてできない、と返してきました。
今日も居間でダラダラとパズドラしてました。昼に見かけた時にはやっていて(兄は昼に起きます)、夜に帰ったときにもしていたので、半日ずっとしてたんでしょう。
たまに家にいない日は、たいていその二人のどちらかの家に泊まっています。
両親は兄がアルバイトしていて、そのお金を生活費として親に渡している、と思っているのですが、
わたしは兄を問い詰めたのでそのことを知っています(実家に迷惑はかけてないだろ?と悪びれる様子もありませんでした。)。
でも、両親は兄をこんな風にするために育ててきたのではないはずです。
東京の国立大学を出て、それで何の目的もなくブラブラしてるなんて、親不幸にもほどがあります。
兄は数学を専攻してたくせに、証券会社や銀行に勤めようともしませんでした(「役立てるために数学を学んだわけじゃない」と言っていました。じゃあ何のために勉強したんだよ?)。
その後、関数言語のプログラムに興味がある、と言って、参考書を大量に買い集めていましたが、
わたしの友人の話によると、今、関数言語のプログラミングで働ける会社は殆ど無いそうです。
兄は現実を見ていません。
そんな兄を両親は、「お兄ちゃんはうつ病なんだから、あまり強く文句言っちゃダメよ」と言って甘やかしています。
昔わたしは、かなりのお兄ちゃん子でしたが、今では口を利くことはおろか、目を合わすことさえしません。
わたしの彼氏は株で稼いでるくせに、かなりの天然なので、兄のことを相談したら、「自分が養ってあげるよ」と言い出しそうで怖いです。
こんな事態になる前に、わたしが兄を矯正すべきだったんでしょうか。そうする義務があったんでしょうか。
辛いです。
追記
—————————
「なんで働かねーんだよクソ兄貴、あたしが恥ずかしいだろーが」
「人のために働く、ってそういうことじゃないだろ」
ホント最悪。
ウェアラブル端末が今後のトレンドとなりそうだけれど、数年の後に「ハード」と「ソフト」の境界は更にぼやけていきそう。
ただし、Google glassもiWatchも「身につける」という行為の「不自然さ」に慣れるのが難しいように思う。
とすると、やはり「身体」に「直接」デバイスを組み込む方が合理的。僕らの体の中で「破損」を繰り返そうとも比較的代用が容易いのは「歯」だと思う。音声通話の類いも奥歯から音声を交換しあう。こちら側の音声は器官を通した空気と吐き出す際の空気の振動を信号に変換。相手側の音声は歯茎を通じて音の振動が耳の付近に伝わる。端から見れば「腹話術」あるいは「やたら目立つ独り言」を話すひとに見えるだろうか。
やがて眼鏡はコンタクトに、コンタクトはレーザーメスへと視力矯正の技術も変遷していることから、ウェアラブル業界もその手の方向に進むのではないかなあ。密かに期待。期待しながらどこか恐ろしげ。「写真を撮ると魂を抜かれる」と信じていた時代のひとたちもこんな気持ちだったのかな。
管理者養成学校(http://www.hell-camp.com)に2週間も行かされるという話が出たので、会社を辞めた。「hell-camp」というリンク名はかっこいいよね、本気で名づけている分アホだけど。
会社の立場になって考えてみたが、なぜこういうことを企画したのかを想像するのは難しい。もしかしたら、社員が怖いのかもしれない。上司の言うことをきかない社員が在籍して、言うことをきかないがゆえに会社内部を混乱させるかもしれないという恐怖。だから会社の方針に無批判となるように、常に従順となるように人格を矯正したい、という考え方なのかもしれない。
でもそんな考え方すごく気持ち悪い。そしてそういう考え方をする上司を今後も尊敬できそうにないので辞めることにした。人に向き合うことを教えるなら、自分の態度で教えないと、外部に頼っている時点で失敗だと思うんだよな。洗脳されると説得されるのかもしれないが、それは仮初で終わると思うよ。
似非科学呼ばわりされているけれど、私には「発達障害は生まれつきの障害なのでどうにもなりません」認定の方が似非科学に思える。
個人的にはそもそも「発達障害」なる概念そのものが疑わしく思う。
脳なんていまだにブラックボックスなのに「生まれつき脳の機能障害で一生治らない」という烙印を押して個人を差別する事が本当に科学的に正しいのか。
「発達障害」というのは本来障害でも何でもない人達を差別して排除するためのレッテルでしかないと思ってる。
あくまで作られた障害でしかないと。作られた障害だから、社会のありようによって増えたり減ったりする。だから教育で減る事だってあるはずだ。
はっきり言って「発達障害」なんていうのは肌が褐色なのが障害だとか、目が細いのが障害だとか言ってるのと変わらないと思う
必要なのは障害者として扱って特別な「支援」により周りに合わせる事ではなく、そのままの個性で素晴らしいと肯定する事ではないか。
「発達障害」教育というと、当事者を矯正して「社会」に適合させる事にばかり熱心だが、本当に必要なのはそれ以外の子に対する教育じゃないか?身体障害にしろ人種や民族にしろ、「差別はいけません」と教育するのが第一だ。「特徴を矯正して、差別者に媚びへつらって気に入られるようになりなさい」と、当事者を「支援」したりはしない。
変わってる子、空気読めない子をハブってはいけません、人は一人一人違うのだから他人の個性を認め合いましょう…そういう教育。昔の日本にあって今の日本にはない教育。
昔、少なくとも二十年くらい前までの日本では、今なら絶対発達障害認定されているような人でも職人芸などを生かしてお金を稼ぐ事が出来ていた。周りも「変わった人」として、結構好意を持って接していたと思う。少なくとも今のように障害者認定されて差別される事はなかった。
虫愛ずる姫君という古典がある。化粧もせず、流行りの衣装を好まず、他の女の子が好まない虫を愛する姫の話。当時として一般的ではなかったんだろうけれど
それでもそういう娘を美しいものとして描いた作品が千年後まで残っている訳だ。
社会人の身だしなみとして暗黙のうちに化粧を強要され、常に気配りと甲斐甲斐しさが求められる現代日本の女性には、虫愛ずる姫のように自由に生きる事は不可能だろう。
昔の全てが楽園だった、なんて言う気はないけれど
少なくとも「発達障害」と見做される特徴を持った人々にとっては昔の日本の方が生きやすかったし
生き方の幅も広かった。
元増田だけど。
ちゃんと寝るときは手を繋ごうねっていって手をつないだり、代替えの物を持たせたりしてます。
眠い時だけ指しゃぶっちゃうだけで、日中は全然指しゃぶりしません。
寝るときぐらいいいかなって思ってたけど、強く指をしゃぶるから短時間でも歯に影響がありそうだし、指もふやけちゃうからやめさせようとしました。
あなたの言っていることは真っ当だけど、きれいごとな感じもします。子育てしたことあるのかな? 実際に。
あなたの書いてることなんて実践してるし、それでもどうにもならない事があるんですよ。
マニュキアは舐めても大丈夫なやつです。指しゃぶり専用のマニュキアです。
矯正は百万かかる場合があるし、それを使うなら、進学費用や御稽古に使いたいって気持ちはだれにでもあるのでは?
生まれつき歯並びが悪いって言うなら矯正も仕方ないけど、後天的なものに関しては「もったいないなあ」って気持ちになるのも普通でしょ?
小学生にもなってやめなかったら、「働いて自分のお金で矯正しな」って言うつもり。小学生でもやめられないのは自業自得。