はてなキーワード: 凡庸とは
死ぬのは嫌だし、すごく怖い。今だって、何かの病気になって死に向かうことを想像するだけで胸が苦しくなる。
人は必ず死ぬ。死ぬと脳の電気信号がなくなって「意識」が消える。その先には天国も地獄もなく、それで終わり。
そして、普通の人間なら、死後 100 年も経たないうちに、誰の記憶からも消える。
下手すると、もっと短いかもしれない。忘れ去られれば、生きていなかったのと同じだ。
しかし、インターネットのニュースになるような死に方をした人達はどうだろう。
どうせ、あと 100 年のうちに生きた意味すらなくなる人生なのだから、多くの人の目に触れて、
記憶と記録に残り、今を生きる人たち(といっても、たまたま件の人間よりも死ぬのが少し遅いだけの人たちだ)に
笑ってもらえるならば、何もないよりも遥かにマシだろうと思う。
自分はニュースにもならず、誰にも知られないような凡庸な死に方をするのかもしれないが、
38歳のオッサンになって、生きることが楽になった。禿げてきても「まあボチボチ40だしね、仕方ないか」とそれほど悲しくなかった。息切れも性欲の減退も揚げ物があまり食べられなくなったことも全く同じように、年相応の衰えだと納得できた。これはとても楽でいいなと思う。
今までは「もう20過ぎたのにアレも出来ないコレも出来ない」みたいな苦しみ方をしたり「まだ30なのに衰えが始まった気がする」と怯えたり、そんなことが多かった。でもこう、40が迫ってくると自分が何に関しても大した才能を持たず平均的な労働力でしかないことや肉体的な衰えを、自然な変化として受け入れることが出来るようになった。
僕は何者にもなれなかった。もっと言えば何者かになろうと必死で足掻くことをダサいことだと勘違いして避け続けた結果、凡庸な中年男性になった。でもまあ生きていける程度に給料はもらえて、健診でも特に問題はなくて、たまには連休を取って温泉なんかに行くくらいの贅沢で十分に満足できて、悪かない。
でもやっぱり「ちゃんと必死に夢を追って挫折して」みたいなのをやってきた人が眩しく見える。僕はこの歳までちゃんと挫折することを避けて生きてきて、だからこそヘラヘラ出来てるし、健康も失わなかった。その代わりきっと、どんな人から見ても全然眩しくない。
何かをちゃんと頑張った方が良かったのかもなとも思うし、いやあやっぱ僕にはこんな感じがお似合いだとも思う。どっちなんだろうね。
ふらふらさんの「単純作業にあたる作業を自動化してハッピーになった組織の話」を読んで、それを実践し続けたひとつの組織の話を書こうかと。
結論から言うと「能力がある一定以下のメンバーが(程度の差こそあれど)精神疾患に陥りやすくなってしまう」組織になってしまった。
自分が業務を自動化しはじめた当初は、元記事の方のように周囲からはとても好意的な反応を貰え
元記事の方と異なる点として、その業務は上司からも好意的な反応をもらえるようになった。
人間はミスをするが、ロジックさえ誤っていなければ機械がミスをすることはない。どちらがコストが安く、正確なのかは一目瞭然だからである。
上長を含め、周囲から好意的な反応をもらえるようになると、徐々に「これも自動化できるのではないか」と自発的に行動しはじめるようになる。
人によっては、教えてもいないのにPythonやGASを覚え、自身の業務をさらに自動化させていく。
1人あたりの生産性が数倍にも跳ね上がり、削減したコストで給与を上げやすくなる組織になる。(br)
その風潮が2年も続くとどうなるか。
すると組織には「新たな仕事を生み出せる人間」と「既存のタスクであれば自動化できる人間」の2種類以外が存在しづらい組織となってしまう。
今までであれば「教えてもらった仕事をそのままこなせば、贅沢しなければ食うに困らない給与をもらっていた」人間が、「自身が成長しなければ、組織の中で仕事を得ることができない」存在になってしまう。
そういった大多数の凡庸(失礼)なメンバーは、「自分ができる仕事がない」と感じるか、「求められている成長スピードについていくことができない」と感じ、徐々に精神を病み、辞めていってしまった。
多くの人間は、「自分が必要とされている」と感じない組織では、多かれ少なかれ精神を病む。自分にできる仕事がなくなるということは、そういうことなのだ。
優秀なメンバーだけでやっていくようなベンチャーだったり、組織自体を変えないと潰れてしまうような企業であれば良いかもしれない。
実際に、自分のいた組織は「組織自体を変えないと潰れてしまう」フェイズだったため、やったことは間違いではなかったと思っている。
が、「現状のままでも十分にやっていくことできる」組織であれば、大多数のメンバーの仕事を奪う変革を起こすことは正解なのだろうか。
そんなことを思ったりした。
ふらふらさんの「単純作業にあたる作業を自動化してハッピーになった組織の話」を読んで、それを実践し続けたひとつの組織の話を書こうかと。
結論から言うと「能力がある一定以下のメンバーが(程度の差こそあれど)精神疾患に陥りやすくなってしまう」組織になってしまった。
自分が業務を自動化しはじめた当初は、元記事の方のように周囲からはとても好意的な反応を貰え
元記事の方と異なる点として、その業務は上司からも好意的な反応をもらえるようになった。
人間はミスをするが、ロジックさえ誤っていなければ機械がミスをすることはない。どちらがコストが安く、正確なのかは一目瞭然だからである。
上長を含め、周囲から好意的な反応をもらえるようになると、徐々に「これも自動化できるのではないか」と自発的に行動しはじめるようになる。
人によっては、教えてもいないのにPythonやGASを覚え、自身の業務をさらに自動化させていく。
1人あたりの生産性が数倍にも跳ね上がり、削減したコストで給与を上げやすくなる組織になる。
その風潮が2年も続くとどうなるか。
すると組織には「新たな仕事を生み出せる人間」と「既存のタスクであれば自動化できる人間」の2種類以外が存在しづらい組織となってしまう。
今までであれば「教えてもらった仕事をそのままこなせば、贅沢しなければ食うに困らない給与をもらっていた」人間が、「自身が成長しなければ、組織の中で仕事を得ることができない」存在になってしまう。
そういった大多数の凡庸(失礼)なメンバーは、「自分ができる仕事がない」と感じるか、「求められている成長スピードについていくことができない」と感じ、徐々に精神を病み、辞めていってしまった。
優秀なメンバーだけでやっていくようなベンチャーだったり、組織自体を変えないと潰れてしまうような企業であれば良いかもしれない。
実際に、自分のいた組織は「組織自体を変えないと潰れてしまう」フェイズだったため、やったことは間違いではなかったと思っている。
が、「現状のままでも十分にやっていくことできる」組織であれば、大多数のメンバーの仕事を奪う変革を起こすことは正解なのだろうか。
そんなことを思ったりした。
けみお(kemio)が売れたのは何故か?ということについて、けみおの独自のキャラクターがウケているということになっている。
確かにそれはそうなのだが、けみおの凄さというのは、自分を置く環境をキッチリ見極め、見切ってきたことにあると思う。けみおが日本で平均的で凡庸な暮らしを続けていても、奇抜な服装で原宿を闊歩する「ギャル」として生きていても、CMに起用され、Diorのような一流メゾンと仕事をすることは無かっただろう。
その人の個性が他の競合との差別化として大きな比重を持つのが、インターネットやSNSという場所である。その場所に種を撒いたからこそ、大きな花を咲かせることになった。
もちろん、けみおにはけみおなりの「企業努力」もしている。ヒカキンにしろ、炎上ということは避けようとしているし、人を楽しませようという考えがベースにあり、薬・異性関係・犯罪などの不祥事も起こさない。今ネットで若い人に支持されるアカウントというのは、「人を傷付けない」という共通点がある。ヒカキンにいたっては、マーケティング的にそのことを意識しているのは違いない。また、幅広い人に認知されるまで、コンスタントに動画を作って、配信してきた下積み期間もある。SNSとスマホ時代の、時流に乗ったという運要素も大きいが、彼らもそれなりに努力はしている。楽をしてお金を稼いでいるようで、それなりに大変な稼業である。
いずれにしろ、自分の能力や素質を最大限に発揮したいと思うなら、種を撒く土壌は選ばなければならないと、痛感するのだ。自分の素質を客観視すること、そして自分を置く環境の大きさというものへの、本能的・直感的な察知能力について、けみおは優れていたのではないかと推察するのだ。
アーティストやクリエイターになれるわけないし、大人物になれるわけがない。
そんなの両親の姿や周りの環境を見ていたらわかるし、学校の成績がそう物語っていた。
今32歳で非正規雇用。給料の手取りは17万。貯金もないし、未来もない。
なぜこうなってしまったのかを振り返ると、この「自分なんて大したことない」という考えだったような気がする。
自分が大企業や入りたい企業に入れるわけないから、入れそうな中小企業ばっかり受ける。
自分が特別な存在になれるわけないから、そもそも努力しない。勉強しない。凡庸でいいんだ、自分は。そうやってただ何となく過ごしていた。
入試の倍率が今の2~3倍くらいの時に多浪して藝大デザイン科入った卒業生です。
学部・修士を経て、自分の学年をはじめゲーム好きが多い学年だと同窓生2~4人くらい任天堂に就職してた。
今は定員が45人なので、率にしてだいたい同窓の5~10%弱の人が就職してる。今も多分似たようなものじゃないかね。
昔は狂気じみた技巧と努力が必要だったけど、今はそうでもない。っていうか、現役藝大生でしっかりとした実力があるのは一部で、あとは凡庸。うっかり受かっちゃったみたいな実力の子も多い。
最近の子の受験時代の作品を見る機会があったが、デッサンはまあまあ上手いけど、平面と立体は結構下手。現役合格も全然現実的だと思うよ。間違いなく少子化の賜物。
逆に、昔と比較して賢い子は増えた印象。絵にステータスガン振りして頭がパーって子はいなくて、みんな頭がいい。
良くも悪くも藝大と私大は全然違う。藝大は貧乏なので機材や制作環境には絶対期待しないこと。指導も含めて、私大の方が手厚い。藝大は「藝大に受かった人と一緒に制作ができる」っていうのが最大のメリット。レベルの高い人ばかりなので切磋琢磨の次元が違う。逆に言えばそれだけ。
ついでに。「私大と比較して藝大なんて就職できない」はもう昔話。業界を問わずデザイン科の卒業生の活躍はあちこちで聞くよね。
昔より入りやすいし、選択肢としては現実的だと思う。制作環境は決して良くないが、自由でアットホーム。卒業生の母校愛が強いことからもいい学校だというのは実感できるよ。
かくいう私も同人女(腐女子)なんだけど、凡庸にももっと作品を見てほしいな~っていう話をするね
最近ハマったジャンルが数年前に旬を終えててさ、推しカプもメジャーなほうなんだけど、いかんせん今も描いてる人って少なくてね。
よりメジャーな別カプは今も活発で描き手も読み手も多くて羨ましいな~って見ていたのさ
まあエエわ私はこの萌えを形にするぜ!!!!!!って自分にしても珍しいハイペースでこの数か月作品描いては公開してたんだけどさ、
反応がまあ少ない(別の旬ジャンルにいたころと比べてだから、そこそこ見てもらえてはいたんだけど)
見る人も少ないんだな~寂しいけどこればっかりはしょうがない…って思ってたら
最近新規描き手の参入があり、もう新しい供給に諸手を挙げて喜んでたんだけど
人って、いるところにはいるんだなあ
シンプルに私の作品が見られてない(反応されてない)だけだったわ、って大笑いしちゃった
わかるわかる、力不足だよ。反応なくても自分が満足できればいいはずだよ。
しかしなあ、描き手が少ないから、自分への反応も他人への反応もよく目についちゃって。旬ジャンルにいるときは数多の描き手に紛れて下手でものびのび楽しめてたのに。
せめて自分に誰かファンみたいな人が現ジャンルで一人でも居てくれたら心の支えにもなるんだけど、そこまでの力がないんだな。無念。
(旬ジャンルにいたときはあんなに下手でもF外から熱烈な感想くれたりするファンがついててくれたんだよ。本当に恵まれてた)
(別ジャンルの時からのフォロワ~!今も反応くれてありがとう大好きだよ!!!!!!!!!)
作品以外の対策も思いつくよ。古くからのファンのコミュニティに入る事ね。身内をぬるぬる褒めるぬるま湯コミュが出来上がってるのさ。
ただ、彼女たちの作品が好きじゃない、日常ツイが多くて嫌、ぬるま湯に入るのはプライドが邪魔をする。とかでそちらに行く選択肢は選ぶことはないですね。
は~~~~自分の作品で描き手を増やすようなパンチ力のある二次創作がしたいな~~~~精進します
今回話した反応っていうのはツイッターのいいねだけどね、普段はあれ気にしてないんだよ。今回は想定してた推しカプ読み手母数を上回ってって面白くなっちゃったけど
いいねってほぼ無反応だと思ってるんだよね。うれしいけどね。でもそれよりリプのがうれしい
ジャンルの風潮なのか、あまり直リプで感想送る人っていなくて。RT後の空リプでも感想を書いてくれる人が少ないから、わたしゃ乾いちまったよ
ずっとこの日を待っていた。
ELLEGARDENの復活の日。10年間私はそのために生きてきた。
よくよく私は生きることに関する意欲のない人間だった。
食べることも寝ることもさして好きではない。家事なんて高度なことはほとんどできない。
こだわりもなく、思い入れのようなものもない。仕事でも、お前はロボットのようだと言われることがある。
そんな中、唯一私が心を動かされたのが、音楽だった。
ELLEGARDENを初めて聴いて以来、ずっとどこか、拠り所のようにしてきたように思う。
ここで才能のある人間ならば、音楽の道を志したりするのだろう。
残念ながら私は、無才で凡庸で弱い人間だったので、そんな妄想を時たまするくらいだった。
当時、私は高校生だった。
お前は何者になりたいのだ、と沢山の人々に問われながら、何者にもなりたくないなどとゴネまくっていた。ただのモラトリアムだ。
そんなときに拠り所としていたのがELLEGARDENだった。何の、と言われても困るけど。
ELLEGARDENが活動休止を発表したとき、私は、突然に基軸を失ったのだと気付いた。
実物を目にしたのは、夏フェスでのたった一度だけだ。
復活をするときには、必ず会いに行く、と何かに誓って、生きてきた。
そして、突然の活動再開。
会いに行くこと叶わず。
それでも諦めきれず、今年、やっとフジロックで彼らを見ることができた。
ここで感想を書きたいところだが、記憶が断片的で今ひとつ繋がらない。
再来月にナナイロを見たら、もうあと人生にやり残すこともない気がする。
もうすぐ多分私は最終回なのかな、という気がする。
とても楽しみだ。
10日発売の『文藝春秋』に芥川賞の選評が載っていて、二回連続で落選した古市さんがいろいろ言われている。
候補作は単行本で出版されているが、まだ読んでない。だが、高学歴なのにビルの窓の清掃員をやってる主人公の話で、参考文献が詳細にあげられているらしいことは、なぜか知っている。
参考文献については、前回だったか、候補作の剽窃問題があって、その辺の対策らしいと噂されていた。
で、選評である。
まず山田詠美はこう書く。“(参考文献の)木村友祐作「天空の絵描きたち」を読んでみた。
そして、びっくり! 極めてシンプルで、奇をてらわない正攻法。候補作よりはるかにおもしろい”
“候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっとずっと巧妙な、何か。それについて考えると哀しくなって来る”
続いて川上弘美。“結論からいいます。わたしは悲しかった。木村友祐さんの声がそのまま「百の夜は跳ねて」の中に、消化されず、ひどく生のまま、響いていると、強く感じてしまったからです”
“古市さんのおこなったことは、ものを創り出そうとする者としての矜持にかける行為であると、わたしは思います”
吉田修一。“本作に対して、盗作とはまた別種のいやらしさを感じた”
“あいにく『天空の…』の方は書籍化さえされておらず入手困難であり、まさにこの辺りに本作が持ついやらしさがあるように思う。”
堀江敏幸。“他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか”(原文では「かっぱいでも」に傍点あり)
要するに、古市さん、文芸誌に掲載されたが出版されていない佳作を探してきて、うまいこと翻案して小説書いたようである。
いや、具体的にどの程度の参考具合なのは確かめてないので、なんとも言えないが、当代きっての作家先生方が、かなり憤っておられるようなので、相当なものなんだろう。
是非比較して見たいところだが、「参考文献」の方は、『文学界』2012年10月号、だそうなので、確かめるには、図書館でバックナンバーを出してもらうしかなさそう。
にしても、古市さん、お忙しそうなのに、純文学の文芸誌まで必死にあさって「参考文献」集める努力は大したもんだが。
まあ「情報集め」は嫌いじゃなさそうだしな。
まさかとは思うが、担当編集者がうまいこと見繕って選んだのを古市さんに読ませてるとか、そういうことじゃないよね?
島田雅彦曰く“ナルシスト的私語りが中心で、リアリティ構築に必要な細部も情報のパッチワークに終始しているのが気になった。”
どうやら評価したのは奥泉光だけで、“今回自分が一番押したのは、古市憲寿氏の「百の夜は跳ねて」だったが、選考会の場で評価する声はほとんど聞かれず、大分弱った”そうである。
“外にあるさまざまな言葉をコラージュして小説を作る作者の方向を、小説とは元来そういうものであると考える自分は肯定的に捉えた”そうだ。
ここには、小説における“オリジナリティ”とは何か?という問いが含まれている。
ま、小説なんてそもそも「すでにある言葉」の組み合わせでしか書けないじゃん、というのはある。
で、ありもののコラージュでも新しいものが生まれればいいけど、山田詠美は「参考文献」の方が「はるかに面白い」って言ってるしなあ。
吉田修一は、「参考文献問題」以外にも手厳しくて、“凡庸で差別的な価値観の主人公を小説で書いてもいいのだが、作者もまた同じような価値観なのではないかと思えるふしもあり、とすれば、作家としては致命的ではないだろうか”なんて言っちゃってる。
これは、社会学者にして人気コメンテーター(タレント?)としての活動にも少なからず影響しそうな評価だと思うけど、ま、芥川賞の選評なんて、今時の世間に影響力なんかないのかな?
古市さんという人、本をちょっと読んだことがあるのと、時おりメディアでお見かけするだけで、どんな人か詳しくは知らない。
ただ、妙に芥川賞を取りたがっているらしいという噂は聞く。
なんでだろ?
“気鋭の若手社会学者”も“テレビで毒舌が人気の論客”も、実に空虚で脆弱な肩書きで在ることに、ご本人が一番気づいているということだろうか?
そこで、「学者として研究に力を入れる」ではなく、「いい感じの小説を見つけてきて、うまいこと翻案して芥川賞ねらう」って辺りが、実に薄っぺらいけど。
テレビで知名度得た人が芥川賞狙うって図式では、又吉直樹といつ成功例がある。
あの「火花」という作品が、そこまで傑作かどうかはともかく、この人は本当に、太宰治を筆頭に、文学というものが大好きで、おそらく文学に救われたという経験を持っていて、文学をリスペクトしていることが端々から伝わってくる。
あんまり文学とか語ってるのを聞いたり読んだりした印象がないのだが。
前回の選評では、「ナルシシズムが過ぎる」とか「自己肯定というより自己過信」とか、これまたかなり厳しい言葉が並んでいたと記憶する。
単なる自分語りの舞台として小説を選んでいるのだとしたら、ずいぶん旧い、日本文学における「私小説」偏重な文学観をうすっぺらくなぞっただけかもしれないが。
なんだろうなあ?
社会学者もコメンテーターも、ありものの言葉を組み合わせつつ、持ち前の地頭とセンスと要領でなんとなく現在地位を掴めちまったっぽいだけに、「小説? これくらいなら、ボクでもかけるじゃん」とか思っちゃったんじゃないかなあ、という疑いを禁じ得ない。
【追記】
えらくブクマついてる。文藝春秋なんて読んでないけど、中身は気になるって人は多いのかなあ、と思ったり。
「参考文献」の著者、木村友祐さんがtwitterで発言されておられるので、追記しておく。
本件、「古市さんが窓拭きに興味をもち、取材依頼があり、応じました。窓拭きの達人を紹介しました。古市さんはその取材をもとに書いてます。」そうだ。
お詫びしたい。
なお、「窓拭きの細部以外は、ぼくの作品と古市さんの作品は別のものです。そしてぼくは、〝知名度がないゆえに作品を利用されたかわいそうな小説家〟ではありません」とのこと。
にしても、選考委員の先生方は、どの程度経緯をご存じの上で選評を書かれたのかは分からないけれど、えらく憤っておられるようで、なにがそんなに山田、川上、吉田各氏に火を着けたのか、検証してみたくはある。