小川洋子さんの「妊娠カレンダー」を読んだ。妊婦の姉を見つめる妹の心情に、なんとなく共感してしまった。
新しい生命の誕生は幸福なことだというのが一般的な意見だと思う。しかし、お腹がまるく膨らんだ女の人を見たとき、私は幸せよりなにより、うっすらとした恐怖を感じてしまう。あのなかに、あの女の人ではない誰かもうひとりがいるのだ。それも、まだ未完成の誰かが。
よく、自分が妊婦になったときのことを想像する。うっすらとした恐怖はより鮮明になる。自分の中で自分じゃないものが息づいていて、そのいのちを作るのも壊すのも自分、と見せかけて実はそんなことはない。自分の手では決してどうこうできないのに、自分の体の中に「それ」はいる。宿っている。人間になるかもしれないし、ならないかもしれない。それを私は操れないのに。
「それ」は、赤ちゃん、というより、胎児だ。胎児、という言葉を聞くとき、私はその言葉と人間とをうまく結びつけることができない。胎児のイメージに近いのは、生卵だ。ぬるぬるしていて、すぐに潰れてしまいそうなところとか。
胎内のいのちのかたちを、うまく想像できない。そういう感覚は、「妊娠カレンダー」のなかで、妹が姉の赤ちゃんを「染色体」と考えていたのとすこし似ていると思う。
こんなことを考えるのは罰当たりなことなのかもしれない。私はいのちを正しくいのちとして認識できていないのかもしれない。想像ではなく本当に、私の胎内にいのちが宿ったとしたら、考えも変わるのだろうか。胎児に怯える自分の姿しか、想像できないのだけれど。
話は変わるが、新しい生命の誕生をまっすぐ幸福だと言えない理由は他にもある。
そのなかのひとつが、
「生まれる側は何一つとして、選べないまま生まれてくるから」だ。
私は、私を親に持ってしまった子どもがとても可哀想だと感じる。もちろん愛すると思う(さっきまで怖い奇妙だと言っておきながらなんという手のひら返しだろう。でも多分、そうだと思う)。一生懸命育てると思う。でも悲しいかな、どうしたって「向いてない」のだ。きっと上手にできない。もしかするとどこかで歪んでしまうかもしれない。その歪みって、いつかその子が直したいって思ったって簡単には直せない歪みだ。私に悪気がなくても、その子の一生は台無しになるかもしれないのだ。その子はただ、生まれてきただけなのに。
生まれることは幸福であると、そう子どもに思わせるような育て方を私は出来るのか?
そんなことを、よく考える。
現在の私は独身だし、相手すらいない。…というとなんだか結婚や出産に否定的なように見えるかもしれないが、別にそういうわけでもないのだ。友だちが幸せそうにしてるのは嬉しい。ただ今の感覚も嘘にせず、忘れずに残しておきたいと思った。だから書きました。読み返すかもしれないし、もう二度と読まないかもしれない。
まんがだったか、エッセイだったか、かなり昔、男性が「妊婦ってよく狂わないでいられるな。俺なら、自分以外の誰かがおなかにいたら気が狂う」というような内容を見た。 そんな感...
妊娠うつとか もっとひどい精神障害(それこそご想像の通り、お腹に異生物が居ると言い出し、しかもあながち間違ってない)のとかあるし。 精神は健全でも妊娠糖尿病とか妊娠中毒症...