はてなキーワード: 多文化とは
日本人はそもそもコンセプトを詰めるところに掛ける時間が圧倒的に少なすぎる。アメリカ人は10倍は時間を掛けて考えてる。
っていうのはアメリカが多文化すぎてそうでもしないとまとまらないからだよ。
今回はIOCや政府含めてそういう多文化が入ってきたところに、思いのほかドメスティックだった日本の電通とサブカル業界が対応できなかった。スポンサーつけつつも脚本用意できる日本の映画とかアニメ、芝居舞台の方式とか、アメリカ方式で行くべきだった。
クリエイターの邪魔すんなって言うけど、大勢の民意に対してそう言う価値のあるコンセプトやシナリオを出して、自己主張の多いクリエイター達をまとめようとしてきたのかよ。色んなミュージシャンや芸人の作品の発表会じゃないんだし。森山未來や真矢ミキみたいに自分の個性を声だかに主張するわけではない役者陣の方が今回は仕事してた。
海外のSJW(ポリコレ大好き野郎)の中で、アメリカ人が開発した日本の対馬が舞台のゲーム「Ghost of Tsushima」は文化盗用だと盛り上がってるらしい。
しかし文化盗用という概念が日本人にはイマイチ理解できないので、GOTを批判する日本人はほとんど見かけない。
なのでなぜ海外のリベラルが文化盗用に対して敏感なのか簡単に説明する。
アメリカでマイノリティである日系(アジア系)アメリカ人の文化や歴史を使ったコンテンツを白人が利用することは、マイノリティの権利を迫害していることになるのだ。
なのでアメリカでマイノリティのアジア系アメリカ人+SJWが怒っているのである。
マイノリティの文化を使ってイイネを稼ぐことはマイノリティのもらえるイイネを横取りしていると見られてしまう。
ただ、日系アメリカ人は白人のアメリカ文化に同化している傾向が強いので、GOT問題でも主に騒いでるのは民族アイデンティティを強く持つ中国/韓国系アメリカ人などだが。
アメリカが多文化融合主義の国だったら文化盗用なんて言葉は生まれてなかったかもしれない。
しかしアメリカは人種の坩堝ではなく、サラダボール。いわば多文化"分断"社会なのでこのようなことが起きるのである。
アメリカのリベラルは日本人はGOTに対してもっと怒るべきだと騒いでいるが、日本人はアジア系アメリカ人ではないので彼らの言っていることは全く響かない。
1999年のSF映画、『マトリックス』とその続編についても批評家の意見は一致していない。『マトリックス』は人類を救う救世主となる白人のコンピューターハッカー、ネオ(キアヌ・リーブス)が主役の映画である[16]。マシュー・ヒューイは彼の著書、The White Savior Filmの中で、「コンピューターシミュレーテッドリアリティの外側の多文化的な景観に入り込んだ白人の主人公が彼の恩寵を通じて、今にも起りそうな災害から非白人の人々を救い始めなければならない。」と記している[17]。ハーナンとヴェラは著書、Screen Saviors: Hoiiywood Fiction of Whitenesssで『マトリックス』を人種が異なる援助者のチームを持つ白人の救世主という近頃の白人の救世主の物語の「最新作」として分類している。彼らは、「その映画の潜在的な白人の人種差別主義の批判は、黒人のキャラクターのモーフィアスやオラクル、モーフィアスの仲間のタンクやドーザーなどの白人の救世主であるネオに仕える弟子たちなどの神話のプロットによって否定される[18]。」 アディリフ・ナマはこれに対して、著書、Black Space: Imagining Race in Science Fiction Filmでモーフィアスとオラクルの重要な任務について「概して、その探求は白人の救世主によってもたらされた任務よりも、黒人の男性や女性によってもたらされた任務のように見える。その黒人のキャラクターは簡単に読み解くと、ブラック・パワー運動や公民権運動の象徴的で文化的な試金石や、それらの残余である[19]。」
リベラルにも共産主義者にも感じるけどなんであいつらは自分が正義だと信じて疑わないんだろうな
正しい一部はあるにしても全部が正しくないから問題が起きていて、それを自覚し取り組まないまま進もうとする
人間は常に問題を抱えているからこそどこにも正義はなくお互いの共通する正しい物を繋ぎ合わせることで多文化を容認しようというのがリベラルだったはずなのに
いつしかリベラルを主張する側の1部の正しさを全体に普及させる手段へと転じていった結果、逆差別の押し付けが始まってしまった
日本では和製フェミニズムがまさにそれなんだけど未だに自称フェミニストたちは和製ナイズされたこれを信じてる
私はこの政権の時代の中で現在こそ危機的だと思っている。2012年以降のサブカルは、今時のアニヲタみたいに下品になっている。安保法制問題以降は本当にひどい。自民党のポカの連続で公明党が自民離れして野党にくっつく有様。内部ゲバルト問題的なイメージは2011年の民主党っぽいが、現実は違う。
日本の中の細かい点でいえば、政治よりも文化のほうがひどい。で、なぜこれが悪いかというと、やはりそれは、文化環境が以前にまして貧しくなり、向上心をもちにくいからではないか。そういう環境では、貴重な文化や歴史遺産を残せても、それを資源だとみなす発想すらも養えない。
安倍政権はこれ以上の延命をあきらめて終焉の道を進んでいるが、だったらその「終活」は国民に対するプラスになることをメインとするべきじゃないか。左翼の私が言っても説得力ないかもしれないが本当は右翼政権ほど国民の声を聞くべきで福祉政策に力をいれなければ安倍が夢見てていただろう多文化社会は実現しない。
社会で生きていれば、というか社会に出る以前の生徒児童の時代から、他の地方出身で「文化圏」が違う人と交流する機会なんていくらでもある。
勿論小学生や中学生だとあくまでも転校生という物珍しい存在がちょっとあるだけなわけだけど、ネットだといろんな地域の人が、いろんな文化のバックグラウンドを元に
発言していたりするわけだ。中には地方どころか国が違う人だっている。
だのに、ちょっと自分と違う文化を見たら、自分の地域での常識だけを適用して脊髄反射的にトンデモだのなんだの暴言吐きまくるってのは何なんだろうか。
相手が方言を使っていて理解できなかったからといって、即こいつは日本語が不自由で云々とか語りだす人がはっきりいって嫌いだ。
地域特有の食べ物とかもあるが、ネットで自分では思いもよらないものを食べていた人を見つけたからって「普通はそんなもの食べない。おまえは味覚がおかしい」とか文句言ってくるタイプの人も嫌いである。
所詮「普通」なんて学校の授業で知識として教わった事柄とは違って、生きている中でなんとなく掴み取ったものだと思うが、それはかなり自分の生きてきた地域だの環境だのに左右される。違う地域の文化を、自分にとっては普通じゃないからと言って文句つけないと気がすまないってのは、多文化社会を生きる上で非常に不適切なのではないか。
与党への支持・不支持といった政治的背景にかかわらず、野党の主張に嫌悪感を覚える方は多いのではないでしょうか? 私はこの嫌悪感の正体を野党の振る舞いが、普通の社会人が身に着けているべき、多国籍文化に対応した振る舞いとなっていないことだと分析しました。 NGとされるポイントとして以下の様な特徴があります。
これらの特徴を一般企業の新人教育にそって深掘りしていこうと思います。
多くの企業では国際的な取引、国外を含めたマーケットを対象にビジネスを展開しています。 スケールメリットの問題で、国内のみのビジネス展開ではコスト面で国際的な企業と競争出来ないことが主な理由です 必然的に、外国籍スタッフ・外国籍の取引先と取引する機会が増え 多国籍チームの運営、グローバル・ビジネスに対応するため、新人研修にハラスメント防止研修、ファシリテーション研修が取り入れられています。
「Aさんの発言だから無視する、Bさんの発言こそ全てだ!」 単一国籍、民族の間では問題として表出しにくいですが、多国籍チームでこんな振る舞いをすればAさんの何らかの特徴に対する差別と捉えられかねません。 発言は常に「誰が発言したか?」ではなく「何を発言したか?」で平等に評価しなければいけないのです、これは発言に限らず行動も同じです。 コレは人格否定というNG行為ですが、野党のある振る舞いはこの人格否定のパターンそのものです。
そもそも何故、「安倍政治を許さない」なのかというと民進党の政策と自民党の政策には実はあまり差がありません。 民進党が実行する政策は同じ政策でもOK、自民党が実行すれば同じ政策でもNG、これを正当化するスローガンが「安倍政治を許さない」なのです。 わかりやすく人格否定で、ステレオタイプ的な差別的行動ですね。
キチンと各党の主張、公約を見た人は気がついたと思いますが、民進党は改憲することを主張しています。 自民党の改憲に反対なのは草案の内容が原因のようで、民進党は国民と議論を重ねて草案を作成するらしいです。 支持率的にどちらの草案が国民の意見を反映しているといえるのか?は明らかですね。 共産党については彼らの目標、共産主義社会の実現のために改憲が必要です、以上
ざっくり言うと人格否定の人格を国籍・人種のくくりにしたものが、人種差別です。 どうも野党の方々は特定の国籍にしか興味が無いようですが、一般企業には東アジア以外にもインドや南米、欧米各国のスタッフが多く参加しています。 同等に取り扱わなければ、うまくいくはずもありません。
正確には野党の振る舞いではなく、野党が支持する活動ですが、野党の方々はどうも米軍基地を追い出す活動に熱心です。 時に道路にブロックを積んで、行動の自由を抑制したり、柵にガラスを巻きつけて取り除く人に対するトラップ型の傷害に及んでいます。 人種差別が傷害という犯罪行為にまで至っている、ヘイトクライムですね、ヘイトスピーチより深刻な問題ですので早めに取り締まってほしいものです。
多国籍な環境の企業は同時に多文化であるため、特定文化の「あたりまえ」を基準に出来ません。 多分化チームで意思決定を誰もが納得する形で行うためには、論理的に筋の通った理由、材料を集めたうえで意思決定を行う必要があります。 逆に、ロジカルシンキングを無視した意思決定は、文化の押し付け、その考え方を肯定できない文化への弾圧、人種差別などに繋がることがあります。
キチンと各党の公約、主張を精査すると野党の主張には「アンケート」をベースにした主張が多いことに気がつくと思います。 統計にすることで一見客観的データに見えますが、そもそも主観をベースにしているもので客観的なデータと言いがたいものです。 検証可能なデータでもなく、極端な話支持者のみにアンケートを取ることも、不都合なアンケートを無視することも、設問によって誘導をすることも可能です。 さらに実際問題として、各種客観的経済指標を見る限り景気は良くなっているので「不安」など主観的な項目に視線をずらしているようです。 これは「アベノミクスで景気は良くなると思う」という不安を問う質問はあっても「ここ4年で景気が上向いた」という実感を問う質問がないことに見ることが出来ます
男女参画社会が進んだことで、共働きが増え主婦層もかつてより、社会人教育を充分に受けている。 差別的振る舞いをせず、平等に取り扱い、取り扱われることに慣れた一般社会人にとって、アンチパターンの振る舞いを取る人は、自分が差別の対象でなくても関係を遠ざける対象となる。 活動をすればするほど、支持率が下がる理由はこの辺りにあるのではないだろうか?
近頃盛んに聞くのが「読解力」という言葉である。いわく、今の時代読解力は大事だよと。
翻ってネットでは相手の読解力を非難する声が多く聞かれる。これに不自然さを感じる向きも多いであろう。
そもそも以前から「読解力VS文章力」とも言うべき対立は存在した。「お前の文章下手すぎ。日本語でおk」
「いやお前の読解力がなさすぎ。日本人か?」などという実にくだらない争いがちょっと油断すると勃発するのが近年のネット社会である。
しかし、私に言わせればそんな対立など時代遅れも甚だしい。時代に取り残された過去の遺物である。
私見では読解力という言葉は近年ますます意味をなさなくなっているのではないかと思うのである。
それは読解力を測定しようとすると文章力の問題が切っても切り離せないからというのもあるが、そもそも読解できるのは
文章の前提知識の有無に大きく依存する。しかるに、万人にフェアな読解力の測定など土台困難というものだ。
そうなのだ。所詮は、読解力などというものは通俗的な用語にすぎないのだ。そもそも、読解力よりも一般化した概念
である「頭の良さ」というのも甚だ曖昧な概念であることが、昨今の知能研究で具体的に明らかになりつつある。
世間でいわれる頭の良さとは、常識的シチュエーションで常識的な反応を返せるか、そのことを言っているに過ぎない。
「数学の難しい問題を解く」といった常識外のシチュエーションなど関係ない。数学のできる奴なんかよりは、
算数の暗算ができる奴のほうが余程「すごーい」と女の子から賞賛される。それが悲しい現実なのだ。
所詮はそういう常識的な観点から頭の良さが判定されているにすぎない。これを「ファッション知性」という。
読解力も同じことで、「ファッション読解力」が世間では試されているにすぎない。いや世間だけではない。
学問の世界での読解力も、また学問の世界での常識というものがあり、それを満たしているかで判断される。
決して学問という高尚な世界だから、読解力も高尚に測定されるというわけではない。これを常識の相対性ということができる。
しかし、幸いなことに、文化相対主義なんて古めかしい理論を引っ張ってくるまでもなく、
常識は相対的だというのは我々の新たな常識となりつつある。これも時代の流れというものだろうか。
LINEを始めとする新時代のコミュニケーションツールは、我々の情報環境に新たな複雑さを付け加えた。
結果、若い世代の人間ほど複雑に入り組んだ人間関係の中で、うまく常識を使い分けてやっていく術を
身につけている、という奇妙な逆転現象が生じ始めている。新世界において読解力は所詮それぞれの
コミュニティに応じた空気を読めるかという能力に過ぎないことが理解されるようになった。
新世界では、自分の所属しているコミュニティの空気を一通り理解できるだけでなく、所属コミュニティ
がどんどん流動していくので、その都度新たに加入したコミュニティの空気を読めることが求められる。