はてなキーワード: マウンティングとは
ハリウッドに端を発する #MeTooで提起されている問題の中核部分が
であることは、主張者・賛同者一人一人に聞いても「その通りだ」と言ってもらえると思う。
まさか、「権力・強制力とは関係なく、いやらしいジョークで不快にさせられた」程度のことではあるまい。もしそうだというなら、本家の運動と照らし合わせる限り、それは今回の#MeTooとは別のものだろう。
発端となったアメリカ映画界のケースは、"W"なる人物による被害をこれ以上広げないという意思も含めた「緊急避難」として告発を行ったという意味合いもあろかと思う。
法律の外だけで社会的抹殺を行おうという動きではない。きちんと訴訟も行われている。
[ハリウッドのセクハラ騒動:ハーベイ・ワインスタインに関する訴訟はどうなっているのか(猿渡由紀) - 個人 - Yahoo!ニュース](https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20171128-00078657/)
メディアを利用した社会的告発に対しては、相手方から名誉棄損などで訴えられる可能性もある。また、復讐心に基づく私刑(リンチ)ではないことを示す必要もあり、訴訟行為は当然と思える。
https://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/ASL131P4HL13UHBI001.html(「もう終わり」ハリウッド俳優ら、セクハラ訴訟基金設立)
一般社会のケースでの訴訟費用の支援が話題となっている。#MeTooの結果として相手方から起こされる訴訟も想定しているだろう。
自分の感じ方にすぎないが、本家ハリウッドの人々は自らのアクションに少なからず復讐心やリンチ性の要素が含まれていることを自覚しており、また「しょせんハリウッドという舞台でのマッチョな人々の内輪喧嘩ではないか、我々の生活とは関係ない」という一般の人々の厳しいまなざしをも感じ取ったうえで、さらなる公益性を目指しているように思う。
翻って、本邦の#MeTooでは告発者が将来的に払うことになるコスト(世間からの好奇の目・加害者側からの復讐など)の大きさを理由に、これ以上のコストを払う必要はなく、法律の外で加害者を社会的に抹殺する手法でよいと考えているように見受けられる。
[職場でのハラスメントでお悩みの方へ(セクシュアルハラスメント/妊娠・出産・育児休業等に関するハラスメント/パワーハラスメント) |厚生労働省](http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyoukintou/seisaku06/index.html)
がある
まずもって、これは雇用された者同士の問題というより、雇用主が解決しなければならない問題である。
もし話し合いで済まなかった場合は、まずは訴訟を考えるべきである。メディアを利用した告発とセットでも構わないとは思う。
仮に、話し合いで済んだにも拘わらず、社会的告発をしたいというのであれば、それこそ社会的非難を覚悟で行われるべきであろう。
いずれにせよ日本もアメリカ同様、法治国家なのだから、本来の手順を意識する必要がある。
「#metoo はリンチではありません」と宣言しているが、それは独自の解釈であろう。
被害者として名をさらしており、匿名の立場から石を投げているわけではないからといって、ただちに私刑としての性質から逃れられるものでもない。
もし、メディアを利用した社会的告発だけで問題が済むというのであれば、少なくともアメリカ発の#MeTooに自らを連ねるのはやめたほうが良いと思う。
もし、法律の外の告発だけでよいとすると、下記のような懸念が考えられる。
これらに対して社会的合意が形成されない限り、このタイプの#MeToo運動は深刻な問題を起こす。
まず、#MeTooを「アメリカ出羽守」や「フランス出羽守」として我が正義のマウンティングに走るより、もっと地べたから考えていくべきであろう。そして、それが#MeTooというハッシュタグのもとに語られる必要は全くない。
セクハラを「力関係の濫用」ととらえるか「不愉快行為・不愉快言動」まで広げるか(少なくともハリウッドの#MeTooは前者であろう)、本邦ではこの付近こそが争点になっていると見受けられる。それゆえ独自の問題系もあるかと思う。
また、#MeTooの周辺問題系としては、過去・現在についての個人的救済もさることながら、類似の問題を未然に防ぎ、未来に向けてよりよい環境を作ろうというテーマも含まれるように思う。ここについての議論がもっと必要なのではないかと感じる。これもまた、本家#MeTooベースで考える必要はない。例えば「就職時のOB訪問のあり方」、「副業解禁による個々人のフリーランス化(新たな上下関係が発生する)」など、具体的な問題をもとに性被害防止に向けたアイデアを出し合うといった、地に足がついた議論があってもよいのではないだろうか。
このことを思うとき、先般の件を受けてD通はどう変わったのであろうか。あくまで組織内の問題かもしれないが、社会への還元があってもよいように思う。
https://twitter.com/nhk_nehorin/status/951099083074056202
最後の腐女子用語辞典【解釈違い】キャラの受け取り方が自分と違うこと。イライラすることもある。例)「番組に出てた腐女子の話に納得いかない。完全に解釈違い!でもしょうがないよね、100人いたら100通りの腐女子がいるんだから・・・」ご視聴ありがとうございました🐽 #ねほりんぱほりん https://t.co/1sVh0dQNWf
マッッジで。
「男って~~だよね」「女には~~な傾向があるから」みたいな語り口で腐女子を語ろうものなら大炎上が約束される。
誰もが(この言い方も怖い)、「あなたはそうでも私は違う」を持っている。例え他者から見れば誤差の範囲だろうが、一人一人自分の腐女子としての輪郭をはっきりと持っていて、その差違をないがしろにされることを嫌う。
なんでだろうな、「男」「女」なんてカテゴリよりずっと狭いのに。
でも、もしかしたら、本来人をカテゴリで語るなんてのはこんくらいめんどくさくて然るべきなのかもしれないが。
なんで男同士に萌えるの?
と問われたとき、私にとって一番原点に近い表現をしてるのは下記の動画だ。
ここで言われているのは、端的に言って、
ホモが嫌いな女子なんていません!という平成も浅い頃の暴言があるが、
少なくとも女子の多くは、おっさん同士が無邪気になかよしだとわけもなく嬉しい。と、思う。
ヒロエさんは男性なので男性にもある程度は通じる感覚なのかもしれない。
でもまあ、人と人が仲良くしているな、と見てとれるとき、その多くは喜ばしい。
にこにこと仲良く戯れていたら、やっぱり微笑ましいしなんだかうれしい。
でも男女だと、そこに性の香りが漂うと、感想の種類はぐっとかわる。
終電前の改札前でいちゃいちゃしてる男女はまあまあ見苦しい。優しい気持ちにはならない。
でも、たとえおっさんのいちゃいちゃに喜ぶ人が世の中の何割であろうと、みんなが腐なわけではもちろんない。
だってみんなチームナックスを見ても彼らのセックスを連想しない。
(腐女子が全員セックスを連想しているかというとそうも言い切れないが…ここはややこしいがとりあえず話を進める)
そもそも前述の通り、人と人が仲良くしてるのは微笑ましくても、性的な要素は多くの人にとって微笑ましくない。
腐女子は微笑ましいものにわざわざ性の要素を見いだそうとする。
ようやくねほりんぱほりんの話をするが、あの30分間で一番私の心に刺さったのはこの言葉だった。
この、能天気な、使い古されたみたいな言い回しは、けれども「腐」というものの一面をとらえてるんじゃないかと私は思う。
そうなのだ。腐の世界は、すべての感情を、行動を、あるいは状態を、愛によるものだと意図的に読み違えることで成り立っているのだ。
だから、友情にもコンビにも兄弟にも愛を見いだすし、天井と壁にも愛を見いだす。
(ここでいう「愛」は「恋」である必要はないのだが、その辺は後述する)
そして、ここが重要なのだが、性欲とは愛に対して従であると、腐は思っている。
終電前の改札でいちゃいちゃしているカップルはあんまり微笑ましくないと書いた。
見知らぬ人たちが、泊まるか泊まらないかやるかやらないかの駆け引きをしているのを見るのは、何ならちょっと不快だ。
でも、それは、通りすがりの私の目には彼らの性欲しか見えないからだ。
彼らが「心から愛し合っているのだ」と認識したとき、その感想は変わる。
「逃げ恥」のじれじれしたベッド回りのあれこれを見たとき、あれを不愉快に思う人は多くなかったのではないか。
そこに愛を認識できれば、他者のものであっても性欲は不快なものではなくなる。
私もそう思う。
腐の妄想世界のなかでは、人は酸素を吸うように愛を吸っている。
話すのも食べるのも、笑うのも泣くのも、生きるのも、死ぬのも、すべて愛のためだ。
もちろん現実はそんなわきゃない。人は嫌うし憎むし見下すし嫉む。
でも、妄想世界のなかで、それらもみんな愛だと誤認する。意図的にする。
そこまでしてはじめて、恋について語れるし、性欲について語れる。
恋と性が大好きなわけではない。むしろ恋も性も汚い側面を有していることをよく知っている。
だからこそ、「この世のすべての感情は愛」な妄想世界にトリップしてやっとようやく、恋と性について語れるのではないか。
なんでだろうね。
天井と床の間に、唐揚げとレモンの間に、電車と駅の間に愛を見いだすとして、
どうして男女でもなく女同士でもなく男同士にたとえてしまうんだろう。
少なくとも私は、腐以外でこの手の「愛を見いだす遊び」をしている人たちを知らない。
「私とは違うなにか」でありかつ「同質に並び立つ二人(ふたつ)」が重要なのかもしれない。
私という現実の人間は愛じゃなくて酸素吸って生きてるので私に近い要素は必要なく、
彼岸の愛の世界で生きている人たちは同じ愛を吸う同じ種類の生き物だと思うのかもしれない。
やっぱ苦しいな。単にちんこすきなだけ!っていう清々しい腐のみなさんが一定数いることは書き添えておく。
ねほりんぱほりんでは、一人の出演者が男性にしつこく付きまとわれた過去を話した。
それがマジとか嘘とかマウンティングとか違うとかはどーーでもよいのだが、
ただ、そうなのだ。腐という趣味はその人の性的経験としばしば関連付けて語られる。
本人も、「私はなぜ腐女子なのか」と考えるとき、自身と男性との関係性について考えてしまう。
では、愛でくるまなければ恋も性も語れないというこの増田は、一体男性にどんなトラウマがあるというのか…!????
私は、そんなの聞かれなくていいし考えなくていいと思っている。
なぜ好きなのか?を考えて、趣味と過去の経験を結びつける必要はないのだ。ましてネガティブなものとなんてぜんぜんいらない。
何が好きなのか、どんなところが好きなのか、そんなことを考える方がずっといい。
でもなーーしちゃうんだよな!なんでだろうな!!
ねほりんぱほりんの三人の腐女子たちが自分はどんな人間かを語っているとき、私にとって目新しい言葉はひとつもなかった。
彼女たちの自己分析は、ネットに転がっている腐女子「たち」の語りの集大成のようだった。
どっかで見たことばっかだった。
腐女子は、「100人いれば100通り」であるにも関わらず、どこかで「私たち腐女子」という自意識を持っている気がする。
誰かの自己分析は私の自己分析で、自分について語る言葉は際限もなく膨れ上がる。
「私たち」は常に語らなければならないと思っている。
養老孟司が「いわゆるオカマの人は頭をよく使う」ということを言っていた。
マツコは「そうかもしれない」と応じた。「だってアタシ、トイレ入るときだって、自分はどっちなのか考えるもの。」
「私は何者なのか?」を考えてしまうのがマイノリティなんだと思う。
人はじぶんがマイノリティの側であると思ったとき、「私はなぜこうであるのか?」を考えずにはいられない。
腐女子もそうなんだと思う。「私はなぜこうであるのか?」それを語るために、「私たち」は「私たち」を語る言葉を溜めていく。
100人いれば100通りのはずの私たちは、似たような言葉を使って自分を語り、共感し、それでいていっしょくたにされることを嫌う。
私は何者であるのか。
私について私が語るとき、私は自分が女であることより、30代であることより、会社員であることより、腐女子であることを語るだろう。
「私たち」は問われ続けるし語りつづける。でもいつか、自分のネガティブな経験と腐を繋げて語る人がいなくなるかもしれない、と思う。
大半の人が人気付き。スーパー研究者だけが妻を養える安定した生活を手に入れられる。
研究者が子供の写真ベタベタ貼ってたりするのは、俺は安定したポストを得られたスーパー研究者だぞっている、他の不安定なポストで苦しんでる研究者に対するマウンティングなんですよ。
反発はあろうが、現実、研究者業界は優秀で安定的なポストを取れた人だけが子孫を残し、更に優秀な次世代を残す進化論みたいな状況になってる。
スーパー研究者(男性)は、複数妻を持って何人も子供作らせた方がこの国のためだと思いますよ。
俺は安定したポストを持っていないので、優秀じゃなかったということで国が私の子作りを禁止するべきなんですよ、本当は。
同い年だけど私社会人彼氏大学生だからデート行く時は私がおごる時が多い。っていう話を友達にしたら「え、彼氏なのに奢られるの?せめて割り勘でしょwまあ私は出したことないけど」とマウンティングされ更には「童貞っぽいよね、彼氏www」と言われ絶交した。
ただでさえ少ない友達が減った。はあ。
はあちゅうに端を発した童貞論争。田端信太郎の童貞卑下発言も相まってかなりの炎上を起こした。
やっと落ち着いてきて、人々も冷静になっただろうから本当の童貞が少し話を広げ、「非モテ」がなぜモテないのか真実を書きたい。
彼はこういう。「童貞は行動しろ、行動すれば童貞は抜けられる」と。
その通りと思うけど、では童貞の揶揄をやめれば、彼らは救われるのでしょうか?煽りへの反発から1人でも実際の行動を変える人が出ないかな?と思いつつ煽る私。>「童貞」揶揄は、マウンティングの儀式にすぎません。>非モテを叩く勝者と分断された日本 @May_Roma https://t.co/mDdRwZKovh— 田端 信太郎 (@tabbata) 2017年12月23日
きっと、そうなのだろう。行動すれば、変わるのだろう。
しかし、長年「非モテ」として生きてきた人間にとって「モテ」とは神秘であり神話である。宗教の神みたいなものなのだ。
だから、自分みたいな人間が、ちょっとやそっと行動した程度でモテてはいけない。モテを汚してはいけないと思っている。
私はアラサー喪女のワープアだ。最近、私と同級生だった子のお母さんから、私の親のもとに電話かかってきた。この人はいわゆるマウンティングが好きな人で、私なんかは格好のネタなのでこうやってよく電話がかかってくるのだ。そんな人切ればいいじゃん、と思うが、切れないのが田舎の辛いところである。母の話を聞く限り、息子の栄転が決まって結婚したので、自慢するために電話をかけてきたらしい。彼女は母にこう言ったそうだ。「増田ちゃん(私のこと)、大学出てるのに、人生いったいどうなっちゃってるのよ〜」と。母が私にこれを伝えた理由は単純ではないと思う。決して言えない母の私に対する本音を言うチャンスだったのかもしれないし、傷つけられてとても一人では抱えきれなかったのかもしれない。私の反応を見て、状況を変える気があるのかとか、ストレス耐性を見たかったのかもしれない。わからない。でも本当に傷ついた。確かに私の人生は誰が見たってとっちらかってるが、私なりに必死に生きている結果だ。それをああだこうだと評価しても良いのは、家族とか、転職関係者くらいじゃないのか。彼女は私(と私の母の)の自尊心をぐちゃぐちゃに踏みつけることで、ちょっとした甘美な喜びを得たのだろう。これが人間のやることかよーーー!…………って、反論できる立場ですらないんだよね。アラサー喪女ワープアでなければ、彼女はそんなことを言わなかったし、母もそんなことを言われなかった。私も何も言われなかった。平和に回ってたはずなんだ。私が間違わなければ。悲しみとか怒りが込み上がってくるけど、あんたそれ言えた立場じゃないよ。ってシャットアウトされたエネルギーが、涙になっている零れてくる。泣いたって何も解決しないし本当に呆れるんだけどさ。ほんとに子供なんだよね。でもつらいししんどいから増田に書いた。次からはこういうエネルギーは全部転職のための勉強にぶつけます。読んでくれてありがとう。あなたのこれからの人世が良いものでありますように。
元増田だけど
以下引用
化粧の話ならオタク限定タグではなく普通にやればいいのに、敢えてオタク相手にやりたがるってのが
「普通の女子に話してもスルーされるかそんな普通の事をわざわざドヤるなよと思われるけど、オタク相手ならドヤれるだろう」ってのが透けて見えて
マウンティングだと言われるのでは。
これが「夏コミでも崩れないメイク」とか「コスプレの特殊メイクをやるのに適した化粧品」などの
オタクならではの話題として出したのであれば別に叩かれないと思うけど。
引用ここまで
「夏コミでも崩れないメイク」というのはオタク専用タグというやつないのでの?見てた限り「ベストコスメ」などコスメ垢と同じものを使ってたからオタク専用ではなくない?(コスメオタク専用ではあるかもだけど)なんか闇が深そうだな……
自分が良かった程度のことなんてマウンティングとは言えないだろ?とおもう。
かといって、「よかったよよかったよよかったよ」と何かの押し付けをしつこくする奴がいるからマウンティングと呼ばれることがあるのではないかというのが一つ。
○○ポルノとか、偽善みたいに、とりあえずなんかモヤモヤとしたものに流行りの手っ取り早い悪口(マウンティング)をぶつけて支配したいというのがもうひとつではないか。
化粧の話ならオタク限定タグではなく普通にやればいいのに、敢えてオタク相手にやりたがるってのが
「普通の女子に話してもスルーされるかそんな普通の事をわざわざドヤるなよと思われるけど、オタク相手ならドヤれるだろう」ってのが透けて見えて
マウンティングだと言われるのでは。