はてなキーワード: ピーとは
https://anond.hatelabo.jp/20201121180541
これはKADOKAWAのブックウォーカーの漫画以外の売り上げ推移が伸びていることとも整合している。
意外と知らない「ライトノベル」ブームの現在 | 読書 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
https://rev.hatenablog.com/entry/2019/08/14/222803
https://srpglove.hatenablog.com/entry/2019/07/30/005910
ラノベは衰退している、KADOKAWAは衰退していると思い込み、
あげく、2007年からすでに衰退を始めていたとぬかしているということ。
2007年は若者だったのかもしれないが、それでも13年経ってることを考えると30前後か下手をするともっと上だろう。
30過ぎてこんなマヌケなことを書いていて恥ずかしいと思えないのか。
そもそも記事はラノベの質の話をしてない。にも拘わらず自説が肯定されたと思い込んでいる。
だけどラノベのファンはアンチだと言って質が落ちたことに本気で向き合わなかった。そりゃ若者離れるよ
ちょっと落ち込みかけてたけど、「これはこうなるはず」と思っていたことが的中したことで、「やっぱり俺の思った通りじゃん」ってなって自信を取り戻した。
自信取り戻してる場合じゃないよ
当社は製造業でいわゆる3K職場なので、就職活動を行う学生たちには非常に嫌われている
以前は高校大学を卒業して入社してくる人たちも大勢いたが、ここ何年かは新卒採用ゼロが続いている
そのため人手確保の観点から外国人実習生の受入を積極的に行い、ピーク時には100人を超えるベトナム人実習生が働いていた
では彼らは奴隷のようにこき使われ、今の労働環境から抜け出したいと思っているのだろうか 当社に関してはそのようなことはない
彼らの母国での平均月収は2~3万円であり、それが当社であれば残業代込みで15万円程度にはなる(日本人労働者と比べれば非常に安いが)
実習生はみな6畳一間の借上社宅での相部屋生活なのだが、彼らはそれでも毎日楽しそうに仕事をし、生活をしている
日本人の社員たちは残業を嫌い定時になればすぐに帰っていくが、実習生はどんなときでも自分から手を挙げて残業を引き受けてくれる
工場の敷地の隅の使用されていない花壇を見つけると「ここに野菜を植えてもいいか」と確認し、大喜びでベトナムの野菜を植える
ベトナムではサッカーが盛んなのかしらないが、休憩時間はみんなでサッカーの練習をしている
聞けば地元の社会人フットサルリーグにも参加しており、毎週土日には試合をしているとのこと
自分たちのチームだけお揃いのビブスがなくて悲しいと言っていたので、社長にかけあい会社の経費で社名入りのビブスをプレゼントしてあげたらみんなとても喜んでくれた
実習生を労うため夏には会社の駐車場でバーベキュー大会を開催した
みんな地元のビールが飲みたいだろうと思い近所のカルディでベトナムビールを買い込んで用意しておいたのだが、
皆が口々に「日本のビールの方が味が濃くて美味しい」といってスーパードライばかりを呑んでいたことをよく覚えている
彼らの頑張りもあり、当社の経営状況は楽ではなかったがなんとか黒字を確保出来ていた 昨年までは…
当初は実習生たちの帰国や新たな受入にこれまで以上に時間がかかる(2週間の隔離期間が必要)程度の認識であったが、そのうち取引先からの受注が徐々に減少し仕事がなくなった
日本人の正社員よりも外国人実習生の方が人件費は安いので、純粋に利益だけを考えれば日本人をリストラすべきなのだが、やはりそうもいかない
日本人社員は雇用調整助成金を使っての一時帰休で当面凌ぐこととし、外国人実習生については新規受入を停止し、既存の人たちは期間満了後帰国することとなった
本来であれば外国人実習生の実習期間を終えたのちは、外国人就労生としての再受入を行う予定であった
就労生となれば給与面での扱いはかなり日本人に近いものとなる 当社としても勤務経験が有る人たちが継続勤務して貰えるのでお互いにメリットがある
実習生の多くが日本での雇用延長を望んでいたので新型コロナさえなければそうなっていたはずなのに、と非常に残念な思いで実習生が帰国していくのを見守っている
現状ではベトナム人実習生の人数はピーク時の3分の1程度まで減少しており、来年度中にはほぼゼロになる見通しだ
これまでは派遣社員・契約社員等の非正規雇用の人たちが雇用の調整弁として使われてきたわけだが、今はその一端を外国人実習生たちが担っている
日本の企業が彼らから搾取していることは否定しようのない事実だ
ただ彼らが帰国する際に「日本は良い国だったのでまた働きに行きたいなあ」と思って貰えるよう、受入企業としては最大限の配慮をする
それが彼らに対する罪滅ぼしになるのかなとも考えている
これに影響されて久々に二次創作小説を書いてみたので感想を書く。
執筆経験は5~6年前まではSS速報にSS形式で10本程度。一人称形式で4本程度書いてた。
今回はnoteに影響されて三人称で書いてみた。というかシリーズ形式なので書いてる途中。
影響されて三人称にしたのは完全に間違いだった。書いたことない上に数年ぶりで進まねえ進まねえ。
プロットが広がってシリーズものの分量になったのも失敗。もうちょっと簡単なのにすればよかった。でも思いついたのがこれなんだから仕方ないね。
あとは
しかし、オレは未来人なので予言しておくが、お前が初めて書いたその小説は、びっくりするぐらい読まれない。感想なんてひとつもつかないし、ランキングなんてかすりもしない。
このとおりマジで読まれなくってビックリした。ピークがすぎたとはいえアニメ化もしてまだ連載中なのにこんなに読まれないもんか。
SS速報に書いてたのとかまとめサイトでビュー数1万近く行ったのもあったしそうでなくともほぼ4桁は行ってたのに閲覧数100も行かない。1話目でこれだから今後伸びることもないだろうし、正直1話目が一番つまらないだろうから増えるともあまり思えないし。
これは俺ガイルとか五等分のSSがどんどん増えるのわかるわ。やっぱ読まれたいもん。人気が人気を呼ぶのよく分かる。ただまあ俺は他のジャンル書くつもりはないし、書いたやつも感想は来たからすげえ嬉しい。
あんまり読まれないのは残念だけどやっぱ書くのは楽しいね。妄想だけはしてたけど出力するとやっぱ違うわ。後で自分で読み返して楽しむことも出来るし書くのはいいね。
とりあえずもうすぐ原作の連載が終了しそうなのでそれまでには終わらせたい。頑張ろう。
noteの関係者はなんちゃってリベラルの人が多くポリコレの味方を積極的に打ち出していました。
MeTooの時もnoteの中の人がはあちゅうを擁護しようとして男どもは黙れみたいなことをおっしゃってました。
ビジネス的な観点で見ても、ポリコレ勢は群れやすい上すぐに投げ銭をするのでポリコレの顔をしていればはてな匿名に代わる告発用プラットフォームとして使ってもらえるのでポリコレの顔をするのは便利なんですよね。
まさか自分たちがポリコレ勢から叩かれることになるとは思ってなかっただろうね。
最近ハタノ氏の騒動の際にnoteやめます宣言してたフェミニストも一時期はnote絶賛してました。
この手の人たちは自分に都合が良いと過剰に持ち上げてそうでなくなると裏切られたって顔をするのが大好きですね。
ぶっちゃけこの企業もうすぐ上場できそうなところまで来てたんですよ。
古い資料ですが売り上げは2019年時点でおそらく10億をこえており、
2020年になってからはリニューアルの結果さらにUU数は数倍になっています。
広告に依存しない、コンテンツ販売時の手数料に依存する出版社のようなビジネスモデルであり今でもとても期待されています。
すでに資金調達も数回行っており、そろそろ収穫の時期に入っておりました。
https://kigyolog.com/company.php?id=18
しかし、当然ですが、こんだけコンプライアンス的に問題を抱えている(ということにされる)とガバガバガバナンスで有名な東証さんでもさすがにちょっと厳しくなる。
成長の邪魔になるからと、あえてコーポレートガバナンスの専門家を入れずになあなあでやっているのでしょう。
今からそのあたりを整備しようとするとかなり時間がかかることになる。
そうこうしているうちにベストなタイミングは過ぎ去ろうとしていますね。
まぐまぐみたいなことにならないと良いのですが。
いや、3年前をピークに緩やかな減少を続けてると思うよ。今は3年前の2/3くらいにまで減った。興味を持って見ているジャンルによって増加、衰退に差はあると思うけれども。
2018年にスタートアップがピークに到達したらしいんだけど、どっかに書いてたっけ?
新規ビジネスとITというのは、2010年代はセットで語るべきものだったと思う
2010年まではアレだよね、SIとかシステム導入の文脈が強かった
それが鳴りを潜めて(と言っても規模で言えばSIの方が圧倒的で、単に成熟したと言うだけ)、これからは新規ビジネスだみたいな流れが合ったと思う
でもそれが上手く行ったのは2015年くらいまでかな
単純にネタ切れしてきた
おかげで2015年〜は投資家の顔色を伺って、話題性重視で動いていたと思う、体感だけど
それも落ち着いて〜ってあたりが2019年だったのかな
正直ここ5年はどこも苦しんでたと思うんだけど
そんで2019年に少し落ちて、今年がコロナで、来年はその波及だから、2022年までは「新しいこと」がガクッと下がる
前任者たちの手垢塗れのクソコードを追加改修していくことになる
これはWeb系に限らず、他でも似たような状況なのではないかな?(既にずっと前からそうだと言われそうだけど)
ちょうど住宅のリノベーションが流行ってるけど、アレとにた感じじゃないかな
こうなると仕事は安定するが色々夢のない事が起きてくる
新しくなにか作るということがないから、そういう経験を積める環境が減る
その赤いザクに乗れる人は
シャア専用赤いザク専用シャアじゃないと乗れないんじゃないの?
そもそもとして、
ってことはよ。
シャア専用赤いザクにはシャアは乗れないってことになるのかしら?
そもそもとしてよく分かってないわ。
あのさ、
今の私の腰パワーの話になるんだけど
最近私の腰パワーは
温めたら楽になるのかどうなのか分からなくて急に不意打ちで来る鈍痛が
なんとも言えない感じで脂汗をかきそうなほどよ。
良くなっているのか悪くなっているのか分からないけど、
良くなってきているような気もするから、
急に曲げなければ痛くはないんだけど、
いままで腰をかばっていた膝と股関節が急に痛む齢18歳の私なんだけどお年寄りを自らエミュレーションするかのように、
まるでそのような感じなの。
親切にしなくちゃって思うのよ。
でね、
温めたら楽ってことを知った私は、
わざわざテスタロッタで走って行くんだけど、
でもあるからそこに言って
もう正によ正に、
命の泉の如く
昼間の新宿をうろちょろ歩き回るのは
温かい湯船は腰に優しいのよ。
よく4属性あるじゃない。
火とか風とかそう言う属性。
陸上では弱いけど水の中ではめちゃくちゃ強い敵キャラとかそのような類いで、
私は今地上では弱いけど、
いまはめっぽう銭湯で戦えば強いわよ!って
鼻の下を人差し指でこすりながら「えへん!」って自慢げに言いたいところよ。
湯船の中だと痛みが消えるから楽に動けるって
もうこれは齢18歳の私どころかまるで全集中お婆ちゃんの呼吸!なのよ。
早く腰パワー王に会って最後の腰パワーを授けてもらわないと、
もう2回も言うぐらい、
ここで時を戻そう!ってペコパなのよ。
腰パワーを授かったとしても元に戻るとは限らない!
今日は温泉で戦うって漫画らんま2分の1みたいなことは出来ないから
スパだけに!って上手いこと言えたところで、
今日はこのぐらいにしておくわ。
腰パワーを温存よ。
うふふ。
ハムの重なってボリューミーなところがミーにグッとくる新食感宣言!
ここは集中しなくても
買い置きしてあるんだ!って
ポケットに入れておきたいところよね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
あくびが止まらない。1時間に10回以上はあくびをしている。自分の周りは誰もあくびしていない。ネットで検索してもピンとくる原因が見つからない。
普段は7時間位寝てる。多いと8時間。短いと6時間半位。でもコロナで働き方が変わってからはほぼ7~8時間睡眠。それでも昼間は必ず眠くなる。
食後高血糖かと思って少し前にブドウ糖負荷検査も受けたんだけど全く問題がなかった。
はぁねむい、つらい。
こういうコメント書く人頭悪いのかなって思ってる。
まずおしゃれかどうかに生産年は関係ないのは当たり前だろ。例えば現代に、古代のアクセサリーとか復元したらオシャレだろ。明治時代の建物とかさ。だから生産年を引き合いにおしゃれとかそうじゃないとか紐付けてる事自体そもそも言ってることおかしいんだよね。「すごい!この国、日本じゃないのに四季あるんだ!」みたいなこと言ってるようなもんだおz。
あと、「(感覚的に)古くない」ってこと言いたいんだろうけど、感覚的にっていう接頭辞をつけるならばなんでもありになるんだよね。崇めたい対象はいつまでも永遠に心を打ち続けるんだろうから、古く(たぶん価値落ちのことを言いたいんだろうけど)ならないだろ。
あとそもそも分化はブームが入れ代わり立ち代わりサイクルのように回るのが多いから、数十年前のものがまた現代で使わて新しい扱いされるのも普通なんだよね。「○○年前なのに」とかむしろ「○○年前だからこそ今もてはやされてるんだろ」って感じだわ。
逆に言えばそういうこと言う人達って5年前の音楽を古く感じるだろ。でもう15年経ったら新しく感じるんだろどうせ。その曲自体が新しい古いじゃなく、いい感じに神格化されるまで時がたってきたかどうかってことだろ。頭悪い人ばっかだよ
そしてそもそもJPOPって90年代後半をピークに普通に質的に退化してんだよね。楽器数も減ってる、予算も減ってる、歌手も減ってる、売上も減ってる、ライブも減ってる、コード進行も3パターンくらいになってる、だから過去がよく見えるんだけど普通に過去のほうがいいんだよね。「今聴いてもおしゃれ」なんじゃなくてむしろ「今の曲がしょぼい」んだよね。
突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。
*
すんげー雑な言い方をすると、フェミニズムはその役割のピークを迎えようとしている。
言い方を変えれば、フェミニズムは相対化され、限界を迎えている。つまり、フェミニズムは数あるライフスタイルや思想の一つに過ぎず、全ての女性や少数者を包括的に支持し救済するといった、かつての理念として見られていた役割からは剥がれ落ちつつあるということだ。
結局のところ、フェミニズムは全ての女性を対象としているわけでもなければ、全ての少数者を対象としているわけでもないということである。論点先取的に言うならば、この時点でフェミニズムは全ての女性を救うこともできれなければ、全ての女性や少数者を支持する立場から脱落することになるのだ。
考えてみれば当たり前の話で、フェミニズムの原義は男女同権主義であり、そもそも女性のみを対象として扱っているわけではないからである。勿論、男性自身らを扱っていることは自明だし、更には、いわゆる少数者であるところの男性や弱者的男性のみならず、男性や女性の総体、そして全ての人間に対して地平を開いた、社会救済としての思想――それがフェミニズム本来の理念であったのだ。
とは言え考えるまでもなくこのような理念は有り得ない。全てを対象とした救済の思想、という考えが仮に存在するのであれば、それは宗教に求められるべきであるし、我々は誰を対象として救済や支持を表明するかを一考しなければならない。我々は全てを救うことなどできない。全てを救うという思想が仮に現実存在し得るのであれば、それは有史以来の悠久の歴史において既に達成されている筈であるし、そこにフェミニズムの参加する余地は存在しない筈なのだ。
換言すれば、「フェミニズムが全てを救済する」というテーゼを本気で信じている人は一人もいないということだ。
いずれにせよ、全てを救う思想というものは現実的に存在しない。にもかかわらず、フェミニズムないしフェミニストが越権的にその立場を乗り越えようとした結果、それが不可能であるということはもはや陳腐なまでに自明化しつつあるように思う。
フェミニズムは世の中の全ての女性を救っているであろうか? と問われた時、その答えは勿論ノーである。例えば、「セクシーな広告は現実の人間にリスクを生むので自重すべき」、というシンプルな命題においてさえ、女性間で紛糾は起こる。
「広告のセクシーな魅力を私は評価するし、そのようなポテンシャルは広告的価値のみならず女性の価値にも還元されるのではないでしょうか?」と言う女性は、この文脈においてぶっ潰されることになる。「はあああああ!? 貴方が評価したところでもしストッキングやタイツを身に着けた一般的な女子の存在が性的に眼差されたら貴方は責任取れるんですか!?」と。この言明によって既に「一般的な女子」とされる存在の中から、「広告のセクシーな魅力を私は評価する」と言明するような女性はパージされることになる。この時点で、どう考えてもフェミニズムは、あるいはフェミニストの活動は、女性の総体を救済しているわけではなく、最も好意的な言い方でも「女性の部分集合Aを救済しようと『試みている』」に過ぎないのだ。
でもフェミニストはそう思っていないらしく、「我々の活動は最終的に女性全てを救済し、どころか、ホモソーシャル的な思想に囚われた男性さえをも救済することができる」と考えているフシがある。
無理。
無理だから。
例えば、ソマリアでレ○プされている少女をフェミニズムは救うことはできない。彼女らを救うことができるとすればそれは政治の役割である。とにかく、世界同時革命的に思想的啓蒙を行うことは無理なのである。逆襲のシャアを見ろ。
そんなこんなで、フェミニズムの役割は限定的であるし、それは全ての女性に対して及んでいるわけでもない。というか、対象としている女性たちそのものでさえ救済できているかは謎である。いや勿論されてる人もいるんだろうけどね。
話を戻すと、結局のところフェミニズムは限定的に人を救うしかないし、それが活躍できる範囲は決して広くはないのである。この時点で、フェミニズムはある種の専門的な救済機構への道に進むことになる。というか、最善でもそうなるしかないのである。因みに最善以外の可能性としては「自分たちが救世主だと考えている思想強要集団」という可能性が存在している。
逆に言えば、フェミニズムは自分たちの救うことのできる範囲というのをしっかり限定して、その上で物事に取り組むべきなのである。企業のマーケティングの一挙一動を監視し「社会に悪影響がある!」と発信するのはフェミニズムの役割ではない。それは本来、公共広告機構とジャロの役割だ。
ソマリアの女性を救うことができるのが政治であるのと同様の意味で、役割はきちんと分担しなければならない。広告のことはジャロにまかせておいたらどうじゃろ? という話である。
役割を限定することは極めて重要で、繰り返すように我々は世界同時革命的に全てを救うことはできない。しかも、救済の対象を限定することによって全てが解決するのかと言えばそうではなく、そこには必ず利害のバッティングが起こる。例えば、広告をバッシングされることで不利益を蒙る企業が存在するのが現実だし、あるいは、広告をバッシングされることで不利益を蒙る献血促進団体が存在するのが、そのような例に当たる。必ずそこにはお互いの利害の衝突があり、お互いの倫理があり、お互いの目標があり、お互いの努力がある。
全てを救うことができないというのはそういうことで、要はそこにはお互いの、利害の衝突があるということなのである。誰かを救おうとすれば誰かが救われないということなのだ。
そして、誰かを救うということは、別の誰かを救おうとする人間を切り捨てるということなのである。
つまりここにおいてフェミニズムの立場は相対化されることになる。
フェミニズムは自身の擁護しようとする人々と利害的に対立しているところの、別のグループとの対立を味わう。お互いに誰かを切り捨て、自らの救いたいと望む人々をのみを救うしかない袋小路に辿り着く。その時点で、思想の優位性、発言の正当性などは捨象されてしまうのだ。つまりフェミニズムは誰かを救うことを諦める代わりに誰かを救うという形を、最善の可能性においてさえ取らざるを得ないのである。全てを救おうとしてもそこには最悪の可能性が導かれるだけで、まずは、誰を救いたいのかを限定しなければ、誰も救うことなどできなどしない。
そして、現実に生きる人々が常に取るべきなのはそのような態度である。現に、今を生きる人々はそのような態度を常に取り続けている。例えばアツギという企業が社員や依頼先のイラストレーターを守るように、それが当たり前のことなのだ。そしてそこには避け難く対立が起こる。誰かをぶん殴れば誰かにぶん殴られる。誰かをぶん殴れば誰かに毛嫌いされる。何も、フェミニズムだけが特別というわけではないのだ。
警句的に言えば、ありとあらゆる対立において、ありとあらゆる闘争において、誠実な闘争というものは存在しない。どんな対立であれどんな闘争であれ、それは不実で胡散臭くて汚らしいものだ。しかし、今回の件を見る限りで、そこには一般論を超えたきな臭さを感じざるを得ない。
それは恐らくフェミニズムの限界に起因するきな臭さなのではないかと思う。彼女たちは、全ての女性を救うことはできないし、男女同権思想が自明として救済しなければならないところの男性を救うこともできない。また、強い社会的ストレスの中で生きる少数弱者を救うことができない。時には、彼女たちは女性をも切り捨てる。
勿論、救う対象を限定することは大切だ。誰もかもを救おうとすることなど人間には所詮できないのだから。
とは言え、まさにそこに、一般論を超えたきな臭さの源がある。つまりそれは、自覚なく人々を切り捨てておきながら、自身の限界を意識せず、まるで全てをも救い得るかのように振る舞う、フェミニストとフェミニズムの傲慢のことである。突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。