はてなキーワード: バイクとは
そしたら変身できるようになってバイクに乗るんだろ
この辺ぐらいだよね。
「私これ嫌いなのよね」と人前で言っても「合わないなら仕方ないよね~」で終わってもらえるようなもの。
RPGゲームとかスパイ映画とか韓流アイドルとかB級グルメとかペットとか旅行先とか車種とかを批判したときと明らかに違う。
大抵のものは批判すると「好きな人もいるのにわざわざそんなこと言わなくていいでしょ?」って帰ってくる。
大抵はなんか反論が来るじゃん。
「プリウスは静かすぎて怖い」→「近所をバイクが爆音で走るよりマシ」
「いい年こいてガンダム?」→「ガンダムのおかげで日本人の宇宙知識は先進国でもトップクラスなんだよ?」
「貧乳好きってロリコンなだけでしょ」→「巨乳好きはマザコンなだってよく言うよね」
「ラーメンばっかり食べる人よく飽きないよね」→「ラーメンは進化速度が最も早い日本食なのでレパートリーもパナいでござるよ」
ね。
こうなるじゃん?
でも
「パクチーって不味くね?」→「わかるわーアレってドラクエの薬草とかの味でしょシャーマンの手料理かなって思う」
みたいな感じで批判に別の批判が肯定的に乗っかってくる現象が極々一部のものにだけ起きるじゃん。
これ凄いよね。
別に皆が本当に嫌いってわけじゃなくて、なんか知らないけど「これについては皆で殴っても良い」って謎の空気が共有されてる感じ。
これ怖くない?
あと場所によってこれが変わるのも怖いんだよな―。
若い女の間でだけセーフになる「中高年臭すぎ問題」とか自分が年食ったとき返ってくるのにどうする気だよと。
あとはモテない男がよくやる「はやりの恋愛映画キモすぎ議論」。これは童貞捨てた奴が次々掌返すのがヤバイ。
スポーツ(e-も含む)でありがちな「弱いやつは存在が罪理論」とかもお前らも二回り上のクラスから見たらそうじゃねえかってなるのに平気で熱中するのが凄い。
なんなんだろうね。
たまに気が向いた時、愛車のハンターカブでフラっと近所を探検するんだ。
近所でも意識しないと入らないような路地がたくさんあって、「ここの道に出るんだ!」っていう感動があって面白い。最近は未舗装路に突撃するのにハマってて、この前走った農道では変なカカシに遭遇できて嬉しかった。
しかしそんなことしていると、ほんとにバイクで入っていいの?っていうグレーな道が結構あって、バイクで侵入していいのか迷うことがある。車両進入禁止の看板は立っていないけど、車止めが設置されてたりとか、特に規制されてないけど、道幅が狭めで歩道っぽい雰囲気出してる道とか、そういう道は意外と多い。
一番気になっているのが、公園の横をなぞるように走っている未舗装路。荒れに荒れてて一見道とはいえないような状態なんだけど、調べてみると公園の敷地外で、なおかつ公道として認定されている道らしい。車両進入禁止などの看板もない。
薄暗くて歩行者を見かけたこともないのだが、たまたまうるさいジジババに遭遇してトラブルになるのも嫌なので、まだアタックできていない。
バイク乗るのもただの消費じゃん
今や郵便屋さんはバイクだったり電動アシストだったり銀行営業マンとかクロネコヤマトの宅急便も電動アシストなのに
警察官だけずっと普通の自転車で長い距離を走ってる。市民の安全を守るために安全管理をずっとしてくれてるのに電動アシストじゃない。
同じ外回りの仕事に従事してる自転車のライダーさんは皆電動アシスト乗ってて公務員だけはダメなんだってそれもう(市民からの)パワハラじゃないの?
例えばイマドキ根性論で電動アシストに乗ると体力が衰えるんだ!って発想で警察上層部から電動アシストが与えられてないならそれも変な話よね。だって科学的根拠がないもの。
市民から自分たちはアシストに乗ってないのにお巡りさんが乗れるのはおかしい!ずるい!って苦情が入るんならお前らも乗れよってなる。自治体によっては電動アシスト自転車購入すると補助金がいくらか出てそこまで高額な買い物にならない訳で。それなのに乗らないっていうのはもはや市民の権利だから仕方ないよねって感じだけど
この手の拒絶意見で困るのは国民の血税で~って頓珍漢な主張する奴ね
警察官は公僕ではあるけど備品はちゃんと血税とは別の所から予算が出てるから血税ガーの人は無知と偏見だよ
そもそも市民の血税は行政(各自治体)からのサービスを受けられる、そういう権利を有してるのであって警察官を含む公務員を雇ったり賃金を支払ってる訳じゃないんだよね
というか行政からのサービスに警察が市民を守るサービスが含まれてる訳で給料を支払ってやってるのに電動アシスト自転車を買い与えるのは違う!と反発する人がいたら、それは単なる勉強不足だよ。
昭和の道理を令和になってまで当てはめようとしてる社会がおかしいのであって電動アシスト自転車を警察官が乗る事に反対する理由にはならないよね。
それに電動アシスト自転車をお巡りさんが利用する事によって深刻な社会問題(迷惑行為など)とか高度な犯罪を未然に防ぐ助けになるんであればむしろ電動アシスト自転車を貸与してるべきだよね。
中にはバイクとか車とか電動アシストとか電動キックボードとかある中で普通の自転車のままだと追い付けないよね。皆こち亀の両津じゃないからね。
警察の捜査は初動が大事だから普通の自転車で見逃してしまったらそれこそ市民が行政からのサービスを受けられる権利が失われる可能性もある訳で。
だから交番勤務のお巡りさんに電動アシスト自転車乗らせてあげてよ。巡り巡って皆の安全を守ってくれる事になるんだし。実に建設的で合理的。
口座引き落としでバイクのローン組んで、
残高不足で落ちず→振込用紙がハガキで届く→支払う
を1年半で計6回くらい繰り返した過去があって、新卒で銀行に就職したタイミングでクレカ作ろうとしたらどこの会社でも審査通らなかった
一周するための余暇が無いってことか?
もーお、ええねん
ワイくんのことは、ほっといてほしいねん
あと、5年?下の子がガッコウ出たら、
…ワイくんは、じぶんのしたいことだけやれるねん!(たぶん)
はー、バイクのりてー
やっすいの買って、チョップして転がして、
そしたらもう、
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
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中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。